さらにサルトルは言う。この世界に神が存在しない以上、世界も人生も前もって何らの意味も価値もない。だからこそ、人間が自ら世界と人生に意味と価値を与えねばならないのである。 人間は、自分自身と世界との立法者なのだ! 人間は自らをつくったところのものになる。いっさいが人間の自由な創造に委ねられているのだ。・・・ ただ、なんでも自由だから人生バラ色というわけではない。否、自由であるからこそ人生は重いのである。・・・・ すなわち大きな自由があるからそれだけ大きな責任があるのだ。 そう、人間は、自分行うこと、自分の今ある状況に一切の責任がある。なぜなら自分が自分をつくっているのだから。誰に責任をなすりつけることができようか。自分の人生を選んでいるのはあなただ。あなた以外に誰がいるのか。 |
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富増章成 「空想哲学講義」 洋泉社 |
「私」の権利や利益の主張は、その背後に、公共精神や責任の精神をもたなければ、単なる無責任や利益の食い合いとなってゆく。国家や公共への責任を見失った、戦後の「市民」が民主主義を担おうとすると、民主主義から腐敗臭が出てくるのもいたしかたないところであろう。 |
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福田恆存氏が危惧したのは、「権利」が自己主張の場になることによって、「権利」を深いところで支えている人格に対する透察、相互の人格に対する敬意を、人は、ますます失ってゆくのではないかということである。「人格」はそれ自体でよいものなのではなく、よくしていかなければならないものである。人格に対する敬意は、自己責任や、自立や健全な判断力といったものを伴う。このレベルでのみ人々はお互いに共感し、信頼することができるのだ。この共感がずたずたに引き裂かれたところで「権利」だけを唱えても、そうすればするほど権力をめぐる争いに人は閉じ込められてゆくことになる。 |
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