写真とクラシック音楽などなど・・・

鶏と卵について



1.はじめに

 今回は「鶏と卵」、つまり「鶏が先か卵が先か?」を取り上げ、この問題を解決します。しっかりと読んでください。

 「鶏と卵」は、どちらが先かわからないことの喩えとしてよく使われます。また、ある二つのことの因果関係を考えてみて、どちらが原因でどちらが結果なのかを決められず、どちらも原因であり結果でもあるようなことの喩えとしても使われます。実際のところ、鶏と卵のどちらが先でどちらが後か、どちらが原因でどちらが結果かなのかは難しくてよくわからないので、直感的に理解しやすい便利な比喩です。鶏がいなければ卵は産まれず、卵がなければ鶏には育ちません。生物の進化において、どこからが鶏なのか、どこからが鶏の卵なのか、どこかに明確に線を引くことができるのか・・・とても難しそうです。

 しかし、論理的に考えれば、鶏と卵のどちらが先かを正しく決めることができます。その大事なポイントは、「鶏の卵」をどのように定義するかです。


2.「鶏の卵」の定義

 「鶏の卵」といっても、その意味がひとつに限られるわけではありません。「鶏の卵」の定義として、次の二通りが考えられます。

定義A 鶏が産んだ卵が「鶏の卵」である。

定義B 孵化して成長したら鶏になる卵が「鶏の卵」である。

 定義Aでも定義Bでも同じだと思うかもしれません。現実的には、鶏が産んだ卵は成長したら鶏になるのですから、AでもありBでもあります。AでもあってBでもあるのだから、これを区別する必要はないと思われるかもしれません。しかし、この問題を考えるにあたっては、AとBを区別することが大事なのです。

 定義Aであれば、鶏が存在しなければ鶏の卵は産まれません。仮に、進化的には鶏の一歩手前の鶏ではない生物がいて、その生物が生んだ卵が鶏になったとしても、この定義Aによれば、それは鶏の卵であるとは言えません。しかし、鶏が産んだ卵は必ず鶏の卵です。つまり、この定義Aを採用した場合、鶏の前に鶏の卵が存在するとは限らず、鶏の卵の前には必ず鶏がいるので、鶏が先です。

 一方、定義Bであれば、まず鶏の卵が先にあります。仮に、進化的には鶏の一歩手前の鶏ではない生物がいて、その生物が生んだ卵が鶏になった場合、この定義Bによれば、それは鶏の卵です。鶏が産まなくても鶏の卵である場合があるのです。つまり、この定義Bを採用した場合、鶏の前には必ず鶏の卵が存在しますが、鶏の卵の前に鶏がいるとは限らないので、卵が先になるのです。

 結論は次のとおりです。

 鶏が産んだ卵が「鶏の卵」である(定義A)とするなら、鶏が先。

 孵化して成長したら鶏になる卵が「鶏の卵」である(定義B)とするなら、卵が先。


 このように、「鶏の卵」の定義を決めることによって、この問題は解決します。

 しかし、これで終わるのではなく、「鶏の卵」について別の定義を考えてみましょう。

定義C 鶏が産んだ卵であって、かつ、孵化して成長したら鶏になる卵が「鶏の卵」である。

 この場合は、鶏が生むことが必須の条件ですから、鶏が先です。仮に、進化的には鶏の一歩手前の鶏ではない生物がいて、その生物が生んだ卵が鶏になった場合であっても、この定義Cでは、それは鶏の卵とは言えません。しかし、鶏が産めば、その卵は孵化して鶏になりますので、鶏の卵です(未来においては、鶏がさらに進化して鶏の卵から鶏ではない生物が孵化する可能性がありますが、既に世の中に鶏が存在しているのですから、ここでは鶏が初めて登場したであろう過去のことを議論しています。)。よって、定義Aの場合と同様に、鶏が先となります。


 最後に、もう一つ別の定義を考えましょう。

定義D 鶏が産んだ卵も、孵化して成長したら鶏になる卵も、両方とも「鶏の卵」である。

 この定義Dが普通の感覚に近いかもしれず、ちょっと難しくなりますが、よく考えればわかります。仮に、進化的には鶏の一歩手前の鶏ではない生物がいて、その生物が生んだ卵が鶏になった場合、この定義Dによれば、それは鶏の卵です。しかし、この場合、鶏の卵を産んだ生物は鶏ではなかったという仮定でした。ですから、定義Bと同様に、鶏の前には必ず鶏の卵が存在しますが、鶏の卵の前に鶏がいるとは限らないので、卵が先になります。


3.「鶏」の定義

 ここまでに書いたように、「鶏の卵」の定義によってどちらが先なのか答が決まるのですが、「鶏」の定義によって答が変わるのではないか・・・との疑問を持つ人がいるかもしれません。だんだんと頭が痛くなってきましたが、もう少し考えてみましょう。

 上には、「仮に、進化的には鶏の一歩手前の鶏ではない生物がいて、その生物が生んだ卵が鶏になった場合」と何度か書きましたが、鶏なのか、それとも鶏の一歩手前の鶏ではない生物なのか、この両者をどのように見分ければよいかということが大きな問題となるように思われます。確かに実際にはどこからが鶏なのかを決めるのは難しそうですが、これはどこかで決めるしかないものです。また、どこから鶏なのかを決めてしまえば、上に書いたことは成り立ちますので、論理的には問題ありません。


 次に、「鶏の卵」の側から考えて「鶏」を定義してみるとどうなるでしょうか? 

定義E 鶏の卵を産むのが「鶏」である。

定義F 鶏の卵が孵化して成長した生物が「鶏」である。

 このような定義を書いてみましたが、いずれの定義も、「鶏の卵」の中に既に「鶏」が含まれているので、「鶏の卵」を使って「鶏」を定義することには無理があります。

 定義Eの場合、その卵が鶏の卵なのか否かをどう判断するのでしょうか? 産んだ卵が鶏の卵であるかどうかは、孵化して成長した生物が鶏であるか否かを確認するしかなく、その生物が鶏であるか否かを確認するためにはその生物が鶏の卵を産むかどうかを確認しなければならず、その卵を確認するためには・・・と、どこまでも続いてしまいます。

 定義Fの場合も、その卵が鶏の卵であったのかどうかは、その卵を産んだ生物が鶏であったのかどうかを確認するしかなく、その生物を確認するためにはその生物になる前の卵が鶏の卵であったのかどうかを確認しなければならず・・・と、どこまでも遡らなくてはならなくなってしまいます。

 結局、「鶏の卵」から「鶏」を定義するのではなく、「鶏」から「鶏の卵」を定義する方が適切なのです。


4.最後に

 「鶏と卵」のどちらが先なのかが解決したとしても、これによって喩えようとした事柄については、なんの解決にもなっていないことに気がつきます。むしろ、どちらが先かわからないことについて、これからはどのように喩えればよいのかわからなくなってしまい、かえって途方に暮れてしまうことでしょう。鶏が使えないからといって「ダチョウが先か卵が先か?」とか、「アオウミガメが先か卵が先か?」とか、「ステゴザウルスが先か卵が先か?」などと喩えてみたところで、結局は鶏の場合と同じように定義を決めることでどちらが先かを決めることができてしまいます。比喩にならないのです。

 つまり、「鶏と卵」は、解決する必要がない問題であり、解決が望まれてもいないどころか、解決しない方が世の中のためとすら考えられます。答を見つけたとしても思慮深い人は黙っているのでしょう。いろいろと考えながらここまで書いて私も黙っているべきだったのかもしれないと思うに至ったのですが、誠に残念ながら、そのことに気がつくのが遅すぎました。お許しください。