【月見草出版へ】

日記と随筆 3
若いときの足跡…No.1~4<29~47歳>の随想 : No.5~13<19~29歳>の日記です…


【日記と随筆 1 へ】 【日記と随筆 2 へ】 【日記と随筆 3 へ】 【日記と随筆 4 へ】

ここから青年時代の古い日記

【日記と随筆 5 へ】 【日記と随筆 6 へ】 【日記と随筆 7 へ】 【日記と随筆 8 へ】
【日記と随筆 9 へ】 【日記と随筆 10 へ】 【日記と随筆 11 へ】 【日記と随筆 12 へ】
【日記と随筆 13 へ】


        〔 1 浪合にて 12編 〕
        〔 2 秋夜 〕
        〔 3 愛とは 〕
        〔 4 How to live ? 〕

  1 浪合にて(10編)

窓辺から  (45:4:15)

  寂しさのきわみに耐えて天地に
         寄するいのちをつくづくと思ふ     左千夫

 学校の教室から、流れゆく小川に迫っている小さいいくつかの山の稜線、それにこの山あいに造られているダムにたたえられてた水面を眺めていると、左千夫がうたった詩が頭に浮かぶ。日本の山水のうつくしさは古来、人の情緒を温かく抱擁していることが偲ばれる。

 左千夫がなにを意味していたかわからないけれど、私は感傷的な意味あいのものてはなく、弱い人間が自然にむかい謙虚な心持ちで一歩さがって自然を賛美し、そしてそうしている自分をしみじみ感ずる、というように思う。人というものは思うように生活できない極めて弱いものであるから、それを自分で悟りその寂しさにじっと耐えて、天地自然の雄大さに自己を托して泰然として生きてゆくことができる自分を、自然がある故にそうできる自分の幸せをたたえていくことができよう。

 この詩には誇張も感じられないし、他にはたらきかけようという気持ちも感じられない。私がこのように受けとめたせいか、気持ちのよい詩である。

 浪合の山や川は私にそのような気持ちをすなおに投げかけてくれる。窓辺の感じをわすれるのが惜しく、しるす。

浪合の春   (45:5:6)

 家庭訪問は四月二十七、八日と三十日の三日間に行われたのであるが、蘭平へいく川沿いの唐松は下枝がすこし緑がかった萌え黄色をしており、梢にかけてだんだん冬枝そのままの風情とみられた。それは二十七日のことである。ところが、五月二日、翌日から連休になるので家へ帰るころに職員室の窓から見える打越洞左手一帯の唐松は、木全体がうっすらと緑がかった春らしいやわらかな色あいになってきた。それにおなじ洞の右手の雑木の山はだに二カ所、よく見るときれいな赤い花がみえた。「ああ、寒いといわれる浪合に春が訪れるのだなあ」とおもって眺めていた。校庭の桜は宮沢校長が言ってわかったのであるが、花の枝と葉の枝がべつべつにそれぞれの美を競っていた。下平教頭もその理由はわからないようすであった。

 今日はあれから三日たっただけであるのに、桜はどの木も満開になり、唐松は新緑に衣替えしてしまい、点々と遠慮がちに色どっていた赤い花が、実はつつじであったのであるが、ずっと数も増えいっせいにその存在を誇示するように咲きみだれており、瞬時に春になった姿に私はただ茫然とするばかりだった。ヨーロッパ、ことに北欧では春の花は五月になって一斉に咲きほこると書かれていたが、この浪合の春も花をみるかぎり北欧と同様、旬日のうちに木々は緑に、花は紅に姿をかえてしまう。

 四月のはじめ、この学校の校舎の日陰になる場所には、まだ残雪が氷になっていて、点々と残っているのを見、さすが寒いんだなあと思ったのである。そしてそのために、春の到来は家のほうと違って遅れることがはっきりわかったのだけれど、こうも一度に植物が春を謳歌するとは少しも想像しなかった。

長根山 蛇峠(4月26日)   (45:5:6)

 山歩きのてはじめとして村の南部村境を歩くことにした。朝、空いちめんに曇り、怪しい空模様であったが、予定どうり出発。始めての村めぐりであったので、山を仰ぎ川を俯し、洞や沢を眺め、御所平の地形をみたり、山支度でゆっくり歩いた。だから栂橋まで一時間かかった。庄九郎商店の主人に様子をきいたが、村境歩きのよい答えは得られなかったので、陣畑の最初の左手の小道を進むことにした。相当古い木馬道に沿って登りつめ、その終点から左の沢にコースをとり、なぎを這いあがって尾根へ出る。ところがこの尾根から長根山のコースが大変なものだった。一人歩きだったから不平も不満も耳にするはずもなく、ただ一歩一歩に身を托して登りつめていったが、栂橋から二時間ついやした。長根山で待望の飯にした。ちょうど十二時すこし前だった。昼食後空模様が悪くなり、恵那山方面の雲が乱れだしたので、急いで蛇峠山へ向かった。この稜線は八分どうり伐採してあって困ること皆無であったが、峠の下五百米あたりからまた未伐採地となり、ポロつく空を気にしながら山頂へ急いだ。山頂や長根山からの村内の景観は箱庭のようであり、一の萱の沢は正面から深くまで見え山村らしい風情というか、侘びしさを感じた。蛇峠山展望台を過ぎて雨はだんだん強く、治部坂食堂あたりでは本降りのように思われたが、舖装路を二の橋あたりまで下ってきた頃は雨もやみかけ、一の橋の家で大川入りの道やキャンプ地の様子を聞いて帰った。

 かくして浪合山歩きの第一歩は無事おわることが出来たのである。

栗代沢に入る       (四十五・五月上旬)

 放課後栗代沢に入る。林道の終点から川沿いに山道がずっと続く。官行造林の唐松が稜線のほうに見えるが、途中は造林はなく混淆林。わらびの時期で、ぜんまいらしいものがあり、ナップに入れて歩く。道をずっと追いつめ、稜線へ五分ほどで着くあたりから、えらい熊笹となりすこし気持ちがわるい。尾根の向こう側はすり鉢状の沢があり、左手の頂上への道はなく時間も遅くなったのでそこからひきかえしてきた。登り時間は八十分ほどの道程である。あとでわかったことであるが尾根の向こうは忍沢の上流であった。社会見学の日に引率したかったのだが不向き。

植林 三階峰       (四十五・五・十三)

 毎年のことらしいが蘭平長九郎洞地籍の植林をおこなう。生徒は山の子供で苦にならないのか良く働く。

 作業が終わり解散する。有志は三階峰へ連れていくつもりでいたが、校長の話から遠慮した。従って小島君を道案内にして登る。平栗の家でおよその説明を聞き、斜面のくの字みちを行き、後は尾根づたいに登る。小島君は身軽で足が達者なため、折々待っていてくれる。麓から30分で山頂に達した。道らしいものはあって不便はないが木の枝は払いのけなければならなかった。標高1464.4米、伊那谷がきれいに見え、殊に飯田が一足跳びでいけるように思われた。雨上がりに登ると見事だろう。

 帰りは、下で見た時見える稜線へ出る予定で頂上より右の方へ折れて下る。ところが、地図を持っていかなかったので間違え、急な山の斜面を木の間をぬいながら降りなければならなかった。これは暫くして気付いたのだが、予定の稜線は沢の右に見える稜線であり、谷を渡りその稜線へ出ることにした。これはまた、殆ど人が通らない稜線で小島君と木を分けながら道まで降りた。その後、林道の終わり本谷が見えるところまで歩き、戻ってきて架線を張ってある沢、濃間沢に入る。途中から左手の尾根へ登り、紅葉とヨウラクの群生を見て帰る。

恵比寿丘山へ登る   (四十五・五・十五)

 1、2年は社会見学の日、授業を早く始め4時間をおえてから、昼食を持って恵比寿岳(松下きよみの聞くところによる、地図には名前なし)へ登る。中之橋の手前から家の間を経て松林の道へ出る。20分くらいは木の下の道で、植林に使った道でそれほどよい道ではない。あと25分程で頂上に着く。喉はかわいたが休憩を取らず予備登山のつもりで登ったので、頂上の飯は格別であった。男子は平気であり、女子は2、3えらそうな程度であった。北側は木の為に殆ど眺望はきかない。金沢先生は多少えらそうであった。カメラはフィルムのつめ穴が破れており全部駄目になった。

農休中 実父母を万博へ  (四十五・五・二十五 −二十七)

 職員旅行は万博に決まっていた。修学旅行で万博を見、八月子供を連れていく予定だとすると三回になる。そこで奈良・京都を見てない実父母の希望で、奈良京都と万博見学が可能となった。往復とも自分の車を使い、京都だけは共済組合の大津「さざなみ」が利用できることとなり出発の運びとなった。

 車の旅は睡魔が最大の危険である。亀山と帰りの滋賀での休憩は、睡魔襲来の前兆を感じての紅茶とコーヒーを飲むためのものだった。車での旅は誠に快適で、時間に拘束されず、許すかぎり見学にあてることにした。見学地を記すと次のようである。

 153号線で豊田までいき、知立へでて一号線の流れにはいる。熱田から名四国道にはいり亀山で休み。阪名国道を天理市まで走り、吉野山まで行く。なかなか遠い。それを戻ってきて橿原神宮に参詣し、大和高田を経て法隆寺1時間20分くらい、郡山をとおって薬師寺、猿沢池で写真、興福寺は車上、県庁をみて南大門駐車場に着く。続いて南大門、東大寺、大鐘楼、二月堂、三月堂、手向山八幡宮、をみて駐車場、駐車場から若草山を通って、宿舎、鹿野園に着いて第1日の行程をおわる。

 第2日、宿をでて春日大社参拝。一路阪名有料道路を走って万博会場。万博ではドイツ、オーストラリア、ニュージーランド、松下館、シンガボール、セイロン、イラン、イラク、パキスタン、インド、太陽の塔などを見て駐車場。名神高速道で大津へ。石山寺を見ようとしたが時間のため駄目。ひきかえして「さざなみ荘」へ1泊。

 第3日、琵琶湖大橋、浮御堂、奥比叡ドライブウエイを走って四明岳、ここは視界きかず駄目、京都へ降りて、銀閣、平安神宮、二条城の前を通って嵐山へ行き昼食、御所前から河原町通りを下って三十三間堂、続いて清水寺、ここから山科へ出て、京都東インターチェンジから高速道路に入って小牧まで、瀬戸へでて19号線で木曽路へ入り清内路峠を通って帰宅した。

 実父母をこうして案内できたのは、子供として誠にうれしかった。

町大川入山、登山の下見  (四十五・六・二十八)

 人員は結局校長、篠原、佐々木(局)、小生の4名で二の又八時半出発。途中、木馬道の橋がおちて小生左足首負傷というおもいがけぬことになり、川沿いに鞍部をめざして進む。鞍部到着11時半で3時間かける。頂上からは西方の山脈を、浪合の川沿いの姿、遠く伊那谷を、運よく晴れた空の下眺めることができた。帰りは治部坂へ道をとったが、遊歩道というだけあって、歩行には支障のない道であった。鞍部から後、5キロある。途中、校長は瀕りにヨウラクツツジを採集してきた。道を修理することと、キャンプ地の決定が課題であった。

恩田大川人登山下見      (四十五・七月)

 松沢と下平2人で実施、降雨とガスで道に迷い思わざる結果におわった。蘭平の登り始めてから頂上まて約5時間はかかるし、町大川入まで更に2時間はかかると思われるので、三年生引率は無理であると判断した。下見の経過については省略するが、遭難という言葉には閉口である。遭難という非常事態をひきおこしたのは事実であるから甘受しなければならないが、それがために、今後の行動に制約を受けやすい。それは、アララギキャンプにおける三階峰登りが不許可になったことでもわかる。苦楽は隣合わせであるのに誠に残念におもう。

秋が来た      (四十五・八・十七)

 浪合の秋は早い。夏休みが終わって住宅へ来てみると、もう芒が穂を出しており、朝夕はずいぶん冷気が漂う。飯田方面とくらべてみると大変なちがいである。蟋蟀も余りなかず静かなものである。

 学校は教育理論が横行し、面白く暮らしている先生の数は殆どないのではなかろうか。口では何の意味もなさない。秋が足元にきたのに教師は余り変わりばえもないし変わりようもなさそうだ。

〇     (四十六・四・八)

 今朝修学旅行隊が出発した。長い間、書きものの意欲をなくしていたが、また書き始めようとおもう。昨年と変わって校舎の裏には雪が残らず、とても今年は暖かくて、下町の水道凍結も3月上旬で終わった。去年は4月中旬まで水がなかったので、学校から水を持っていって炊事をしていたものだった。

 矢越、対山荘の住人も今年になってかわった。高橋先生が下条へ、片桐先生が鼎へそれぞれ転勤していった。それに下町住宅の管理のこともあって、岩崎先生が移っていった。年がかわると住む人がかわる。今年は、山本、篠原、小林の三先生が入ってこられた。去年から引き続いているのは、亀割、金田、下平の三人である。

 浪合へきて一年たった。校長、管理者の責任が大変であることが、平坦部の学校では気付かぬ面でよくわかった。家を離れ、家族と離れて赴任している先生方も、考えてみれば普通の人間であって、人の弱さ、変わっていることなど、だんだんと浮かぶものであることがわかった。教育という仕事に当たっているものだから、単に生活内容だけで、どうこう言えないだろうけど、人の姿のうち、外観的なものが自分でも気付かぬほど強いということがわかってくる。

〇     (四十六・六・十)

 やはりペンを持つことが億劫になってきている。自分の考えがやはり整理できないからだと思われる。去りゆく過去と来るべき人生の結果を思うとき、何が生き甲斐なのか、そんな若者が考える内容に魅力もなくなったから、空虚になるんだろう。

2 秋夜

秋夜     (四十七・十・三十)

 今夜俄に秋雨あり。しかも雷鳴一徹、夜のしじまを乱す。自然の相、千変万化なること銘するに足る。世情の変態、人情の変容、論を俟たず。

 秋夜独り思う、真なる言葉を。人は独立すべし、人をして我が意に故意を以って添わしむ勿れ。人は人の為になりてこそ、人の真価もあり、人の格調も、ともに高め得るもの。知に溺るる勿れ、知を誇ること勿れ。角をたつばかりのものに非ず、人をして士気を損なうもの多し。知は人が愛すべきもの、知は人の為に役立てる為のもの、知そのものの姿は人の意志によりて左右され、その人の便に供さるべきものに非ず。真なるものへ、共に近づくものとして、第一に価値あるものなり。

 まして知の多少を誇るが如き、己の知が万人に知らしむる価値ありと存念して論じ去るが如き、いまわしく、わずらわしきものになするは、本旨に反する。知ありて童の戯れる如く仲睦まじき相の仲に、互いに知恵の尊厳を体得して、自らを高め得べきものなり。

 人それぞれ長短ありと言う。知に対する思唯も、軌を一に為さんとするは無謀。人はそれぞれの器にて果つべきものなり。それは、地位、身分、財産、性別など、複数社会に於ても、本旨を誤つべきものに非ず。村を論じ、人を論じ、政治を論ずるに於て、それらを唾棄するに至るは、その矛盾も甚だしきものと所存すべし。己の糞尿をして睡棄したるとも、何の益かある。己も糞尿も、共に表裏一体なりとの存念なくば、何の知ぞ残らむ。

 知は人が楽しくある為のもの、本旨なり。人の長短、ここに相補い得るものなり。相補いて楽しきものなり。己の知によりて人を苦境に追いやること勿れ。知によりて往生を果たし得るものに非ざればなり。人は楽しみて往生するを以って最上と為せ。

3 愛とは

愛とは    (四+七・十二・一)

 得ることであり失うことてある。それは同時性のものである。愛とは、すべてを愛することである。そして自己と連れ立って消滅するものである。それは目に見えるものではないが、見抜くことのできるものである。

 男女の愛は本然のもの、本能に基づくものである。そしてそこから人間は、愛をすべてのものに広げ、すべてを愛し、すべてを大切にすることが出来る力をもっている。人に強要すべきものでもなく、強要されるものでもない。自らわかり、育てていくものである。寂しいものであるといえば、これほど寂しいものはない。楽しいものであるといえば、これほど楽しいものはない。それは目に見えるものでなく、己自身の意識の相というほかに表現できるものではない。

 年齢によって、或いは人によって、それは千差万別のものである。そして、つねに己自身の中にあるとも言えないものである。

4 How to live?

 How to live

   単純で、率直で、自然な思考をもとにして考えること。
   或いは、誰にもわかる考え方をもとにすること。

○生死の中では、楽しくあること、それが願いである。そのように生きることが人の最高のものである。

○それは自由と言ってもいいかもしれない。誰しも自由に生きたいと願うし、真に自由に生き抜くことも可能である。

○歌いたい時に歌い、笑いたい時に笑う。音楽を聞きたい時に音楽を聞き、運動をしたい時に運動をする。旅行をする。ズームのビデオをとって再現する。好きなものを作る。それは、自由であり、楽しいといえる。

○しかし、自分を中心とした自由の発想であるため、自己以外の人の自由からいえば、それは迷惑であり邪魔ですらあることが多い。

○ロビンソンクルーソーのようであれば、どう生きようとかまわないのだが、私たちの生活はそうはいかないので困るのである。

○Aの自由とBの自由の限界というか接点は、どこにあるのか知ることが必要であり、それにはA・Bの利害が相反する面を知ることが必要となる。そしてそれはとりもなおさず、Aという一人の人間の知・情・意などの相を知ることが必要となる。

○人とは本来、あらゆる性格をもち、どのようにでもなる可能性を持っている。それは善・悪・美・醜、いずれにおいても、その実現の可能性を持っている。言い換えれば、世界のあらゆる現象を作り出す可能性を一人ひとりが持っているということである。

○一人ひとりが持ち合わせているもの

・喜怒哀楽という情緒、感受性(因果として現れる)、これは人以外の動物も持ち合わせている。山羊、犬、馬など
・本能性 食、性、防御。生き長らえるためのもの
・健康になろうとする
・好奇心をもっている
・所有欲が強い  漱石は金と女と名誉をあげた
・人には愛憎が生ずる
・優劣を競う心が内在する。体・知・金・姿・心などの優越感
・自分の考えに固執したい気持ちを持っている(自己本位)
・人は能弁であろうとなかろうと、その話し方、目の動き、筋肉の動き、動作、音声の様子、などによって、その人となりを鋭くキャッチする力を備えている。
・一緒にいても、気づまりでない人、邪魔にならない人、は良い人である。
・汗を流した後は、気持ちの良いものである。
・男は男が惚れるような男でないと、女が惚れてもつまらない男でしかない。
・女は同様に、女が惚れるような女でないと、男が惚れても、つまらない女でしかない。
・愛ほど楽しいものはなく、愛ほど苦しいものはない。
・老病死以外、苦しいことは如何なるものであろうが、楽しいものである。
・ほらをふいたり、いばったりするほど、はたから見ると迷惑なことはない。
・人は優劣、上下、貧富、強弱、などの違いに対して、潜在的に対立感情を抱きやすい。
・一般的に苦しいことを回避したい心を持っている。
・他人のことはわからないし、知ろうとしない気持ちがある。
・自分の生命を大事にする気持ちがある。
・好きだという気持ちは、人をして、何ものにもかえられないまでの気持ちにさせ得る。
・威張る人を敬遠する本性をもっている。
・理性より感情を大切にする(生きる基本の姿)。理論が正当であろうが、その経過の中やその主張の仕方の根底に、人の醜が見える時は、感情的になじめないものである。
・思ったことを口に出し理屈は言うけれども実行ということは出来ない、ということがわかってくるものである。
・親切な人、温かい人、正しい人、清らかな人、やましい人、見苦しい人、それは言葉で感受するよりも、生活全体で感受するものである。
・人はいくら子どもであっても、その人の人柄はどうであるか、例えしばしの間でも、それを見抜く力を持っている。
・経済的に豊かであっても、幸福は同居するものではない。
・経済的に豊かであると、貧しい人の生きる姿が理解できず、その人を傷つけ易いし、その人への協力もできない。
・知識にたいしては、素直に再生することを念頭におくべきである。
・一瞬一瞬は、そのことにのみ打ち込むことがよい。
   指ふるることのみばかり思えただ
       帰らぬむかし 知らぬゆくすえ
・人生においては、働かざる者は食うべからず、という原則をわきまえること肝要。働くということはいろいろの姿があるが、むやみに多くの収入を望むのは不当になり、幸福は約束されない。
・一茶も言うとおり『おおぼたん 貧乏村と 侮るな』の如く、金ばかりをこの世の大事なものと考え、言動起居するのは不幸につながる。
・うそ、でたらめ、ほらふき、は言った本人が自分自身をみじめにしていることをよく知っているものである。だから、生きることに自信がなく、どこかびくびくしたものが身についてしまう。
・人の指導は、言葉ではできるものではなく、結局は、その生活行動しかない。

○人はそれぞれ、その内面において文学性を持つものである。そしてその文学性は、過去において如何に立派な思想・発想をもち、そのために祝福されたにしても、現在の生活が人から非難されるようであれば、その文学の内容は塵、埃、芥に等いものになる。過去に罪業を重ね、現在如何に優れた思想・発想を築きあげようと、過去を拭い去ることは出来ないものである。

 文学とは、人の心の遍歴なり表現なりをいうものである。普通の意味では、文学よりも、自然そのもののほうが優れている、と言えるのではないか。

○人は弱いものであるといえるならば、信ずるものほど強いものはない。

○人の考え方は、三次元の世界とか四次元の世界とかいう、一通りの規矩に合ったものではなく、言い換えれば、そんな合理的な直線的なものではなく、もっと立体的で創造性に満ちた神秘な分野を持ち合わせていることを、互いにわかり合うことが大切である。

○人の楽しみを生み出す、というより、人の楽しみを楽しまない限り、己自身の楽しみはあり得ない。もしそうでないとすれば、それは勝手な発想・根底を持っていたというほかはない。

日記と随筆3へ