写真とクラシック音楽などなど・・・

人生・自己



生とは無意味なものであり、存在していることを今この瞬間に経験することのみが重要だというのが、実存主義の核となる原理である。サルトルの哲学の残りの部分は、この原理を受け入れようとする試みだった。 p177

カミュは不条理主義者であって実存主義者ではないとつねづね主張していた。生は無意味というよりむしろ不条理であり、これは重要な違いだというのがカミュの信条だったのである。 p180

ジョン・ヒッグス (訳)梶山あゆみ 「人類の意識を変えた20世紀」 インターシフト




 人生にはそのままで意味があるというよりは、不条理を超えて、人生を意味のあるものにする努力をするところにこそ意味がある。

岸見一郎 「アドラー 人生を生き抜く心理学」p217 NHK出版




 人生は終わる。そのこともまた人生を特別なものにする。ここで、自分の前に存在するもの、見て触れて愛せるもの。私たちの人生は、本番を前にして、計画を立て、前もって試す通し稽古ではない。これが本番で、上演は一度きり、それだけだ。

ショーン・キャロル (訳)松浦俊輔 「この宇宙の片隅に」p573 青土社




 僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから。」ということです。

村上春樹 「雑文集」p388 新潮社




 ある人は人生には意味がない(Life is no meaning.)と言うかもしれません・・・・・・しかし、意味がないことにこそ、その意味があるのです。(Its meaninglessness is its meaning.)

ロジャー・パルバース(上杉隼人訳)「本当の英語がわかる−51の処方箋−」p200 新潮選書




 ニーチェは言った。「神は死んだ」。真理など最初からないのだけれど、人間は人生に耐えられないから真理を求めていただけ。苦し紛れに生み出したのが宗教や哲学体系なのだ。
 人間は生きる意味を持ちたがる。よりよく生きたいから、よりよく生きるための方便をつくりあげる。つまりは、ニヒリズム・・・・・・、人生は限りなく無意味である。そこでニーチェは考えた。だったら無意味な苦痛の人生を乗り切ることそのものを生きる意味にしようと。よりよく生きたいという人間のパワフルなエナジーをそのまま人生の「目的」にしてしまったらどうだろうって、究極のドンデン返しである。よりパワーアップしたいという「力への意志」を肯定し、そこに生きる価値を与えたのだ。

富増章成 「空想哲学講義」 洋泉社



 ちなみに、就職情報誌には、しばしば「自分探し」「自己実現」「自己啓発」などということばが出てきます。これほど人々を惑わす罪深いことばはありません。
 わたくしたちは、「自分の心」は、その気になれば(徹底的に冷静になれば)、簡単に見てとれます。しかし、「自分」「自己」を見てとることはできません。
 なぜなら、自分、自己は、ものを考えたり感じたりする主体だからです。いわゆる認識主体です。認識主体を認識することはできません。もし自分、自己が認識できたとしたら、それは自分でも自己でもありません。なぜなら、認識できたものは認識対象であって認識主体ではないからです。
 仏教やインド哲学では、これをわかりやすく説明するさいに、「刀はみずからを切ることができない」という譬喩を用います。この道理をしっかりと見据えてください。
 ですから、自分、自己というものは、見てとることが不可能だということにその本質があるのです。
 このことに気がつかないで、自分探し、自己啓発などを本気になってしようとしますと、いたずらに頭が混乱するばかりとなるのが落ちです。

宮元啓一 「仏教の倫理思想」p69 講談社学術文庫




 各人が他者と共存するために被っている「仮面」を剥いでいけば、直視するに耐えないものがどんどん出てくる。我々の“人間性”は落ちるところまで落ちていく。否、どこまで落ちていくかわからないと言うべきだろう。限度を知らない「本音トーク」には、我々がようやく身につけた「仮面=ベルソナ=人格」を破壊して、無限の野蛮さを到来させてしまう危険がある。

仲正昌樹 「「不自由」論」p63 ちくま書房