写真とクラシック音楽などなど・・・

絶体絶命

2001年8月11日UP



 夏にしては涼しく感じた朝のことでした。いつものように出勤のために小田急線に乗りました。今になって思い起こせば、乗る前からわずかな異常を感じていたのでした。しかし、そのようなことはたまにあるので、勤務先に到着するまで我慢すればよいと思い、そのまま乗ったのでした。これが第一の間違いでした。

 私の乗った急行電車が成城学園前駅に止まったとき、急にお腹が痛くなり、トイレに行きたくなりました。私は迷いました。ここで電車を降りるべきか、乗り続けるべきか・・・。しかし、ばつが悪いことに、もう電車に乗り込む人が乗り終わった後でした。まだドアが開いてましたが、「満員の乗客をかき分けて行っても、降りる直前にドアが閉まるかもしれない・・・。」と躊躇してしまいました。もしもすぐに降りていれば間に合っていたのに、あのときの一瞬の判断の迷いが命取りだったのです。これが第二の、そして決定的な間違いでした。その日は絶対に遅刻してはならないような朝の用事はありませんでした。少しくらい遅れても問題はなかったのに・・・。

 急行電車は、この成城学園前駅から6つの駅を通過し、下北沢駅まで止まりません。しかも朝のラッシュアワーではのろのろ運転になり、10分くらい止まらないのです。あろうことか、そこは私が乗る区間の中では最も長いのです。なんというタイミングの悪さ・・・。私は不安を感じました。そして電車が成城学園前駅を発車した直後、不安は現実のものになったのでした。

 なんと、痛みがどんどん強くなるではありませんか。あのとき電車を降りていれば・・・。と後悔したものの、もうダメです。約10分間も耐えなければならないのです。似たようなことは過去に全くなかったわけではありません。それにもかかわらずこんなことを書いたのは、私の今までの経験をはるかに超えていたからなのです。

 お腹の痛みは治まるどころか、ますます強烈になってきました。通過する6つ駅のうち、3つ目の駅までは覚えています。しかし、3つ目の駅を通り過ぎてから、私はもう外を見ていることもできなくなりました。立っている足に力が入らなくなり、吊革を握りしめる右腕だけが頼りでした。うつむいて我慢していると、脂汗がだらだらと流れるのを感じ、喉が乾いてからからになりました。

 そうこうしているうちに、なんと視覚がおかしくなりました。すべての物が霞んで、みょうに明るく見えるのです。今から思い出してみると、プラスに補正しすぎて明るいところが飛んでしまった写真のようでした。色彩も乏しかったのです。これはカメラの絞りに当たる眼の瞳孔の働きが不完全になったせいではないかと思います。自律神経がおかしくなっていたのかもしれません。

 そしてついに意識が朦朧としてきました。「意識を失うときはこんな感じなのかな? 次に意識が戻ったときは病院のベッドの上かもしれない・・・・・・」などと、そんな状態にもかかわらず馬鹿なことを考えていたのを覚えています。

 そんな状態で息も絶え絶えになり、意識が遠のきそうになったそのとき、「下北沢です。下北沢に着きます。」と聞こえました。心から待ち望んでいた車内アナウンスでした。これを聞いて我に帰り、なんとか助かりそうだという希望がわいてきました。しかし、決して油断はできません。朝の小田急線は電車が混み合っているために、のろのろ運転が常なのです。駅の手前で一時停止してしまうことも珍しくありません。私は一刻も早く到着することをひたすら願いつつ、ドアの方向によろよろと歩いて近づきました。

 ほどなくして電車がゆっくりと下北沢駅のホームに入りました。電車から降りてみると、まだ目の調子がおかしくて、ホームは、まるで(見たことはないけれど)天国のようにまばゆい朝の光を浴びて、そしてムンクの絵のようにゆがんで私の目に映りました。私は近くの駅員さんにトイレの場所を質問しました。このとき、決して取り乱すことなく落ち着いて質問することができたのは、つらい経験の中での有意義な収穫と言えるでしょう。駅員さんが指さした方向に向いたら、すぐそこにトイレの方向を示す標識があるではありませんか。それすらも目に入らなかったのです。

 私はホームの端っこにあるトイレまで駆けつけることもできず、ふらふらになってたどり着きました。中に入ると、ああ! なんとうれしいことに、ひとつだけ個室が空いていました。そうです! ひとつだけ空いていれば十分なのです。ふたつを同時に使うことは絶対に無理ですし、もしもふたつ以上空いていたら、どちらにすべきか迷ってしまい、その一瞬の迷いがそれまでのすべての努力を台無しにしてしまったかもしれないのです。救いの紙、トイレットペーパーも使い切れないほどたくさんありました。私は助かりました。不意に訪れた今世紀最大の試練をなんとか乗り切ったのです。溢れそうになった涙をぐっとこらえました。そして、そこにウオッシュレットを求めることはあまりに贅沢であり、それがないことを決して残念に思ってはならないと心に誓ったのでした。

 この朝のハプニングで、私は一日のエネルギーのほとんどを使い果たしてしまい、その日は一日ぐったりしていました。まるで抜け殻のようでした。大事な物を体の外に出してしまったからではないか・・・などというツッコミはどうかご遠慮ください。

 夏は胃腸が弱まりがちですので、皆さんも十分にお気をつけ下さい。


注) その後、私は「ストッパ」を携帯するようになりました。水なしで飲める下痢止め剤です。何度か試してみて、それなりに効果があることが確認できました。ただし気をつけなくてはならないのは、ストッパを飲んでも完全に下痢の症状が治まるわけではなく、一時的に軽くなるだけだということです。症状が軽くなってから10〜15分くらい経過すると、飲む前の状態に戻ります。つまり、トイレに駆け込むための時間稼ぎには有効ですが、完全に治るわけではないことに注意が必要です。