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韓郷神社社誌

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【渡来民の氏神様@】…文化の融合

まえがき : @『高麗神社と高麗郷』の序文 : A『高麗神社と高麗郷』

ま え が き

今の韓郷社という名前は1650年代までは、唐土社という名前であったという。それからお宮の地番をみると喬木村字唐土社六千五番地となっている。

ここの人たちは普通、お宮のことを韓郷様とよんでいる。子供のときからのことである。そんなことはどっちてもいいのだが、なぜ「からくにさま」なのでしょうか。「からくに」は当然ながら、唐または韓、漢からきた言葉にちがいない。どうして?………ときいても、誰も応えてはくれなかった。

納得のいく説明はなんにもなかったのです。

だれでも「からくに」は朝鮮にちがいない、と感じていたはずです。朝鮮だとすると何となく日本人という意識からするとプライドが許さなかったのでしょう。思い上がった意識で、考えてみるとじつは恥ずかしいかぎりなんです。

それというのも、考えて御覧なさい。日本文化の土台になっているのは、ほとんどのものが大陸文化をとりいれ、渡来民の人たちからほとんど教わったものばかりなんですね。帰化人といってもいいでしょう。中国や朝鮮は先進国だったわけです。かれらはたいへん優遇されていたはずです。

このことは誰ひとりとして、否定する人はいないでしょう。

40年ほど前になると思いますが、結婚してから、この地の韓郷様の「からくに」を調べたことがありました。飯田の図書館へいって神社年鑑で「韓」のつくお宮をしらべました。図書館の人は親切でわざわざ長野図書館から、細かく出ている本を取り寄せてくれました。日本海側におおくありました。とうぜんといえば、当然でしょう。

ともかく、こうして韓郷社の由来とか背景に気を配るようになりました。



それではいくつかの項目に分けて話をすすめていきましょう。

高麗神社

高麗神社(こまじんじゃ)は埼玉県日高市新堀833にあります。
生物にはほんらい生命保全とその繁栄をもとめる天賦の意思があると考えていた私は、長野でこの種の講習会があってそれに参加し、その講習開催関係者の中に高麗氏の娘さんが紹介されたのです。高麗氏とはめずらしいことだと思った私は、「めっけたろ:CD-RОM」と「ゼンリン:CD-RОM」から高麗神社をみつけだしました。

そこを訪ねて一つ年上の昭和2年11月14日生まれである高麗澄雄さんにお行き会いしたのです。自己紹介と訪問の趣旨をお話ししますと、喜んでいろいろお話してくださいました。

ここに紹介しますのは、その折いただいた本人編集の『高麗神社と高麗郷』という著書の一部と簡単な『パンフレット』、および『インターネットで調べたこと』です。

@『高麗神社と高麗郷』の序文    昭和六年七月  文学博士 中山久四郎とある

序 文

 武蔵国に高麗の名あるや、久しく且つ広し。
 武蔵国の高麗郡及び新羅郡、甲斐の巨摩郡、摂津の百斉郡、その他猪国に於て朝鮮古代の国名を以て、市町村の名、山川の名、原野の名となすもの少なからざることを思えば、朝鮮の歴史的関係、及び朝鮮融和共栄の上より見て、一種無限の思慕感懐の念の油然として起こるを禁ずること能はざるなり。
 武蔵国の高麗郡につきては、首府東京に近きを以て、之に對する感情は、特に切實にして甚だ深きものあり。

 天智天皇の御世に當り、朝鮮古代の高麗、百済二國の亡ぶるや、其國の上下の人の我国に移住帰化して、つひに王臣となり、日本國民となり、長く王室を護り、國事に尽力せし者多し。
 続日本紀巻三を按ずるに、文武天皇大寶三年(西暦七〇三年)四月、従五位下高麗若光に王姓を賜ふ。ついで元正天皇霊龜二年(西暦七一六年)、駿河、甲斐、相模、上總、下總、常陸、下野、七國在住の高麗人一千七百九十九人を武藏國に遷して高麗郡を置かれたり。[続日本紀巻七」これ武藏國に多教の高麗人が移住群居して、高麗といふ郡名の新設せられたる始なり。

 當時武藏國は古代日本の帝都所在の地を去ること数十百里、王化未だ洽からず、所謂辺境の地方にして、帝都所在の畿内方面に比して、地は廣漠、人は稀薄。現時の如き繁榮ならず。

   分けゆけど花の千草のはてもなし
        秋をかぎりの武藏野の原
   出づるにも入るにも同じ武藏野の
        尾花を分くる秋の夜の月

の歌によりて、以て王朝時代の武藏野の廣漠無極の如き状態を想見すべし。斯の如き処に多数の高麗人が既に今より一千二百餘年前に、其開墾拓殖に従事して、以て現代繁榮の基をたて源を發せしことは、武藏國、東京府、埼王縣等を云々する者の必ず注意もし恩念もすべきことなり。

 霊龜二年より一千一百八十年を経て、明治二十九年に至り、高麗郡は埼玉縣入間郡に併合せられ、もはや郡名としての高麗はなしといへども、高麗を冠する地名の現存するものは猶少なからず。川越、飯能方面に於ては、高麗村あり、高麗本郷あり、高麗川村あり、南高麗村あり、高麗峠あり、高麗川あり、高麗王の墓あり、高麗神社あり、高麗山聖天院あり。いづれも皆高麗郡の史蹟を明らかに示すものなり。若しそれ高麗姓の史上に著はれたる者を挙げんか。

 高麗福信(後に高倉姓を賜はる)は、聖武天皇以後の六朝に仕へて、従三位に昇り、造宮卿、弾正尹、武藏守、近江守、但馬守等に瀝任し、桓武天皇延暦八年、八十一歳を以て薨去せられたるを始めとして、高麗姓の出身にして武藏其他諸國の地方長官等となりし者少からず。

武藏七黨系図を見るに、丹黨に高麗五郎経家あり。後三條天皇の延久年間には、高麗泰澄あり。正平、應安、嘉慶年間には、経澄、季澄、義清、希弘ありて、高麗郡を領したり。又武藏鐙は高麗郡に遷されたる高麗人の造る所なりといひ、「高麗錦紐ときさげて」「韓衣襴スソ打交へ」といふが歌の詞によりても、東國と高麗人との因縁は決して浅からざるなり。

 武藏國に近き相模國の大磯地方には高麗寺山ありて、遠人帰化の跡久しく存し、武蔵国より遠く、また武藏國に移住したる高麗人とは全く別派のものにして、時代も亦近世に下ることなるが、熊本の名儒高本紫溟(文化十年歿、享年七十六)の祖先は李氏朝鮮王庶族にして、帰化の後高麗の高と、日本の本とをとりて高本氏と称せりといふ。又九州の都邑には高麗町の町名あり、社前には高麗犬あり。雅楽には高麗楽あり、また高麗笛あり、陶器には高麗焼あり、畳には高麗縁あり、芝には高麗芝あり、俳優高麗藏あり。昭和五年十月十九日(日曜日)の東京中央放送局(JOAK)の午後の放送の西洋音楽のフルート独奏には高麗貞道君あり。

 高麗という名称と日本文化との関係因縁は、実に多種多方面に亙り、深く久しく且つ広しといふべし。

 東国在住の高麗人の本部としての高麗郡(埼玉県入間郡)の高麗村の名族高麗氏は、高麗王若光以來の舊家にして霊龜以來、世々絶えずして、今や既に一千二百餘年の久しきに至る。祖先以來、功徳の世に立ち人に存すること、以て見るべきなり。當主高麗興丸君及び其子明津、博茂二君とは年來の交誼あり。
今般同家は、祖先以來の高麗史傳を修成し、また高麗氏系図を編輯して、以て先徳を表し、且つ後世に傳へんとす。其本を思ひ祖を懐ふの至誠は以て追遠帰徳の美挙として人を感ぜしめ、又内鮮融和の史傳と時務にも補益することも、亦大なりといふべし。

 余深く高麗の史傳に對して思を致し、且つ今高麗氏の美挙に感する所あり。乃ち蕪陋を顧みず、平生所思を題して以て序文となす。

A『高麗神社と高麗郷』

 この「高麗神社と高麗郷」という本は昭和6年11月25日初版と
 なっている。系図の年齢から高麗興丸によって起稿されたも
 のと思われます。温厚謹直、勉学に努めて私塾「殿山書院」
 をひらいて子弟の教育にあたる学殖に深い方でした。ですか
 らこの本に出てくる用語は現代の私たちでは、すべてを理解
 できないような難しい表現です。
 筆者の人となりを偲ぶ意味を含めて原文のままを掲載します。
 ご判読、お調べください。半角カタカナと〔括弧〕はつけた
 しです。

 武藏野の尽くる所、秩父嶺の漸ヨウヤく峙ソバダつあたり、高麗入間の二流に沿ひ、日高市 (旧高麗村高麗川村) を中心に、東西三十粁、南北十粁に亘る村々、これが奈良朝の昔、霊龜年間に、高麗人一千七百九十九人を移して、安住の地たらしめた舊の高麗郡である。

 日高市(舊高麗村)の西北隅、大字新堀字大宮の中央に、謂はゆる御殿の後山を背景として、高麗川の清流に臨んだ景勝の地に鎮座まします御宮がある。高麗神社と號イふ。齋イツ〔あがめまつる〕かるゝ神々は、高麗王若光ジャッコウ、猿田彦命、武内宿禰の三柱であるが、別掲の高麗氏系図に、若光の卒するや、従ひ來れる貴賤相集って、尊骸を城外に葬り、神國の例に従ひ、霊廟を御殿の後山に建て、高麗明神と崇め、郡中に凶事あれば、則ち之れに祈るとあるのを見ると、はじめは高麗王一柱を祀ったので、後に他の二柱を合祀したものであらう。

 この祭神たる高麗王若光とは如何なる事歴の方か。又如何にしてかくも隔絶した海東の地に移り住まれたか。之れを思ふと、興亡の歴史はうたゝ後人をして涙なきを得ざらしめる。
そもそもわが国と朝鮮との交渉が遠く神話時代に溯ることは、学者のひとしく認めるところであるが、それはしばらく措くとするも垂仁天皇の御代に於ける新羅王子天日槍の来朝を初めとして、彼我のあいだに深き交渉があり、なつかしい親和が続いたことは、歴史に詳らかなるところである。

 わが国の歴史に於いて、高麗人の名が最も早く載せられてあるのは、日本書紀なる韓人池の項である。即ち応神天皇の七年秋九月、高麗人百済人任那人新羅入が來朝し、武内宿禰が詔を奉じ、此等来帰の韓人をして池を造らしめ、其池を韓人池と號ナズけた、とあるのがそれであるが、それより以後は、絶えず使節の來往があって、高麗及び高麗人の名は所々に見えて居る。

 言ふまでもなく、當時の高麗は、松花江の上流扶餘の地に興った、東明聖王高朱蒙を建國の祖とする、高句麗である。即ち王建を祖とし、開城に都して、新羅滅亡後の半島に君臨した、後の高麗とは全然別個のもので、晉人をして「東國文字無し、高句麗独り之を有す」と言はしめた東方文化の國である。

 高句麗は廣開土王(好太王)の時國勢最も振ひ、大に國土を開拓し、遂に南下して朝鮮の北半を平げた。次いで其の子長壽王は都を國内城より平壌に遷した。其の盛時に於ける版図は、現今の忠北江原両道以北瀋陽長春のあたりから、遼河以東の遼東半島一帯、東は遠く浦塩斯徳に迄及んで、勢威隣國を壓し、北方の強國として、隋唐の勢威にも屈せず、終に一戦して隋の煬帝を破り、再戦して唐の太宗に克ち、太宗をして「魏徴若し在らば我れをして此の行あらしめざりけんに」と悔恨せしめた程である。

 この先進國高句麗が、我國の文化に少なからず貢献したのはもとより當然のことで、たとへば書紀の仁徳天皇十二年の條に、七月高麗國より鐵盾鐵的を貢タテマツる、とあって、我國武器進歩の上に、重大な影響を與へた事を證明してゐる事實の如き、又仁賢天皇の六年に、我が國の使者日鷹吉士の乞にまかせ、工匠を送り來って、建築工藝の上に著しき進展を見せた事実の如き、更にまた、推古天皇の十七年には、僧曇徴を送り続いて三十三年には僧恵灌を送って來て我が佛教文化の建設に貢猷したるが如き、数へ來れば實に枚挙に遑イトマなき程である。

 殊に前記曇徴の如きは、五経にも通じた知識で、かの英邁天縦の聖徳太子に佛教を講じ奉ったと傳へられ、また彩色及び筆墨を製する技に長じ、碾磑ヒキウスを作ることもよくしたと云はれる。碾磑は實に彼によって傳へられ,我が國民の日常生活の上に大なる利便をもたらしたのであった。

 かく観來ると、高句麗が新羅百済と共に、我國文化の精紳物質両方面に、如何に多く貢献する所があつたかは、多言を要せぬことであらう。

 この東方の文化國、強剛四隣に鳴った雄邦の高句麗が建國後七百餘年、我が天智天皇の御代、高句麗國王第二十八代寶藏王の代に到って、唐新羅の聯合軍の來冠により、遂に亡國の悲運に際會したのである。

 國土を蹂躙された高句麗王族とその遺臣とが、難を避けて日本に來た事は、従來の關係から見て、極めて自然の事である。高句麗の貴賤が続々と海を渡って我國に亡命し來ったことについて、當時の史書には、何等記す所はないが、それは、
書紀天武天皇十四年二月の條に

  「丁丑朔庚辰大唐人百済人高麗人并百四十七人賜爵位」


とあり、同じく
書紀持統天皇元年の條に

  「三月乙丑朔己卯以投化高麗五十六人居干常陸國賦田受稟使安生業」


と見え、更にまた
続日本紀元正天皇の霊龜二年五月の條には

  「辛卯以駿河甲斐相模上總下總常睦下野七國高麗人千七百九十九人遷
  干武藏國置高麗郡焉」


と明記されてあることによって、十分に推知されるであらう。

 按ずるに、亡命高句麗人は、來朝当初に於ては各地に分属せしめられて居たものであらうが、後になって、寧ろ之を一地方に聚落せしむることが、彼等を遇する適當なる道であり、また彼等を慰むる所以でもあると考へられ、更に又、未開拓の茫漠たる大武藏野を、彼等に開拓して貰ふことが、最も策の得たるものと考へられたのであらう。かくして新に置かれたのが高麗郡であった。

そして此の高麗郡に移された高句麗人の首長となって彼等を統率したのが、
続日本紀文武天皇大寳三年四月の條に

  「乙未従五位下高麗若光賜王姓」


とある高麗王若光その人であったのである。

 高麗王若光ジャッコウに關する文献としては、右続日本紀と高麗氏系図との外に徴すべきものは無いが、傳説によれば、若光の故國を去って我が國に投化するや、一路東海を指し、遠江灘より更に東して伊豆の海を過ぎり、相模湾に入って大磯に上陸した。
 さうして邸宅を化粧坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に営んで、其處に留まり住んだが、間も無く我が朝廷より従五位下に叙せられ、次いで大寳三年には王の姓カバネを賜はった。

 ここに謂ふ「姓」は、鎌足に於ける藤原、秀吉に於ける豐臣等の謂はゆる苗氏とは其の性質を異にし、臣オミ、淳、朝臣アソン、眞人マヒト等と同じき謂はゆるかばねの姓であって、若光が高句麗王族なるが故に、特に王の姓を賜はったものと思はれる。「こきし」は王を意味する朝鮮語である。

 さるほどに若光が王の姓を賜はってから十四年目の霊龜二年丙辰に至り、駿、甲、相、両總、常、野、七國在住の高句麗人に對して、武藏野の一部を賜ふ旨の優詔が降った。
 同時に若光は高麗郡の大領(郡長)に任ぜられたので、やがて大磯を去って武藏高麗郡に赴いたが、その後も大磯の國人等は、長く王の徳を慕ひ、中峯の顛イタダキに高來神社上の宮を齋イツき、又その麓には下の宮を建てて高麗王の霊を祀った。そして隔年七月の大祭には、飾船二艘を沖に出して、鰒アワビ採りに鰒を採らしめ、それを船中で調理して神前に供へ、舟子カコたちは祝歌唱へて式を執り行ひ、王の高徳を欽仰キンコウしたといふことである。舟子の唱へる祝歌は次ぎの如きものであった。

  抑々ソモソモ、権現丸の由来を悉コトゴトクく尋ぬれば、應神天皇の十六代の御時より、俄
  に海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遙かに沖を見てあれば、唐船急ぎ八の帆を上
  げ、大磯の方へ棹をとり、走り寄るよと見るうちに、程なく汀に船は着き、浦の漁
  船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも、翁一人立ち出でて、櫓に登り聲をあげ、汝等そ
  れにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越の高麗國の守護なるが、邪樫な
  國を逃れ來て、大日本に志し、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守穫となり、子孫
  繁昌と守るべし。あらりありがたやと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上ら
  せ給ふ。御代よりも、権現様を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいふなれよ。
  ソウリヤヤンヤイヤン。

 高麗王は今もなほ大磯の里人に崇敬され、高來神社の祭典は、古式によって盛大に行はれて居るのである。

   高麗王の武藏野入りは、高句麗滅亡を距る四十年後で、王も可なりの高齢であったであらう。高麗郡に着くや、居を日高市大字新堀字大宮の、今社殿の在る所に卜〔亀の甲を焼いて、そのひび割れで吉凶をうらなうこと。うらない〕して、全郡を統べられたが、其の後幾星霜を経、某年某月を以て、遂に日本に於ける新封土の高麗に逝いた。

故國を去る時は、日本の援けを借り、義軍を率ゐ故土に還って光輝ある高句麗王國を再興せん、と心中固く期したことであらうが、時勢の推移は如何ともし難く、故國回復の希望も全く絶えて、武藏野の一隅にあへなくなられたのであらう。  其の心事は實に聞く人の暗涙を誘ふのであるが、但だ、朝廷の優遇が尋常でなく、且つ郡民の尊敬を一身に集めた事は、王の家系と、功績と、入格と、慈愛とに因るものではあるが、せめてもの慰めであったであらう。

 有爲の才能を有し乍ら、富貴榮達を願はずして、一意郡民の幸福を謀り、一身を犠牲にせられた首長高麗王の訃を聞き傳へた高麗郡民は、貴賤老若悉く來って其の卒去を悲しみ、泣いて尊骸を葬り、又霊廟を建てて高麗明神と崇めた事は、高麗氏系図に詳かである。

 國難を避けて、東國武蔵の一隅に、せめてもの安住地を見出した高句麗亡命の王臣一同が、故山扶餘の地を偲ぶよすがにもと、秩父連山を後にして遙かに大武藏野を展望する高麗の郷を選んだのは故あることと言はねばならぬ。

 かくして高麗郡に聚まった高句麗人は、郡のこゝ、かしこに散在して、武藏野開拓の斧を振ひつゝ、高句麗以來の文化保持に努めてゐた。従って、奈良天平の時代に於ては、こゝ武藏の邊隅は、文化的には最も進んだ處として、重視されてゐたのである。

 「天平寳字五年春正月乙未、美濃武藏二國の少年をして国毎に二十人新羅語を習はしむ」

と続日本紀にあるのは、もとより新羅人の投化せるものが美濃武藏の二國に多く、殊に武藏には新羅郡さへ置かれてゐたのであるから、その爲めでもあらうが、しかしながら、第一の原因は當時に於て文を學ぶものが寧ろ帰化人の子孫に多かったからであらう。

 尚同年には遣唐使、遣高麗使の事があって、高麗使には高麗大山が任命されて居り、翌年には副遺唐使に高麗廣山が選ばれて居る。又高倉朝臣福信といふものがあった。武藏高麗郡の人で、本姓を背奈といひ、其の先は高句麗人であった。
 少年の頃伯父行文に隨って都に上り、聖武天皇以後の六朝に仕へ、春宮亮、紫微少弼、信部大輔、造宮卿、武藏守、近江守、但馬守、弾正尹等に歴任し、延暦四年老齢の故を以て骸骨〔主君に辞職を願うこと〕を乞ひ、勅許を得て辞するに際しては、畏くも桓武天皇より御杖並に御衾を賜はったとある。

 又伯父行文に就いては、正史に何等記する所はないが、我國最古の詩集と言はれる懐風藻に、次の二首の詩が載せられてある。

  従五位下大學助背奈王行文二首 年六十二
  五言。秋日於長王宅賞新羅客一首 賦得風字
    嘉賓韵小雅  設席嘉大同  鑒流開筆海  攀桂登談叢
    盃酒皆有月  歌聲共逐風  何事専對士  幸用李陵弓
  五言。上巳禊飲應詔
    皇慈被萬國  帝道沾羣生  竹葉禊庭満  桃花曲浦輕
    雲浮天裏麗  樹茂苑中榮  自顧試庸短  何能継叡情

又萬葉集には次の歌がある。

  侫人ネジケビトを謗ソシれる歌一首
    奈良山の児手柏コノテガシハの両面フタオモに
        左カにも右カクにも侫人の友
   右歌一首は博士背奈公行文大夫が詠める

是等を見ても、當年の投化高句麗人に、人物の多かったことが判知ワカる。

 高句麗人が關東方面の文化に貢献した事は、歴史の上には見えないが、已スデに前記の如き俊髦シュンボウが、高句麗族から出て居り、又其の帰化人の多くは、恥を知り、義を重んずるの士であったと想像されるから、彼等が地方の文化に影響を與へない筈はないのである。

 高句麗人は既に安住の地を得て、武州の曠原を開拓し、農蠶を勤め、子孫繁榮の基を爲したが、創業に際しては、それが必ずしも易々たる業ではなかったであらう。
 続日本紀、元正天皇養老四年三月の條に

  「己巳、太政官奏す、比來百姓例オウムネ乏少多し、公私辨ぜざる者衆オオし、若し
  矜メグみ量らずんば家道存じ難し、望み請ふらくは比年の間諸國をして毎年春
  初、税を出し百姓に貸與し其産業を継がしめ・・・無知の百姓條章を閑ナラはず
  遙役を忌避し多く逃亡する有り、他郷に渉歴し歳を積んで帰ることを忘る、其
  中縦ひ過を悔いて本貫に帰る者ありても、其家業散失するに縁って存済に由無
  し、望み請ふらくは逃れて六年以上を経て能く過を悔いて帰りし者には復一年
  を給ひ其産業を継がしめん、奏す、之を可す」

とあるが、當時の社会状態には此の如く惨澹たるものがあった。

 況して異城より來って東海の邊陬ヘンシウに移住し、剣を解き、筆を投じて新に農人の生活を営んだ人達の艱難辛苦は、そもどんなであったであらう。さればこそ歴代の天皇も、痛く宸襟を悩まし給ひ、
 続日本紀養老元年十一月の條に

  「甲辰高麗百済二國の士卒本國の乱に遭ひて聖化に投ず、朝廷其絶域を憐み復   を給ひて身を終へしむ」

とある如く、優詔を下し給うて、終身の租税を兔ぜられたのである。

 若光も亦慈愛に富みて衆を憐れみ、専ら郡民の安撫に力めた。里人の口碑に

  「高麗王は其髭髪白かりき、故に高麗明神を一に白髭明神と称トナへ奉る」

と言ひ傳へてあるが、其頭上の霜も世を慨き民を傷める結果ではなかった乎、また其の卒せし時には郡中の貴賤悉く葬に會したと言ひ、啻タダに葬に会したばかりでなく、後には霊廟を建てて高麗明神と崇め祀り、その分霊を、白髭明神の名のもとに各所に奉祀し、中古に於いて已に二十一社の称があり、後には更に増加して、高麗郡はもとより、入間、秩父から遠くは多摩郡に迄及び、總数四十有餘社にのぼって、それが村々の鎮守として尊崇の的となってゐた。

而して高麗明神をば、特に高麗惣社と稱へたのである。高麗王が如何に庶民に崇敬されたかは、これによっても明らかである。

 高麗明神と共に、書き洩らすことの出來ないのは高麗山勝楽寺である。寺は高麗氏系図に

  「天平勝寶三辛卯僧勝楽寂。弘仁與其弟子聖雲同納遺骨一宇草創云勝楽寺。
  聖雲若光三子也」

とある通り、高句麗傳來の佛教霊場で、高麗王若光の三子聖雲が、その師僧勝楽 (高麗僧) の冥輻を祈らんが爲に、勝楽が高句麗より携へ來たった歓喜天(聖天)を安置して開基したもので、現に高麗山聖天院と稱して、末寺五十四を有する古刹がそれである。

 而して高麗王若光の墓は、この寺の仁王門の左側、池畔老杉の間にある多重塔で、この塔は純然たる朝鮮様式である。

 高麗氏は、若光歿後、長子家重が家を継いで以來、今日まで實に五十九代嫡々相傳へ、蓮綿として正系を保ってゐるので、當然幾多の史料が保有されて居るべき筈であるが、惜しい哉

  「正元元年十一月八日大風時節出火系図*高麗持來寶物多消失。因之一族老臣
  高**、新井、本所、新、神田、中山、福泉、吉川、丘登、**、大野、加藤、
  芝木、等始高麗百苗相集諸家故記録取調系図記置也」

と高麗氏系図にある如く、貴重な寶物史料が災禍の爲めに概ね焼け失はれて、現在に傳はるものの甚だ尠いのは遺憾の至りである。

 現在寶物として傳はるものは、

  高麗紳紅寶物
   一、高麗王太刀            一 口
   一、駒   角            一 本
   一、大般若波羅蜜多経         四百五十餘巻
   一、徳川將軍家大宮領寄進朱印     十二通
  高麗家什寶
   一、鏡形懸佛             一 面
   一、懸  佛             十三體
   一、獨  鈷             一 本
   一、唐獅子(香壇烟吐)        一 個
   一、系  図             一 巻

のみである。

 上記の内、高麗王太刀、駒角、鏡形懸佛、懸佛、獨鈷、唐獅子は高句麗より將來したもの、駒角は高麗王の乗馬に生じたるものと言ひ傳へられて居る。
 駒角に就いては、呂氏春秋に「燕丹の駒角を生ず」といふ事があるが、我國でも天智天皇の御代に、常陸國より駒角を献じたことがあり、又年代記に「寛永十三年四月三日將軍家光詣日光納馬角干神庫」と云ふことが出て居る。
 近來朝鮮人士の語る所によると、古來朝鮮では、駒に角の生ずるのは、國家に於ける吉凶の大事の前兆と信ぜられて居たといふ。

  参考  日本書紀天智天皇の條下「日本救高麗軍將等泊于百済加巴利濱而然火焉灰
  變爲孔有細響如鳴鏑 或曰高麗百済終亡之徴乎」又同元年條下「夏四月鼠産於馬尾
  釈道顯占曰北國之人將附南国蓋高麗破而屬日本乎一釈道顯は高麗僧の帰化せるなり。

 大般若経は高麗王二十三代の孫、麗純の季子、慶弁が、諸國名山修行の後、下野國足利鶏足寺に於て、建暦承久の間に書写したもので一巻毎に次の様な奥書が誌されてあるが、其筆蹟には明らかに朝鮮古代の書風が窺はれるとは、専門家の齋しく認むる所である。これによっても高句麗文化が永く後代まで保存されたことが察知される。

  大般若波羅蜜多経巻第五百七十九
  建保六年歳次戊寅六月二十一日於下野国足利鶏足寺慶弁顕学房(華押)
  持斉入道場著浄衣断雑言鹽酒等毎文字南无尺迦牟尼佛唱毎行南无〔无
  は無と同義語〕須●(●は菩提の略字) 南无十六善神三禮一筆奉書写
  志者爲二父母師長一切衆生咸得道也後依夢告毎行加彌勒名號唱
     墨鶏足寺政所  筆永賢寂林房  硯大進公

  大般若波羅蜜多経巻第三百二十三
  天下第一之悪筆斟酌千萬書写御兔被下度侯高麗惣社之大般若書次候間
  如本大概斗書写仕候後世人耻入申候得共一者爲逆修一者三國傳燈諸大
  師等惣社分殊者現世安穏後生善處爲也筆者武州高麗郡平澤村大瀧瀞藏
  寺久住者仁實名祐全書写有思召候人々者六字名號一反可被廻向候者可
  爲佛果菩提者也
     明應八季大才己未二月時正十日書写畢

 徳川將軍家大宮領寄進朱印十二通の内、家康の朱印文を左に掲げる。

  寄進  大宮
  武藏國高麗郡高麗郷内参石之事
  右令寄附畢彌守此旨可専祭祀者也仍如件
    天正十九年辛卯十一月日  (朱印)

 高麗氏系図は別に全文を掲載するが、高麗氏先世の事歴の大略を挙ぐれば、次の如くである。

 高麗氏は、若光王姓を賜はり、蔭位二世にして庶流となった。若光卒して長子家重世を繍いだ。
 十四代一豐の時、高麗明神に大宮號を許され、高麗大宮明神と號し奉り、同時に高麗氏は神職となって大宮司と称した。
 二十三代純秀は、園城寺の行尊が、諸國行脚の途次、高麗明神に杖を留めた際に、その勧めにより、修験道に入り、高麗寺麗純と改め称した。

  参考 篠井観音堂寺記の内に
  「七十四代鳥羽帝之御宇永久年中園城寺行尊欲再開小角之舊迹経歴諸山
  下東方爲訪高麗明神之舊祠路出于此即逢行阿問其所由云々」

の句がある。

 麗純に五人の子があったが、第三子高純が家を継ぎ、其弟禅阿阿闇梨が下野足利(小俣)鶏足寺政所となつた。鶏足寺は東大寺の定惠和尚が勅命を奉じて建立したもので、當時海内有数の名刹であった。

  参考 中央史壇昭和二年一月號文學博士宮地直一氏「高麗明神の大般若
  経に就いて」の文中次の一筋がある。

  「鶏足寺は此に言ふ如く下野足利郡小俣村にある眞言宗の巨刹で、古來
  東國に於ける有数の霊域として又一面學問的道場とせられたところ、系
  図にいふ禅阿は、同寺に藏する弘長三年二月在銘の洪鐘(國寶)に「建
  保乙亥(三年)僧禅阿勧進諸方三尺鋳之」とあるものと同一人で、又慶
  弁は禅阿の縁故から、此所に足を留めて浄行を専らにしたのであらう」




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