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埴原和郎氏は、日韓古代関係において西暦700年当時、韓半島を経由したアジア大陸人が日本に渡来したが、当時の移住者(渡来人)と日本原住民の割合は80〜90対10〜20くらいで移住者の方が圧倒的に多かったという見解を示した。 |
主として古代に朝鮮・中国より日本に移住してきた人々の総称。その子孫をも含めて用いる場合もある。従来「帰化人(きかじん)」ともいわれたが、近年の日朝関係史や古代史の研究を通して「帰化人」の呼称を用いることの弊が説かれるようになり、かわって「渡来人」の語が使用されるようになり、今日定着している。 「帰化人」史観の問題点 「帰化」という語は、もともと古代中国の中華思想に基づき、周辺の異民族が中国帝王の王化を慕って帰順し、その国家的秩序に従うことを意味したが、7世紀末〜8世紀に中国の国家制度に倣って律令(りつりょう)国家を樹立した日本の支配層は、同時にそのような中華思想も受容して、それ以前に海外から日本に移住してきた人々をすべて天皇の徳を慕って「帰化」したものとみなした。すなわち、古代の渡来者を一括して「帰化人」と称するのは律令国家支配層の歴史観に基づく見方であって、7世紀以前の日本列島にまだ帰化すべき国家の確立していない段階の渡来者に用いる歴史用語としてはふさわしくない。また「帰化」の語は、今日においても外国人の日本国籍取得を意味する法律用語として用いられるが、明治以降の「帰化人」の多くが朝鮮人・中国人であり、これらの人々を日本人と異なる、差別・蔑視(べっし)されるべき人々とする偏見が、日本の朝鮮・中国に対する植民地支配・侵略の思想的背景にあった。古代の渡来者を「帰化人」とみる歴史観は、このような東アジア近隣への日本の支配を歴史的に遡及(そきゅう)させて正当化していこうとする誤った観念に陥りやすいという指摘も考慮されるべきであろう。 |