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ハイドン


ハイドンのチェロ協奏曲第1番 (ソリストとオーケストラの関係)

 ハイドンはチェロ協奏曲を2曲作曲しました。どちらもハイドンらしく整った曲でありつつ、楽しく聴けるので、私の好きな曲です。
 ハイドンのチェロ協奏曲第1番を3種類の演奏で聴いてみますと、ソリスト(チェロ奏者)とオーケストラとの関係がそれぞれ異なっているようです。とても興味深かったので、ここに記しておくことにします。 




ジャクリーヌ・デュ・プレ

 ジャクリーヌ・デュ・プレのチェロ、ダニエル・バレンボイム指揮、イギリス室内管弦楽団による1967年の演奏。
 デュ・プレらしい力強いチェロであり、それを支えるオーケストラの響きは重厚である。
 デュ・プレが自分の思い通りに自由にチェロを弾いている。感情がストレートに現れていて、テンポのゆらぎも大きいし、起伏が激しい。
 そんなチェロの悠々とした演奏に比較すると、バレンボイムが指揮するオーケストラは、チェロに必死になって合わせようとしている。とにかくしっかり合わせることが最優先・・・というようなオーケストラの演奏である。
 つまり、チェロは全く自由に、そしてオーケストラはそのチェロに合わせるように細心の注意を払いながら演奏しているのだ。デュ・プレと指揮者バレンボイムは、前年に結婚したばかり。バレンボイムとしても、妻であるデュ・プレに思い通りに演奏してもらいたいと考えたのだろう。夫唱婦随ではなくて婦唱夫随とも言える。

 緩徐楽章の第2楽章では、デュ・プレのチェロがまるですすり泣いているかのように聞こえるときもある。心にせまってくるものがあって、聴き続けるのが苦痛になってしまうくらいだ。デュ・プレのその後の不幸を知っているから、そんなふうに感じてしまうのかもしれない。このときの本人にとっては、数年後に発病することなど想像もしなかったに違いないのだが・・・。
 第3楽章に入るとスピードアップして飛ばしていき、最後の方は感情が入りすぎて演奏が荒くなっているようだ。自分を抑えきれなかったのかもしれず、それもまた聴いていて心が痛む。


ヨーヨー・マ

 ヨーヨー・マのチェロ、ホセ・ルイス・ガルシア指揮、イギリス室内管弦楽団による1979年の演奏。
 ハイドンらしく軽快かつ華やかで、心地よい演奏。
 ヨーヨー・マのチェロも、オーケストラも、どちらも素直にのびのびと演奏している。お互いに「合わせなくてはならない」という変な緊張感やストレスがなく、自然に演奏していたら結果的にきちんと合っていた・・・ように聴こえる。ソリストとオーケストラの理想的な関係だと思う。
 ヨーヨー・マはオーケストラに無理なくきちんと合わせながらも、型にはまるわけではなく、表情豊かに演奏している。想像するに、ヨーヨー・マは、オーケストラがどんな演奏をしようとも、それにきちんと合わせながら立派に演奏できるのだろうし、どんな指揮でも「受けて立つ」という心持ちなのだろう。
 一方のホセ・ルイス・ガルシア指揮のオーケストラも、チェロが合わせやすい整った演奏となるよう心がけているので、ヨーヨー・マも安心して弾くことができたに違いない。
 そんなヨーヨー・マも、カデンツァでは全くの自由だから、ほんの少し弾(はじ)けている。控えめな弾(はじ)け方も、私にとっては聴きどころ。


ミッシャ・マイスキー

 ミッシャ・マイスキーのチェロと指揮、ヨーロッパ室内管弦楽団による1986年の演奏。
 実に楽しい演奏である。
 チェロを弾くマイスキーが指揮も兼ねているので、どんな演奏にするのかはマイスキーの思いのままである。マイスキーは自由にのびのびと、自分でも存分に楽しみながら演奏しているようだ。
 オーケストラは、マイスキーにしっかりと合わせつつ、それなりにハイドンらしく堅実に演奏しているので、自由なチェロとの対比も面白い。録音がとてもクリアなのもうれしい。

 喩えてみれば、この曲を普通に演奏すれば、それはラーメンの麺とスープである。それだけでも結構いけるのだが、食べ続けているうちに飽きてこないでもない。マイスキーのチェロは多彩で豊富な「具」であり、それによってラーメンのおいしさが倍増するし、いくら食べても飽きない。メンマもあればネギもあるし海苔もあり、必須のチャーシューも浮かんでいる。ふりかけた胡椒も適量。そしてカデンツァは、味が染みた半熟の煮玉子だ。これはたまらん! ラーメンが食べたくなってしまった。