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日記と随筆 6
若いときの足跡…No.1~4<29~47歳>の随想 : No.5~13<19~29歳>の日記です…


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        〔 1 悲劇 〕
        〔 2 寂即美 〕
        〔 3 卒業を前に 〕
        〔 4 性格を論ず 〕
        〔 5 病床にて徒然なる侭に 〕

1 悲劇

〇 それは君が心に感じて、魂から湧いて出て、凡ての聞く者の心を根強い興味で強いるのでなくては、世間を手に入れることは出来ないだろう。   ファウスト

〇 正直にして成功し給え、決して鈴を鳴らす莫迦者にはなり給うな。理解力と言う正しい考えがあれば、演説などは技巧を弄さんでもひとりでに出来るものだ。何か真面目に言うことがあるならば、言葉を詮索する必要があるものか。どうも君の演説といったものはぴかぴか輝いているが、その内容は人生の紙屑をまるめた様なもので、秋になると枯れた木の葉を吹き騒がす、湿り風のように気持ちの悪いものだからね。   ファウスト

〇 羊皮紙本がなんて、一口飲んでそれで渇を永くとめてくれる、神聖なものであるものか。その泉が君自身の霊の中から湧いて来ないでは、心をさっばりすることはとても不可能だ。   ファウスト

〇 フン、天の星まで進歩して行くだろうて。だが君、過去の時代というものは、我々にとって七つの封印をした書物だ。君達がその時代の精神というものは、元来が先生方自身の精神で、その中に影が映っているに過ぎない。    ファウスト

〇 然し、この世界というものですね、人間の心と精神というものですね、これについて誰でも何か知りたいと思っております。   ワァグネル

〇 さあその知るという意味だ。正しい名前で子供を呼ぶものはあるまい。少数の人は何か心得ていたが、それを莫迦なことに胸一ぱいに蔵っておかずに、自分の感じた所、観た所を、世間の俗人に明らかにしてしまって、結局磔にされたり、火に焼かれたりしたものだ。だが君、もう夜も更けた様だから、お願いだ、この辺で切り上げよう。   ファウスト

2 寂即美        24・2・25下宿

 私は一人で暮らそう。一人で、独りで。心よ聞け! 独りで生きるのだ。独りという字は独立の独の字だ。人間は終極は独りだ。ゲーテを見よ、ニーチェを見よ、ボードレールを見よ。彼等は如何に生きたか私はしらない。一人の人間の世界を必ずしも賞めてはいないが、人が生まれて、止むに止まれぬ憧憬・欲求・悩み、それらは皆対象物の獲得により各々終止すべき性質のものではないのだということを言わんとしているのではあるまいか。永遠の何物かを追求し、憧れ、夢みていく旅の鳥だ。シェレーはその詩にうたった。空高く鳴き尽くす彼の雲雀を見て、その心事を察して歌ったではないか。そしてまた、 T・E・ヒユームは言ったではないか。まだ忘れでもよいことだ。

 「すべて灰燼、築きあげられた部分。それで問題は、どの程度築きあげられ、どの程度われわれに与えられているかだ。世界の柔軟度の問題だ」

 更に続けて言う。

 「しかし劇場で考え、聴衆を眺める。ここに現実がある。ここに人間的な動物がいる。壮大な台詞に耳を傾け、それから、拍手喝采する人のその群をみよ」

 現実は一切まとまりのない灰の山であり、泥濘である。築きあげられた観念だけが美しげな衣をみせ、壮大な言葉となり、夜のロンドンのようにきらびやかに輝いているに過ぎない。くりかえして言えば、ヒュームの眼の前にあったものは、現実の統一のない灰色の灰燼の世界であった。そしてその闇の世界のあちこちに夜の燈火のようにきらめく人間の築いた観念の世界をみたのである。

 何と気持ちよい言葉であろうか。探究に探究を重ね、果てしなき人の世界は灰燼と映じたヒユームの心境はいかばかりだろうか。私は独りで寂しく美しく生きよう。すべてにがい試練であり、血と汗を払って得ることのできる経験である。それは埋ずもれる金剛石のように、光らずともよいではないか。桜花の満開せるを楽しむは一面から見れば佳境であるが、散りゆく花の道理をつかみそれを眺むる心がけも、一面から見れば、得難き味わいをわが人生に与えるものと信ずる。

3 卒業を前に    (満20歳) 24・3・1

 歳月めぐりてはやここに・・・・・・・・、ハーモニカのリズムは哀調を帯びつつ、私のこころを寂莫へさそった。でも二回吹いた。

 「Reading , writing and arithmetic do'nt constitute in themselves.」

 読み書きソロバンそれ自身が、教育を構成するものではない。世に教育があるならば、教育は人格の反映でなくてはならない。これが、私の、教育についての一番近い考え方の表現である。内容に曖昧な点をもっているが、自分で作ったこの言葉は、現実の混迷と闘いつつ困窮に耐えながらも、理想的なものに一歩でも近づかんとするなら、教育の面において、私はこの言葉を作らざるを得なかった。

 更に生きる道としては、雄々しく逞しく然も明朗にして永遠の憧憬を象徴するUNESCO( United Nations of Educational,Scientific and Cultural Organization )国際連合教育科学文化機構を私は支持する。

 「ユネスコ憲章の解説」という毎日新聞社で出版されたこの本を手に人れたとき、私は、その前文の見事さと内容の気高さ確かさに魅了された。それもその筈である。ユネスコ憲章の前文は、近来の国際条約文献中の名文とされている。それは、我々の生涯中に再度まで名状すべからざる悲哀をもたらした戦争の惨禍から、次代を救おうとする人々の、つきつめた戦争原因の反省と、恒久平和確立への理想が、高い見識と強い決心によって貫かれているからである。文章は美しいというよりも、実感的なものであるが、これを読む者に大きな感銘を与えるところのものは、長い世代にわたって、多くの識者によって考えつがれ、実際にはかえりみられなかった偉大な事業が、いよいよ開始されることになったからである。そして、その内容から、理性の真剣な喜びと希望が、しみじみと感じられるからである。これは決して、ありきたりの美辞麗句の羅列ではない。民衆の深い気持ちと真面目な声が、指導者の情熱によって格調高く書きつづられたものである。

 憲章の内容に、人間の歴史を通じての偉大な反省に、非常な重点を置いているのは、従来私が考えている考えをよく現わしていて、気持ちよいのである。わたしの考えはこうである。「現在の自己は、あらゆる過去の経験を主観の篩にかけたところの集積である」という主張である。ユネスコに生命をかけよう。広大なる視野のもとに、絶大なる希望と体現に憧れ、あらゆる行動の基盤にしたい。それが今感じていることである。

 卒業を前にして、教師としての心構えと、自己の生活目標を誌るす。

4 性格を論ず       25年(千代中)

 第一次世界大戦が終って後、米大統領ウイルソンは国際連盟を提唱したのですが、それ以前に種々の何々連盟何々協会などの宣伝団体や、諸種の論争が渦をなしていたようです。この際に、H・G・ウエルズ氏はこの渦中にまきこまれ、かかる種々の何会彼会の論議をへて、その回顧している中に、次のような言葉を使っています。

 「如何なる政治的・公的活動においても、その人の『過去』なるものに対する解釈の仕方・観念の仕方が何よりも根本第一義のものである。何故ならば結局、ある一人の政治上の活動とは、要するに過去なるものに対するその人が持ちあわせる観念なり思想なりが、行動として発現したものに外ならぬではないか」

 何故わざわざこの文例を挙げたかといいますと、農学校を終え、更に師範を終えてみて、常に教育とは何辺に在りやを、心の疑問符として抱き、他日論文とした考え方「現在の自己は、あらゆる過去の経験を主観の篩にかけたところの集積である」と火花を散らして触れあった感じがしたからであります。

 我々は今、変転極まりない歴史の爼のうえに在って、如何なる意義を付せられ、如何なる形骸を横たえるか知れざる恐ろしい大手術をうけている状態にあると言ってもよいと判断するのであります。しかし、我々は自分の位置を認識せねばなりません。

 私としましては、日時の過ぐるに従いまして所謂「主観の篩」が非常に大きな問題となってきましたので、早速過去のあらゆる経験を受け人れるべき関門・主観の篩について究明したいと考えておりましたところ、最近ある暗示にヒントをえて、一応自分でそれに対する考えをまとめてみました。

 それは、現代西欧の知識人は性格の秘密を嗅ぎつけているということであります。ローレンスが1914年6月5日にエドワード・ガーネットに当てた手紙に次のような言葉があるのです。

 「私の小説に性格という古臭い安定したエゴを求めてはなりません。そこには別のエゴがあります。その活動によって個人は見分け難いものとなり、いわば同質異体の状態を通過します。この状態を見出すためには、我々は普通以上に深い感覚を必要とします。それは根本的に不遍な同一元素の状態なのです。ちょうど、ダイヤモンドも石炭も、炭素という純粋の同一元素なのと同じようなものです。普通の小説は、ダイヤモンドの歴史をたどるのです。でも私はこういいます。「なにダイヤモンドだって? これは炭素じやないか」私のダイヤモンドも、石炭か煤かもしれません。しかも私の主題は炭素なのです」

 私たちの感覚にとらえられる机とか椅子とか水とかは、私たちの常識の世界を構成しているのですが、科学はこれを分析して炭素とか水素とか酸素とかいった元素にしてしまいました。いやそればかりではなく、最近の科学は分析を重ねていって、結局、電子とか陽子とか、まるで常識の世界では想像もつかないまで分析してしまったのです。私の眼の前にいる美しい女性も、傍らにある洗面器と変わりのない電気を帯びた粒子という同質のものから出来ているわけになります。ところが帯電粒子が諸々に結合して、ご覧のとうりの別の物質と肉体とがここに現れるわけです。ローレンスは、これと同じようなことを人間心理にまで立ち入ってやったわけであります。

 ところで、常識の世界には所謂「性格」を持った人間がいるわけですが、これを分解して非常識の世界にまで到ると、結局のところ「心理的原子」の集合があるだけになります。このように常識を越えて探究をすすめることが、現代の科学や思想界(殊に精神生活を素材にする文学上)の動向となっていると考えることができます。科学の発達は、精神科学を駆使して、かくまで人間心理を掘りだして我々の眼の前にさらけだしてくれました。個性を否定し、性格を否定し去ったあとには、ただ心理的原子が現れてくるのみと思います。極端にいえば「個性は我々の個人的所有物ではない」とも言いうるのであります。そこで、帯電粒子の電子であり陽子でもある心理的原子は如何なる構成により人間を形成していくのでしょうか。また個性とか性格とかは、人間形成と如何なる関係があるのでしょうか。原子は生まれおちる以前、否、陽と陰の結合せるやいなや、その活動は始まるものと考えられます。しかし、人間という一つの存在は、独立して生活しうるようになると、急速にところ嫌わずいろいろの原子を吸収してしまうと思います。そして吸着し成長してきますと、新しい意味での個性ができるとも言えます。それは削除をうけず選択のされていない、別の言葉でいえば、世界観とか人生観とかいった何か特別の排水溝に流しこまれていない、全人の個性というものであります。そこで、無意識や潜在意識の一切を含む人間の意識の流れを考えて、個性とは、人間のあらゆる体験によって絶えず流動変化するものですが、そこに内面的な判断の作用があって、自らひとつの統一をなしているものと言えましょう。そして、この流動変化する個性にたいして、何らかの規範、主義、原則により抑制を加えて変化をいくつかのジャンルに凝結せしめた結果として「性格」が現れてくるものと考えてよいと私は思います。しかしここでは、年齢の上で問題になる点は課題としておきたいと思い、控えておきます。

 批評家を迷路に立たせ、一体如何なる性格を有せるものかと論議され、何も結果を見出しえずにいるハムレットなどは、あの英国の文豪シェクスピアの知恵の実のなかに、人間の性格の本質がきらめいていたのではあるまいか。文学上の問題に、恋愛問題をはじめ、身分、財産のごたごた問題が多くその素材にとられているのは何故であろうか。人間心理の、利害に基ずくエゴの微妙な変化が、その描かれる人間の中に、影のごとくつき纒っているからだと思います。なぜ道徳的品性を固持しつつも、しかも醜い想念を捨てさり得ないのか。原子的心理は、ある個性とか性格とかが許さざるところまで、人の内面に吸着されているのであって、個性とか性格に、厚い壁があると仮定する人のほうが、むしろおかしいと言えましょう。野心あるものが偉くなり、転ずれば悪人となるのも、またこれに帰一するでしょう。現今の我々は、個性とか性格への解剖のメスを許されているのであると思います。

 主観の篩が、性格及びその他(このことについては、又いろいろと探究すべき課題が私には課せられている)により構成され、形を保持していると考えられるので、その一面である性格が朧げながら明らかになってきても、決して主観の篩の意昧内容が解明されたとは言えません。

 二重人格、経験派、観念派、楽天家、厭世家、喜怒哀楽等々は、もはや人生のべールとして見えるのみで、本体はメスにより明らかにされ得るのです。我々は、世界の科学の進展に盲目でなく、この精神科学を進展せねばならないと思います。

    〇

 参考として、教育者の立場を薮医かもしれないが、経験は発展の基盤なりの仮定により、直断してみようと思います。

 分析総合による発展は学問のたとえ、然らば、ロボットに非らざる人間教育にたちむかう態度いかん、となると、斯くすれば斯くなるとの、如何に厳密なる検討議論の関門を経た方法上の態度を堅持してたちむかっても、一人の子どもでないかぎり、一〇人一〇色の子どもを相手にしては、ロボットの毎き一律でないかぎり予期した方向に教育できないと考えます。教育者の対象は、異彩を放つ生ける人間が対象だからです。一人の人間における性格、個性の心理的原子の吸着は、方法論による方向では、その意図する方向には必ずしも伸長はしません。教育者にしても、人であるかぎり絶対に客観的にはなり得ないからこそ、そう考えざるを得ないのです。流動変化する成長期にある生徒にたいし、せめて教育者の今日までの全見識と、生きる望みにたいする全エネルギーとをぶちまけて、赤裸々な自己の全人格で接し、己を材料とし生徒に成長してもらう以外、道はないだろうと思います。人は、他の人を劇的シーンの存在と考え、その中から汲むベきものは汲みとり食すべきものは食して成長する以外の何ものでもないと言いうるのであります。いわゆるこれが、原子の吸着なのであります。

 教育は、読み書きソロバンに非らずして人格の反映にあり、という考えは、自分の人格が立派だとか、生徒の人格よりまだ磨いてあるとか、そういった自惚た意味ではなく自分のすべてを投げだして生徒の心にぶちあたり、よりよき方向へ進もうとする赤裸々な姿で、生徒に立ち向かうことにあると思います。そうした姿の中から、生徒が汲むベきところを汲みとり、捨てるべきところは捨てさり、一人ひとりが成長するところに、人格の反映の意味があるのです。一律教育は、生徒の心を踏みにじる要素がつよく、個々の個性や性格の形成の上から言っても、唾棄すべきものと言ってよいでしょう。

5 病床にて徒然なる侭に   25・5・19

 人の世は全く混沌としていて判然としない。世界をみると、米ソ共に平和なる美名をもって二つにわかれている。現在おおくの日本人は、アメリカ寄りを期待していると思うが、思想傾向は社会改革の方向へかたむくことと思う。アメリカよりソ連に近づく傾向はまったくないとは言われまい。何故か考えてみるに、例えば米なら米が独善的に物を処していく様子があるのが一つで、また日本自体の傾向が気味悪いほどアメリカ風を奉じているからである。

 例を挙げて考えよう。手近な点からは・・・ラジオ放送を主としての判断だから真か否かは判らない・・・先ずアメリカ人、イールズ博士の講演問題がある。前に東北大学で学生による博士講演の妨害事件があり、今度は北海道大学では、懇談会云々問題が大きく取りあげられた。さて、問題は事件に対するイールズ博士の見解と大学教授陣の態度である。博士はいう、共産主義の教授はその資格がないとまで極言し、更に学問のために共産主義の教授を招くことはいけないという。私などは、その内容はどうか何もしらないが、日本の大学をまわり歩きつつ、自己の見解を固持して語り歩く外人の態度が余りに気に喰わぬ。学生が学問の自由を束縛する云々といったのも、心からのことばと思われる。日本の、いわば最高学府への侮辱ではなかろうか。然しながら、これに対する教授陣は、一体何ということだ。仙台では扇動した学生が悪いというので逮捕するといい、北大では某教授が、わたしが懇談会の責任者だからその責任を負うといっている。大学教授が、学問の指導者としての明らかな態度を国民にすこしも示していないのである。何たる弱いことよ。時流に逆らわぬとか長いものには云々の態度ではないか。また、文部大臣は何たることか。問題を追求する責は別として、これほどの教育問題なんだから一応の所信を表明してよい筈であった。総じて、アメリカ主義が公然と大学の空気を染めようとしている、という点が本問題の焦点だと思う。

 第二として、先日新聞紙上で問題になった徳田要請の問題がある。本問題も些事については少しも知らぬ。ただ私の感想は、要請の真否如何よりも公判法廷の証人と検事との態度である。そうじて検事の態度が一般的のものと考えているから、これもその一例としてよいと思う。これは一事件の例である。

 菅証人が徳田要請を期待と翻訳したということが主であった。菅証人は哲学徒として真摯な態度で生きてきたと思われる。その様子は法廷の証言で明らかに見とることができた。菅に対する質問は、いわゆるデリケートであり、またしつこかった。この前の無人電車の事件の様子をみても同様、残酷と言わねばならない。リーダーズダイジェストに出た共産党問題の法廷で、某氏を拷問した様子が出ていたが、肉体的圧迫はすこしもないようであるが、精神上の拷問は菅証人を自殺させるほどであったことがうかがえる。ねちねちした拷問のようすは、検事としてあたりまえかもしれない。がしかし、徳田事件は急を要する思想問題であったので殊のほかアメリカやソ連の波は荒くなるのが自然のなりゆきであった。日本の検事が、如何にして又曲解してまでアメリカ主義を強く押し進めているか、ということが余りにも反映していた。思想的に訓練されず自己を磨かぬ文官人は、齢をとりすぎて自己保持のためか、今までの日本を反省できていない様子である。こんな人が、平和立国するとつとめる日本の司法をあずかる人かと思うと、日本の存立自体を、あるいは世の人の心について、すこしでも真面目に考えようとすることが馬鹿らしくもなってくる。

 イールズ事件はアメリカ人がひきおこし、若き学生が反駁し、徳田事件はアメリカ人にたいする反対人がひきおこした問題で反駁者はいないが、検事の悪しざまな態度が露呈された。

 第三に、これは前の二つの問題とは関係ないが、参議院選挙の演説をとり挙げる。苦しんでいる日本の立法府の一翼を担う参議院議員の候補者の態度や程度がまた、非常にいぶかしいのであって、国民は全くこころもとない。ラジオの放送は毎日二回ずつあり、それを聞いていると可笑しくて可笑しくて、と言っても笑えない苦しみを感ずる。某氏は文学博士として立候補した全国区ただ一人の私なりと、いくども猿でもあるまいにくどくど言い、自分の抱負何一つ言わず、只文学博士を宝であるごとく鼻にかけ、終止一貫していた。参議院議員候補にこれほど大馬鹿もいるかと思えば心細い。また某氏は、時には議員として僧侶が出たから神主も出てもよいかと思って出たなど平気でいう。更に早苗と称する氏は、その名が農民と深い関係があるし、とにかく早苗を思い出して投票してくれと頼んでいる。また某氏いわく、全国の野球ファン諸君、健康な国を建てるのがまず急務なり、私は野球をもって国を建て楽しんでいきたい等と、何時でも野球する時間場所があり自分の思う通りといった口ぶりであった。如何せん放送を聞いているとこの程度のものが議員に立候補しており、まったく笑えなくて恥ずかしくなる。これらは特別でしょうが、わが名を振りかざすさまは、自分の名を書き始めた小学校一年生が、自分の所持物すべてに名を書きこむのと同一である。あれで、紳士として候補者として国民の代表者として、立候補するのかと思うと、日本の参議院の腰の弱さ、人物の無さに呆れる。呆れるは愚、衆議院も同一であろうから、日本たるものがアメリカに助けてもらわなくてはやっていけないのは、当然だろうとまで悪たれ口をたたきたくなってくる。国の最高議決機関の議員さんが斯様ならば、その国おして知るべし・・・・と迄はいかぬとよいが、兎も角、参議院議員候補者の言葉に対して聞く耳を持ちたくない。

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