【月見草出版へ】

韓郷神社社誌

【1章〜3章】 【4章〜8章】 【付録】

【渡来民の氏神様@】 【渡来民の氏神様A】

【渡来民の参考になるサイト】



【1章〜3章】…赤い文字の部分

【 も  く  じ 】

     まえがき                三 獅子頭
     口絵                  四 棟札
     もくじ                 五 その他の懸額・絵馬
第一章 所在地             第六章 境内の小祠
第二章 祭神                 一 秋葉社
   一 建速須佐之男命          二 菅原社
   二 八幡誉田別命           三 八王子社
   三 若宮大鷦鷯命           四 山神社
第三章 韓郷社沿革             五 八雲社
   一 創立について            六 金刀比羅宮
   二 戦国時代              七 稲荷社
   三 江戸時代              八 若宮社
   四 明治から第二次大戦まで     九 蚕玉社
   五 現代               一〇 金刀比羅宮
第四章 建物と社地          第七章 祭典
   一 社殿                 一 韓郷社の祭りの変遷
    (一)神殿                 (一)江戸時代
    (二)鞘堂                 (二)明治以後
   二 拝殿                  (三)戦後
   三 その他の建造物               [祭典費の今昔]
    (一)鳥居               二 獅子舞
     (二)社号碑               (一)小川の獅子舞
    (三)石灯籠               (二)獅子舞の特色
    (四)狛犬                 (三)獅子舞の沿革
    (五)神燈櫓           第八章 神社の管理と運営
    (六)石神・石碑            一 神官職の移り変わり
   四 社有地               二 管理・運営
    (一)神社境内         ◎付録
    (二)境外地              郷神社記
第五章 神社の文化財           神社規則
   一 絵馬                 韓郷社周辺計測図
   二 太刀                 あとがき



ま え が き

 私たちは古くから、神を仰ぐ生活習慣を先祖からうけつぎ、ものごとの節目ごとに神社にお参りしたり、神さまを家の守り神としてお迎えし、手厚くお参りをしてきました。

 地域の守り神として先祖から守り伝えてくれた韓郷社、その韓郷社を礼拝し信仰を重ねることによって、感謝と報恩の気持ちが深められると思いますし、平和で豊かな生活が創り出せるものと思います。

 韓郷社の歴史を知りたいという願いと、かわりゆく祭典や神社関係のことを資料として残しておかなくてはという思いから、神社誌をつくりたいと思ってまいりました。けれどもその機会もないまま何年か過ぎてしまいました。さいわい鈴川英人・下平好上両先生を中心に、原久両平部落長・松岡武夫馬場部落長及び民俗資料館の協力を頂き、神社誌をつくる運びとなりました。総代会も微力ながらも参加して編集の仕事が着々とすすみ、ここに完成することができました。

 神社裏地の山林伐採販売の代金がありましたので、各戸へ一冊ずつお届けすることができました。この本は、できるだけ安く仕上げるために自分たちで作りましたので、粗末なものでありますが、内容をよく理解され役立てていただけますようお願いいたします。

 末筆ながら両先生には公務の仕事をもちながら、社誌を作るために奔走されての作業でした。そのご努力にたいして心から感謝申し上げる次第であります。

   平成十一年十月吉日         韓郷神社総代会 代表  原  芳 美




第一章  所 在 地  長野県下伊那郡喬木村小川両平字唐土社六〇〇五番地

 韓郷社の鎮座する地は、通称お宮山と呼ばれているところにある。西は鞍馬沢が深く段丘を浸蝕し、東は唐沢が上平段丘をけずってできた山陵部分にあたり、もともと地形的には段丘崖である。従って段丘崖下の鳥居本から社殿にいたる間は、適度な傾斜をたもって登りつめる坂道となっており、神社が鎮座まします神域としては、まことに相応しいところである。

 またこの地は歴史的にも、小川渡より小川路峠へと通ずる旧秋葉街道筋にあたり、上平部落へいたる分岐点でもあって、古くから交通の要所であつた。そしてお宮山は、中世小川郷の郷士であった羽生氏の居館、松下城の前衛部をなしており、軍事的にも要衝の地であった。従って韓郷社は羽生氏から篤く信奉されていた。

第二章  祭 神

 韓郷社は建速須佐之男命・八幡誉田別命・若宮大鷦鷯命の三神を合祠する三座相殿の社であり、神殿の中央に建速須佐之男命、左に八幡誉田別命(応神天皇)、右に若宮大鶴鶴命(仁徳天皇)を祀ってある。

一 建速須佐之男命

 別に素蓋鳴命とも書くが別名を勝速日命、または熊野加武呂命・八束髪速佐須良命ともいう。日本書紀や古事記によれば、天地開闢の始め、伊耶那岐命・伊耶那美命の二柱の神により、大八州の国(日本国)および山・川・草・木などなどさまざまな神がお産まれになったあと、伊耶那岐命の左の目より天照大神、右の目より月読命、最後に鼻より建速須佐之男命がお生まれになった。

 そして父の伊耶那岐命より、姉の天照大神は「高天原」を、月読命は「夜の世界」を、須佐之男命は「海原」を治めるように命じられた。

 ところが、須佐之男命はその命令にそむき、青山が枯れ海や川が干あがるほどに泣き叫び、さまざまな災いをひきおこした。そこで伊耶那岐命は怒って、遠い亡き母の国「根の国」に行くよう命じた。すると須佐之男命はその命令がおもしろくなく、姉の天照大神にことの次第を申しあげようとして高天原にあがった。その時天地が鳴動したという。そこで天照大神は恐れをなし、武装して命を待ちうけ対峙した。命は姉君にそむく心のないことを申しあげると、それが本当かどうか誓約をすることになり、誓をたてたが命の方が勝った。そこで命は勝ちほこって高天原の田や畑の溝を埋めたり、糞尿を神殿にまきちらしたりした。また天照大神が機織をしているところへ、馬の皮を剥いで投げこむなどの乱暴をはたらいた。これに怒った天照大神は天岩戸へ隠れてしまったので、高天原は真っ暗になり、いろいろの災害がおこった。

 そこで困った八百萬の神々は天安河原に集まって相談し、天思兼命の知恵で榊に鏡をかざり、雄鶏に刻の声ををつくらせた。この時天宇受売命が空槽を伏せてその上にのぼり、卑猥な姿をして踊ったので、集まっていた神々はどつと笑った。天照大神は何事がおこったのかと天岩戸を開けてのぞいたところを、手力男命が岩戸をおしあけて、天照大神を連れだすことができたという。こうしたことがあって、須佐之男命はとうとう高天原から追放されてしまった。

 高天原から追放された須佐之男命が出雲国に降って斐河のほとりを歩いているとき、上流よりたまたま箸さかのぼっていくと翁と媼が一人の娘を囲んで泣いていた。訳をたずねると八つの頭と八本の尾をもつ八岐大蛇が毎年現われて、八人いた娘のうち七人までが食べられてしまい、今年も大蛇の現われる時期になったので悲しくて泣いているのだと翁は語った。命は哀れに思い八っの桶にいっぱい酒を造らせ、大蛇がでてきて飲んで酔いつぶれたところを退治した。その時一つの尾から剣がでてきたので、天照大神へ献上した。この剣を天叢雲剣(後の草薙の剣)という。

 命は助けた娘の櫛稲田姫と結婚し宮殿を造営した。

 その喜びを詠まれたのが次の歌である。

  八雲たつ 出雲八重垣 妻こみに
     八重垣つくる その八重垣を

 その後、須佐之男命は大己貴命(大国主命)をはじめ多くの御子をもうけられ、出雲系の神々の祖となった。

 また命は、「韓郷の嶋は金銀あり、わが子孫の治める国には浮宝のあらざるはよからじ」と言われ、髭を抜きいて散らすと杉になり、胸毛を抜いて散らすと桧になって、尻の毛を抜いて槇となし、眉の毛を抜いて楠としたとある。韓郷の社名もこうした神話とかかわって名づけられたかもしれない。

 須佐之男命を祀る神社としては次の諸社がよく知られている。

 ・京都市東山祇園八坂神社
 ・埼玉県大宮市氷川神社
 ・和歌山県本宮町熊野本宮大社
 ・愛知県津島市津島神社

 その他全国に散在する氷川神社・八雲社・天王社・祇園社・弥栄神社など数多の神社があり、農業の神・疫病避けの神として信仰されている。

二 八幡誉田別之命

 八幡誉田別之命は第十五代応神天皇のことで、父君は仲哀天皇、母君は神功皇后(気長足姫命)である。三韓征伐のおりに筑紫においてお生まれになった。幼にして聡明で、その容姿は天子の相をそなえておられいた。

 父君仲哀天皇が筑紫で没せられたので、神功皇后が摂政となられ、武内宿禰が補佐した。したがって応神天皇は長い間皇太子にとどまり、七十一才の時皇位につかれたと伝えられている。応神天皇は十一人の皇子と十五人もの皇女がおられ、なかでも菟道稚郎子と大鷦鷯命(仁徳天皇)は聡明でありよく知られている。

 応神天皇は国内においては、東国の蝦夷をしたがえ筑紫など九州をおさめる一方、三韓(朝鮮)との交流も盛んにすすめ、文字・機織・酒造りやその他多くの進んだ文物を積極的にとり入れた。特に百済より王仁を招いて、論語二十巻と千字文一巻を献上させ、わが国に初めて文字を取り入れて、皇子の菟道稚郎子に習わせた。

 誉田別命(応神天皇)の御陵は、大阪府羽引野市誉田にあり、誉田山古墳と呼ばれ、その規模は面積では仁徳陵についで大きく、容積では日本一である。

 誉田別命は神仏混仰の思想と結びつき、八幡大菩薩の化身とされ、武神としても信仰されるようになった。そして後に源氏の守護神として崇められるようになてからは、武士階級に広く信仰され、全国各地に八社として祀られるようになり、その社は一番多いとう。

 本宮は宮崎県宇佐市宇佐神宮であり、そのほか特に名高い神社は次のようである。

 ・京都市八幡市石清水八幡宮
 ・福井県敦賀市気比神宮
 ・福岡市筥崎宮
 ・韓国忠清南道扶余郡扶余神社(戦前)
 ・鎌倉市鶴ヶ岡八幡宮

三 若宮大鷦鷯命

 誉田別命(応神天皇)の第四皇子で、第十六代仁徳天皇のことである。父君の応神天皇は初めは菟道稚郎子を皇太子に定められたが、応神天皇亡きあと大鷦鷯命と互いに皇位を譲りあうこと三年、菟道稚郎子が亡くなられたので大鷦鷯命が皇位につかれた。

 即位にあたり、

   浪速津に 咲くやこの花 冬ごもり
      今をはるべと 咲くやこの花

と詠まれ、灘波の高津に宮を営まれた。そのとき天皇(大鷦鷯命)は高殿にのぼられ、民家からたちのぼる煙が少ないのをご覧になって「朕高台にのぼりて遠望するに、烟気のおこらざるはこれ民すでにまずしく、家にかしぐものなきが故なり、今朕億兆にのぞみ、ここに三年頌声つくらず炊煙転疎なり、すなわち五穀のみのらざるを知る。畿内のうちなお然り、いわんや畿外諸国をや」と詔して、それから三年課役や年貢を取らなかった。従って宮殿の垣根がこわれても修理せず、屋根がいたんでもふきかえなかった。だから民も豊かになり、家からたちのぼる煙も多くなった。

 三年後、天皇は高台にのぼられ、民家から煙の多くあがるのをご覧になって、皇后にむかって「朕すでに富めり、また何をか憂えんや」と大変喜ばれて、次の歌を詠まれた。

   高きやに のぼりて見れば 煙り立つ
      民のかまどは にぎはひにけり

 すると皇后は「今宮室は朽壊す、何をもってか富めるや」といわれると、天皇は「天の道を立つる本は民がためなり、故に朕は民を以って本となす。民貧しければ朕貧しきなり、民の富は朕の富なり」と、おっしゃられたという。

 諸国の役人たちは、天皇に課役を免じてもらい三年経ったので、民は豊かになった。宮殿も壊れていることだし、そろそろ年貢を納めさせては如何でしょう、と申し上げたがお聴きにならなかったという。

 それから三年後、宮殿の修理をお許しになった。すると民は老も若きも先を争ってかけつけ、材木を運びもっこを担ぎ協力したのでたちまち宮殿は完成したという。

 天皇が崩ぜられると、堺市郊外にある百舌鳥御陵へ葬られた。そして天皇のご威徳をしのんで、仁徳天皇と称されるようになった。その御陵の広大なことは日本一である。

大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る神社は、須佐之男命・誉田別命の二神にくらべると少なく、滋賀県大津市の平野神社と京都府宇治市宇治上神社である。特に宇治上神社には、応神天皇・菟道稚郎子命・仁徳天皇の三柱が合祀されている。

  第三章  神 社 の 沿 革

一 創立について

 韓郷社の創立については史料を欠き、いつ誰が何処から勧請したかは詳らかでない。しかし下平家(奥手家・祢宜家)は江戸時代以前より代々韓郷社の神官を。勤めてきたことから、韓郷社に関する多くの古文書やて棟札などが伝えられており、かつ祢宜家の当主であった下平誠氏が大正四年に『韓郷神社記』を記しているので、これらの文献や資料を参考にして韓郷社の沿革を辿ってみた。

 今日韓郷社に関する史料の中で最も古いとされているものは、応仁二年(一四六八)の年号のある棟札である。この棟札には次のような文面が記してある。

     応仁二戊子夏六朔日       
 表  奉造立唐土宮御社 大檀那菅原駿河守
              禰宜 下平正大夫

 つまり応仁二年戊子(一四六八)六月朔日に、菅原駿河守なる人物が大檀那となって唐土宮の御社を造営し、その時の祢宜は下平正大夫であったと記してある。ところが、この棟札の裏面には次のような記載がしある。

     于時永禄二年「下平右京太夫」
 裏  奉造立唐土宮御社 大檀那甲州御代官主水正
              大工  福沢出雲

 従ってこの棟札は永禄二年(一五五九)か、或はそれ以後に補作されたものであると思われる。しかし、わざわざ応仁二年の造立であることを棟札の表に記して後世にとどめようとしたのには、それなりの根拠があってのことであると思われる。従って応仁二年(一四六八)に駿河守が唐土宮を再建したものとして捉えたい。

 ところで、唐土宮を造営した大檀那菅原駿河守とはいかなる人物なのか定かでないが、下伊那史によれば鎌倉時代末期に伴野庄の地頭に、北条氏の一族の伊具氏に駿河入道という人物がいたことが記されていることから、おそらくその末裔か縁のあった人物ではないかと思われる。若しそうだとすればかなり高い地位の人物であり、唐土宮が当時有力な武将の尊崇を受けていた由緒ある神社だった証でもある。

 しかし残念なことに、駿河守なる者はいかなる人物あるかは現在のところ明らかでない。

 さて、一般的に神社創立の縁起について分類すると神型と勧請型の二つの型に分けられる。氏神型は自たちの祖先や土地の神々を祭神として祀った神社でり、勧請型は霊験あらたかな尊い神を本宮から祭神として迎えて祀った神社である。
 そこで、韓郷社の創立について考えるとき、先ず気にかかることは「韓郷」という特異な称号であり、なぜこのような称号が付けられたかである。この点、どことなく渡来人との関わりのある神社のように思える。

 しかも江戸時代の宝暦年代(一七五一〜一七六四)頃までは「唐土宮とか唐土大明神」と称されていることから、なおさらその感を深くする。

 また、主祭神である建速須佐之男命であるが、記紀では天照大神の弟となっており、その一説によると、高天原を追われ出雲へ降った後、その子五十猛命とともに新羅国(古代朝鮮半島の三国の一つ)へ渡り、曽尸茂利に至り、浮宝(樹種)を携えて根の国(出雲)へ帰って、…云々と、記されていることから、これまた渡来系の人々との関係の深い神社だという見方が成り立つ。また記紀神話の国譲りの項に見られるように、大和政権を確立した天孫族に追われた建御名方命が、東国に逃れて諏訪の地に籠って諏訪大明神として祀られるようになったのと同様に、出雲系の部族の一派がこの伊那の谷へも逃れてきて土着し、自分たちの祖神と仰ぐ須佐之男命を祀るために建てたのが、唐土宮ではないかという説も成り立つ。

 また別の視点から考えると、主祭神の建速須佐之男命は農業神であるとともに、疫病避けの神として古来より崇敬されており、この祭神を祀る神社は、先の「祭神の項…建速須佐之男命」で述べたとおり全国各地に多い。

 従って霊験あらたかな神として本宮から勧請して祀ったとも考えられる。この場合の本宮は、京都の祇園八坂神社か、あるいは愛知県の津島神社ではないかと思う。その論拠としては、小川郷は古くは伴野庄に属しており、伴野庄は皇室領の荘園であったことから、皇室や貴族の崇敬の篤かった京都の八坂神社より迎えたとも考えられる。しかし韓郷社にはかつて氏子内に津島講があったと伝えられており、しかも祇園祭の伝承もなく、それに津島神社は伊那谷と地理的にも近く往来もあったことから、津島神社から勧請したと考えるのが妥当であろう。 

 だがいずれも確たる史料を欠くため今後の研究にまたなければならない。

 次に第二神の八幡誉田別命であるが、応神天皇が神格化された神であり、また、第三神の大鷦鷯命は応仁天皇の皇子であって、共に天孫系の神々である。須佐之男命は記紀神話の中では天照大神の弟となってはいるが、もともと出雲系の神であり、誉田別命や大鷦鷯命とは対立する立場の神である。従って主祭神である須佐之男命と同時にこの二柱の神を勧請して祀ったとがは思えない。

 八幡誉田別命を祀る本宮は大分県の宇佐神宮であり、奈良時代に道鏡の事件にかかわって、和気清麻呂による宇佐神宮の神託以来朝廷の信奉が篤くなった。そして平安時代に入ると京都の男山に石清水八幡宮として勧請されてからは、真言密教と結びついて皇室や貴族の信仰を受け、神仏混仰の思想とかかわって八幡大菩薩の化身とされ、武士をはじめ広く庶民の間にも崇められるようになった。

 特に、源氏の守護神として鎌倉に鶴ヶ岡八幡宮として祀られるようになってからは、全国各地に八幡社が建てられ、その社の数は一番多いといわれる。

 なお、第三神の若宮大鷦鷯命は仁徳という称号のごとく、その仁政を仰ぎ尊んで祀り、応神の皇子であるから若宮として併祀したものと考えられる。

 以上三神に対する信仰からみて推測するに、韓郷社の最初の祭神は建速須佐之男命であり、農業神として豊穣を願い、また疫病退散の神とし勧請してきたのではないか。しかしその時期と勧請者は史料を欠くため不詳であるが、かなり古い時代ではないかと思われる。

 そして、第二神の八幡誉田別命を勧請したのは、鎌倉から室町時代にかけて武士の世となり、八幡信仰が盛んになった頃で、伴野庄小川郷に関係のあった武将(荘官)が、八幡誉田別命(応仁天皇)と大鷦鷯命(仁徳天皇)父子を合祀したのではないかと思う。

 郷土史家平沢清人氏の説を借りれば、中世以前の社寺の創立は、土地の有力者、つまり豪族や領主、荘園時代にあっては荘官とか地頭などの権力者が一族の繁栄と安穏を祈念して、霊験あらたかな神仏を勧請して祀ったのが始まりであるいわれ、本来は個人の氏神的存在であった。

 それが中世末から近世にかけて、農村の中で次第に富を蓄え自立する農民が増えてくると、彼等は共同して過酷な領主の権力から身を護り対抗するようになり、村落共同体として成立するようになった。

 そして、こうした農村の発展過程の中から、最初は有力者の私的所有物だった氏神も次第に村落共同体の仲間の神となり、部落の民は氏子となり、鎮守の産土神として祀るようになった。これが今日ある多くの神社であるという。

 以上は、神社創立についての一般論であるが、さて韓郷社の創立となると依然として謎のままであり、今後の研究を俟たなければならない。

二 戦国時代

 戦国時代に入ると武将たちは、一族の繁栄や武運を祈願して神社を再建したり、絵馬や宝刀・甲冑などを奉納し、神田などを寄進することが流行した。

 韓郷社においても前に述べた棟札にあるごとく、永禄二年(一五五九)甲州代官主水正が社殿を奉造したとある。確かに永禄二年は武田信玄が伊那地方一帯を手中におさめている。これより以前、弘治元年(一五五五)には武田信玄によって神之峰城が落とされ、知久氏は滅亡している。従って小川郷も武田信玄の支配下にあり、その一武将であった主水正が甲州の代官として統治していたのは確かであろう。しかし主水正という武将は武田軍団の中でいかなる人物であったかは明らかでない。

 なお、その頃小川郷の郷士で松下城の城主であった羽生氏も、永正三年(一五〇三)に氏乗の宇治社を建立しており、弘治三年(一五五七)には上平の中尾社も再建している。

 また、永禄三年(一五六〇)七月二十七日には松下城主羽生伊豆守が、甲冑・太刀・弓矢・絵馬等を韓郷社に奉納している。これはおそらく武田信玄が上杉謙信と川中島での対決の時、羽生氏も武田軍の騎下となって伊那衆の一員として出陣要請を受けた折に、武運の長久と一族の繁栄を祈願して奉納したものと思われる。現在は甲冑と弓矢は無くなってしまったが、太刀と絵馬は残されている。

 さらに天正十年(一五八二)七月吉日をもって、羽生伊豆守近昌より下平右京大夫に宛てた次のような神田寄進の下文が残されている。

  大明神エ 
   神田先々のごとく出置者也
   仍如件 
      羽生伊豆守近昌(花押)
    神主 右京大夫 
   天正十壬午年七吉日

 この文面から見ると「先々のごとく」とあるから、羽生氏は代々韓郷社に神田を寄進しており、その帰依信仰の篤かったことを伺い知ることができる。

 三 江戸時代

 江戸時代に入ると、幕府は寺社奉行を置き全国の神社・寺院を統括支配し、主な社寺には幕府が直接朱印地(領地)を与えている。しかし韓郷社のような村落内の小さな神社については、それぞれの領主に任せられていた。当時小川村は幕府直轄領であり、代官の宮崎氏と千村氏の預かり地となっており、韓郷社は代官より二石一斗の除地(年貢免除地・黒印地)を認められている。おそらく小川村の中では一ノ宮としての社格を与えられていたものと思われる。

 そして、天和元年(一六八一)十一月には唐土宮の社殿を再建しており、次のような棟札が残っている。

    天和元年酉白
  奉造立唐土宮之御社
         願主 神主藤太夫
            各々敬白
         大工 藤原勘左衛門

 神主は下平藤太夫で大工は藤原勘左衛門とあり、永禄の造営より百二十余年を経ている。戦乱の世も去って平和な時代となったからであろう。

 続いて宝永二年(一七〇五)九月にも社殿を再建しており、先の造営からわずか二十四年であり、その時の棟札は次のようである。

    宝永二乙酉年九月吉祥日
  奉造立唐土大明神御社
         神主 下平勝太夫
         大工 松沢六右衛門

 そして正徳三年(一七一三)八月、石造の水鉢が小川村衆から寄進されており、享保二年(一七一七)十一月には拝殿を再建している。大工は同じく松沢六右衛門とある。

 下平誠氏はこの件について「ココニ拝殿ノ再建初メテ見へタリ、ソレ以前ハ古書湮滅シテ詳ラカナラズ」と述べている。 

 拝殿の再建とあるからには、それ以前にも拝殿があったことを意味する。さらに享保十三年(一七二八)三月に社殿を再建している。

 棟札 享保十三戊申三月吉祥日
   奉造立唐土大明神廟
         神主 下平治太夫
         大工 湯沢六右衛門 

 宝永四年(一七〇五)の再建の時と同じく僅か二十四年の間隔をもって建造しているが、これは当時の社、殿は現在のように覆屋がなかったために、二十数年でもって建替えが必要だったと思う。

 それから元文四年(一七三九)には社殿前の石段を築造するとあり、石工は諏訪の片倉からわざわざ招いていることから、石段の構築にも細かい配慮が見られており、神域も次第に整備されていった。

 また、神社に保存されている獅子頭には、寛保二年(一七四二)の銘があり、既にこの頃には祭礼に獅子舞が奉納されていたことになり、郡下でも獅子舞の先駆をなすものであったと思われる。

 続いて、宝暦七年(一七五七)六月二十八日にも社殿を再建しており、これが今日の社殿で、その棟札には次のように記してある。

    宝暦七丁丑年六月廿八日
  奉造立韓郷大明御社
         神主 下平近江
         大工 松沢正兵衛

 ここに初めて韓郷大明神との称号が現われてくる。おそらく今日のように「韓郷」と呼ぶようになったのはこの頃かと思われる。しかし、なぜ社名の文字を変更したかわからない。

 なお、この当時の記録である「小川実記」によれば、次のように韓郷社のことが記載してある。

  宝暦六年(一七五六)
   信州伊那郡小川村高反別明細帳
   除地 高弐石壱斗   唐土明神
   是ハ二月十五日祭礼相勤申候

とあり、称号は「唐土明神」のままとなっているところをみると、当初は両方の呼び方があった思われる。

 そして「伊那資料叢書の神社仏閣記」には、喬木村の神社関係について次のように掲載してある。

  ・小川村下平  祢宣屋
    唐土大明神   二月十五日祭礼
            神主 下平
  ・阿嶋村   八幡宮
  ・伊久間村  諏訪大明神
  ・富田村   諏訪大明神

 これで見ると、当時は一箇村一社となっており、小川村としては韓郷社が一社だけである。また唐土大明神を筆頭に記載してあり、しかも二月十五日祭日・神主下平と、他社に比し詳細に記してあることから、喬木村地域の中では一番社格が高かったのではないかと思う。

 続いて寛政六年(一七九四)にも拝殿を再建しており、その棟札は次のように記してある。

    寛政六甲寅年三月吉祥日
  奉造立韓郷大明神御拝殿
         神主 下平近江
         大工 湯沢六右衛門
         湯沢岩次郎
         原安兵衛

 また、鳥居本の石橋については、文化四年(一八〇七)春の築造とあるが、古い石の鳥居と石段についての記録はなく、誰がいつ寄進したものか明らかでない。

 なお文化十一年(一八一四)十一月、神社の神域を広めて風致を添えるためにと社殿の裏手の山林、喬木村五九六二番地、四反六畝二十五歩の寄進をうけている。『詳細については神社地の項を参照』

 石灯籠については、湯沢重左衛門寄進の二基は年代は不明であるが、羽生九右衛門寄進の一基は境内の鳥居の右側に建っており、天保三年(一八三二)の銘が刻んである。なお文久二年(一八六二)には宮下藤兵衛より、社殿前の石段の寄進がなされた。

 さらに翌文久三年(一八六三)には社殿の覆屋を再建し、あわせて拝殿も建造している。ここに初めて神殿の覆屋についての記述が出てくるが、再建とあるからそれ以前にも覆屋があったことになる。また下平誠氏はこの項で「コレガ今日ノ拝殿ナリ」と記している。当時の神主は下平近江であったから、現在拝殿(御厩屋)に懸っている下平近江と記入してある棟札はこの時ものである。

 また、同年には田中登久女より一対の石灯籠が寄進されており、文化・文政から幕末にかけて次第に神域が整備されたことが伺える。

四 明治から第二次大戦まで

 明治政府は明治元年(一八六八)王政復古の大号令を発し、天皇制を中心とする日本古来の政治の復活をはかった。そして日本は古代から神国であるとの考えから神仏判然令を出し、遠く平安の延喜の治にならい、その最高機関として神祇官を設置して、全国の神社および神官を統括し、官幣・国幣の大・中・小社・府県社・郷社・村社・無格社と格付けをおこなった。

 明治五年(一八七二)十一月喬木村においても、次の神社が明治政府より村社として指定されている。

  阿島の八幡社  小川の韓郷社  伊久間の諏訪社
  富田の諏訪社  大和知の大和社  氏乗の宇治社
  大島の大島神社  加々須の大宮諏訪社

 以上の八社であり、旧小川村内の大和知・氏乗・大島にもれぞれ村社が設けられたことから、当時の韓郷社の氏子の範囲は小川下平と上平を含めた範囲であったと考えられる。
 なお、明治初年に郡役所へ提出した書類には、韓郷社の氏子百八十五戸とある。従って当時小川村(氏乗・大和知・大島を含む)戸数は三百二十戸内外であったから、小川下平・上平の戸数は二百戸前後と見ることができる。従って当時は上平部落も氏子であり、明治二十二年の社殿葺替の時の部落別負担金帳にも、予算総額十九円の内、馬場平三円・両平三円・田本平二円・上耕地四円・上平七円となっている。
 なお、明治以後における社殿ならびに拝殿の修理についてみると次のようである。
 ・明治二十二年(一八八九)社殿の屋根葺替 瓦葺
 ・明治三十一年(一八九八)拝殿の屋根葺替 藁葺
 ・明治三十五年(一九〇二)拝殿の屋根葺替 藁葺
 ・明治四十一年(一九〇八)拝殿の屋根葺替 藁葺
 ・大正六年  (一九一七)社殿の屋屋葺替 瓦葺
 ・大正九年  (一九二〇)拝殿の屋根葺替 藁葺
 明治二十二年の社殿の葺替は瓦葺とあるから、これは覆屋のことであろう。また拝殿の葺替を度々しているのは、麦藁葺だったからであり、各戸から麦藁を拠出してもらって葺替を行なった史料が残されている。
 なお、大正十二年(一九二三)には参道の大改修を行なっており、これが現在の鳥居本から韓郷社まで真っ直ぐに伸びている参道である。
 それ以前の参道は、鳥居本の古い石段を登って、杉の大樹の脇にある旧い石の鳥居をくぐり、細く曲りくねった参道を登らなければならなかった。
 従って参道の新設は多年の念願であり、設計図を見ると延長六十二間(約一一二メートル)、幅員は二間(三・六メートル)を堀り割り、両側に石積をする大工事で、その見積額は九百四十七円三十一銭九厘とある。当時の金額としては多額なものであり、氏子全戸に寄付を募って完成したとある。その時の寄付帳には上平の松島三吉氏と池田藤市氏も氏子総代として名を連ねているから、当時は上平部落も氏子であったことが伺える。
 しかしその後、上平部落は諸原社と中尾社を産土神として祀るようになり、昭和の初期頃から徐々に韓郷社から分離し、昭和二十年代には屋台は出すが客分として参加する程度になり、それも何時とはなしに途絶えてしまった。
 さて、時代は大正から昭和へと移り、昭和初期に始まった世界大恐慌は軍国主義の台頭を招き、日本を大陸進出へと向かわせ戦争への道を歩むことになった。そして神道が戦意高揚のために利用されるようになって、戦争に召集された兵士たちは必ず産土神社の前で武運長久を祈願して出征した。また、学校教育の中へも神道が国教のごとく位置づけられ、日本は神国であると教え込まれ、村社の祭礼には氏子の生徒達は授業を午前中で打ち切り参列するようになった。
 こうした天皇制中心の国粋主義の名残りは、今日も韓郷社の一ノ鳥居の所の旗枠に「摂政殿下(昭和天皇)御成婚記念」として刻まれており、またその傍らの社号碑「韓郷神社」の文字は陸軍大将松井石根謹書とあることから伺える。

五 現 代
 戦後の憲法改正によって政教分離が行なわれ、昭和二十一年(一九四六)には神社も宗教法人となり、国家の保護や干渉もなくなり、氏子たちの自主的な管理運営にまかされるようになった。そして全国の神社を統括するための神社本庁が発足した。
 神社は一時民心から離れたが、戦後の復興とともに日本古来の伝統と文化が顧みられるようになり、祭も戦前のように復活した。殊に娯楽の少なかった戦後においては、村祭は唯一つの楽しみの場であり、さまざまな余興が取り入れられ盛大に行われるようになった。
 そして、昭和四十三年(一九六八)には明治百年を記念して、昭和の大修理が行なわれた。その主な事業は、社殿の鞘堂の再建・拝殿の修理拡張・社殿周囲の石垣の築造・石段の修理等であった。この費用については韓郷社の社有林の一部を売却した代金と寄付金をもって当てられた。
 完成祝賀会はその秋の例祭にあわせて行なわれ、当日は花火を打ちあげるなど、かつてないほど盛大なものであった。
 この時に建てた記念碑には次のように記してある。
 『記念碑銘』 
  明治百年を記念して
 ・社殿を一段高層尊厳なる聖地に奉還す
 ・拝殿を新築拡張して神霊を奉斎す
 ・石垣・石段を新設或は改修して神域を清明にして祭祀の隆盛を期す
 ・茲に韓郷神社氏子の総力を結集してこの大事業を完成する 
  昭和四十三年十月
  委 員     下平益夫  下平真広  高橋幸二  市岡 正  原 正香 
          塚原穂一  市瀬匡雄  市瀬 寛  原 儀一  塚原 利
  特別寄進者
   社前の石段  高橋幸二
   中段の石段  松岡史郎
   社前の石畳  湯沢秀蔵
  請 負     池田泰穂
  大 工     原 清美
  石 工     小池周治
 なお昭和六十年(一九八六)宮下房男氏より、拝殿前の庭へ石像の狛犬一対の寄進があった。
 平成二年(一九九〇)には、「ふるさと創生事業」の一環として村より助成金を受けて、韓郷社の獅子舞を保存するため獅子頭・幌・籠・囃の笛・太鼓などを整備した。
 そして平成四年(一九九二)には、社殿の鞘堂の屋根と拝殿の屋根が破損し、雨漏りも見られるようになったので全面的に葺き替えをして、同年十月三十一日に竣工祝を行なった。
  費 用     二百九十三万九千七百四十二円
  請 負     吉川工業(伊久間)
 両馬部落は一戸当たり一万五千円を拠出し、上部落は全体で二十一万円拠出して工事を施行し、余剰金でもって旗竿二基と神燈五張を新調した。 
  氏子総代    原 芳美  原 一也  松沢敏男
          鈴川英人  市瀬 誠  木村 繁
 なおこの時上部落より、机山社の氏子として専念したいから韓郷社より分離したいとの申し出があり、双方話し合った結果、円満和解のうえで別れることに決定した。従って平成五年(一九九三)以降は韓郷社の氏子は両馬部落のみとなった。

   

【韓郷神社社誌へ】