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韓郷神社社誌
【1章〜3章】
【4章〜8章】
【付録】
【渡来民の氏神様@】
【渡来民の氏神様A】
【渡来民の参考になるサイト】
【4章〜8章】…赤い文字の部分
【 も く じ 】
まえがき 三 獅子頭
口絵 四 棟札
もくじ 五 その他の懸額・絵馬
第一章 所在地 第六章 境内の小祠
第二章 祭神 一 秋葉社
一 建速須佐之男命 二 菅原社
二 八幡誉田別命 三 八王子社
三 若宮大鷦鷯命 四 山神社
第三章 韓郷社沿革 五 八雲社
一 創立について 六 金刀比羅宮
二 戦国時代 七 稲荷社
三 江戸時代 八 若宮社
四 明治から第二次大戦まで 九 蚕玉社
五 現代 一〇 金刀比羅宮
第四章 建物と社地 第七章 祭典
一 社殿 一 韓郷社の祭りの変遷
(一)神殿 (一)江戸時代
(二)鞘堂 (二)明治以後
二 拝殿 (三)戦後
三 その他の建造物 [祭典費の今昔]
(一)鳥居 二 獅子舞
(二)社号碑 (一)小川の獅子舞
(三)石灯籠 (二)獅子舞の特色
(四)狛犬 (三)獅子舞の沿革
(五)神燈櫓 第八章 神社の管理と運営
(六)石神・石碑 一 神官職の移り変わり
四 社有地 二 管理・運営
(一)神社境内 ◎付録
(二)境外地 郷神社記
第五章 神社の文化財 神社規則
一 絵馬 韓郷社周辺計測図
二 太刀 あとがき
第四章 建 物 と 社 地
一 社殿
(一)神殿
現在の神殿は棟札や古記によると、宝暦七年(一七五七)に再建されたものとされており、時の神主は下平治部、大工は松沢正兵衛とある。
間口一間五尺五分(三・四一メートル)、奥行一間一尺一寸(二・一七メートル)である。
造りは流造りの様式をとっているが、正面の向拝部分の屋根を唐破風とし、その奥に千鳥破風をつけてあり優美な造りである。屋根は椹か桧の柿葺で、美しい反を持たせるために軒は二重垂木にしてある。
材は欅を用いてあり正面の桁と貫の間の蟇股には竜に雲の彫刻をほどこし、その左右にも鶴と松・尾長鳥と桐をあしらった透し彫がしてあり、貫の両端の木鼻には阿吽の狛犬を刻んである。
また向拝と柱を繋ぐ粱は海老虹粱になっており、社殿側面の壁は二重の粱を渡し、それを支える大平束や粱間部分にも彫刻がほどこしてあるなど、建物全体にきめ細かな細工が施してあり立派なものである。
なお社殿の正面と左右三方には一尺五分幅(三十五センチ)の外縁をつけて高欄をめぐらしてあり、床はどの神社建築にも見られるように、三尺八寸五分(一・一七メートル)もある高床式となっている。
内部は簡素な造りで、奥には三柱の御神体を祀れるよう三連の厨子が設けられ、それぞれが観音開きになっている。そして中央には建速須佐男命、左に八幡誉田別命、右が若宮大鷦鷯命を祀ってあり厨子の前には幣や供物を捧げる台が設置してある。
(二)鞘堂(覆屋)
鞘堂は前後の二棟からなっており、正面の鞘堂は入母屋造りで、奥の鞘堂は切妻造りであり、T字型に二棟を連結させ共に瓦葺きである。
昭和四十三年(一九六八)に、明治百年記念として建立したもので、正面の鞘堂の大きさは間口二間四尺(四・八五メートル)、奥行き二間五尺(五・一五メートル)、奥の覆屋は間口と奥行共に二間五尺(五・一五メートル)あって、神殿がすっぽり納まるようにしてある。造りは極めて簡素であるが、神殿が風雨に晒されたり湿気で蒸れないよう床を高くし、壁も細い板を連子に打ちつけて通気性をよくしてある。
神殿の正面は板張の床にしてあり、祭礼の時のみ氏子総代・部落長・年番長が代表して昇殿し、神主とともに神事を行なう。
鞘堂には常時鍵がかけてあり、参拝者はその正面から参拝をする。
二 拝殿
現在は俗に御厩屋と呼んでいるが、明治三十四年に郡役所へ報告した絵図には拝殿と記してあり、本来は拝殿である。
今日の建物は明治百年記念の時に、中間部分へ二間幅を継ぎ足し、屋根もふきかえて大改修を行なった。その後屋根瓦もずれて、雨漏りがするようになったので、平成四年(一九九二)鞘堂と共に全面的に葺替をしている。建物の大きさは間口二間半(四・五五メートル)、奥行き六間(十・九一メートル)の入母屋造の瓦葺である。
明治百年記念事業以前の建物は、間口二間半(四・五五メートル)奥行き四間(七・二七メートル)であり、懸けてある棟札によれば神主下平近江とあるから、文久三年(一八六三)に建造したものである。
床は全面板張りで天井は簡単な棹縁にし、奥は板壁であるが左右両面は腰板をつけ吹き晒しにしてある。そして、正面の一間巾を参拝者の受所としてあり、極めて簡素な造りである。
ただ長押部分に金的中や相撲・俳句の額が幾つもかけてあり、絵馬堂代りに使用されておることから、御厩屋(絵馬堂)と呼ばれるようになったと思われる。現在は祭の時に直会の会場として使用している。
三 その他の建造物
(一)鳥居
鳥居本にある二基の神明鳥居と、境内広場より参道への入り口に建っている木造の両部鳥居の三基である。
鳥居本の二基はともに石造であり、台地上に建っている古い鳥居は建立年代は不明である。現在の参道からややそれているが、ここがかっての参道であり、台地へとあがる参道の石段もついている。
もう一基の新しい大きな石の鳥居は、昭和十年(一九三五)四月十日、宮下房雄氏兄弟の寄付により建立されたもので、現在の参道の入り口となっている。
二ノ鳥居は境内広場の参道への入り口に建っている。木造で稲荷神社にみられるように朱塗りの鳥居である。なぜ朱塗りであるかは明らかでないが、津島神社か京都祇園社の流れをくむものであろう。建立年代は不明である。
なお、古い地籍名に「中の鳥居」「鳥居場」という地名があることから、かつては中ノ鳥居もあったと思われる。
(二)社号碑
鳥居本の新しい鳥居の傍らに社号碑が建っている。高さ四メートル余もある御影石に『韓郷神社』と大書してある。陸軍大将松井石根の揮毫になるもので、昭和十五年(一九四〇)皇紀二千六百年を記念して建立したものである。
(三)石灯籠
下の境内広場の東側に一対、西側に一対計四基の石灯籠がある。笠・火袋・胴部・基壇などいずれもどっしりとしており、優美な造りである。
昭和八年(一九三三)四月十五日の祭礼の吉日を卜して、藤木筆男氏と内垣嘉太郎氏が、一対ずつ寄進したものである。なお石工は榑沼秀次郎・村沢清松とある。
また、社殿前の左右に一対の石灯籠がある。これは文久三年(一八六三)田中登久女が寄進したものであり、それより一段さがった所に丸味をおびた笠の石灯籠が一対ある。これは年代不明であるが、記録によると湯沢十左衛門の寄進したものと伝えられている。なお二ノ鳥居の石段傍らに小ぶりな石灯籠が一基あるが、これは文化四年(一八〇七)羽生九右衛門が寄進したものである。
(四)狛犬
拝殿前の庭に、真新しい石像の狛犬一対がある。これは昭和六十年(一九八六)両平部落の宮下房雄氏の寄進によるもので、花崗岩で刻んでありまことに立派なものである。
(五)神燈櫓
二ノ鳥居の前の参道入り口に鉄骨の神燈櫓が建っている。以前は木製であり、昭和十年四月の祭礼を卜して市瀬平一郎・芳村竜二・中谷禎三の三氏の寄進によるものであったが、老朽化したことから、昭和三十八年に鉄骨にして再建したものである。春秋の祭礼にはこの燈櫓に五張の御神燈を灯す。
(六)石神・石碑
鳥居本は江戸時代の制札場であり、旧秋葉街道と上平へのぼる三叉路にもあたり、「左やまみち右あきばみち」の古い石の道標がある。以前は多くの石神仏がここにまつられていたが、明治初年の神仏判然令によって、馬頭観音・聖観音三体・南無阿弥陀仏碑・青面金剛像・西国三十三所観音供養塔などの石仏関係の八体は、約五十メートルほど東にある丸山地籍へ移された。また近くにあった徳本銘号の「南無阿弥陀仏」碑も、昭和の初期に真浄寺の大門へ移転をし、今は徳本畑という地名のみ残されている。
現在鳥居本には児玉大明神・金毘羅大権現・猿田彦大神や道祖神などがまつってある。
・児玉大明神
養蚕の豊作を願って、馬場・両平の養蚕農家が安政四年(一八五七)に建立したものであり、既に江戸時代末期には養蚕が重要な産業となっていたことを知る貴重な遺産である。因みに安政六年には横浜から生糸がアメリカヘ初めて輸出されている。なお、蚕玉大神を児玉大明神としてあるのも時代の古さを感じさせる。
・金毘羅大権現
文化元年(一八〇四)に建立したもので、昔はこの地区にも金毘羅講があり、その人たちが建てたものであろう。江戸時代には「讃岐の金毘羅様」として民衆から崇められ、講仲間が交替で代参したという。しかし明治になってからは神仏判然令がだされ、仏教色を払拭して社号も金刀比羅宮と改めた。
・猿田彦大神
寛政十二年(一八〇〇)に建立したものである。猿田彦は邇邇芸命が高天原から豊葦原中っ国(日本)へおくだりの時、出迎えて道案内をした神で、道祖神ともいわれる。また土地神とか屋敷神としても崇められ家を建てるときにはこの神を迎えて地鎮祭をする。
・道祖神
道祖神は集落のはずれや道の辻にまつられており、道案内の神である。よく男女神が手をつないでいる像や単神像のものがある。鳥居本の道祖神は、自然石に「道祖神」と刻んだごく素朴なもので、建立年代も不明である。
四 社有地
社地の沿革については、天正十年(一五八二)松下城主羽生伊豆守が神田を寄進したとあり、また江戸時代の「小川実記」には「除地・高弐石壱斗・唐土宮」とある。明治維新を迎えると、王政復古により神道は国教として復活し、神社の所有地は官有地に編入され保護と制限を受けるようになった。
(一)神社境内
・喬木村六〇〇五番地 一反六畝二十歩 社有地
神社鎮座の地として維新の時に区画指定される。
・喬木村六〇〇六ノ二番地 四畝十八歩 社有地
・喬木村六〇〇六ノ三番地 十歩 社有地
右の二筆は、明治六年七月、官有地として御料林となったが、明治四十二年に境内地に編入さ
れた。
(二)境外地
・喬木村五千九百九十一番地字鳥居本 二歩 社有地
従来は制札場(江戸時代禁制の立札をした場所)であり、官有地となったが、明治三十九年神
社所有地として払いさげられる。
・喬木村六〇〇六ノ一番地 三畝三歩 社有地
明治六年御料林であったが、明治二十八年より同四十二年まで、十五年間神社風致地区として
保護委託をうけ鋭意努めてきたが、明治四十二年特売を許可される。現在は風致地区となって
いる。
・喬木村五千九百六十二番地字四ノ上
山林 四反六畝二十五歩
文化十一年(一八一四)十一月、神社の風致を添えるためにと、次の諸氏より寄進を受ける。
下平 隆麿 白子健次郎 白子亦四郎 松沢宗四郎
熊谷 勇斉 大島善十郎 市瀬六右衛門 原 政治郎
この地籍の名義は当時からそのままとなっていた。
そこで、平成八年に神社地としての登記変更を始めたが、なにしろ百八十余年前のことであり、しかも県内外の在住者三十余名の方々からの調印が必要となって、約二年の歳月を要した。その手続きは容易なことではなく、平成九年二月二十一日にようやく長野地方法務局飯田支局へ登記、名義変更を完了することができた。登記したことにより、松食い虫による被害を免れるための伐木が可能になった。
こうして、その年の秋の祭典を前にして、寄進者の皆様に感謝の意を表わして、名実共に韓郷社の所有となった。
社地内には杉や檜の大木が十数本あり、村内各神社の御神木の中でも、当社の杉の大樹は目通り一メートル三〇センチ(周り四メートル)もあり、威容と森厳さを示している。
第五章 神 社 の 文 化 財
文化財として韓郷社に保存されているものは、次の何点かに過ぎないが、永禄三年に松下城主羽生伊豆守の献納した絵馬は、喬木村の文化財になっている。
一 絵馬
永禄三年(一五六〇)庚申七月二十七日、羽生明心斉沙弥知登、五十六歳奉納とある。長野県下でも絵馬としては二番目に古く価値あるもので、昭和五十年三月、喬木村の文化財に指定された。
絵馬は元来、神社・仏閣などへ奉納した絵入の額で、その起源は古く奈良時代に遡るといわれる。もともとは神社に神馬として生きた馬を献納したのが初まりであったが、それがかなわぬ者は、神馬の姿を描いて献納したことから絵馬と呼ばれるようになった。
しかし時代がさがるつれて馬ばかりでなく、武者絵・人物・花鳥・連歌俳句、さては算額・相撲や金的中などさまざまな額が絵馬の亜流として掲げられるようになった。
昨今では、受験生が合格祈願を込めて、可愛い絵馬を掲げることが流行している。
・韓郷社の絵馬
牛若丸と弁慶を描いてある彩色の武者絵の二面で、槍鉋削りの桧板に描いてあり、共に剥落が甚だしい。
(一)牛若丸 縦 三十五糎 横 三十一糎
[裏面の文書]
石川や世見のを川のきよければ 鴨長明
福寿延命 国土安穏
諸人快楽 子孫繁盛
月もなが連をた徒年てぞすむ
筆者羽生明心斉
沙弥知登五十六歳
永禄三年庚申七月二十七日発礼日
(二)弁慶 縦 三十七糎 横 三十三糎
[裏面の文書]
寿命長遠諸願成就皆満足 定 家 朝 臣
ちぎりあ里てけふ宮河の夕かずら
なかき世まてもかきてたのまん
宮人の古那の衣のゆうたすき
かけてこころも唯もよすらん
絵は稚拙で動きがなく、剥落が激しいため、彩色や輪郭がはっきりせず裏書の文字などもやつと判読できる程度である。
現在、村の歴史民俗資料館へ委託保存してある。
二 太刀 (一振)
永禄三年(一五七六)前記絵馬とともに、羽生伊豆守が奉納したもので、神殿奥の厨子の長押に掛けてある。
刀身の長さ二尺二寸の大刀であるが、赤く錆びて刃こぼれも甚だしく、とても宝刀とは思えない。鞘も白木で極めて粗雑なものである。
三 獅子頭 (一体)
獅子頭の縁に、寛保二年(一七四二)正月十三日、原要衛門とある。今日の獅子頭に比べると偏平であり、様式的には古いといわれる。江戸時代中期には既に獅こ子舞が奉納されていたことを知る貴重な文化財である。現在、村の歴史民俗資料館に委託保存してある。
四 棟札 (六枚)
応仁二年(一四六八)の菅原駿河守の建納の棟札をはじめ、それ以後の社殿・拝殿改築のものが六枚ある。いずれも韓郷社の沿革を知るうえで極めて貴重な資料である。現在、下平家(祢宜屋)に保管されている。
五 その他の懸額・絵馬
鞘堂内に絵馬(一)活花(一)俳句(一)の三枚の額が掲げてある。
・絵 馬 年代不明であるが江戸時代の作である。
・活花図 相阿弥流生華増田春水軒門人、寛政七卯六月吉祥。
・俳 句 年代不明であるが江戸時代末期のものである。
また、拝殿には金的中・相撲などの額が掲げてあり昔は神前相撲や弓引きが祭の娯楽として行なわれたとを物語っている。
第六章 境 内 の 小 祠
社殿正面の石段をはさんで左右に小祠が十社まつられている。誰が、何時、どこから勧請したかは詳らか
でない。
社殿に向かって石段の左より、秋葉社・菅原社・八王子社・山神社・八雲社・金刀比羅宮・稲荷社・若宮
社の八社がある。
一 秋葉社
・祭神 加具土大神
・本宮は静岡県周智郡春野町秋葉山にある。
・防火・鎮火の神として信仰が篤く、全国各地に分社を持ち、秋葉講として庶民の参詣がたえない。
十二月十五・十六日は礼祭で、十六日の夜半には著名な火祭が行なわれる。
・昔からこの地域は秋葉講が盛んであり、参詣には小川路峠を越えてゆく秋葉街道と天竜川を舟下り
で行く道があり、四〜五日を要して代参した。この祠は講仲間の人たちが勧請して祀ったものであ
ろう。
一 菅原社(天満社)
・祭神 菅原道真
・本宮は京都上京区北野天満宮か福岡県筑紫郡太宰府町の太宰府天満宮の二社であるが、この地域で
は北野天満宮からの勧請が多い。
・学問の神として崇敬されているが、道真の死後京都で落雷など天変地変が続いたので、道真の崇り
であると恐れられ、その霊を鎮めるため京都の北野に祀った。それゆえ北野天神様とも呼ばれてい
る。
・学問を愛好する人たちが勧請したと思われる。
一 八王子社
・祭神 本来は仏神であり、牛頭天王と薩迦陀との間にうまれた八人の王子。一説には天照大神の
御子五男三女を指す。他にも諸説がある。
・本宮は東京都八王子市にあり、近くには岐阜県恵那郡明智町旧郷社がある。
・母と子の守護神として信仰されてきたことから、子宝を願って勧請したのかもしれない。または、
神功皇后と応神天皇のことを母子神という説もあることから、韓郷社の祭神誉田別命との関係から
祀ったとも考えられる。
一 山神社
・祭神 大山祇命
神道の説では山ノ神の祭神は、富士山が木花咲耶媛命、三島神社が大山祇命、比叡山が大山咋命で
ある。従って三島神社から勧請したと思われる。
・山で働く人びとに信奉され、獣類を支配し樹木を管理するといわれ、また春には山をおりて田の神
となり、秋の収穫が終わると山へ帰っていくという。農業神としても信仰されてきた。
・農業神とし、山仕事の安全も祈って勧請したと思われる。
一 八雲社
・祭神 須佐之男命
・八雲社は全国各地にあるが、一番近いのが三重県松坂市にある。命が櫛稲田姫と結婚して、その宮
殿を造る時に詠んだ、
「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣つくる、その八重垣を」の歌にちなんで、「八雲社」
とした。
・韓郷社の主祭神に須佐之男命を祀ってあるのになぜわざわざ末社として迎えて祀ったのだろうか疑
問が残る。
一 金刀比羅宮
・祭神 大物主命(別名大国主命)
・本宮は香川県仲多度郡琴平町にある。標高五百二十一メートルの「こんぴら山」にあることから、
金毘羅様といって親しまれてきた。
・水運の神として船頭や海運業者たちの信奉が篤くまた雨乞の神でもある。特に江戸時代には金毘羅
大権現として全国各地に講がつくられ、参拝者が後を絶たなかった。
・この地域にも金毘羅講があって、その人たちが勧請したのであろう。
一 稲荷社
・祭神 御食津神
・本宮は京都伏見の稲荷大社であるが、この地方では一般に豊川稲荷から勧請することが多いことか
ら、この社も豊川稲荷から迎えたものと思われる。
・稲荷社は古来より五穀豊繞を司る農耕神とされ、正一位稲荷大明神と呼ばれて崇敬されてきた。そ
して、後には商売繁盛、家運繁栄の神と崇められるようになると、商家や大名の屋敷などにも祀ら
れるようになり、八幡社とともに最も多い社となった。今日でも企業や商家の屋敷内に祀ってある
赤い鳥居の社をよく見かける。
また、稲荷社は狐がつきものだが、狐はもともと神の使いとされてきたが、狐の持つ憑依性がいつ
しか稲荷大明神そのものとみなされるようになり、崇められるようになった。
一 若宮社
・祭神 菟道稚郎子命
応神天皇の皇子で大変聡明な方だったので、皇太子の位についたが、異母兄の仁徳天皇(大鷦鷯命)
と皇位を譲りあっているうちに亡くなった。祭神の応神天皇の子どもであるから、若宮と称えたの
だろう。
・本宮は京都宇治市宇治山田の宇治上神社であり、応神天皇・菟道稚郎子命・仁徳天皇の三柱を合祀
している。
・韓郷社は応仁・仁徳両神を祭神にしているので、おそらく祢宜屋の先祖の誰かが配慮して勧請した
と思われる。
社殿に向かって石段の右には、蚕玉社・金刀比羅宮の二社がある。
一 蚕玉社
・祭神 蚕玉大神
・養蚕の神様として全国各地で、蚕玉様・蚕影様・おしら様として、繭がたくさん取れることを願っ
てまつった。特に長野県・群馬県・山梨県など養蚕の盛んだった地方に多くまつられている。
・養蚕全盛期の明治・大正時代にまつったものと思う。
・昭和の中頃までは、小正月にはどこの農家でも、五殼の他に繭がたくさん穫れるようにと、米の粉
で繭玉を作って飾り豊作を祈った。
・喬木は竜東農蚕学校に象徴されるごとく、郡下でも主要な養蚕地帯であった。
一 金刀比羅宮
(前記してあり、説明省略)
第七章 祭 典
祭典とは神官を通じて祭神の御降臨をいただき、海や山の幸を供え、お神酒を捧げ、神楽(獅子舞・舞楽)を奉納して神の御心を安んずるとともに、日頃のご加護を感謝し、あわせて氏子の平安と五穀豊饒を祈願するのが一般的な鎮守の社の祭である。
一 韓郷社の祭の変遷
(一)江戸時代
江戸時代の韓郷社は、代々下平家(奥手・祢宜屋)が神官を勤めており、祭礼は旧暦の二月十五日(新暦四月一日)を祭典日と定め年に一回であった。その他に年中式といって、新年と五節句・毎月の三日を参拝日として氏子の安穏を祈念した。
殊に江戸時代は娯楽が少なかったので、村祭は唯一の楽しみであり、直会には酒を汲みかわして日頃の労をいやし、若者たちは獅子舞や屋台囃子などを繰りだして祭を楽しんだ。領主(代官千村氏)は華美な歌舞音曲を禁止し、贅沢をいましめていたが、年に一度の祭とあって、この時ばかりは大目にみていた。
韓郷社に残されている古い獅子頭には、「寛保二年(一七四二)正月十三日、原要衛門」とあるから韓郷社の祭に獅子舞が奉納されるようになったのはおそらく江戸時代の中頃からと思われる。なお両平と馬場部落で獅子舞を奉納したことから、上部落と上平部落で落で獅子舞を奉納したことから、上部落と上平部落でも屋台囃子を出して祭を一層盛り上げた。
(二) 明治以後
明治維新以後になると、王政復古の新政にのっとり神道が重んぜられ、韓郷社も村社としての社格を与えられ、祭日は四月十五日と定められた。そして新年祭・新嘗祭や皇室の慶事などのたびに神主は神事をつかさどり、国教としての一翼を担うようになった。また、学校教育にも神道が組みこまれ、祭礼の時には氏子の生徒たちは午前中で授業を打ちきり、早帰りを許され祭典に参加した。こうした風習は戦争に負けた昭和二十年まで続いた。
祭は氏子総代が中心になり、それぞれの部落から年番が出て準備から片付けまで万端とりしきった。なお神事は氏子総代と各部落長・年番長や来賓や児童も社殿の前に並び、神主が中心になって進められた。
また、神事が終わると拝殿(御厩屋)において直会があり、大人たちは各自持ちよった重箱の肴をつまみながら酒を酌みかわし祭を祝った。当時は一般の参拝者も多く直会もなかなか盛況であった。
そして、獅子舞は馬場平と両平の青年衆が、上部落と上平部落の青年衆はそれぞれ屋台囃子を繰だし祭を盛りあげた。また、宵祭にも白獅子の舞があり、獅子の前を少年たちが小川渡橋から弓張提灯をかかげ、日の丸の旗を振りながらワッショイワッショイとお宮まで気負って参拝した。上部落の少年たちも「キオイ」に参加した。
その他、祭の当日は弓の愛好者たちが矢場で弓引きを行なった。現在もその名残りとして拝殿の長押に相撲や金的の額がかかっている。また境内から参道にかけては屋台店が何軒も軒をつらね、子どもたちは家からお小遣をもらって、一銭二銭と玩具や飴を買うのが楽しみだった。そして祭が最高潮に達した頃をみはからって投げ餅があり、韓郷の森は人々の喚声で湧きたった。その頃になると直会の宴も果て、からになった重箱を首にかけながら、ご気嫌になって家路へ帰る大人の姿をよくみかけた。
しかし、昭和十二年に日中戦争が始まり、戦争が長期化するにつれて戦時色も強まり、さらに太平洋戦争へと突入すると、娯楽であった祭典は戦勝祈願へとかわっていった。そして、祭の主役をつとめてきた若者たちの多くは出征したり、軍需工場へ徴用されて、祭は以前のような活気がなくなってしまった。
ところで、昭和十八年(一九四三)戦局がいよいよ苛烈を極めた頃、戦勝の祈願と収穫を感謝する意味をこめて、十月四日五日に秋祭をおこなうようになった。以後この日を秋の例祭日と定め、これより春秋二回の礼祭となった。しかし秋祭は春祭のように獅子舞や屋台囃子もなく、どことなく寂しいものであった。
(三)戦後
昭和二十年八月十五日、敗戦となり、新憲法によって神道は国教としての地位をうしない信教は自由となった。そして韓郷社も村社としての社格がなくなったため、上平部落は諸原社・中尾社を氏神として祀るようになった。これ以来、上平部落からの屋台囃子も途絶えてしまい、韓郷社の祭礼は両平・馬場平・上部落でおこなうようになった。戦後間もないころのお祭は物資も乏しく、酒も濁酒であり肴も野菜の煮物ぐらいだった。しかし平和となり帰還してきた若者たちで村はあふれ、祭は以前にもまして活気をとりもどした。そして、戦前のように春祭には獅子舞、屋台囃子、弓道大会なども催され、何軒もの出店が軒を連らね、境内は老若男女でにぎわった。また宵祭の白獅子舞のときは、PTAの協力により子供会が弓張提灯をかかげ、日の丸の旗をふりながら戦前のように元気よく気負うようになった。
また秋祭には青年会が中心となって、昼は相撲大会、夜は映画会などを催して祭を楽しく盛りあげた。
しかし、上部落も昭和四十年代にはいると、机山社を氏神として祀るようになり、上部落からの屋台囃子の参加もなくなり、祭に花をそえるのは両馬の獅子舞のみとなった。
そして、平成四年(一九九二)には上部落より、机山社の氏子として専念したいから韓郷社から別れたいとの申し出があり、円満のうちに別れることになった。
これ以来、韓郷社の祭礼は両馬二部落で行なうようになった。
これより先、昭和四十年代の後半にはいると、高度経済成長にともなって氏子内にも勤め人が多くなり、従来の例祭日では祭の執行が困難になった。特に獅子舞は青年層だったので、平日の祭礼では獅子舞はできなくなった。そこで祭日を春秋ともに、今までの例祭日に最もちかい土曜日・日曜日を祭日とするように定め、今日にいたった。
「祭典費の今昔」
明治十七年以降の祭典費の記録が残されているのでその中からいくつか抜粋して、時代の推移による祭の変遷を考察してみた。(次頁)
[韓郷社祭典費今昔] 明治十七年以降の当社の祭典費の記録があるので抜粋し記入した。
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品名 明17年 明40年 大 2年 昭 5年 昭19年 昭23年
中折 2帖6銭4厘 3帖 17銭4厘 5帖 20銭 5帖 40銭 5帖3円 3帖90円
青海苔 1銭 5つ2銭 5つ5銭 10銭 38銭 35円
鰯 6本1銭5厘 2本6銭5厘 5本4銭5厘 5本3銭 寄付
麻苧あさお) 3ボシ2銭 4ボシ6銭 5ボシ5銭 5ボシ15銭 3ボシ30銭
打粉 1升5銭 10銭 30銭
洗米 7合13銭3厘 7合17銭5厘 5合15銭 6合60円
茶 3銭
菓子 5銭 7銭5厘 10銭 40銭
縄 10銭 1円20銭 30円
清酒 量 1斗4升 5升1合 5升6合 2斗3升1合 2斗2升2合 酒5合焼酎2升
金額 98銭8厘1 1円63銭 2円40銭8厘 21円94銭 97円94銭 700円
薪 1把15銭 1把10銭 1把10銭 1把30銭 1把75円
塩 1合1銭 1合1銭 1合3銭
蝋 燭(中) 5本12銭5厘 5本 12銭 5本 25銭
蝋 燭(大) 1箱 30銭 15銭
晒 布 2尺2銭8厘 2尺5寸4銭 2尺5寸5銭 2尺5銭
杉原紙 20枚 10銭 20枚 10銭 20枚21銭
餅 米 6升32銭 3升67銭5厘 4升1円13銭 3升90銭 6升4円80銭 4升400円
昆 布 2枚1銭5厘 4枚3銭2厘 5枚10銭 50匁20銭 10円
鯉 2本4銭 2本10銭 330匁60銭 寄付 寄付
草 履 1足6銭 25銭 6円
鯛 2本6銭5厘 2本10銭
箒 2銭7厘 2銭5厘 2本10銭 38銭 10円
障子紙 22銭 2帖120円
戸 数 両 平 33戸 35戸 36戸 36戸 39戸 41戸
馬場平 37戸 44戸 45戸 73戸 81戸 92戸
戸 数 合 計 70戸 79戸 81戸 109戸 120戸 133戸
1戸当り祭典費 約5銭8厘 約16銭 約7銭7厘4毛 約34銭 約1円 約54円
………………………………………………………………………………
品 名 昭30年 昭35年 昭40年 昭45年 昭50年 昭55年 昭60年 平 1年 平10年
中 折 1帖25円 25円 2帖60円 62円 − 70円 180円 270円 450円
青海苔 − 1帖130円 2帖230円 1帖135円 2帖300円 320円 300円 400円 −
鰯 2本20円 2本25円 2本40円 2本80円 2本70円 2本70円 2本100円 2本70円 2本180円
麻苧(あさ)2ボシ40円 2ボ 30円 2ボシ35円2ボ50円 2ボシ500円2ボ1500円 1ボシ700円 3ボ3140円 1680円
打 粉 1袋60円 2袋90円 90円 − 70円 180円 − − −
洗 米
茶 30円 30円 100円 600円 750円 600円 − 1200円 750円
菓 子 1斤150円 − 260円 425円 2390円 2560円 2225円 3575円 2331円
縄 2玉210円 1玉200円 1玉230円 1玉280円 1玉620円 − 950円 − 2玉2360円
清酒 量 2.7斗 2斗 2斗 1.5斗 2斗 2.5斗 2斗
金額 14960円 9600円 9800円 8475円 18600円 28750円 27000円 29000円 27360円
薪 100円 50円 150円 120円 300円 − − − −
塩 1k10円 1k10円 − − − − 1k100円 − 1k107円
蝋 燭 5本45円 5本50円 21円 5本100円 5本180円 − − − −
餅 米 6升900円 6升720円 6升1800円 6升1440円 6升4390円 6升3300円 6升5220円 6升6000円 6升11245円
昆 布 1 25円 10円 35円 50円 130円 150円 225円 225円 328円
箒 1本 15円 350円 350円 450円 − − − − −
障子紙 2帖120円 160円 5帖500円 5帖500円 5帖700円 − − − −
戸数両平 39戸 39戸 41戸 41戸 41戸 40戸 38戸 38戸 38戸
馬場平 91戸 88戸 88戸 93戸 100戸 101戸 100戸 103戸 107戸
戸数合計 130戸 127戸 129戸 134戸 141戸 141戸 138戸 141戸 145戸
(上部落分) 72戸 77戸 79戸 − 76戸 − − 73戸 −
1戸当祭典費 120円 130円 120円 500円 900円 1500円 2700円 3000円 3000円
………………………………………………………………………………
以上の表から、次のことが読み取れる。
・明治から昭和初期までは、まだ銭・厘の単位の貨幣が使われているが、戦後昭和二十年以後は今日の
ように円単位のみとなっている。
戦後いかに物価の上昇が激しく、ひどいインフレーションだったかがわかる。
・昭和十九年、二十三年には、供物の鰯、菓子、蝋燭などを欠いており、特に二十三年には酒が五合と
焼酎となっている。この頃は物資が乏しく、清酒はお神酒程度で、直会は藷焼酎か濁酒であった。
・また氏子の戸数は、両平と馬場平は明治時代はほぼ同じであったが、昭和以後馬場平の戸数の増加が
めだち、特に昭和五十年以降の増加が著しい。
二 獅子舞
(一)小川の獅子舞
民俗学の権威で下伊那の獅子舞の研究をしておられる、東京国立文化財研究所芸能元室長、三隈治雄氏によると、下伊那地方の獅子舞の源流は瑠璃寺の獅子舞であり、その特色は宇天王、赤鬼や青鬼、猿などを伴なって舞う舞楽系の様式をつたえており、この流れを汲むものは主に竜西地方の獅子舞に多いという。
そして、小川や阿島の獅子に代表される竜東一帯の獅子舞は、これとはやや異なる練り獅子であって、大神楽系の流れを汲むものだといわれる。したがって獅子の鎮め役である宇天王、その他鬼やオカメ、ヒョットコなども付かず、獅子の警護役が付き添って道中を練り歩く舞である。そのため幌は割竹を亀甲形に編んだ弾力性のある籠にし、しかも籠の前の方を大きくして反をもたせ、さらに獅子頭と胴体の間の首部の幌を長くし、舞手が頭をもって大きく立ち回われるようにしてある。そして荒縄で籠を竹枠に結びつけて丈夫にし、担ぎ手と囃方が幌の中にはいってねり歩いても壊れないようにしてある。
韓郷社の獅子舞は当初から両平と馬場平部落の青年衆によって伝承されてきた。舞のルーツについては明らかでないが、その舞型は竜東地方の獅子舞に共通点がみられることから、近隣の獅子舞を互いに見習って今日の舞の型を形成してきたものと考えられる。
(二)獅子舞の特色
春の宵に耳にした嫋々たる横笛の音は、お祭青年の奏でる稽古の音色であり、春を告げる音として里人の心を和ませる、早春の季節の贈物であった。
韓郷社の獅子舞の笛の音色は、そんな役割をもって氏子衆に温かく迎えられていた。
「里と山」とを二度繰り返し奏でられる強弱の音律は、春の野に胡蝶と戯れる獅子が、静かな音色に託して胡蝶を追い、一瞬、捕らえんとして「静から動」へ地上すれすれまで追いつめる姿が、通称「土ねぶり」と称されている舞の形であると古老から教えられてきた。優雅さと強烈さとを交える舞は、静と動の連らなる美を求める心を表した古人の想いであったと考えることができる。
さて獅子舞の起源は詳らかではないが、小川の里人は下久堅の北原地区から囃と舞を受け伝えたものと口伝されているが、一方北原地区では小川の韓郷社から囃と舞を教えられたものとして、平成四年四月発行の郷土誌「伊那」に、北原地区の住人中村孝一氏の筆により「伊那谷の獅子舞物語」として、こうした内容が明記されている。郷土芸能が地域や集落の域を越えて、民心の繋がりに大きな役割をもったことを知ることができる。いずれが先輩でいずれが後輩であるかなど、今では尋ねる術もないが、郷土に培われた文化として長く伝えていくことが使命であろうと思う。
(三)獅子舞の沿革
小川の獅子舞が何時から始められたか、また何処から伝えられたかは前述のごとく明らかでない。
ただ、韓郷社に伝えられてきた古い獅子頭に、「寛保二年(一七四二)原要衛門」とあることから、江戸時代の中頃には既に獅子舞が奉納されていたことになり、下伊那地方の獅子舞の中でも古いとされる。
しかし宵祭の白獅子は、古老の話によると明治の末頃に青年衆の人数が多くなり、全員が獅子舞に参加できなくなつたので、もう一頭の獅子舞をしようという話になり、その獅子頭を奥手家の下平小助さんが手作りでこしらえて宵祭に舞ったのが初りだという。これが現在の宵獅子である。その時につくった手造の獅子頭は現在社殿の奥に保管されている。
宵獅子の頭や幌を白くしたのは、宵闇の中でもはっきり見えるようにしたものだという。
さて、獅子舞は祭の当日、馬場平の伝承館(会所)をでると、昔の小川村といわれた頃の村境(伊久間村との境)の小川渡橋を出発点とし、馬場平の部落内を練ってから両平地区へはいって練り歩く。獅子は昔から百獣の王といわれ、「厄を払い福を招く」とされてきた。したがって道中の家々からは舞の所望があり、その都度ひとまい舞っては祝儀をいただく。そして最後はお宮へ練りこみ、境内の広場で勇壮に練りおさめをし、さらに神殿前において舞を奉納し、すべてが終わる。
しかし、小川の獅子舞には過去何回か危機があった。それは戦争の最も激しくなった昭和十八年から二十年にかけて、若者たちが戦争に召集されて、村は子女や年寄りだけとなった時である。だがそんな時にも獅子舞だけは絶やすなと、四十才をこえる者までが舞にくわわって祭を続けてきた。
また、昭和初期から戦後にかけての物資欠乏の時代には、笛や太鼓、幌や籠の修理や補充のために、青年会員が日雇作業などに出役して、その資金をかせいで獅子舞の諸道具を補ったときもあった。
そして、昭和四十年代にはいると、高度経済成長によって若者たちのおおくは勤めに出るようになり、従来の例祭日、即ち四月十五日を祭日とすると獅子舞ができなくなった。そこで例祭日に最も近い土曜日・日曜日に祭を実施することによってこれを解決してきた。
だが最大の危機は昭和末期から平成にかけてであった。それは青年層ばかりでなく氏子一般にも祭に対する関心がうすれ、獅子舞をだすのが負担に感ずるようになった。そこで囃子の一部をテープレコーダーで流し、幌をリヤカーにの乗せて引いた年もあった。ところが、たまたま政府による「ふるさと創世事業」を機に、由緒ある獅子舞をたやすなとの声が高まり、獅子頭をはじめ、笛・太鼓・幌や籠・法被など諸道具を交付金により整備をした。また後継者育成についても先輩の努力があって、再び往年の活気をとりもどしつつある。しかし中心となる青年層は年々すくなくなり、そのうえ郷里へとどまる若者も少なくなったことから、依然として後継者の育成は大きな課題となっている。
第八章 神 社 の 管 理 と 運 営
一 神官(禰宜)職の移り変わり
韓郷社の神官は明治維新まで下平家(奥手、祢宜屋)が世襲で勤めてきた。しかし明治になると世襲制度は廃止され、替わって阿島の藩主であった知久頼謙が神官になった。これは廃藩にともなう武家の救済策の一つであり、一面新政府への不満をやわらげるためでもあった。頼謙は阿島の八幡社をはじめ、いくつもの神社の神官を兼務していた。
知久頼謙の死後、その子知久万松があとをついだが、同氏のなきあとは後藤直人氏、下平誠氏が神官となった。
下平誠氏のあとは阿島郭の松永一至氏が神官となり、その後を阿島町の原清重氏がついだ。戦後になると大和知の忠平茂男氏が神官となり、現在はその長男忠平隆三氏が平成三年より勤めている。
二 管理・運営
韓郷社の管理運営は、付録に掲載してある神社庁の作定した宗教法人神社規則を、昭和二十七年に採択し、「宗教法人韓郷社規則」と定めて、これに則りながら従来までの慣例を尊重しつつ氏子総代によって管理運営をしている。
氏子総代は、現在は両平と馬場平の各部落から二名ずつ選出した四名からなり、その主な任務は、春秋二回の祭典の執行と社殿やその文化財の管理および境域について神域らしく清明さを保つことにつとめている。
祭典に関しては「第七章祭典」の項で詳述してあるのでここでは省略するが、社殿および境域の管理については、総代は必要に応じ境域を見回り遺漏のないようつとめており、特に神域を清明にするため風致の保全に努力しいる。
ところが、近年喬木村村内には松くい虫の被害か多くなり、韓郷社の社有林の松も数本立枯れが生じた。そこでこのまま放置をすれば残りの松も全部枯れてしまい、被害も増大すばかりであると判断し、平成八年飯伊森林組合の指導を得て伐採をし、その跡地へ風致と保全を考えて桧・欅の苗を植えた。
その他総代としては、新年を迎える飾り付けや初詣の準備、村・北部ブロック・飯伊地区などの神社総代会等に参加し研修につとめている。
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