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韓郷神社社誌

【1章〜3章】 【4章〜8章】 【付録】

【渡来民の氏神様@】 【渡来民の氏神様A】

【渡来民の参考になるサイト】



【渡来民の氏神様A】…文化の融合

まえがき : B『高麗神社と高麗郷』 : C『白髭神社』
D『渡来民』 : E『参考になる手元の本』

ま え が き


 インターネットは情報集めの上でたいへん有難い。旧高麗郡の高麗神社と相模大磯の高来神社を調べてみると、いろいろとデータが集まった。

 パソコンでデータを開いてプリントアウトすれば、たちどころに手元に資料が収集できる。文化に対する基礎的な理解を深めておくことは、明治以来の太鼓持ちの歴史観にとらわれずに、ものごとの判断に役立つからである。

 では続いて参考になるURLを紹介します。プリントアウトしてみると、いろいろのことが判る。

 @【高麗神社】
  http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/si1koma.htm

 A【高麗神社】
  http://skyimpulse.s26.xrea.com/koma.html

 B【高麗王若光と曼珠沙華】
  http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/komaou.html

 C【高麗氏-(Wikipedia)】
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E6%B0%8F

 D【大磯・高麗神社】
  http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ooiso.html

 E【古代武蔵学事始め】
  http://www.musashigaku.jp/index.html

 F【御船祭(大磯町無形文化財)】
  http://www.u-kanagawa.gr.jp/tokaido/oiso/kanko/ofes-natu.html

 G【関東の渡来の史跡】(その1〜7)
  http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/sirahige.html

 H【山梨県と韓国・朝鮮】
  http://mrpung.web.infoseek.co.jp/index_j.html
   このURLは山梨県の小学校の先生が立ち上げています。開いてみてよく調べたものだと
   感心しました。そして日本と韓国との関係について私の思っていたことが間違いのないこ
   とと確信できます。
   このページを作った後でしたから、載せてありませんが、折を見て載せたいと思います。




B『高麗神社と高麗郷』

 禅阿の弟慶弁は、諸國名山修行の後、鶏足寺に留まって大般若経、法華経等を書写した。法華経は聖天院に納め、失火の際焼失したが大般若経は現に高麗神社の神庫にある。
 第二十七代豐純は「源家の縁者」なる、駿河岩木僧都道暁の女を迎へて室とした。これが高麗家に於て、國人と結婚した始めである。系図に

  「當家者是迄高麗従來之與親族重臣計縁組仕來處深有子細迎駿河岩木僧都
  道暁女爲室依爲源家之縁者従是幕紋用根篠」

とある。是迄何故に国人と結婚しなかった乎、又如何なる仔細あって源家の縁者を迎へた乎、窺知することが出來ない、又道暁が如何なる身分のものかもわからないが、投化以來、進出の自由であった奈良平安の際にも、高倉福信一門の外、功名場裡に馳趨せず、武藏七党時代にも雌伏してゐた高句麗部族が、高麗家の此の結婚以來、活動を始めた様に思はれる。

 二十八代永純の壮時、高麗家は古今を通じての最大不幸に遭遇した。それは後深草天皇の正元元年(西暦一二五九年)の十一月に失火して、故國より持ち來れる貴重な寶物古記録等の大部分が灰燼に帰したことである。
高麗氏の古系図も此時焼失したので、一族老臣を始め、高麗の百苗が集まり、諸家の舊記を取調べて編成したのが、現在高麗家に傳はる系図一巻である。

 而して此系図の記載法が、日本古來の系譜記載様式と異って、非常に勝れてゐるとは、文學博士重野成齋氏の言はるる所である。

 三十代行仙の弟三郎行持、四郎行勝の両人は鎌倉の北條氏に仕へたが、北條氏没落の時、東勝寺に於て討死した。
 三十二代行高は、延元二年秋官方となり、新田義興の招きに應じて、北畠顯家の鎌倉攻めに参加した。時に年僅に十九歳であったといふ。爾来正平九年河村城の陥落する迄、新田氏と運命を共にした。行高の弟左衛門介高廣、兵庫介則長の両人も亦兄に従ひ奮戦して、高廣は討死し、則長は流矢に當って陣歿した。

 此の貴重な文献高麗氏系図は、良賢(高麓王四十六代の孫)の死後、賢光の代に至り、故あって親戚入間郡勝呂郷なる勝呂氏に預けられて、其儘十代を経過したが、明治に至り、井上淑蔭、加藤小太郎二氏が勝呂美胤に返却を勤められたので、美胤は之を高麗大記に返した。
 井上淑蔭翁が其時の模様を記した文章があるから次に掲げる。

  凡物の差誤、事の不平などいとしたたかなるも、其の本を推し尋ぬれば
  僅毫厘の際より起る大かたの習ひなれど、高麗氏の系譜の入間郡塚越邨
  神官勝呂家に傳へたるは、如何なる故ならむ。

  古老の談に、何れの昔なりけん勝呂家嗣子無く、高麗氏より義子したる
  事ありと。されど家の重寶を容易に攪ふべきならねば、彼れいささかの
  縁故ありて、其のまま勝呂家に傳はれるにも有りぬべからむ。

  其はいかにまれ、高麗王の遠裔衍純主教職を奉仕し、勝呂氏また同官、
  余もまた其のすぢにて、常に隔て無く交らふに依り、とかくして其の家
  に収むる事とはなれり。

  明治七年甲亥八月十一日、此日天朗かにして、不尽の神山、下つ群山、
  手かくばかりいとけさやかに、庭の松萬世よばひ、簷の雀千代と音なふ、
  わが遙岳邇水樓に置酒す。集へる人々は、東駒衍純主勝呂美胤子自餘二
  家の親族五六人、勝呂氏懐より一軸を交與す。

  高麗氏おし戴きて披き見る。人々悦ぶこと限りなし。おのれ觴を挙げて、

    時ありてもとの瀬を行く水ぐきを おもへば清き高麗の川浪

  と歌へば、勝呂氏六絃の琴を合せたり。

  高麗氏も筆執りて

   系譜離家幾許年
   祖宗履歴似沈淵
   君教浮出添金玉
   井照本枝水廿傳

  傍なる人壁に立てたる月琴を弾く。から歌には調細かにていとつ
  きづきしきを、人々感けて聞き居たり 。盃あまた度めぐるにひ
  とびと酔ひすすみて、懐より短笛とり出でて吹くもあり。手掌慴
  亮拍上げ歌ふもあり。翁もほとほと舞ひ出でぬべし。日影花やか
  に秩父嶺にかかるに、いざ家路をと人々そそめく。

  此ころ書きすさびたる三韓沿革考の机上なるを、高麗氏見て、是
  れは我が遠祖の故國の事なりとて懐しむ。其中に承らまほしきこ
  とも多かり、今宵は宿り給へととどむれど、家にえさらぬことあ
  り、又のどかにを、とてあゆひの紐むすぶ。

  今日は中の十日の初めなれば夕月もさやかにて、道のほどもたづ
  たづしからじとて、やをら立ちいづ。終日の愉快忘れがたしとて、
  拙き筆にかくなむ。
                 権大講義    藤原淑蔭識

 顧みるに高句麗先民の我國に投化してよりここに千二百有餘年、物換り星移って、世界の歴史も幾変転し、日鮮の關係も亦親疎さまざまの時代を経て今日に立ち到ったのであるが、思へば奇しき因縁であつたと言ひ得るであらう。

 かくして奈良朝以來、我國文化に貢献する所甚だ大にして、加ふるに武藏野開拓の功績顯著なる高麗人の遺跡こそは、単に歴史的文化的価値の上からのみならず、あらゆる意味に於て、十分に尊重されなければならないのであるが、明治二十九年、この由緒深き高麗の郡名を廃し、多くの學者や文化人を痛嘆せしめたのであるが、今復同じ過誤を重ね、昭和三十年の町村合併にあたり、高麗の村名まで忘失し去ったことは、あまりに心なきわざで遺憾に堪へぬ次第である。

 日高市(舊高麗村)は東京を距る五十粁、川越の西十六粁の所にあり、高麗神社及び聖天院の所在地なる大字新堀字大宮は、西武池袋線高麗駅より三粁、同飯能駅より六粁、又八高線、川越線高麗川騨より二粁の所にある。

 高麗氏系量に見ゆる高句麗系姓氏は次の如くである。

  高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、
  吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木、新井。

C『白髭神社』

   鬼無里村は長野市へ流れ出る裾花川の奥、戸隠の西山麓にあるのですが、
   そこに「白髯神社」という神社があります。同行の多田昭氏の話によれ
   ば、戦争中には武運長久を祈りにこの神社へ下伊那からも来たそうです。

   下伊那郡高森町にも白髭神社があります。どういうお宮なのか少しも知
   らずにいました。それでいて、誰も話してはくれなかったし聞きもしな
   かったのです。

   今回、韓郷社の社誌をつくるというので、いろいろと渡来文化の関係も
   調べていたのです。韓郷社の「からくに」という言葉は、朝鮮半島から
   文化を担って渡来し帰化した人たちの氏神様を祀った言葉に間違いない、
   推量していました。

   そして、埼玉の「高麗神社」へいったときに、高麗澄雄という高麗家第
   59代当主に会ったのです。高麗さんから『高麗神社と高麗郷』という
   冊子をいただき、「白髭神社」というのは渡来民の人たちが祀った神社
   であるとお聞きしたのです。

   「ンダ、ンダ、それに違いあるまい」長年の大陸文化伝来についてのス
   ッキリしなかった頭の中が、いちどに雲霧離散したのです。

   ただ、そうかといって渡来民のひとたちが「韓郷社」を創ったという確
   証はなにもないのでした。ですから、明治以降の錦旗のみはた流儀の、
   皇国史観を基にした社誌になっているのです。

   その折に、『帰化人の氏神様』としての調査結果をまとめたいと考えて
   いたのです。

 白髭神社についてはなんにも知らないので、上記の鬼無里村のHPを開いてみますと、次のように記載されています。

   白髭神社(重文)
   本殿は室町時代の建造で、優雅な建築様式が取り入れられています。
   昭和34年重要文化財に指定されました。

 これだけでは、解説だけで手がかりになりそうもありません。鬼無里へいって聞き取りする以外方法がなさそうでした。

 つづいてパソコンの検索でいろいろ調べましたが、該当するデータは一件もありません。
 JapaKnowledge で調べてみると「大辞泉」の中に次のように出ていました。

   しらひげ‐じんじゃ【白鬚神社】
   @ 滋賀県高島郡高島町にある神社。〔総本社になっているという〕
     祭神は猿田彦神。比良明神。白鬚明神。
   A 東京都墨田区にある神社。天暦五年(九五一)慈恵大師が、
     @の白鬚明神を勧請(かんじよう)して創建。

 これも現地へ行って神主さんにお聞きしたり、パンフレットを頂くかして調べる方法しかありません。

 『高麗神社と高麗郷』の冊子によれば
   後には霊廟を建てて高麗明神と崇め祀り、その分霊を、白髭明神の名の
   もとに各所に奉祀し、中古に於いて已に二十一社の称があり、後には更
   に増加して、高麗郡はもとより、入間、秩父から遠くは多摩郡に迄及び、
   總数四十有餘社にのぼって、それが村々の鎮守として尊崇の的となって
   ゐた。

 関東以外の地方における「白髭神社」もこのように勧進によって建てられたのだろうか。
 滋賀県高島町の「白髭神社」は別系統だという説もあるが、わからない。
 新羅……しらぎ……しらひげ……白髭というのは、どうもマヤカシの説明のようで納得できない。とすると関東でいう高麗王若光の白髭の名称のほうが筋が通るのだと思います。

   いづれにしても、今後の調べでわかったことは、追記したいと思います。



D『渡来民』

 古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を
 形成したのは彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、
 とくに本書ではっきりさせたかったことである。
       日本歴史新書「帰化人」関晃著、はしがき冒頭の文

 上記の日本歴史新書「帰化人」第二編四の『百済の亡命者』の一部をを転載するので、日本においてどれぼど渡来民が大事な役目をはたしたか理解してほしいと思います。

 大化の改新前後はしきりに遣隋使や遣唐使がおくられています。当時朝鮮半島では新羅が勢力をもち始め、百済や高句麗との友好を保つため遣唐使を送って新羅を牽制する策がとられていたようです。
 白雉五年(654)前年に続いて遣唐使を派遣しています。

 大事な遣唐使だったのでしょう。高向玄理(たかむこのげんり)が派遣されたのですが、彼は最初の留学から46年、年齢は60を過ぎていました。大化の改新後の国の最高顧問のような役割を果たしていた人でした。

転載のはじめ

四 百済の亡命者

 遣唐使高向玄理は唐で客死し、大使河辺麻呂以下は翌年(655)空しく帰国した。その間に、孝徳天皇は皇太子中大兄皇子と政治上で意見のくい違いができたらしく、難波にとり残されて淋しく世を去り、飛鳥に戻った皇太子は、母孝極上皇を再び位につけた。

 この斉明天皇の治世には、高句麗との間柄は親密の度を加えていったようであるが、しかしそれは、新羅と唐の接近に対抗する必要からであろう。

 日本では、斉明天皇五年(659)にまたも遣唐使を派遣し、事態の悪化を防ぐための最後の努力を試みたが、そのときは唐はすでに東征を計画しており、日本の使節は、東征の事が終わるまで西京に抑留されてしまった。

 唐・新羅両国の真の目的は高句麗を倒すことだったが、その前に百済を滅ぼして後顧の憂いを絶つことになり、斉明天皇六年(660)七月に、唐将蘇定方の水軍と新羅武烈王の軍は、百済を挟撃して王城を陥れ、義慈王はじめ王后・王子などを捕らえて、百済の領土を占領した。

 百済の滅亡後、鬼室福信・余目進らは残兵を集めて抵抗をつづけ、日本に人質になっていた王子余豊を迎えて王とし、日本の急援軍を得て百済を再興しようとした。

 朝廷ではこれに応じて出兵することになり、斉明天皇七年(661)に天皇・中大兄皇子は筑紫に赴き、同年天皇が死んだ後も、中大兄皇子(天智天皇)が指揮して戦備を進めたが、翌々年(663)鬼室福信は余豊に殺され、さらに日本の水軍が唐の水軍と白村江で決戦の末大敗して、百済再興の企てはここに完全についえ去った。

 この後朝鮮では、五年後(668)に高句麗も唐将李勣リサクの軍に滅ぼされ、それから十年の間に新羅が次第に唐の勢力を朝鮮半島から追い出して、ほぼ新羅の統一を完成した。

 白村江敗戦(663)の結果、余豊は船で高句麗に逃げたが、余目進以下の人々は、妻子を連れて日本に亡命した。
 このときの亡命者の数は正確にはわからないが、きわめて多数だったことは確かである。

 天智天皇四年(665)には百済の男女四百人を近江国神前郡に移して田を与え、翌年には、それまで官食を給していた百済の僧俗男女二千人余を東国に移し、同八年(669)には、余目進・鬼室集斯シュウシら男女二千余人を近江国蒲生郡にうつしたというから(書記)、だいたいは推測できるであろう。

 恐らく古代帰化人のうちで、集団をなして渡来した最大のものである。

 しかも、その中には社会的地位の高かったものが非常に多く含まれていた。百済の官位は、佐平・達率・恩率・徳率、以下十六階に分かれていたが、この亡命者の中に達率以上が約七十人もいたのである(天智紀十年正月条)。

 従って高い教養を持ち、学術・技能を身みにつけた者ものがかなり多かった。達率以上約七十人のうち、主な者について書紀が記すところを見ると、沙宅サタ紹明は法官大輔、鬼室集斯シュウシは学職頭に任ぜられ、谷那コクナ晋首・木素貴子・憶礼福留オクライフクル・答*(火偏に本の字)トウホ春初・は兵法に、*(火偏に本の字)日比子賛波羅金羅金須・鬼室集信・徳頂上・吉大尚は薬に、許率母ソツモは経書に、角ロク福牟は陰陽道に、それぞれ明るかったという。

 このような人々が一時に多数流入したのであるから、これは帰化人渡来の歴史の中でも、その最後を飾るとくに大きな出来事だったといわなければならない。

…………… 中略 ……………

 なお、この時期には、以上のような百済人だけでなく、朝鮮における大変動の影響で、他の国の人々もかなり帰化してきたようである。例えば、鬼室福信は日本の救援を請うにあたって、唐軍と戦って得た捕虜一百余人を朝廷に献じたが、この唐人たちは、のちに美濃国の不破フワ・片県カタガタ二郡に移され、壬申の乱のときに天武天皇はこの人たちに戦術を問うたと伝えられている。

 鬼室福信はまた唐人、続守言らを朝廷に贈ったが、彼は後に唐人、薩弘恪とともに音博士に任じられて優遇された(持統記)。薩弘恪は大宝律令の撰定にも加わっているが、恐らく続守言と同時に日本にきたものであろう。持統天皇八年(694)の正月十九日に唐人の踏歌が行なわれているが、これもこの頃来た人であろう。

 また高句麗からは、やはりその祖国の滅亡の際に日本に亡命したものがあった。延暦八年(789)に従三位まで昇進して死んだ高倉朝臣福信の祖父は背奈福徳といい、そのときの亡命者だった(続紀)。
 背奈氏は背奈王と称したこともあるから、高句麗王族だったのかも知れない。

 大宝三年(703)四月に従五位下高麗若光という人が高麗王の姓を与えられているのも同様であろう。

 天武天皇十四年(685)に冠位を改定したとき、大唐人、百済人、高麗人あわせて百四十七人が新しい冠位を与えられているが、この高麗人というのは、これらの地位の高い人々である。

 これに対して普通の高麗人もかなり来ている。持統天皇元年(687)に高麗五十六人を常陸国に移して田を与えており、霊亀二年(716)五月には、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野、の七国 の高句麗人、千七百九十九人を武蔵国に移して、初めて高麗郡を置いたというから、その頃までに東国各地にかなりの人数が移されていたことがわかる。

 現在の埼玉県入間郡高麗村の付近が当時の高麗郡の地で、右の高倉福信はここの出身であるが、高麗王若光がこの地と関係があるかどうかは確証がない。

…………… 中略 ……………

 これらの唐人、高句麗人、新羅人も、当時の日本社会で果たした役割という点では、なんら百済人と異なるところはない。彼らは全部一括して、帰化人の歴史の中で同じ一つの位置を与えられるべきものである。

 彼らは律令国家の建設期に渡来して、当時極めて困難な事情にあった唐文化摂取の代用の役をつとめ、形成されてゆく律令制度の学芸・技能の諸部門の要員に充てられた(東国各地に移された人々が農業生産の拡大に果たした役割も大きいが、これは後に触れることにする)。

 斉明・天智朝の指導者が、白村江の敗退という外交上の大失敗を犯しながら、ともかく改新運動を推進できたのは、一つには彼らの存在があったからだと言ってもよいであろう。

 また、近江の大津宮における天智朝の政治が、もし急進にすぎて一般の反感を招き、極端な大陸文化制度の採用ということもその中に含まれていて、それが壬申の乱の主な原因の一つになったとしても、彼らは政治的対立関係の中にまで入り込むことはなかったようで、戦争の経験をもち兵法に通じた者が多かったにもかかわらず、壬申の乱には殆んど活動を示さなかった。

 わずかに百済人の淳武微子が天武方について功があったことが知られているだけである。従って彼らの学芸・技能は、そのまま天武・持統朝に引き継がれて、奈良町文化形成の重要な一役を担うことになったのである。

 彼らの存在が、奈良朝文化を形成するのにいかに重要だったかは、この頃からしばしば行なわれた僧侶の還俗の事実が端的に物語っている。律令国家の僧侶は、政府の許可があって始めて出家し、下級官に準ずる身分と種々の特典を与えられるものであって、これを還俗させることは、普通は刑罰の一種だった。

 令制では、俗人なら杖ジョウ一百を越える罪、すなわち徒ズ一年以上に相当する罪を犯した場合、僧尼なら還俗させられることになっており(養老僧尼令)、大宝以前もだいたい同じだったと思われる(自発的に還俗することは差し支えない)。

 ところが、持統朝から奈良朝の初年にかけて、刑罰でない還俗の例がかたまって資料に現れており、それ以後は平安朝初期までに僅か二例あるにすぎない。

 これらはすべて、国家が還俗者の学芸・技術を利用するために行なったものである。この時期に集中的に行なわれたのは、僧俗の別がこの頃はっきりつけられるようになったからだというようなことだけでなく、とくにそれが必要な時期だったからに他ならない。

 というのはこれらの人々は知りうる限りすべて大陸系の学芸・技術の所有者であって、彼らを採用しなければ、まさに完成しようとする律令制度の学芸・技術部門の陣容を整えることが出来なかったからである。

転載のおわり

ホームページへ載せる渡来民の項が終わりに近づいた。そこで今更ながら再確認したのが、渡来民の人たちは私たちの祖先である、ということであった。

テレビのコマーシャルかなんかで、『ぼくはお父さんお母さんがあるから僕があるんだ。お父さんお母さんはお爺ちゃん婆ちゃんがあるからお父さんお母さんがあるんだ。………考えてみると(ものすごい数になっていくのを想像すると)、不思議だなあ』というのがある。

自分の五代前といえば、一代前は「自分×2」であり五代前といえば「自分×2×2×2×2×2」となって、32人の関係者の末孫ということになる。
一世代30年としてみると、朝鮮半島から人々が渡ってきてからは1300年余になるから、43世代は過ぎていることとなる。

西暦650年代の自分の祖先の関係者総数は「自分×2×2×2×2×2×…………と2が43続く」という計算になる。
すなわち、2の43乗=17,5921,8604,4416。 これは当時の日本の人たち全部が自分の祖先になっていることを意味しています。

逆にいうと、1000年後の自分に関係する子孫の数は、
  自分×2×2×2×…………と2が33続く。
すなわち、2の33乗=42,9496,7296。  日本中が自分の血縁者ということになる。

明治以来、日本は日本独自の皇国史観に拘束されてきました。太鼓持ちに踊らされてきた思考方法は正しくなかった。日本民族は単一民族なんていう意識は勝手な言い分であって国際的には通用しないのです。古代から続いていた北方からの、あるいは南方からの、多くの民族が渡来して混血をつづけてきたのです。気兼ねなく日本人は混血民族である、といっても間違ってはいません。

渡来民は私たちの祖先なのである。

「唐土社」「唐土大明神」「韓郷社」「韓郷大明神」「韓郷神社」いずれの名前でもかまったことはありません。このお宮は渡来民の人たちが祖先を祀ったお宮である、と私は思う。山吹にある白髭神社も渡来民のお宮だろうと私は思う。

E『参考になる手元の本』

戦前の下伊那農学校には朝鮮からきた金光三郎(現在、横井三郎)がいた。まじめな生徒であった。彼はその後、国籍による差別について悲しい話をしてくれたことがある。

私が朝鮮文化に関心があることを知って、本を三冊持ってきてくれた。それは韓郷神社が韓国から渡来した人たちが祀った神社であると私が考えていたからである。

現在、手元にある本は次のものである。
イ 「古代朝鮮文化と日本」
ロ 「日本の中の朝鮮文化七」
ハ 「日本の朝鮮文化」
二 「もう一つの万葉集」
ホ 「まほろばに無窮花は咲く」
へ 「信州の韓来文化」
ト  その他:文化史、歴史書、百科事典など

「古代朝鮮文化と日本」 斉藤忠著作選集2 雄山閣 
参考になる。全般的な知識をつかむのによい。

「日本の中の朝鮮文化七」駿河・甲斐・信濃・尾張ほか 金達寿 講談社
各地域にある神社と遺跡を紹介している。
駿河 伊豆山神社 三嶋大社 軽野神社 伊那上神社 伊那下神社 伊古奈比盗_社
   御穂神社 三保の松原 鉄舟寺 賤機山古墳 浅間神社 登呂遺跡 敬満神社
   平尾八幡社 新羅大明神
甲斐 新羅神社 猿橋 機神社 岩殿城跡 黒戸奈神社 白鬚神社 菅田天神社
   横根古墳群 武田神社 大宮七社明神 王塚古墳 蔡倫神社 正覚寺
信濃 韓郷神社 麻績神社 白髭神社 フネ古墳 諏訪大社(上社) 諏訪大社(下社)
   波田神社 須々岐水神社 桜ヶ丘古墳 犬甘城跡 穂高神社 観松院
   八幡神社(高良社) 駒形神社 安坂将軍塚古墳 治田神社 森将軍塚古墳
   須々岐水神社 大室古墳群 山千寺 善光寺 川柳将軍塚古墳 麻績神社
三河 旗頭古墳群 羽田八幡宮 阿志神社 皿山古窯群 東大寺瓦窯跡 伊良湖神社
   畠神社 久麻久神社
尾張 猿投神社 熱田神宮 深川神社 窯神神社 新羅神社
美濃 南宮神社 菅田神社 金神社 伊奈波神社 弥勒寺跡
飛騨 白山長滝神社 こう峠口古墳 荒城神社 阿多由太神社 松尾白山神社
   信包古墳
197ページには次のように韓郷神社が書かれている。


 桐原 ………………。また〈天竜川〉川東の喬木村に韓郷神社があります。
 金  韓郷神社というのははじめて聞きますが、どういう神社ですか。
 飯島 いつか取材で通りましたら、韓郷神社と書いてあるのできいてみました。
    いまは小学校の校長さんをしていたというおじいさんが世話をしていて、
    「からくに神社」と読むということでしたが、戦争中はやはり甘い辛い
    の「辛」に直させられたそうです。それが戦後、氏子たちがおもしろく
    ないってことで、標柱を建て直したとかいうことでした。
 金  それはおもしろいな。

 韓郷神社をたずねて

 ということで、私たちのやっていた雑誌『日本の中の朝鮮文化』は、いつもそういう
 神社などの遺跡の写真を表紙にしていたから、こんどその座談会がのる第三十九号の
 表紙は「韓郷神社」にしようということになった。それでさっそく、翌日、私たちは
 飯田のほうを経て帰ることにして、長野市内でタクシーに乗り、気軽に「飯田までー」
 と言ったのだった。

 だいたい、私は何年にもわたってこの紀行の旅をしていながら地理音痴で、地図を見
 ると飯田まではかなりの道のりだったが、しかし同じ長野県なのだからたいしたこと
 はあるまいと思ったのだった。ところが、タクシーはいつまで走っても、なかなかそ
 の飯田とはならなかった。

 はじめ、タクシーは濁流となっていた犀川沿いに走った。山間の道は全体としてくだ
 りだったが、ときには登りともなる。すると犀川の濁流は、下から盛り上がってくる
 ようにして流れた。

 松本から塩尻あたりをすぎると、こんどは諏訪湖から流れる天竜川沿いとなり、それ
 からがいうところの伊那谷であった。私には信州出身の友人が何人かおり、そのうち
 の二人からは伊那谷生まれだと聞いていて、「伊那谷」というのは一つの谷間だと思
 っていたのだったが、それはとんでもないまちがいであることを、このときはじめて
 知った。

 伊那谷は伊那谷でも、だいの天竜川を流れをあいだにした大伊那谷ともいうところで、
 そのなかには伊那市、駒ヶ根市など、いくつもの市町村が入っていた。広大な河岸段
 丘に人家が密集し、あるいはあちこちに散在しているその大伊那谷の景観は実にすば
 らしいもので、私はずっと目をうばわれつづけていたものだった。

 そのうちやっと飯田に着き、天竜川東側の喬木村の韓郷神社をたずねあてたのだった
 が、時間はどれくらいかかったか忘れたけれど、タクシー代は三万数千円だった。列
 車もあるのに、考えてみればバカなはなしだったが、しかし大天竜川の流れと、大伊
 那谷との景観を満喫したことを思えば、と私たちはやせがまんをした。

 韓郷神社では近くに住む氏子総代で、当年八十三歳(1980年頃)になるという下平益夫
 氏に会っていろいろたずねてみたが、神社は素戔鳴尊をまつるものであるということ
 以外、あまり要領をえなかった。古代からこれまでの長いあいだ、その神社がどうい
 う者によっていつ祀られたものであるかは忘れ去られ、いまはただ「韓郷」というそ
 の名号のみがのこっている、ということのようだった。

 しかし、天竜川の西側となっている飯田とその周辺の遺跡を見ることで、その韓郷神
 社もどういうものであったか、だいたいわかることになるのではないかと思う。

   (以上が関係したところだが、つづいて山吹の白髭神社と座光寺の麻績神社)
   (について書かれている。)


「日本の朝鮮文化」 司馬遼太郎 上田正昭 金達寿 編 中央公論社
座談会とかたがきにあるように、次のように内容の座談会が編集されている。

 「朝鮮」私語      日本歴史の朝鮮観    日本民族と「帰化人」
 古代の日本と朝鮮    印刷文化のはじまり   土器・陶磁器工人の渡来
 神宮と神社について   仏教文化の伝来     『万葉集』と古代歌謡
 神話と歴史       忘れられた神々     万葉の詩人たち…補足…

                           はじめの‘「朝鮮」私語’は司馬遼太郎が書いたものである。司馬遼太郎が書いた項をみていると、モンゴル語やトルコ語と祖形を同じくしていることを教えられる。ラリルレロではじまる単語は一つもないこともはじめて知った。古い朝鮮語もそうだという。言語生理が同じグループからだという。

彼は十代の終りのころから朝鮮と朝鮮人に、尊敬と親しみを持ったという。すくなくとも歴史をまっとうに学んできたものにとって、渡来人への恩義を感じ尊敬と親しみを持つのは、理屈もなにもない生理的な実感である。

戦後の新しい感覚で歴史をみかえす人が多くなって、いわゆるボーダレスの感覚で「ほんとうのこと」を求めるようになった。そういう意味でこの本は新しい歴史感覚を提供してくれるだいじな本である。

「もう一つの万葉集」 李寧煕 文芸春秋社
この本の帯には、このような言葉がしたためてある。

    一千余年の眠りから、ついに目をさまし、まったく異相の万葉集が
    浮かび上がった。今こそ文学史が書き改められるとき……

「本書ではおもに難訓歌をとりあげましたので、ほとんどの歌が韓国語です。韓国語なるがゆえに難訓とされていたのでしょうから、これらの十一首から類推して、四千五百十六首のほとんどが韓国語であると決めつけることはできないと思います。

しかし、概して前半部は大半が韓国語で詠まれていると申せます。さらに「枕詞」がほとんど韓国語でありますので、古代韓国語で解読しないなぎり正確によめない歌の数は、万葉集のほぼ全首におよぶといってさしつかえないでしょう。

今日「万葉集」の名で広くよまれているもの、それは“平安万葉集”と呼ばれるべきものです。なぜなら、これらは万葉仮名で表記された韓国語を日本語であるという前提にたつて再創作した歌集であるからです。

この再創作はまことにみごとなできばえで、その芸術性をわたくしは高く評価します。この芸術的価値は、たとえ韓国語による詠み直しによって“もう一つの万葉集”(実はこれこそほんとうの万葉集なのですが)が甦っても、なんら変わることなく不滅の生命をもちつづけるでしょう。

しかし、私がこれから解こうとしている“ほんとうの万葉集”は、人間本来のかたちというか飾らぬ魅力というか、とにかくすざまじい迫力があります。

おそらく、万葉集をなんの疑いももたずに今日まで愛読されてきた読者の方は、狐につままれたようなお気持ちでしょう。

“平安万葉集”の意味をわかりやすく例をあげて説明いたしましょう。
 〔以下説明が始まる〕

「まほろばに無窮花は咲く」 民団長野五十年史編纂委員会 西田書店
帯に書かれたことば

   ドキュメント物語、長野県の在日韓国人
   血も涙も すべてを呑みこんだ在日人生 それは前を見るしかない人生だった…
   金大中大統領の訪日による新しい韓日関係、友好を願い、21世紀をともに生き
   る 私たち「在日」からのメッセージ!

韓国人の渡来と遺跡や神社の考察がのべられ、つづいて戦争を生き抜いてきた人々の群像として戦前戦後、南北対立の時代など筆が進められている。

私が渡来した人々への尊敬と親しみ、それがあるにもかかわらず、国籍が違うということで生じるさまざまな悩みを在日朝鮮人としてかかえていた。それらのことが事実なものとして書かれている。祖先や文化の祖形を同じにしていた人同士だというのに、わだかまりがあるというのは制度上でも法制上でもあるに違いない。

もし制度上にしても法制上にしても、そのような基本的差別の考え方があるとすれば、私たちは大きな問題として取り組まなくてはならない。

明治以降来日している韓国人への考え方を、耳を澄まして聞き取らなくてはならない。そして心から理解して仲良しの友人になりたい。
そんなことをひしひし感じる本である。

「信州の韓来文化」 今井泰男 銀河書房
この本の裏表装には「韓郷神社」の拝殿の写真がのっている。
この本は横井三郎氏が喬木資料館長をしていた黒川さんへ、この本を贈呈していた。そのことを知って手に入れた本である。

はしがきには、次の文章が載っている。


 高原の美にあこがれて信州路を旅した渡島人たちは、いつかこの地に定着し、彼らの
 高度の技術文化を残してくれた。その文化を辿るのに、このグラフィック<目の当た
 りに見るような(もの)…註…>は充分応えてくれるであろう。
 数世紀に亘って連綿と続いてきた朝鮮・韓国の文化が、ここにその埋もれた姿を表わ
 すのである。
 外来の稲が、日本の大地に根を下ろしたころから、幾多の文化の変遷を見てきたが、
 弥生期前後に定着した渡島人たちの残した文化が、その後の日本の文化の源流となっ
 ていることは大きな意味がある。
 信州における朝鮮・韓国の文化をあらためて訪ねもとめたとき、そこに浮かび上がっ
 てくるのは、苦難の道程を乗り越えて異国の地で、自らの国の文化を営々として築き
 あげた渡島人たちの姿であり、はるかなロマンを感じさせるのである。
 次元を越えて、甦った渡島の文化に読者は、遠い故郷への思いにも似た気持ちを抱か
 れるであろう。


8ページへ載せられている韓郷神社の拝殿の写真は、掲額の『韓郷神社』が大きく映し出されており、下の説明には、
   ■韓郷神社
   「韓国をそのまま残した得がたい神社である。喬木は高麗のコマの転訛
   ともとれ、阿島に弥生遺跡がある。(喬木村)」
と記されている。

完了

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