「大フーガ」は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の中で異色の存在と言えます。第一バイオリン、第二バイオリン、ビオラ、チェロの4本の弦楽器が、これでもかこれでもかというくらい同じようなフレーズを激しい調子で何度も繰り返すのです。初めてこの曲を聴いたときは、どこが良いのか、全くわかりませんでした。美しさや優雅さは感じられず、うるさいだけのヒステリックな曲としか思えませんでした。
最初にこの曲が披露されたとき、評判はよくなかったとのことです。弦楽四重奏曲第13番の最終楽章として作曲されたのですが、あまりにも重くて難解であったことから、聴衆から歓迎されなかったそうです。結果的に最終楽章は書き直されることとなり、もとの最終楽章は「大フーガ」として独立した曲となりました。ベートーヴェンは自信を持っていたようですが、聴く側は理解できなかったのです。理解できなかったのは私だけではありませんでした。
しかし、何度か聴いているうちに少しはわかるような気がしてきました。ベートーヴェンが実際のところ何を考えて作曲したのかはわかりませんし、ベートーヴェンが考えていたこととは大きく違っているかもしれませんが、人それぞれの受け止め方があっても良いと思いますので、私がこの曲から受けた印象を勝手な解釈とともに書いてみたいと思います。
この曲は、4本の弦楽器が同じようなフレーズを時間差で何度も繰り返すことに特徴があります。そんなに何度も繰り返す必要があるのだろうかと思うくらい執拗であり、しかも激しく感情的な演奏になりがちですから、ベートーヴェン特有の「しつこさ」を強く感じることになります。
ここで、「時間差」ということがポイントです。フーガなので、例えばチェロが弾いた後にビオラによる同じフレーズが続き、そしてさらにバイオリンが時間遅れで続きます。ビオラが弾くとき、既にチェロの音は消えており、バイオリンが弾くとき、ビオラの音は消えています。どんなに音を重ねようとしても、時間遅れである以上、重なることはありません。前の音の上に重ねて構築物を築こうとしても、土台となるべき前の音はもう残っていないのです。発せられたとたんに空気中で儚く消えていく。それが「音」の持つ宿命です。
時間差である限り、どんなに意気込んで頑張ってみても、音による多層の建築物は完成しません。後から後から音を重ねようとする試みは、結果的に徒労に終わらざるを得ないのです。そんな悲しみが詰まっている曲なのではないかと、私には思えました。
このような感覚は石川啄木の歌にも通じるところがあるような気がします。「一握の砂」に次の歌があります。
石川啄木は、命がなく、しっかりとした形がなくて指の間からさらさらと落ちてしまう砂に悲しみを感じました。その感受性の強さに私のような凡人は意表をつかれます。それくらい感受性が強くなければ歌人にはなれないのでしょう。
砂と同じように「音」には命がなく、この手でつかまえることもできません。しかも、音は発せられた瞬間に消えていきます。ベートーヴェンの時代にはまだ録音ができませんでしたから、文字どおり、その場限り、その瞬間限りのものでしかありません。「大フーガ」からはそんな悲しい叫びが聞こえてくるような気がするのです。
大フーガの終曲が近づいたところで、4本の弦楽器がそろって主題を力強く奏でます。それは曲の冒頭以来のことであり、各楽器によって時間差で演奏されていたフレーズが、久しぶりに4本の弦楽器の音の重なりとして演奏されるのです。やっと一体化したことに喜びを感じます。そして、それまで長く続いた緊張感から解放され、心の平穏を取り戻しながら曲が終っていきます。
注) 私は「大フーガ」が好きになったわけではありません。聴いていると疲れますし、音が硬い演奏の場合には耳が痛くなります。どちらかと言えば嫌いなことに変わりはないのです。それなのに何度も聴いたのは、この曲の意味が全くわからなかったからであり、好奇心からだと言ってもよいでしょう。ベートーヴェンの弦楽四重奏をあまり聴いたことのない人に、この曲はお勧めできません。最初に「大フーガ」を聴いたならベートーヴェンの弦楽四重奏が嫌いになってしまう可能性が高く、それはとてももったいないことですから・・・。