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宗教



 自力で救われる人間ならば救いはいりません。救われぬ人間であるからこそ救われねばならないのです。その救済はこの世界そのものが与える救済でなければなりません。それを阿弥陀仏と親鸞はとらえられたのだと思います。この信心は救いなき身の徹底的な自覚なしには出て来ません。己の置かれている絶対的な孤独と虚無に立たないと救済の契機は出て来ない。ほんとうに救いというものが必要にならない。絶対に救われぬ身であるからこそ救済が必要なのであって、その必要の痛切さが極まったとき、つまり嘆きが極まったとき、すでにしてそこに救済が現前しているというのが親鸞さんの立場です。救われぬからこそ救われるという逆説がここに成立したのです。悪人正機説というのはこれ以外のことを意味しません。

渡辺京二 「未踏の野を過ぎて」p212 弦書房



 仏教において、一般に、真理とは言語を絶したものとされる。つまり、真理は、言葉によって完全なかたちで説明することはできないと考えられているのである。仏教は、シャカが菩提樹の下で瞑想して得た「さとり」から出発するのであるが、先述のように、シャカのさとった真理の内容そのものについては何も伝えられていない。これは、故意に隠蔽されたのでも、何らかの事情で伝え損ねたのでもない。「真理そのもの」は、言葉によっては、完全には伝えられない、言語超越的なものであるという真理観があったからこそ伝えられていないのである。

頼住光子 「道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか」 p27 NHK出版



 宗教的な真理は、あらゆる民族、あらゆる時代に現われていなければならない。そうでなければ真理でも何でもないんですから。ただ受け取る方の民族の文化水準がでこぼこしていますからね、あるところでは非常に迷信的な受け取り方が幅をきかせている。あるところでは非常に高度な受け方をしている。違いあるけれども真理の粒としては同じである。(中略)
 そして、こういう見方をしないと、結局世界は宗教戦争になるんですね。真理が現われるとすれば、どこにも現われたはずである。その現われ方はいろいろある。その現われ方がいろいろあるのをうまく両立させた国が、これが日本しかない。今までのところ。

渡部昇一 「日本史から見た日本人【昭和編下】「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎」 p289(特別付録) 祥伝社



 米農業には水が、つまり雨がいるでしょう。雨が必要だと、人間の力の限界が見える。雨は人間の力ではどうすることもできない。だから、真言密教では祈雨(きう)、雨を祈るのが大きな宗教的な行事のひとつです。空海はそういう祈雨をやった。雨はどうしたって人間の力を超えているということですね。ヨーロッパでは人間中心主義が栄えているけれども、稲作地帯では人間と自然が共存するという思想が栄えるわけです。
 キリスト教と仏教の違いはそこですね。キリスト教やイスラム教は露骨な人間支配、人間中心主義です。キリスト教の考え方だと、人間は理性という神の似姿をもっている。神様は理性の塊なんです。そういう神の心を人間が持っているというのが理性なんです。人間以外の動物は神様の似姿である理性を持っていない。だから人間が動物や植物を支配するのは当たり前だという考え方が、キリスト教の根幹にあるんです。
 仏教ではそれがない。仏教にしても儒教にしても、人間中心主義ではない。人間は大事です。人間は大事なもので、数ある生物のなかでもとりわけすぐれたものだと言いながら、しかし人間が世界を支配するという考え方はない。世界には生きとし生けるものが共生している。それが仏教などの東洋の思想の考え方です。

梅原毅 「梅原毅の授業 仏教」  p45 朝日新聞社



 ヨーロッパ人という、知的にも肉体的にも強靭な人種が、もしキリスト教が導入されず、その文明による飼い馴らしがなかったとすれば、部族の内部や隣人同士が相鬩(あいせめ)ぎあって自滅していたかもしれず、この点、回教によってながく存在をつづけてきたアラブ人の場合や、また儒教によって同族と村落の秩序を保ちつづけてきた中国人の場合も、事情は変わらない。
 この点が、われわれ日本人には実感としてわかりにくく、このわかりにくいという重大な場所において、日本人はどうやらアジアにおいても世界においても孤独であるらしい。

司馬遼太郎 「歴史の舞台 文明のさまざま」 p230 中央公論社





 信じるものが救われるのは、当然である。なぜなら、救われたくて信じるからである。
 したがって、信じない者が救われないのも当然である。そのような仕方で救われることを、拒否するからである。

池田晶子 「残酷人生論」 p149 毎日新聞社