【月見草出版へ】
古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を 形成したのは彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、 とくに本書ではっきりさせたかったことである。 日本歴史新書「帰化人」関晃著、はしがき冒頭の文 |
桐原 ………………。また〈天竜川〉川東の喬木村に韓郷神社があります。 金 韓郷神社というのははじめて聞きますが、どういう神社ですか。 飯島 いつか取材で通りましたら、韓郷神社と書いてあるのできいてみました。 いまは小学校の校長さんをしていたというおじいさんが世話をしていて、 「からくに神社」と読むということでしたが、戦争中はやはり甘い辛い の「辛」に直させられたそうです。それが戦後、氏子たちがおもしろく ないってことで、標柱を建て直したとかいうことでした。 金 それはおもしろいな。 韓郷神社をたずねて ということで、私たちのやっていた雑誌『日本の中の朝鮮文化』は、いつもそういう 神社などの遺跡の写真を表紙にしていたから、こんどその座談会がのる第三十九号の 表紙は「韓郷神社」にしようということになった。それでさっそく、翌日、私たちは 飯田のほうを経て帰ることにして、長野市内でタクシーに乗り、気軽に「飯田までー」 と言ったのだった。 だいたい、私は何年にもわたってこの紀行の旅をしていながら地理音痴で、地図を見 ると飯田まではかなりの道のりだったが、しかし同じ長野県なのだからたいしたこと はあるまいと思ったのだった。ところが、タクシーはいつまで走っても、なかなかそ の飯田とはならなかった。 はじめ、タクシーは濁流となっていた犀川沿いに走った。山間の道は全体としてくだ りだったが、ときには登りともなる。すると犀川の濁流は、下から盛り上がってくる ようにして流れた。 松本から塩尻あたりをすぎると、こんどは諏訪湖から流れる天竜川沿いとなり、それ からがいうところの伊那谷であった。私には信州出身の友人が何人かおり、そのうち の二人からは伊那谷生まれだと聞いていて、「伊那谷」というのは一つの谷間だと思 っていたのだったが、それはとんでもないまちがいであることを、このときはじめて 知った。 伊那谷は伊那谷でも、だいの天竜川を流れをあいだにした大伊那谷ともいうところで、 そのなかには伊那市、駒ヶ根市など、いくつもの市町村が入っていた。広大な河岸段 丘に人家が密集し、あるいはあちこちに散在しているその大伊那谷の景観は実にすば らしいもので、私はずっと目をうばわれつづけていたものだった。 そのうちやっと飯田に着き、天竜川東側の喬木村の韓郷神社をたずねあてたのだった が、時間はどれくらいかかったか忘れたけれど、タクシー代は三万数千円だった。列 車もあるのに、考えてみればバカなはなしだったが、しかし大天竜川の流れと、大伊 那谷との景観を満喫したことを思えば、と私たちはやせがまんをした。 韓郷神社では近くに住む氏子総代で、当年八十三歳(1980年頃)になるという下平益夫 氏に会っていろいろたずねてみたが、神社は素戔鳴尊をまつるものであるということ 以外、あまり要領をえなかった。古代からこれまでの長いあいだ、その神社がどうい う者によっていつ祀られたものであるかは忘れ去られ、いまはただ「韓郷」というそ の名号のみがのこっている、ということのようだった。 しかし、天竜川の西側となっている飯田とその周辺の遺跡を見ることで、その韓郷神 社もどういうものであったか、だいたいわかることになるのではないかと思う。 (以上が関係したところだが、つづいて山吹の白髭神社と座光寺の麻績神社) (について書かれている。) |
高原の美にあこがれて信州路を旅した渡島人たちは、いつかこの地に定着し、彼らの 高度の技術文化を残してくれた。その文化を辿るのに、このグラフィック<目の当た りに見るような(もの)…註…>は充分応えてくれるであろう。 数世紀に亘って連綿と続いてきた朝鮮・韓国の文化が、ここにその埋もれた姿を表わ すのである。 外来の稲が、日本の大地に根を下ろしたころから、幾多の文化の変遷を見てきたが、 弥生期前後に定着した渡島人たちの残した文化が、その後の日本の文化の源流となっ ていることは大きな意味がある。 信州における朝鮮・韓国の文化をあらためて訪ねもとめたとき、そこに浮かび上がっ てくるのは、苦難の道程を乗り越えて異国の地で、自らの国の文化を営々として築き あげた渡島人たちの姿であり、はるかなロマンを感じさせるのである。 次元を越えて、甦った渡島の文化に読者は、遠い故郷への思いにも似た気持ちを抱か れるであろう。 |