写真とクラシック音楽などなど・・・

幸福や苦しみ



 何にも増して重要な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。あなたが牛に引かせる荷車が欲しいと思っていて、それが手に入ったとしたら、満足が得られるだろう。だが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分は惨めだと感じる。

ユヴァル・ノア・ハラリ (訳)柴田裕之 「サピエンス全史(下)」p222 河出書房新社



 未来を考えることは、希望と絶望を生む
 未来があることは人間の希望に違いない。しかし、未来があるからこそ人間は絶望する。
 未来を考える力を手に入れたときから、私たちの祖先は希望と絶望が交錯する世界を歩みはじめたのだ。

NHKスペシャル取材班 「ヒューマン なぜ人は人間になれたのか」p310 角川書店



 ルサンチマンは、つねに「かくありえたはずだ」とか、「かくありうべきだ」と自分自身に囁きます。弱者(敗者)は強者(勝者)を恨み、そのことで自分を不遇だと理解するのです。これが世界に対しても自分に対しても際限のない不満と否認を生み出す源泉です。自分は自分の力の限界まで求めた、だからそれ以上の現実は決してあり得なかったという深い了解(納得)だけが、人間にその生を肯定させる。この肯定は勝者と弱者の表面的な区別にかかわりない内面的なものです。強者、弱者というのは相対的なもので、絶対的な強者、絶対的な弱者などということは想定できないからです。だから原理的には、誰もが生を肯定できる可能性を持つはずだというのです。

竹田青嗣 「「自分」を生きるための思想入門」p248 芸文社





 自分の幸福の実現が膨大な数の他人を傷つけながらも、その因果関係の網の目がよく見えないために、われわれはさしあたり幸福感に浸っていられるのである。それがすっかり見渡すことができたら、この世に幸福はありえないであろう。

中島義道 「不幸論」 PHP新書





 希望や可能性がその人を苦しめるのだ。
 辛辣なことを言ってしまえば、希望や可能性を頼りにしなければならないという思考の単純さがその人自身を苦しめるのだが、いまはそれは置いておこう。「これをしたい」という希望や、「私にはこういうこともできる」という可能性は、自分自身の現在の状況の否定が裏にある。いまの状況に満足していたら、それ以上を希望する必要はないし、別の可能性を考える必要もないはずではないか。 

保坂和志 「途方に暮れて、人生論」p53 草思社




 成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。
 他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。 

三木清 「人生論ノート」p84 新潮文庫



 功績に伴う自惚れは、功績のない人の自惚れよりも一層気を悪くさせる。功績だけでも気を悪くさせるものだからである。 

(ニーチェの「人間的、あまりに人間的」の一文を、中島義道が「人生を半分降りる」で引用)



 ところで先ほどの表に、「道徳とは、弱者が強者に対して怨み(ルサンチマン)を抱いた結果、弱者が強者を引きずりおろそうとして、価値を逆転したもの。道徳的であれば、弱くても強い立場にいられる」というものがあったが、これがニーチェによる道徳の起源の説明である。こんなことを人前で言えば性格を疑われるだろう。 

富増章成 「空想哲学読本」 洋泉社