白村江の戦
白村江の戦(はくそんこうのたたかい)
朝鮮南西部の錦江河口付近で663年,日本軍と百済復興軍とが唐・新羅の連合軍と交じえた戦い。
白村江(〈はくすきのえ〉ともよむ)は錦江の古名。戦争は2日にわたって行われたが,河口の岸上に陣を張った百済軍は文武王のひきいる新羅軍に打ち破られ,日本軍は海上で蘇定方のひきいる唐軍に敗北した。このため,周留城にたてこもっていた豊璋のひきいる百済復興軍も崩壊した。
この戦いは,660年,百済が唐の高宗と新羅の軍隊に滅ぼされて以後,百済復興を企図した鬼室福信,黒歯常之,僧道竺(どうちん)等が大和朝廷へ救援を求めてきたことに発端がある。
当時,大和朝廷には百済王義慈の子豊璋が人質として来ており,鬼室福信らは大和朝廷の軍事援助を受けるとともに,唐軍に降服した義慈王と太子隆にかわって豊璋を百済王として迎えようとしたらしい。
この要請にこたえた当時の日本は斉明天皇のもとで中大兄皇子が実権をにぎっていたが,643年に百済が洛東江沿岸の旧加羅諸国を新羅から奪い,644年には唐の太宗が高句麗遠征に踏み切るなど,当時の中国,朝鮮の激動から大和朝廷も大きな影響を受けていた。
とくに百済が旧加羅諸国を占領したことは,それまで新羅に代納させてきた〈任那の調〉を百済に肩代りさせ,さらに646年にはこれを廃止して新羅から人質をとるという外交方針の転換を迫った。
しかし,さらに660年,百済が唐と新羅軍に急襲され滅亡すると,大和朝廷は,それまで百済と新羅との対立を利用して両国から調貢を受け取ってきた外交の転換を余儀なくされた。
大和朝廷ではこのような外交のいきづまりを,百済救援の要請にこたえることで打開しようとしたものと思われる。
もちろん古くからの百済との友好関係も一因をなしたかも知れないが,いずれにせよ6世紀以来の大和朝廷の対朝鮮外交はこの白村江の戦をもって終止符が打たれたのである。
鬼頭 清明
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