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ヴァイオリン協奏曲



 両目を開けた瞬間、いったい何が起こったのか理解できなかった。目の前から誰もいなくなっていた。目を閉じるまで私の前に並んでいた人たちは、いったいどこにいってしまったのか? 前だけではなく、右を見ても左を見ても、ホームの上には誰もいない。もともと誰もいなかったのか? いや、違う。そんなことはない。たしかに電車を待つ人たちが並んでいたのだ。彼らはどこに消えてしまったのか???

 事態が飲み込めるまで20秒くらいはかかっただろう。目を閉じていたのは1〜2分のことだと思っていた。しかし、実際には5分くらい経過してしまったようだ。その間に私が乗るべき電車がホームに到着し、並んでいた人たちを乗せて発車し、行ってしまったのだ。

 私には何も聞こえなかった。Walkmanから聞こえるメンデルスゾーン作曲のヴァイオリン協奏曲を除いては・・・。

 電車が到着する前に駅員のアナウンスがあったはずであり、電車は音を立ててホームに入ってきたはずであり、ドアが開くときも閉まるときもプシューっと音がしたはずであり、電車が出発するときにはガタゴトと音がしたはずである。いくらソニーのWalkmanには外の雑音を小さくする機能(ノイズリダクション機能)が備わっているといっても、雑音が全く聞こえなくなるわけではない。日頃、Walkmanを聴きながら駅員や車掌のアナウンスがうるさく感じることも多い。しかし、あのとき私に聞こえたのは、デュトワ指揮、モントロリオール管弦楽団とヴァイオリン奏者チョン・キョンファが演奏するメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第二楽章だけだった。他には何も聞こえなかった。私の耳には、全くの静寂の中で素晴らしい演奏が鳴り響いていたのだ。

 今まで、酒に酔って電車を乗り過ごしたことがないわけではないが、ホームで電車に気がつかないで乗らずにやり過ごしたのは初めての経験である。それだけ演奏に惹き付けられていたということだろう。他の一切の音に気がつかないくらいに集中させられていたのだ。メンデルスゾーンおそるべし。そして、チョン・キョンファ、おそるべし!

 ホームに呆然と立っていて、とても恥ずかしくなった。電車に乗っている人の中には、私がホームでひとり目を閉じて突っ立っているのを見ていた人がいるだろう。その人の目に、私はどのように映っていたのか。それを考えると恥ずかしくてたまらなくなり、近くにあったベンチに腰を下ろして気持ちを落ち着かせようとした。そして反省しながら考えた。Walkmanを聴きながら目を閉じるのは禁物だということを。特にメンデルスゾーンやチョン・キョンファには気をつけなくてはならないことを・・・。

 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、中学校の音楽の時間に聴いたのが初めてだと思う。冒頭の独奏ヴァイオリンの奏でる旋律は美しく、とても有名である。あまりにも有名すぎて、私はこの曲を長い間、積極的に聴こうとは思わなかった。全曲を通してしっかりと聴いたのは今回が初めてだと思う。第2楽章はあまり記憶になかった。だから他には何も聞こえないくらい集中して聴いたのかもしれない。とても有名な曲は、どれも有名になるだけの良さがあるのだろう。チョン・キョンファのヴァイオリンも素晴らしかったことをつけ加えておかなければならないと思う。