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生物・進化



 ヒトが絶滅しても、何事もなかったように地球上では生物が進化していく。太陽系が消滅しても、何事もなかったように、宇宙は存在し続ける。そしてこの宇宙が消滅しても、何事もなかったように、他の宇宙は存在し続け、別の宇宙も生まれてくる。時間と空間を超越した、眼がくらむような果てしない物語の中で、一瞬だけ輝く生命……それが私たちの本当の姿なのだろう。

更科功 「宇宙からいかにヒトは生まれたか 偶然と必然の138億年」p260 新潮選書



 人類はあっという間に頂点に上り詰めたので、生態系は順応する暇がなかった。そのうえ、人類自身も順応しそこなった。地球に君臨する捕食者の大半は、堂々たる生き物だ。何百年にも及ぶ支配のおかげで、彼らは自信に満ちている。それに比べると、サピエンスはむしろ、政情不安定な弱小国の独裁者のようなものだ。私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。多数の死傷者を出す戦争から生態系の大惨事に至るまで、歴史上の多くの災難は、このあまりに性急な飛躍の産物なのだ。(上)p24

 不幸にも、サピエンスによる地球支配はこれまで、私たちが誇れるようなものをほとんど生み出していない。私たちは環境を征服し、食物の生産量を増やし、都市を築き、帝国を打ち立て、広大な交易ネットワークを作り上げた。だが、世の中の苦しみの量を減らしただろうか? 人間の力は再三にわたって大幅に増したが、個々のサピエンスの幸福は必ずしも増進しなかったし、他の動物たちにはたいてい甚大な災禍を招いた。(下)p264

ユヴァル・ノア・ハラリ (訳)柴田裕之 「サピエンス全史」 河出書房新社



 過去が語るのは、生命の圧倒的多数、生物種の99.9パーセントは死滅したという話だ(過去の成功は、将来の成功の指標とはならず、むしろ将来の失敗を暗示するように見える)。この死滅した種も、その祖先から、何らかの成功、つまり、うまく行く生活様式を生み出す変化をして生まれたものだった。しかし理由は − 気候、敵、隕石など − どうあれ、このうまく行く生活様式はその後失敗した。うまく行く生活様式が失敗して滅亡するのは、リスクと安全、失敗と成功が、正反対に位置するにもかかわらず、わかちがたく近いことを浮かび上がらせる。

アンドレアス・ワグナー(松浦俊輔訳) 「パラドクスだらけの生命 DNA分子から人間社会まで」p164-165 青土社





 これをレトロスペクティブに(現在から過去にさかのぼって)眺めると、生物は環境に適応するよう着実に進化してきたように見える。それは選ばれなかったものたちが視界から消えているからそう見えるにすぎない。

福岡伸一 「生命と記憶のパラドックス」p79 文芸春秋



 生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。

福岡伸一 「生物と無生物のあいだ」p271 講談社現代新書





 この本を読み終えた皆さんは、いま、三つの認識を新たにしていることだろう。第一に、生き物は完成品ではなく、つねに「創造中」の状態であるということ。進化にゴールはなく、変わり続けることこそが生きている証(あかし)だ。第二に、この世に単独で存在しているものはないということ。人間も動物も植物も微生物もウィルスも、すべてはともに進化している。第三は、人間と病気の関係は、これまで考えていたよりずっと複雑だということだ。

シャロン・モアレム(矢野真千子訳) 「迷惑な進化 − 病気の遺伝子はどこから来たのか」p246 NHK出版
 


 われわれは自身の中にある好ましからざる傾向を、人間が動物であった過去の遺産と考える。それらは、われわれの類人猿的祖先に由来する束縛であり、残忍性、攻撃性、利己心等々といったものである。われわれが尊び、(哀れなほどかぎられた成功率で)努力して求めるものをわれわれは人間に特有の鍍金(めっき)と考えるが、それは理性によって考えつかれ、気のすすまぬ体に課せられる。よりよき未来へのわれわれの希望は理性とやさしき心根のうちに存する。つまり、動物としての限界からの精神的な超越である。「汝、荘厳なる館を打ち立てよ/おお、我が精神よ!」というわけだ。

 この一般的な信念を支えているのは、古くからの偏見にすぎない。それが科学によって正当化されていないのはたしかであり、人間行動の生物学についてのわれわれの無知はかくも根深い。それは人間の魂の神学とか、精神と身体に別個の領域を探し求めた哲学者の「二元論」とか、と同じ源泉から生じており、私が本書のいくつかのエッセイの中で攻撃を加えた態度に根ざしている。すなわち、生物の歴史を進歩するものと見なしたいとか、(支配のあらゆる特権とともに)自分たちを生物の頂上という位置にすえたいとかいうわれわれの願望である。われわれは自身の独自性の規準を探し求め、(当然のこととして)われわれの精神にゆきあたり、人間の意識という高貴な成果を生物的な基盤から本質的に離れたものとして定義する。だが、なぜにそうするのだろうか。なぜにわれわれのきたない側面は類人猿的過去のお荷物でなければならず、やさしい心根は人間独自のものでなければならないのか。なぜにわれわれはわれわれの「高貴な」特質についてもほかの動物たちとの間に連続性を求めようとしないのか。

スティーヴン・ジェイ・グールド(浦本昌紀・寺田鴻訳) 「ダーウィン以来」p394-395 ハヤカワ文庫



 現在のところ、生命が地球上にただ一度だけ出現したということ、したがって、生命が生まれる以前には、その出現する確率はほとんどゼロであったということを、肯定する権利も否定する権利もわれわれはもっていない。
 この観念は、たんに科学の徒としての生物学者にとって不愉快なだけではない。われわれ人間すべて、現在の宇宙のなかに実在するあらゆるものが原初から未来永劫にわたって必然的な存在であると信ずる傾向があるが、上に述べた観念はそれと衝突するものである。われわれはこのじつに強烈な宿命感に対し、つねに警戒をおこたってはならない。現代科学はいっさいの内在性を無視する。運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない。生物圏において象徴的伝達という論理的体系を使用できる唯一の種である人類が出現する以前には、われわれの宿命は書き記されてはいなかったのである。人類の出現というのも、もうひとつの唯一無二の出来事だったのであるから、それによって、われわれがいっさいの人間中心主義に陥らぬようにしなくてはならないはずである。生命そのものの出現と同様に、それも唯一無二の出来事であったということは、それが現れるまえには、その出現の確率がほとんどゼロだったからである。<宇宙>は生命をはらんではいなかったし、生物圏は人間をはらんではいなかった。われわれの当たりクジはモンテ=カルロの賭博場であたったようなものである。そこで十億フランの当りを手にして茫然としている人間のように、われわれが自分自身の異様さにとまどっているとしても、なんら驚くにはあたらないのである。

ジャック・モノー(渡辺格、村上光彦訳) 「偶然と必然」p168-169 みすず書房



 最後に、モノーが語った人間存在の偶然性について、私の考え方を述べておきたい。(中略) 一つは、代謝や生態系といったエネルギーの流れと物質の循環で、人間の生存は、究極的には、太陽に光エネルギーが、宇宙に熱エネルギーとして散逸する過程の一部をなしている。人間の思考も、もとをたどれば太陽の光によって可能になっている。もう一つは、遺伝子や進化の問題で、それぞれの人の遺伝子は、必ず世界の誰かと共有しており、世界中の人類は遠い親戚にあたる。また、人類のゲノムは他の生物のゲノムと系統関係によって結ばれている。このようにして、人間は、この生命世界において、しっかりとした位置づけをもっている。具体的にこんな形をした人間が生じたのは、偶然とも言えるが、他の生物の進化があって生まれてきたという意味では、進化の必然とも言える。実存主義では、人間が世界の中に突然ぽつんと放り込まれているというところを出発点にするが、現実の人間にはしっかりとした存在の根拠がある。

佐藤直樹 「40年後の『偶然と必然』」p275 東京大学出版会