写真とクラシック音楽などなど・・・

種々の言葉

2001年12月15日UP


 「種々の言葉」は必ずしも私の思想を伝えるものではありません。ただ私の無責任な思いつきをときどき窺わせるのに過ぎないものです。


たけや〜 さおだけ〜

 おなじみの竹竿売りの声です。この「さおだけ〜」というのは、竹竿(たけざお)のことであって、それ以上の意味はないと思っていました。しかし、よく考えるとどうも違うようです。
 そのポイントは、なぜ「たけざお」ではなくて、「さおだけ」なのかというところにあります。まず前半の「たけや〜」で、自分は竹屋であることを宣言しています。つまり、竹を使った商品を売っていることを説明しているわけです。しかし、小さな車で売り歩いているので、いろいろな種類の商品を車に乗せることはできません。売っている商品は、ただ一種類、すなわち「さお」だけなのです。
 ですから、あの売り声は、
「毎度おなじみの竹屋ですが、売っているのは『さお』だけです。そのほかの商品は一切取り扱っていませんので、あしからず。」
という説明をコンパクトに縮めたものなのです。あんなに短くしても必要な説明はしっかりとできているのですから、その短縮方法の見事さに感銘を覚えます。
 見方を変えれば、自分にとって不利なことをそんなに丁寧に説明しなくても良いのではないかとも思います。消費者を大事に思う心と自分が売っているものに責任を持つその態度はまことに立派であると言うことができるのではないでしょうか。

 

ヌクレオチド(nucleotide)

 細胞に含まれる核酸(DNAやRNA)を構成するもの。高校生の頃、私はこの言葉を聞いて生物という科目との相性の悪さを感じ、嫌いになりました。その理由は、
発音したときの響きが汚いから です。
初めて聴いたときに我が耳を疑いました。まだ感受性が鋭かったあの頃の私には耐えられなかったのです。こんな言葉を平気で使っている学者達の感覚を疑わざるを得ませんでした。ミトコンドリアでさえ、これに比べればまだ許せると思います。
 こんなしょうもないことから生物が嫌いになり、大学受験では物理と化学を選ばざるを得なかったのです。そのため、物理では光の屈折を学びながらも自分の性格が屈折しないように注意しなければならず、化学では「すいへーりーべ ぼくのふね」とか「あてにするなひどすぎる借金」という訳のわからない言葉を覚えなくてはなりませんでした。しかし、それでも生物のヌクレオチドに比べれば罪が軽かったと言えます。
 今となっては、「ヌクレオチド」と聞いても、自分で発音してみても、それほどの嫌悪感はありません。歳をとるにつれて人は鈍感になるのだなあと、つくづく思います。

 

ミトコンドリア(mitochondria)

 ヌクレオチドに比べればまだ許せるミトコンドリアですが、この命名には深い意味があるようです。この名を付けたのは、絶対に関西人です。なぜなら、「ミトコンドリア」は二つの部分に分けることができ、接頭語の「ミトコ」と本体部分である「オンドリャー!」から構成されているからです。
 なお、接頭語の意味するところは未だに解明されていません。そして、何に怒りを感じ、なぜ怒りがおさまらないままに命名したのかも不明です。よっぽど気が短い人だったに違いありません。

 

就中(なかんずく)

 これはとても読みにくい字です。その意味は、"とりわけ"とか"特に"とかいうようなものです。私の妻が日常会話でこの言葉を使ったので、それはおかしいと指摘したら、妻は言いました。
 「あなたが使う『おしなべて』よりは、ましだと思う。」
 私は心の中で思いました。
 「読みにくい漢字に比べれば、ひらがなの方が良いのではないか。」

 

やぶさかではない

 「○○することもやぶさかではない。」などと使います。「○○しても良い。」という意味ですが、もって回ったような表現を使うのはなぜでしょうか? それは、本当は○○したくないのだけれど、それを言ってしまうと袋叩きにあうので、○○するしかないと考えているからです。そして、その気持ちを決して隠しているわけではなく、むしろ相手に分かってもらいたいからこの言葉を使っていると思われます。
 ですから、この言葉を聞いたら、使った人の気持ちを察してあげつつ、丁寧にお願いするのが大人の態度というものです。決して喜びを露骨に顔に出したりしてはいけません。
 このような言葉ですので、人が嫌がることを無理に押しつけるのが趣味だという人に対しては使わない方が賢明です。格好の餌食になりかねません。

 

格好の餌食(かっこうのえじき)

 次は「格好の餌食」です。この言葉は、鳥のカッコウから来ているに違いありません。そう、「格好」はカッコウの当て字です。
 カッコウは、ヨシキリやモズなど、他種の鳥の巣に自分の卵を生んで育ててもらうことが知られています。これを託卵(たくらん)と言います。いかにも悪いことをたくらんでいるような印象を受ける言葉ですね。子供の頃にこのことを知り、自分よりもずっと大きくなったカッコウの雛に餌をやっている親鳥の写真を見たときは、ショックを受けました。なにもそこまでやらなくても・・・と思ったのです。親鳥の無心さに心を打たれました。
 そのような行動の善悪はさておき、油断しているとカッコウに狙われて卵を産み付けられてしまうところから、「カッコウの餌食」という言葉ができたと考えられるのです。
 同じような意味の言葉として、「ホトトギスのご馳走」や「ツツドリのおやつ」もあります。託卵をするのはカッコウだけではありませんので、カッコウだけに気を取られていると、他の鳥にやられてしまいます。いつも注意を怠ってはなりません。例えば、百人一首には次の歌があります。
 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
  (後徳大寺左大臣)
 これは、ホトトギスが近くにいるので油断せずに起きていたら、いつの間にか白々と夜が明けてしまい、空を見れば有明の月が出ているではないかという意味です。昔の人はいかに用心深かったか、歌はそんなことまで後世に伝えてくれるのですね。

 

自走式駐車場(じそうしきちゅうしゃじょう)

 私は車を持っていないのでどうでも良いことなのですが、マンションの駐車場が「自走式」なのだそうです。これを聞いたときは驚きました。駐車場が自分で走るのですから、世の中、便利になったものです。どこへ行っても駐車場が走ってついてくれば、都心の駐車場不足が解消されることでしょう。
 ただし課題もあります。駐車場が走れるくらいの広い道路を整備しなくてはなりません。まだまだ公共事業の必要性が残されているようです。そして、そのような道路が整備されれば、そもそも駐車場に乗れば良いのであって車は不要になるのではないかとも考えられます。自動車産業にとってもつらい時代が訪れているようです。

 

自転車(じてんしゃ)

 自動車が自分で走るのは当然として、自分で走る自走式の駐車場さえ登場しているというのに、「自転車」は自分で転がるわけではなく、乗る人が一生懸命こがなくてはなりません。つまり、自動車の場合の「自」は自動車そのものであるのに対して、自転車の場合の「自」は乗る人のことを指しています。同じ「自」という漢字を使っていながら、その意味は全く違っているのです。
 「自転」という言葉について考えてみても、地球の自転は、地球が自分で回転しているのであって、地球に乗っている人が地球を回転させているわけではありません。アルキメデスに棒と支点・・・いや、大きな歯車を与えたら地球を回してくれるかもしれませんが、アルキメデスは既に過去の人であって、あんなに偉大な人が今後現れることはないでしょう。
 というような考えなくても良いことを考えてしまうと、自分で自転しているわけではないのに「自転車」という名称はいかがなものかと思うわけです。むしろ、人力車のほうがぴったりきます。既に違う意味の人力車があるから困るというのなら、「人転車」ではどうでしょうか?

 

いかがなものか

 昔々、タコがライバルと張り合って「イカがなんぼのものか!」と言ったそうで、これが縮まってできた言葉だというのは未だ定説にはなっていません。
 それはともかく、「どうしたものか?」はハムレット的に自分で悩んでいるだけなのですが、「いかがなものか」の場合は「あなたはどう思うのか?」と問いかけています。自分の考えや立場を明らかにしないままに相手の考え方を問うこともできるのですから、とても便利な言葉です。
 ただし、発音がはっきりしないと、「伊賀の者か?」と聞きまちがえられ、「拙者は忍びの者ではござらぬ!」と開き直られてしまいます。それではせっかくの便利な言葉も効果がありません。気をつけましょう。