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経済



 二十世紀には、「消費者」という言葉が広く使われ、市民生活や政策、メディアのなかに定着していき、「市民」という言葉をどんどん追い出した。(中略)なぜこれが問題なのか? それはメディアや文化を研究するジャスティン・ルイス教授が説くように、「市民とちがって、消費者の持つ表現手段は限定されている。市民は文化的、社会的、経済的な生活のあらゆる面を表現することができる。(中略)消費者は市場のなかでしか表現できない」からだ。p118

 わたしたちの経済は、わたしたちが繁栄するかどうかに関係なく、成長を必要としている。
 わたしたちは、経済が成長するかどうかに関係なく、自分たちが繁栄できる経済を必要としている。p305

ケイト・ラワース (訳)黒輪篤嗣 「ドーナツ経済学が世界を救う 人類と地球のためのパラダイムシフト」 河出書房新社



 マルクスが構想していたような共産主義が成功する可能性をもつためには、すくなくともひとつのことが不可欠です。すなわち、人間たちが利己主義者であることをやめ、個人的な利害よりも集団の利害のほうを優先させるようになる必要があるのです。これに成功したなら、共産主義が成功する機会も生まれたことでしょう。そうでなければ成功はありえません。ですから、共産主義が失敗に終わるのは避けられないことだったのです。(中略)だからこそ、共産主義が全体主義化するのもほとんど不可避だったのです。なぜなら道徳では実現できないとすぐにも露呈してしまったことは、強制によって課すしかなかったのですから。こうしたわけで、一九世紀における麗しのマルクス主義的ユートピアから、二〇世紀におけるだれもが知っている全体主義の恐ろしさへの移行がなされたわけです。

アンドレ・コント=スポンヴィル (訳)小須田健、C・カンタン 「資本主義に徳はあるか」p100 紀伊國屋書店



 経済学の誤りは、しょせん手段にすぎない金銭を、あたかも目的であるかのように扱い、すべての人間を、もっぱら金銭的利益の追求者とみなしてしまうことである。こうして「自己利益」の追求が「金銭的利益」の追求へと狭小化されるとき、そこから生ずるのが、たとえば「支払い意思額」によって環境の価値を金銭化しようというような発想なのである。

笹澤豊 「環境問題を哲学する」p235 藤原書店



 経済学でいう「競争」と「無秩序」はまったく意味が違う。経済学でいう「競争」とは価格のみをシグナルとして需給調整が行われる状態だ。その場合、詐欺や債務不履行をしないとか、ルールが明確に守られていることが大前提だ。そういうルールが守られているとき、市場に参加する者を「規制緩和」によって増やせば、経済の効率は高まる。これが「競争」の本来の意味だ。これに対し、ルールが不明確な状態は無秩序だ。無秩序状態で市場に参加する者を「規制緩和」で増やせば、詐欺師や破産寸前の者が取引に参加することを誘発し、経済の効率はむしろ悪化する。

神門喜久 「日本農業への正しい絶望法」p158 新潮新書




 では、何がバブルを膨張させるのか。それは、「バブルであること」である。つまり、いったんバブルになってしまえば、バブルになっているそのこと自体がすべてなのだ。そこでは、価格の上昇が需要を呼び、これが価格の高騰をもたらす。そして、さらなる需要の増加につながり、価格がさらに高騰する。バブルにおいては、この循環が本質であって、価格高騰が起きた最初のきっかけはきっかけにすぎない。バブルに理由は要らない。バブルはバブルであることが重要なのだ。これが、バブルの最も重要な特徴であり、バブルの本質である。

小幡績 「すべての経済はバブルに通じる」p87-88 光文社新書



 資本主義は「周辺」の存在が不可欠なのですから、途上国が成長し、新興国に転じれば、新たな「周辺」をつくる必要があります。それが、アメリカで言えば、サブプライム層であり、日本で言えば、非正規社員であり、EUで言えば、ギリシャやキプロスなのです。二一世紀の新興国の台頭とアメリカのサブプライム・ローン問題、ギリシャ危機、日本の非正規社員化問題はコインの裏と表なのです。p42


 近代において南=貧困、北=富裕というように、西側先進国は格差を自国内には進入させないようにしていたのですが、グローバリゼーションの時代になると北側にも格差が入り込むようになりました。いわば、グローバリゼーションとは南北で仕切られていた格差を北側と南側各々に再配置するプロセスといえます。
 すでに先進国では一九七〇年代半ばを境として、中間層の没落が始まっています。p89


水野和夫 「資本主義の終焉と歴史の危機」 集英社新書