福永武彦の小説「忘却の河」(新潮文庫)を書店で見つけ、買ってきて読みました。この本は、その約30年前、私が学生だった頃に読みました。友人から「おもしろい小説はないだろうか?」と問われたときに、「忘却の河」と答えたことがあるのを記憶しています。
ところが、読み始めてみて、ストーリーを完全に忘れていることに気づきました。最初の部分は全く記憶にありません。それこそ「忘却」の彼方です。こんな内容だっただろうかとびっくりするくらいですから、なんとも情けないものです。ただ、読み進めるうちに、賽の河原の描写であるとか、微かにではあるけれど記憶の底に残っていた部分もあったので、少し安心しました。
読んでいるうちに福永武彦の書き方の特徴を思い出しました。何の説明もなく時点が飛ぶのです。昨日のことを書いていたかと思うと、次の部分では急に数十年前を回想する内容になっていたりします。そのような時点の変化について何の説明もありませんから、初めて福永武彦の小説を読む人はとまどうかもしれません。しかし、そういう書き方をする作家だということがわかれば、ちゃんと理解できるように書かれています。人間が過去のことを回想するときには必ずしも古いことから新しい方向に順番に思い出すわけではないので、小説でもそのような書き方があっていいのでしょう。そのような書き方であっても読む側がストーリーをきちんと追うことができて、しかも面白く書くのは、とても難しいことだろうと思います。
「忘却の河」を再び読んでみて、とても暗くて重い内容だったことに改めて驚きました。迂闊に他人に勧められるような小説ではありません(学生時代には何も考えずに友人に勧めたわけですが・・・)。人によっては気が滅入るでしょうし、途中で読むのをやめたくなることもあるかもしれません。それぞれの登場人物について、なかなか出口がないように感じられるのです。登場人物の一人が舞台で演じるのは、サルトルの「出口なし」であり、この小説を象徴しているかのようです。ただし、小説の結末においては、ようやく出口が見えるように状況が改善されています。それが救いでした。
その後、もっと懐かしい本を古本屋でみつけました。本棚の一番上に置かれているのをみつけたとき、これは絶対に買わなくてはならないと思いました。今からちょうど30年前、大学の卒業式を終えてから買い、就職のために東京に来るまでの間に読んだ本なのです。もう絶版になっているようで、普通の書店には置いていません。その本は、福永武彦の「死の島」。上下2巻に分かれ、紙の箱に入っています。それ以前に購入した教科書以外の本の中では最も高価だったように記憶しています。貧乏学生だった私にとっては卒業記念の海外旅行など考えられませんでしたので、それがささやかな贅沢でした。
この本を古本屋で買ってはきたものの、まだ読んでいません。上下2巻の長い小説ですし、暗くて重いストーリーですから、あわただしい毎日を送っていると読む気になれません。もっと仕事が楽になって余裕ができてから、ゆっくりと、そして昔を思い出しながら読みたいと思っています。そのときが来るのを楽しみにしています。
もう一冊、約30年ぶりに読んだ本があります。夏目漱石の「草枕」です。なぜ再び読んだか、それはグレン・グールドと関係があります。
グレン・グールドはカナダ人のピアニストで、1982年に50歳で亡くなりました。彼は20代で既に世界的に有名なピアニストでしたが、31歳からはコンサートでは一切演奏せず、レコードやCDを発売するのみとなりました。ひとことで言えば「変人」なのです。グレン・グールドについてはWEB上で検索すればたくさんの情報が得られるでしょうから簡単に書きますが、とても自由な演奏スタイルが特徴的です。演奏中に鼻歌を歌うこともあり、彼の声がはっきりと録音されているCDもあります。
モーツァルトのピアノソナタ全集を聴くと、普通よりも速く演奏している曲が多いのに、なぜかトルコ行進曲を含むK331は、とてもゆっくりと弾いているのです。グレン・グールドの弾くトルコ行進曲を初めて聴いたときはとても驚きました。テンポがゆっくりとしているだけではなく、丁寧な演奏であり、ひとつひとつの音に神経が行き届いた素晴らしい演奏になっています。この演奏を聴いて、こんなのはトルコ行進曲ではないと思うか、こんな弾き方もいいぞと思うかが、グレン・グールドを好きになるかどうかの分かれ目なのだろうと思います。彼が好んで弾いたのはバッハでした。モーツァルトは好きではなかったというのが定説になっているようですし、ショパンはあまり弾かなかったそうです。
話を草枕に戻しましょう。グレン・グールドの愛読書が草枕だったのです。当然のことながら彼が読んでいたのは英訳本ですが、日本語の本も持っていたそうです。ラジオ番組でグレン・グールド自身が草枕の一説を朗読したこともあったとのことです。そんなことを知って、草枕をもう一度読んでみようかと思ったのです。約30年ぶりに読んでみて、ほとんど忘れてしまっていることに気づくことになりました。さすがに有名な冒頭部分
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
は覚えていましたが、その後はほとんど記憶にありませんでした。がっかりです。
主人公は画家であり、絵画論がこの小説のテーマのひとつとなっています。それが音楽にも通じるところがあったので、グレン・グールドが愛読していたのだろうと思います。夏目漱石とグレン・グールド、妙な取り合わせのようにも感じます。共通点は、常人離れしているところぐらいでしょうか?