写真とクラシック音楽などなど・・・

思考方法



 常識という言葉を使う時には、自分の仲間だけの常識か、もっと広い常識か、世界に広げられる常識か、を考えるようにする。これが僕の原則だ。医者の常識、世界では非常識という場合がしばしばあった。政治家の常識は、国民にとっての非常識であることもしばしばだった。
 そういうことを踏まえたうえで、常識で考えよう。

なだいなだ 「常識哲学」p141 筑摩書房



 叩き上げの勝利者や、成り上がりの成功者は、往々にして、生まれつきのお坊ちゃまよりも残酷になる。というのも、彼を上昇せしめたのは、自らのスパルタンな精神性と努力であって、決して運やめぐりあわせではないと、少なくとも本人はそう信じ込んでいるからだ。とすれば、彼の目から見て、他人の貧困はモロな自己責任であり、他者の不運や不幸は努力不足以外のナニモノでもないということになる。
 彼らの主張は、煎じ詰めれば「オレを見習え」ということに尽きている。実際、その種の経済人の著書を読むとはじめから最後まで、「オレを見ろ」という以外のことは何も書かれていない。

小田島隆 「地雷を踏む勇気 人生のとるにたらない警句」p197 技術評論社



 言葉が先か心が先か、もちろん心が先である。だから心にもない言葉をいくら繰り返しても何にもならない、という正論がある。でも実際には、外に出す言葉の繰り返しが内面を本格的に形づくっていくことはいくらでもあるのだ。

呉善花 「日本復興の鍵 受け身力」p97 海竜社



 理解とは、本来は一回的で個別的なものである現象の中に一般性を見て取るという飛躍=創造によってなされるのである。

山口裕之 「ひとは生命をどのように理解してきたか」p244 講談社選書メチエ



 人間の記憶は帰納的推論を行う大規模な機械だ。覚えていることを考えてみてほしい。簡単に思い出せるのはどんなことだろう? 偶然が混ぜ合わさった出来事の集まりだろうか。それともお話のような、論理的なつながりのあることの集まりだろうか? 因果関係があると記憶にも残りやすい。情報を保存しておくために私たちの脳がしなければいけない仕事が少なくてすむのだ。大きさが小さくなるのである。正確に言うと帰納とはなんだろう? 具体的なことをたくさん集めて一般化する。それが帰納である。そうするととても便利だ。具体的なことの集まりに比べると、一般的なことは私たちの記憶の容量をそれほど食わない。でも、そういう圧縮を行うと、ランダムな部分があまりわからなくなる。

ナシーム・ニコラス・タレブ 「まぐれ」p166 ダイヤモンド社




 人が自分の行動をみずから正確に説明することはむずかしい。そもそもなぜ自分がそうしたかさえ、はっきりつかめないものなのだ。自分で自分をごまかす心の動きもある。意識せずにそう思い込む感情の作用もあるだろう。しかも人の行動の動機は、からなずしもひとつではない。また動機があってもチャンスがなければ、なにも起こらない場合だってある。
(中略)
 だから私は、事実を朗々と語るような口調で古人の内面を解説することは苦手である。できることは、ああでもあろうか、こうもあったにちがいない、と、自分なりに想像することしかないような気がする。

五木寛之 「みみずくの宙返り」p115 幻冬舎




 歳を取ると、自分に無縁なものが増えてくるし、割り切れるようになる。そんなことに金をかけても、なんの足しにもならない(ならなかった)と処理する。こうして、欲求はすべて小さな具体的なものばかりになり、予感や願望だけの「美しさ」は無益なものとして排除される。(中略) こうなってしまった年寄りは、ぼんやりと悩んでいる若者に対して、つい「はっきりしろ」「もっと具体的に」と言いたくなるはずだ。しかし、若者の「はっきりしない思考」というのは、とても価値があるものであって、それを失ったのが「年寄り」なのである。

森博嗣 「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」p83 新潮社




 私が格差社会論とかニート、フリーター論を書くと、自称「格差の最底辺」にいる人々から罵倒に近い言葉がどっと寄せられる。それらのすべてに共通するのは、「お前は格差社会の実情を知らないが、私は知っている」という「知的優遇」のポジションを検証抜きで前提にしていることである。
 このロジックは古くはマルクス主義者が、近年ではフェミニストが愛用したものである。
 差別されている人間は差別社会の構造を熟知しているが、差別する側の人間は差別社会がどう構造化されているかを知らない。
 マルクス主義者や第三世界論者やフェミニストたちの知的な明晰性が運動の過程でどのように劣化していったのか、私は四〇年ほど前から注意深く見守ってきたが、その主因のひとつが、この「被迫害者は当該社会における『神の視点』を先取しうる」という仮説にある、というのが経験的に得られた教訓のひとつである。
 あるゲームでつねに勝つ人間とつねに負ける人間がいた場合に、そのゲームが「アンフェアなルール」で行われていると推論することは間違っていない。しかし、負け続けている人間は勝ち続けている人間よりもゲームのルールを熟知していると推論することは間違っている。通常、ゲームのルールを熟知している人間はそうでない人間よりもゲームに勝つ可能性が高いからである。
 それゆえ、格差社会において下層階層に釘付けされている人間は、格差社会における階層化の力学について、あまりよく理解していないと私は推論している。それがよくわかっていれば、階層上位に上昇する方法についても熟知しているはずであり、当然その方法をすでに試しているはずだからである。

内田樹 「こんな日本でよかったね−構造主義的日本論」 バジリコ株式会社