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国家



 日本は国家として、旧連合国や東南アジア諸国との間に講和条約を結び、賠償金支払いを取り決めた国々には賠償を完済している。中国は日中平和友好条約で、賠償請求権を放棄した。それに対し日本は、巨額なODAの支援を行ってきた。日本や国際社会の一般的ルールに照らして、完全に戦後処理を終えているのである。むろん、相手方の国々には、「戦争はまだ終わっていない」といった気持ちを抱いている人々もいるであろう。日本でも、原爆を投下したアメリカや、満州やシベリアで暴虐の限りを尽くしたソ連軍を許し難く思う人々がいるように。すなわち、加害と被害の錯綜した意識の交錯がそこには依然として存在している。しかし、そうした個人としての意識や了解とは別に国民としての立場があり、その立場においては、互いの国家の間でなされた戦後処理によって、両国間の戦争状態は終了したと考えるべきであり、そのことによって国家間の関係を安定化させようというのが、国際社会の智恵であり慣行なのである。

坂本多加雄 「国家学のすすめ」 ちくま新書




 かつて「侵略戦争」をした国であるがゆえに、今後の武力行使に関しても、再び同様の道を歩むかもしれないので自制しているといった説明は、およそ自己の責任能力をはじめから放棄しているように受け取られるからである。

坂本多加雄 「問われる日本人の歴史感覚」p229 勁草書房





 国家と国民の関係は、「ねじれ」ていて当たり前なのである。国家や国旗に対しては、「愛着と反感」を、「誇りと恥」を同時に感じてしまうというのが、近代国家の国民の自然な実感なのである。それはベトナム戦争を経験したアメリカ人、スターリン主義を経験したロシア人、ヴィシー政権を経験したフランス人、ナチズムを経験したドイツ人、文化大革命を経験した中国人……どの国民でもみな同じである。国家の名においておかされた愚行と蛮行の数々。それと同時に国家の名において果たされた偉業の数々。その両方を同時にみつめようとしたら、私たちの気持ちは「ねじくれて」しまって当然なのである。それをどちらかに片づけろというのは、言う方が無理である。

内田樹 「ためらいの倫理学」p70 角川文庫



 国家の誇りと国家の関係は、自尊心と個人の関係と同じ関係にある。つまり、その関係は自己改善に必要な条件なのである。国家が誇りを持ちすぎると好戦的性格と帝国主義が生じてくる。それは個人が自尊心を持ちすぎると放漫になるのと同じである。しかし、自尊心が少なすぎると、個人は所信を貫く勇気を発揮することができなくなる。それと同じように、国家に対して誇りを持たなくなると、国家の政策について活発で効果的な討議が行われる見込みはなくなる。政治に関する審議を創造的で生産的にするためには、国家と感情的に関わること − 自国の歴史のさまざまな部分や現在のさまざまな国家の政策に対して羞恥したり、輝かしい誇りを感じたりすること − は必要なことである。だた、創造的で生産的な政治に関する討議は、誇りよりも羞恥心が強ければ、たぶん生じないだろう。

リチャード・ローティ(小澤照彦訳) 「アメリカ 未完のプロジェクト」p2 晃洋書房