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政治



民主主義とは、議論を戦わせて、最終的に多数決によってものごとを決するという政治です。しかし、そのためには、まず、ものごとを自分なりに判断する思慮や判断力がなければならず、さらに議論をする社交的能力と会話能力がなければなりません。そして、最終決定やルールに従うという公共心や徳義心がなければならないでしょう。ところが、それらの能力や精神は、決して民主主義そのものからでてくるものではないし、いわゆる政治とは無関係のものです。
 そして、こうした人間的な、あるいは人格的な徳義や判断力や公共心や社交的精神を形作るものは、その社会の慣習であり、文化であり、教育なのです。モーレス(習俗)こそがモーラル(道徳)を生み出すのです。
 先ほどから述べている「歴史的経験」とは、こういうモーレスのことです。それはある社会やある国に固有の文化にほかなりません。文化とはある社会がもつ潜在的な価値体系です。それは政治そのものではありませんが、モンテスキューがかつて述べたように、ある国の政治の形は、その国の習俗によって大きく規定されるのです。 

佐伯啓思 「さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす」p231 朝日新書



 「政治」とは国家の将来に向けた大きな意思決定であり決断である。したがって、まず一国の将来像が描かれなければならない。そして、それを国民に対して説得しなければならない。その意味で、政治は明らかに指導的行為である。このような政治的指導が可能になってはじめて様々な行政が機能する。
 もしも、「政治」が作動しなければ、残るのは、多様な国民の不満を処理し、要求に答える行政だけになってしまう。これこそが実は「民意」に基づく政治であり、ここでは政治は行政化してゆく。一見したところ政治は熱気をもち、たえまなく動いており、多忙を極めてはいるものの、実際には、政治的なるもののエネルギーは行政的調整に吸い取られてゆき、行政だけが肥大していくのである。やがては、ミイラ化した政治が太りきった行政に張り付いてゆく。
(中略)ここでは政治は「民意」なるものをくみ上げて、市民の日常生活の不満解消の手先になるほかない。かくて、民意中心の民主主義のさなかで、政治的なものが崩壊してゆく。

佐伯啓思 「「脱」戦後のすすめ」p125 中公新書ラクレ



 「友愛」をスローガンにした政権は、自ら気がつかないままに、憎悪の種を蒔いていた。「友愛」は望ましい関係だが、正義や公正に取って代わることはできない。私たちは職業、性別、年齢等によって、相互に利害の対立する複雑な社会に生活していて、私にとって利益になることが、あなたにとっても利益であるとは必ずしもいえず、あなたにとって利益であることが私にとって利益である保証はない。こんなことは円高・円安やTPPへの参加・不参加などを例にとればすぐに理解されることである。このような対立が存在するところでは、まず必要なのは公正なルールであって、これを欠くならば、「友愛」は無力でむしろ混乱の原因になってしまう。念のために言うと、友愛が不要だというのではなく、それが可能になる条件として正義や公正が必要だということである。

森 政稔 「迷走する民主主義」p160 ちくま新書



 この民主主義という制度は、人類のさまざまな試行錯誤の中で、そうでない制度よりもよい面があるから受け入れられてきたもので、ローティによれば、それはあくまで歴史的に形成されたものにすぎません。つまり、その制度が絶対的真理だから受け入れられているのではなく、ほかにもっといい制度を見つけていないから維持されているのです。
 ローティは、民主主義のこの歴史的・偶然的性格を、徹底して自覚しています。それは絶対的真理などではなく、放っておいても維持されるようなものではない。だからこそ、それよりもいい制度を今のところ発明していない以上、なにがあってもそれを守るよう努めなければならないのです。

富田恭彦 「ローティ 連帯と自己超克の思想」p177 筑摩書房



 私は全ての人が立派で有徳な人間になるという理想を捨ててはならないとは思う。そう思うが、それを政治の目標にしてはいけないと思う。道徳は美しいかもしれないが、それが過剰な社会はきっと暑苦しい。私はいろいろな考え方や生き方をする人々が、ゆるやかに共存している社会が望ましいと思う。正義という言葉を使って一人一人をお説教するのではなく、最低限の正しい制度についてみんなで考え、合意し、それを形作ることを目指した方がいい。正義は制度を通して実現される。制度とは、すべての人間を架け橋でつなぐ最低限の絆でもある。

伊藤恭彦 「さもしい人間 正義をさがす哲学」p205 新潮社



 もし仮に、国があらゆる国民の価値観と人情のすべてをコントロールし得る、またしなければならないとする。その前提に立てば、国が他国に対し、国民の所業について謝ることはできるかもしれない。
 しかし、これは全体主義的な思考であり、議会制民主主義の上に立つ国政とは、元来そういうものではあり得ない。
 国政とは、たとえば税金をいくらにするか、予算はどういう割り振りにするか、そうした問題を取り決める人間を国民が選挙して選び、選ばれて国民から委任を受けた代議士たちの間で政府を構成しているというだけの話である。国の政治とは、その程度のものなのである。もとより国が国民一人ひとりの価値観を代表することなどできはしない。それは内心の問題であり、そうでなければ個人の尊厳などというものは存在しない。その根本義を、個人の尊重をかかげ民権派と称する人たちが、なぜ理解できないのだろうか。

江藤淳 「国家とはなにか」p128〜129 文藝春秋



  政治とは究極のインフラストラクチャーであり、そしてインフラとは、個人の努力ではできないことを共同体が代りにやることに意味がある。家の戸締りは個人でできても、町中の安全は個人ではできないのだから。
 ゆえにこの種のインフラを重要な順に並べるとすれば、国土と国民の安全、社会の安定、経済の活性となるだろう。これらは「政治」の分野に入るが、このすべてが抽象的な問題ではなく、具体的な課題であることに注意してほしい。
 「夢」や「ゆとり」や「美しい」とかは、個人の性格や好みによるから同一ではない。このように客観的な基準を決めることが不可能な事柄は宗教家や詩人の分野のことであって、政治家や官僚が口をはさむことではない。政治家や官僚は、現実的で具体的な問題の解決に専念すべきであると思う。


塩野七生 「日本人へ 国家と歴史篇」p78-79 文春新書