写真とクラシック音楽などなど・・・

日本の特徴



 日本社会には、隣人愛に似た「和の精神」が根付いている。相手を思いやり、他人の迷惑がかかるような行いは極力しないよう努めている。それも日本人同士で、「私は和の精神を心がけています。あなたはどうですか?」と、いちいち確認したりはしない。
 それでも、お互いに不安はない。だから、キリスト教徒が隣人愛を説けば説くほど、日本人はキリスト教から離れていくのである。本書のタイトル『日本人に「宗教」は要らない』の真意はここにもある。もともと高い宗教観を持つ日本人は、西洋的な「宗教」の必要性を感じていないのだ。
 しかし、日本でも最近、「絆が大事」「思いやりの心を持とう」と言われるようになった。そう言われなければならない状況こそ、私は問題だと思う。日本人は本来、そういう言葉を口にする必要もなかったのではないだろうか。

ネルケ無方 「日本人に「宗教」は要らない」p170 ベスト新書




 欧米の知識人はよく「日本は非常に排外的で差別主義的だ」と言います。しかし、私は少し裏側から物事を見なければいけないのではないかと思っています。日本人は決して異質な人間を憎んでいるわけではなく、仲間同士で暮らしている状態が非常に幸せなので、その現状を守ろうとしているだけではないのでしょうか。日本の社会はお互いのことを慮る、迷惑をかけないようにする、そういう意味では完成されたパーフェクトな世界だからです。
 フランスの場合は、そもそも国内が無秩序で、フランス人同士でも互いにいざこざは絶えません。つまり、外国から異質な人が入ってきたところで、そもそも失う「パーフェクトな状態」がないタフな社会です。同じことはアメリカにも言えるでしょう。

エマニュエル・トッド 「問題は英国ではない、EUなのだ」p221 文春新書




 日本語が外国語に比べていかに美しく、また優れた資質を持った言語であるかと言い立てる人は世間に数多いけれど、それは正しいことではないと僕は思う。日本語が素晴らしい言語に見えるのは、それが我々の生活からしぼりだされた言語であるからであり、それが我々にとっての欠くことのできない自明的な一部になっているからであって、日本語という言語の特質そのものが優れているからではない。あらゆる言語は基本的に等価であるというのは僕の終始変わらない信念である。そしてあらゆる言語は基本的に等価であるという認識がなければ、文化の正当な交換もまた不可能である。

村上春樹 「やがて哀しき外国語」p279 講談社





 だが私は、「日本の思想を世界に・・・・・・」という話に同調しようとは思わない。この発想はいくつもの誤りをもっている。
 第一に自然とはとらえられた自然として存在しているということを、そしてとらえられた自然はその風土=「場」とともにあるということをこの発想は理解していない。「日本の思想を世界へ」では、欧米思想を世界に輸出することが文明の発展だと考えた、かつての誤りと、同じ誤りをくり返すことになる。
 第二の誤りは「日本の思想」のとらえ方にある。世界に伝えるためには思想の言語化が必要になるが、言語化できない諒解の部分を大きくもっているのが日本の思想である。しかもその諒解は、諒解を可能とする「場」のなかに身をおかなければ手に入れることができない。「日本の思想を世界へ」という提案は、日本の思想の根本的な部分を見損なっている。

内山節 「自然の奥の神々 哲学者と共に考える環境問題」p136 宝島社