【月見草出版へ】

日記と随筆 2
若いときの足跡…No.1~4<29~47歳>の随想 : No.5~13<19~29歳>の日記です…


【日記と随筆 1 へ】 【日記と随筆 2 へ】 【日記と随筆 3 へ】 【日記と随筆 4 へ】

ここから青年時代の古い日記

【日記と随筆 5 へ】 【日記と随筆 6 へ】 【日記と随筆 7 へ】 【日記と随筆 8 へ】
【日記と随筆 9 へ】 【日記と随筆 10 へ】 【日記と随筆 11 へ】 【日記と随筆 12 へ】
【日記と随筆 13 へ】


        〔 1 長い坂 〕
        〔 2 動作から表現されるもの 〕
        〔 3 何を求めて生きたらいいか 〕
        〔 4 読書より 10編 〕

1 長い坂

長い坂(その一)   山本周五郎・小三郎への小出方正の言葉

 「なにごとにも人にぬきんでようとすることはいい。けれどもな阿部、人の一生は長いものだ。一足跳びに山の頂上へあがるのも、一歩一歩と、しっかり登ってゆくのも、結局は同じことになるんだ。一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろいろな風物を見ることがてきるし、それよりも一歩、一歩を確かめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ、わかるかな」

長い坂(その二)  主水正とななえ

 主水正は上がり框に腰を掛けて、雪泥にまみれた草鞋をぬぎ、脚絆をぬいだ。
 「今日は鴬がよく鳴いていたよ」
 「ここの庭でも鳴きますわ、まだかた言ですけれど」
 「鳥にもかた言があるのか」
 「はい」と言ってななえは袖を唇に当て、そのかた言の鳴きまねをしたいようだったが、できないというふうに喉で笑った。「お泊りになれば、朝がたお聞きになれますわ」「泊ってゆこう」主水正は立ち上がりながら言った、「ななえがいやてなければね」ななえは俯向いて脇へ向き、わかっていらっしゃるくせに、という意味のことを、聞きとりにくい囁き声で言った。

 ・・・人間の一生とはどういうことだろう。主水正はあたたかい夜具の中で、熱いほどのななえの躰温に包まれながら思った。死ぬまで生きる、というだけなのか、それともなにか意義のあることをしなければならないのだろうか。

 ・・・もしも後者だとして、意義のあるというのはどんなことだと彼は続けて思った。殿は五人衆の握っている利権を奪回しようとなすっている、堰を設けて三万坪の新田を拓くのは第一着手だ、けれども堰は永遠に殿の御意志を支えるものてはない。殿はいまでもお首を狙われているし、長寿を保たれても百年後はこの世に在られない。多額な資金と人間の労力を注ぎ込んだあの堰も、いつかは崩壊し、別の堰堤が造られ、もっと合理的に灌漑ができるようになるだろう。それは三歳の童児にも想像のできることだし、いまおれたちが、泥まみれになってやっている仕事も、ばかげた徒労ではないだろうか。 隣に寝ているななえが身動きをし、かすかにではあるが、あの陶酔のときのような呻き声をもらした。主水正がそっと抱き寄せると、柔軟な彼女の駆は、ごく自然に彼のほうへすり寄り、頚も胸も、腹部も脚も、彼の中に溶けこみでもするように、じんわりと寄り添った。

 「おまえは幸福だ、ななえ」と主水正はそっと囁いた、「おまえは自分が女であることを認め、女の受けるべきよろこびと力を知っている。そしてそれを誇りにも思わずみせかけようともしない。それが女のもっとも女らしいところだ。おやすみ、いい夢をみるんだよ」

長い坂(その三)   おとしとお秋

 このきょうだいは、どんな不幸なめぐりあわせにも、泣いたり絶望したりするようなことはないだろう。ここになにかがあるな、と主水正は思った。外側の条件によって左右されない、仕合わせも不仕合わせも自分の内部で処理をし、自分の望ましいように変えてしまう。幸不幸は現象であって、不動のものではない。そうだ、このきょうだいの生きかた、またはそういう生きかたができる性格には、まなぶべきなにかがある、と主水正は思った。

2 動作から表現されるもの

 (43:2:25)

 人にはいろいろな性向があり、それらは表現を通して他の人に伝達される。この表現の中で言葉が一番多く使われるが、それ以外、ことに感情的なものから理性的なもの一切の反応は、顔の表情を始めいろいろな形で表現されている。そこで、こうした人の動きを知ることに依って人の内部を知ることも大切なことであると思い、まとめる。しかし、その人を一時的な断面で判断することはよろしくなく、人の行動の根拠は推測するに難しいことを心得ておきたい。

1 顔が表現するもの

 人の内部が一番読み取り易く反応を示すのは表情であり、その中心は眼である。眼を中心とした瞼の千差万別の変化、眉と額の変化、頬の筋肉の変化、口を中心とした変化頭全体の上下左右の角度が意昧する変化、等に分けることができると言えよう。人の顔立ちはそれ自身いろいろと生得の持ち前があるが、それは後天的にも左右され、自分の顔に責任を持たなくてはならないという。表情が人の内部反応を一番よく現すと考えるのは、自分の表情の変化が心の内部反応であると自分でよくわかっているからである。また長い間の経験から身についた読心法といってもよかろう。行きずりの人から表情が意味するものを汲み取ろうとしても難しいが、話しあえば直ぐその様子を察することはできよう。その現れてくるものは、喜怒哀楽、愛憎、明暗、充実虚脱、積極消極、意欲無意欲その他いろいろの心の相がみられ、寸分の変化も表情から汲みとることができそうである。殊に温厚だとか傲慢だとか親身になっているとか上の空であるとか、本心からだとかお世辞からだとか、よく内部反応が読みとれるものと思う。

 子どもをみていてわかるのは、意欲的だか否か、真剣か否か、心が外にあるか否か、ピタリ判明する。

2 言葉づかい

 俗に堕すると下卑たものになるし、かといって切り口上では感情がいらだつけれど、言葉づかいを聞く限り、その人の対人感情とかその人の処世の心得とか思想・温かさ等存分にわかるものである。言葉は伝達の手段であり、感情は問題にすべきではないという考えかたがありうるが、感情抜きの音声による伝達は、伝達機能を半減させるものであり、もっと言えば幼児期の赤ちゃんの情緒や人柄の円満な発達が全くできなくなってしまうものである。やわらかい言葉、つつましい言葉、女らしい言葉、男らしい言葉等々それらはそのまま、やわらかい心、つつましい心、女らしい心、男らしい心等を伝えてくる。上品な言葉づかいの人は上品な心の人であり、人を安堵させ惹きつける言葉づかいの人は、人を安堵させ惹きつける心を持った人であると考えられる。話す言葉の速さや強さ、なめらかさや訥々とした語り口などもかかわり、話す人の人柄から心情、意志、真面目さ、真剣さ等そのままに聞き手に伝わってくる。話し言葉が大事であれば、自分の考えかたや心掛けをたえず磨いていきたいものである。

3 手足の動作が意味するもの

 顔で笑って心で泣くという俗俚があるが、このことは不可能であると思う。即ち一挙手一投足は、心の表現としてある程度現れることは現実にあると思うからである。場慣れた人ですら、大衆の前で何か話をしなくてはならない場合、如何に表情は平然と見えても、心波立つのが普通であり、この波立ちが身体を通して現れるのが普通である。そんな極端なことは別にして、授業中の生徒が、手わるさをする足を動かす肩を動かす等そうした動作が見られるとき、私は瞬時にその子の一つの姿を観ることがてきる。そそっかしい者の行動、思慮のある者の行動、浅薄な者の行動、学習に集中していない行動、それらは手足身振りに現れて私共に知ることができる。性情清き人には、その行動にそれを伺うことができるものが現れる。

3 何を求めて生きたらいいか

 (43:3:1)

 「如何に生きるべきか」という題名を多く目にするが、もともと「・・・べき」という言葉は、生きるということが問題の中核であるだけに、使わないほうがよいと思われる。他を拘束するような発想は本来の義からはずれるからである。更に如何に生きるかという内容は生きる方便を求めるもので、植物があらゆる生態をしめすように人もあらゆる生き方があって、筆舌につくすことは不可能にちかい。不可能にちかいとはいえ方法も大切であり、私は生きる目的・狙いを何にしたらよいか、それを一にも二にも深く考えておきたい。

 最近読んだ山本周五郎の作品に出てくる、原田甲斐や三浦主水正が武士としての自己の本分としてやるべき意識と、男女の営みの中に感ずる意識とのあいだには明らかに差をつけている。周五郎はもう一歩踏み込んで作品を展開してほしいと私は思っている。さて余談は別として何を求めて生きたらよいか。答えは極めて簡単「何を求めて生きてもよい」と思う。私は人の生涯に規矩はないものと考えているし、規矩をつける考え方は、ものの道理への洞察不足から生ずる不安に由来するものであると思っている。だから私が考えるところを他人にしいることは厳につつしむべきだということになる。けれど同行の朋友があるなら、或いは心琴呼応する人があるならば、論語にいう「朋あり遠方より来る云々」のように楽しいことに限りがない。

 私自身何を求めて生きようとしているのか。答えは極めて素朴で簡単「楽しくあること」と考えている。生という概念と楽という概念とが一体として融合することが私の望むところである。山本周五郎はその点分離させているが、時代小説の中でもこの流れを盛りこむことは可能であり、そうして欲しかった。

 では「楽しくあること」とは一体何を意味するかというと、私はその言葉から感受する一切の楽と考えている。楽しい、という言葉は、人の生活内容のあらゆる面の現象に現れる楽を含めて考えている。即ち心がうきうきするのは楽しいのであり、平穏な空気にひたるのも楽しいのであり、親切な言行をとったときも楽しい。従って、心、意、五感など一切の感応機関から生ずるいやでないものを楽しいと考え、こうなることを「楽しくあること」と考えている。

 この文をよむ人には、苦楽をどう考えるのか、という抗議がおこるでしょう。楽あらば苦ありという諺のように楽あり楽あり楽ありということは生きている限りない、と言われるかもしれない。ことわっておきたいが、この願いは生きていく上での最高の目的であるから、同じ次元で天秤にかける必要はない。この種の答もまた極めて簡単である。苦は楽のためにあると考える限り、生きる目的に苦があるはずがない。そうざらに、この世に苦渋することがある訳がないと考えている。もっと言えば、別離、老化、病気が苦であり、それ以外の概念に苦しいことはない。これらは人為では如何ともなし得ぬ代表であろうから、一応は苦として考えてもよかろうが、ものの道理をわきまえた者にとっては、これらさえ苦とは観ないものである。苦楽は表裏をなすもので実体は一体のものであり、その相違が生ずるのはほかでもなく自己の思考構造というか、価値判断の基底というか、その自己内部の反応の相違によるものである。しかし、そこまでいくと聖者の境であり仏陀の境であろう。ただ、うまいものはよく、美しいものはよく、気持ちのいいことがよい、とすることが正しいといえよう。

 何時の世においても、人は何のために生きるのか、という課題が提示され、なにかしら答えたものは浅薄な輩とみなされるような空気が強い。同様に勉強は何のためにするのかという課題も提示されるが即答するものはすくない。私はこの問にたいしても楽しく生きるためとためらわず答えたい。

 高校大学の学歴を肩に、人の心を楽しくすることができないような人もあるが、心せまい淋しい心情といわざるを得ない。学問も文化も一切、政治経済にしてもその目的は、人の心をより楽しくしようとする以外のなにものでもない、と私は観るのである。私たちの考えや行動は時間が解決をし結果を招来してくれるものである。

 「楽しくあること」という内容にはいろいろの角度から問題が残り、殊にその各種の分野が問題になろうが、これこそ分に応じ求めることであり自由に自分で考えるほうがよいだろう。楽しいということの内容の広さと深さはまずは無限にある。そして広いそうした中に自分が在って観るとき、先祖の人々が生活をとおして築きあげ続けた「楽しくあるもの」をよく味わい自己内部の感覚や深さを拡大することが目の前の大切な課題であることを痛感する。

4 読書より(10編)

無用議論をしないこと  司馬遼太郎「竜馬がゆく」(43:3:13)

 「半平太、まあ、ながい眼で見ろや」
 「なにを見るんじゃ」
 「わしを、よ」

竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでない限り、してはならぬ、と自分にいいきかせている。

 もし議論に勝ったとせよ。それはただ、相手の名誉を奪うだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬいきものだし、負けた後、持つのは、負けた恨みだけである。

 ・・この本を読むかぎりではこの気質は一貫している。議論無用ではなく、無用議論をしないという。用心すべきことだが、このままでもよくない。

人生蛆虫論 

 福沢諭吉の「福翁百話」の中にある言葉を、湘南学園長大久保満彦氏が「人生蛆虫論」と名づけ、座右の銘としているもの。

 人生は見る影もなき蛆虫に等く、朝の露の乾く間もなき五十年か七十年の間を戯れて過ぎ逝くまでのことなれば、我一身を始め万事万物を軽く視て熱心に過ぐることあるべからず。生まるるは即ち死するの約束にして、死も亦驚くに足らず。況んや浮世の貧富苦楽に於ておや。其浮沈常ならざるのみか、貧者必ずしも苦痛のみにあらず、富者必ずしも安楽のみにあらず。唯是れ一時の戯れにして、其時を過ぐれば、消えて痕なきものと知る可し。

大菩薩峠        中里介山

 何かわれわれに窮屈を感ぜしめるものは、偉大なものじゃありません。・・・感激というものは、その偉大なものが、ある隙間からほとばしった時に、はじめてわれわれに伝わるもので、偉大そのものの方からいえば、むしろ破綻に過ぎないと思います。たとえばです、この平々凡々たる大海のある部分に波が立つとか、巌に砕けるとかした時に、人は壮快を感じたり、恐怖を感じたりして、はじめて威力に感激するのですが、こうして無事に相接している時は、いま君のいったように、海が全く他人ではないのです。平々淡々たる親しみを感ずるところに、海の本音と、その偉大さがあるといってもいい。

ポーシャ (慈悲について) シェクスピアー「ベニスの商人」

 慈悲はよんどころなく施すものではない。慈悲は、春の小雨のおのずからにして地を潤すがごとくに、くだるものぢゃ。その徳は二重である。慈悲は、これを与うる者にとっても幸福であれば、受ける者にとっても幸福なのぢゃ。慈悲はもっとも偉なる人に在って、更にもっとも偉なる美徳となる。この徳が人の胸にあれば、金の冠にも幾倍する。慈悲は目にみえぬ心のなかに宿る宝で、永世不滅の神の徳ぢゃ。

西田幾太郎  哲学者  昭和十三年三月十三日・原田熊雄宛の手紙

 今年の議会ではなんだか明かるい気持ちがして、やはり議会というものの存在理由を感じたようですが、政党というものがもっと根本的にどうかならぬものにや、心細き次第と存じます・・・ 将来の世界というものは、こんにち一派の人々の考える如く各国孤立の国家主義におちつくのではなく、なんらかの意味において世界的協調ができなければおちつかないのでしょうか。こんにち各国の悩みは本当はそこにあるのではないかと思います。わが国の政治家たちもそういうところに着眼してもらいたいというように思います。

正義の主張  (43:4:25)

 青年の心を養うものは、正しい主張と、批判の声である。是を是とし非を非とする明解な論理ほど、青年の成長に必要なものはない。だから紛争とののしりあいだけがあって、明解な批判と決定のない社会には、健康な青年は育たない。育つ養分がないからである。

滝口     山本周五郎の作品より

 「まあ聞けよ」と益村はつづけた、「友人でも夫婦でもいい、心がぴったり合っているかと思うと、川の水が州にぶっかったように、なにかの拍子に、ふっと身も心もはなればなれになってしまう、それがいつかまた、州のうしろで水が合流するように、自然と双方からよりあい、愛情や信頼をとりもどすが、やがてまた次の州にぶっかって分かれ分かれになる・・・この川の州は十三しかないけれども、人間の一生には数えきれないほどの州がある」

あとのない仮名   山本周五郎の作品より (43:5:1)

 「おれのいちばんぞっとするのは、おめえがいま言ったような言葉だ」と源次は自分のいやな回想をふり払うように、首を振りながら言った、「・・・あんたのためなら死んでもいい、女はどいつもこいつも言うさ・・・おらあおめえの友達だ、おめえのことは忘れねえ、おめえのためならどんなことでもするぜ、って調子のいいときに言うのが男の癖だ、油っ紙に火のついたように、その時は熱くなって燃えるし、その熱さはこっちにも感じられる、けれども燃える火は消えるもんだ、ええくだらねねえ、またわかりきったことを言っちまった」

さぶ      (43:5:16)

 山本周五郎「さぶ」読了。小説は筋をよませるのではなく、人物をえがくものだと氏は説く。栄二の心象の変化とさぶの恒常性を読み取るのが中心になるように思われた。金と権力という力が社会のなかで公然とみとめられる世のなかに、やはり人を正しく見つめる人がいる、という見方は、他の作品とおなじ基本的態度である。

天地静大     山本周五郎

 郷臣(もとおみ)は続けた、「親同士がきめたにせよ、お互いが好きあったにせよ、男と女の関係は同じようなものだ、頭で考えると、美しい不滅の愛だとか恋などがあるように思えるが、現実にはそんなものはありはしない。・・・これは愛とか恋とかが頼みがたいと言うんじあない。・・・そういうものは人間感情のごく僅かな、一部分しか占めないということなんだ、男は生活を支えるために仕事をしなければならない。杉浦がこれから勉強しようとしている学問は、おそらく一生をかけても終わらないだろう。結婚すれば女だって同様だ、食事ごしらえ、掃除、縫いもの、洗濯、子供が生まれれば子供の世話、殆ど坐る暇もないようになってしまう。・・・「こういう考えかたはもちろん俗だ、わかりきったことだ、どんなに強い非難や困難を凌いでむすびついた恋でも、生活の些末な雑事が、たちまちそれをすり減らし、色褪せさせてしまう、わかりきったことだ」

 透は静かに郷臣を見た。

日記と随筆2へ