【月見草出版へ】

韓郷神社社誌

【1章〜3章】 【4章〜8章】 【付録】

【渡来民の氏神様@】 【渡来民の氏神様A】

【渡来民の参考になるサイト】



【付録】…赤い文字の部分

【 も  く  じ 】

    まえがき              三 獅子頭
    口絵                四 棟札
    もくじ               五 その他の懸額・絵馬
第一章 所在地             第六章 境内の小祠
第二章 祭神                一 秋葉社
  一 建速須佐之男命           二 菅原社
  二 八幡誉田別命            三 八王子社
  三 若宮大鷦鷯命            四 山神社
第三章 韓郷社沿革             五 八雲社
  一 創立について            六 金刀比羅宮
  二 戦国時代              七 稲荷社
  三 江戸時代              八 若宮社
  四 明治から第二次大戦まで       九 蚕玉社
  五 現代               一〇 金刀比羅宮
第四章 建物と社地           第七章 祭典
  一 社殿                一 韓郷社の祭りの変遷
   (一)神殿               (一)江戸時代
   (二)鞘堂               (二)明治以後
  二 拝殿                 (三)戦後
  三 その他の建造物              [祭典費の今昔]
   (一)鳥居              二 獅子舞
    (二)社号碑              (一)小川の獅子舞
   (三)石灯籠              (二)獅子舞の特色
   (四)狛犬               (三)獅子舞の沿革
   (五)神燈櫓           第八章 神社の管理と運営
   (六)石神・石碑           一 神官職の移り変わり
  四 社有地               二 管理・運営
   (一)神社境内          ◎付録
   (二)境外地             郷神社記
第五章 神社の文化財            神社規則
  一 絵馬                韓郷社周辺計測図
  二 太刀              あとがき



 韓 郷 神 社 記

 敬神愛国は立国の大本にして、忠孝の彜倫は実に此に存す。我が国民たるもの、能く神徳の高きを仰ぎ、神社の根源を明らかにして益々敬神の念を深からしめざる可からず。本団、茲に村社韓郷社の祭神記と由緒記とを表わし、周く氏子に頒つ。希わくば、神社奉齊の深き所を究め、敬神愛国の念を高からしめんことを。茲に、謹んで千載一遇なる聖上陛下御即位大典に際し記念として之を伝ふ。
           大正四年一月十日 小川青年会

[ 由 緒 記 ]                 社掌 下平 誠 誌
                  下伊那郡喬木村小川鎮座 村社韓郷社

祭 神    三 座 相 殿
 左 八幡譽田別命(はちまんほむたわけのみこと)
 中 建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)
 右 若宮大鷦鷯命(わかみやおおささぎのみこと)

社 格 
 村社 明治五年十一月村社ニ列セラル。

社 号 
 當社ハ古来唐土宮ト稱シ来リ、明暦年間(1655-1657)ニ於テ唐土宮或ハ唐土大明神ト稱シ、宝永年間(1704-1710) 以来唐土大明神ト改メ、其後宝暦年間(1751-1753) ニ於テ韓郷大明神ト称シ、明治維新ノ後、韓郷社ト稱ス。

創立及沿革
 本社ノ創立ハ古来ニアリト云フト雖モ、徴証スベキ古書散失シ、資料乏シクシテ由緒ヲ詳ニスルコト能ハザルハ遺憾極マリナキコトナリ。今僅ニ存スル古書ニヨリ、再建以来ノ沿革ヲ記述セン。然リト雖モ、其再建ハ果タシテ何回度ナリシヤハ知リ難シ。古書ニ存スル再建ハ、後土御門天皇ノ御代、應仁二年(1468)戊子 六月朔日ニシテ、大檀那菅原駿河守造営ス。禰宜下平正太夫ノ時、紀元二千百二十八年ナリ。此時、唐土宮ト稱ス。
 正親町天皇ノ御代、永祿二年(月日虫蝕不明)(1559)己未 即チ紀元二千二百十九年、先ノ造立ヨリ百有余年ヲ経テ、大檀那甲州代官主水正再造ヲ営ム。神主下平勝太夫ノ代ニシテ、大工福沢出雲ナリ。此時代、尚、唐土宮ト稱ス。
 永祿三年(1560)七月二十七日、松下堡砦主羽生伊豆守、甲冑・太刀・弓矢・絵馬等ヲ奉納シテ武運長久ノ祈願ヲナシ、大イニ崇敬セリ。
 天正十年(1582)壬午 七月吉日ノ日付ヲ以テ、羽生伊豆守近昌ヨリ神田、先左ノ如ク出シ置クモノナリトテ、神主下平右京太夫ヘ下文アリタリ。以テ帰依信向ノ厚カリシヲ知ラル。
 霊元天皇、天和元年(1681)辛酉 霜月再造立ヲナス。神主下平藤太夫ノ時ニシテ、大工ハ藤原勘左ヱ門ナリ。之レ紀元二千三百四十一年ニシテ、先キノ再造ヨリ百二十余年ヲ経タリ。此ノ時代、尚唐土宮ト稱シ、又唐土大明神トモ稱セリ。
 中御門天皇、宝永二年(1705)乙酉 九月吉祥日、再ス。此時、唐土大明神ト稱シ、神主下平勝太夫ノ代、大工松沢六右ヱ門ナリ。紀元二千三百六十五年、即チ天和設立ヨリ二十四年ヲ経タリ。
 正徳三年(1713)癸巳 八月、石造水鉢ヲ彫刻寄進ス。願主ハ當小川村中ニシテ、神主下平次太夫ノ代ナリ。
 享保二年(1717)丁酉 十一月吉祥日、拝殿ヲ再立ス。神主下平次太夫ノ代、大工松沢六右ヱ門ナリ。拝殿ノ再立初メテ見エタルモ、其以前ハ古書湮滅シテ沿革不詳ナリ。
 享保十三年(1728)戊申 三月吉祥日、紀元二千三百八十九年、即チ先ノ造営ヨリ二十四年ヲ経テ再建ス。神主下平次太夫ノ代、大工湯沢六右ヱ門ナリ。
 元文四年(1739) 己未 、社前ノ石階ヲ築造ス。神主下平次太夫ノ時、石工ハ諏訪片倉ヨリ来タレリ。
 桃園天皇、宝暦七年(1759)丁丑 六月二十八日、即チ紀元二千四百十九年、宝永再建ヨリ三十年ニシテ造立ス。神主下平次部ノ代、大工ハ松沢正兵衞ナリ。之レ現今ノ社殿ニシテ荘厳ナル建築ナリ。此時代、社号ヲ韓郷大明神ト稱シタリ。
 寛政六年(1794)甲寅 三月吉祥日、拝殿ヲ再立ス。神主下平近江正ノ代、大工ハ湯沢六右衞門・湯沢岩次郎・原安兵衞ナリ。享保再建築ヨリ七十八年ヲ経タリ。
 石ノ鳥居、建築年代不詳ナリ。石灯籠二基、湯沢十左衛門寄進スルモ年代不明ナリ。
 文化四年(1807)丁卯 春、鳥居本ノ石橋ヲ築造ス。石階建設ハ不明ナリ。
 天保三年(1832)壬辰 二月、石灯籠一基、羽生九右ヱ門寄進ス。
 文久二年(1862)壬戌 、社前ノ石階ヲ宮下藤兵衛寄進ス。
 文久三年(1863)癸亥 二月、石燈二基、田中登久女寄進ス。
 文久三年(1863)癸亥 三月吉祥日、社殿の覆屋ヲ再造ス。神主下平近江正ノ代、大工原米吉ナリ。同時ニ拝殿ヲ造立ス。現今ノ建物、即チ之レナリ。

神 職 
 神職ハ下平家代々世襲奉仕シテ守護シ奉リシガ、明治維新トナリ百事革新シ、従ッテ世襲ノ制廃セラレ、知久頼謙神官トナル。仝氏辞職。嗣子知久万松奉職シ、仝氏死後、明治二十五年下平誠職ヲ奉ジテ今日ニ至ル。
 本社神宮ノ家碌トシテ除地貮石壱斗ヲ有セシガ、明治七年民地ニ下賜サレタリ。

土地ノ沿革
 本社鎮座ノ當時、土地ノ状況ハ知ルニ由ナシ。明治維新ニ際シ、社地ハ官有地トナシ制限ヲ付シ、除(年貢免除地)ハ上地(国に上納)シテ、御料林トナセリ。
現今ノ状、左ノ如シ。

神社境内
  喬木村六千五番
    反別 壱反六畝弐拾歩     官有地
    神社鎮座ノ地ニシテ維新ノ初メ区劃セラレシモノ
  喬木村六千六番ノ二
    反別   四畝拾八歩     官有地
  喬木村六千六番ノ三
    反別      拾歩     官有地
    右二筆ハ、明治六年七月、上地御料林トナリタルモノナリシガ、仝四十二年、
    境内地ニ編入セラレタリ。

境外地
  喬木村五千九百九拾一番字鳥居本
    荒蕪地     弐歩
    従来ノ制札(禁止事項の立札)建設地ガ官有トナリタルモノ。
    明治三十九年十月三十一日神社有トシテ払下ゲヲ受ク。
  喬木村六千六番ノ一 
    反別    参畝参歩
    明治六年、上地御料林。仝二十八年五月ヨリ、仝四十二年十二月迄十五年間、
    保護委託ヲ受ケ、神社風致維持ニ勉メツツ、仝三十四年三月、其特賣ヲ出願セ
    シガ、仝四十二年特賣ヲ受ケタリ。
  喬木村五千九百六拾二番字四ノ上
    山林反別 五反六畝弐拾壱歩
    文化十一年十一月神社風致ヲ添ヘントテ寄進ス。

  寄付人 下平 隆麿  白子健次郎  白子亦四郎   松沢宗四郎
      熊谷 勇斎  大島善十郎  市瀬六右ヱ門  原 政治郎

宝 物
 太刀一振
 絵馬二面 永祿三年(1560)庚申 七月二十七日、羽生伊豆守ノ奉納シタルモノ。文字
      磨滅シテ不明ナル箇所数多アルモ、僅カニ存ル文字、小河唐土宮云々羽生
      伊豆守云々抔アリ。
 獅子頭  寛保二年(1743)正月十三日、原要ヱ門寄進ス。
 砲弾四個:円匙一個
      明治四十年(1907)三月、陸軍大臣寺内正毅殿ヨリ、明治三十七八年戦役戦
      利品ヲ奉納セラレシモノ。大捷ヲ得タルヲ報賽(お礼参り)シ、皇運ノ隆
      昌ヲ祈ラルル。奉納記ヲ添エラル。

祭 典
 古来ニアリテハ、祭日及其式典 詳 ナラズ。或ハ七月二十七日祭例日タリシガ如シ。
 近古、維新前ニ於イテハ、二月二十五日ヲ例祭トシ年中式トシテ五節句及月次(毎月)
 三日ニ社参シテ国家安穏ヲ祈念セリ。
 維新後、例祭ヲ四月十五日ト定メ、祈年(新年)、新嘗、其他式日ニ於イテ祭事ヲ奉
 仕ス。
 明治四十二年(1907)四月、陸軍大臣寺内正毅殿三十七八年戦役戦利品ヲ奉納セラレ、
 戦捷ノ報賽(お礼参り)ト、皇運ノ隆昌ヲ祈ラレシヲ以テ、其レヲ奉納報告シ、且氏
 子内軍人ノ戦役ニ従軍シタル功績帖ヲ編成奉納シテ、戦捷報賽ノ祭典ヲ奉仕セリ。
 明治四十五年七月、明治天皇御懊平癒ヲ祈願セリ。
 大正四年十一月、今上天皇陛下御即位大典ヲ報告シ、大甞祭ヲ奉仕ス。喬木村ヨリ、
 斎田ノ新穀ヲ奉納セラル。
 世ニ盛衰アリ、時ニ汚隆アリシト雖モ、祀典(祭の儀式)ヲ失墜セズ、経営宜シキニ
 適イ、社林ノ森々(樹木の盛んに茂るさま)ヲ致シテ、社殿ノ壮高ヲ構エ、月々社前
 ヲ洒掃(灑掃=水をかけ箒で払う)シテ神社ヲ崇厳ニス。殊ニ大正四年、社道ノ大改
 修ヲナシテ、以テ益々設備ニ営々タルハ、大イニ喜ブ可キコトナリ。

[ 祭 神 記 ]

建速須佐之男命之御傳

  又の御名、須佐之男命と云ひ、又神須佐之男命と白し、又勝速日命と白し、又熊野
  加武呂命と白し、又熊野加夫呂岐櫛御気野命と白し、又八束髪速佐須良命と白す。

 開闢の初め、伊弉諾尊、伊弉冉尊の二神、共に大八州の国及び山川草木の神を生み給ひ、次に日の神月の神を生み給ひて、最後に素戔嗚命を生み給ひき。命勇悍にして常に哭泣を以て行ひとなし、人民をして夭折せしめ、青山をして変枯になす。故に、父母二神命に勅して、汝甚だ無道なり。以て天下に君臨すべからず。当に遠く根の国に適くべし、とて逐に逐ひ給ひき。
 是に於いて命は 教 を奉じて、根の国に就かんとし給ひ、天照大神に拝辞せむとして高天原に昇り詣ず。此とき山岳鳴堯し溟海皷盪す。是れ命の神性雄健なるが故に然らしむるなり。天照大神、素より其神の勇猛なるを知り給ふが故に、其来るの状を聞くに至り、勃然と驚き給ひ、吾弟の来るは善意を以てにはあらず、当に国を奪はん志にてあらむ。父母二神、既に諸子に各其境を有たしむ。然るに何ぞ就くべきの国を棄てて、敢えて此処を窺兪するやとて、雄装して以て待ち、直ちに詰問す。茲に命其来たる所以を答へ給はく、吾元より黒心あるにあらず。只父母二神の厳勅によりて、永く根の国に就かんとす。今如し姉命と相見えずは吾如何ぞ。敢えて去るを得ん。是れを以て雲霧を跋渉して遠来せしに意はざりき。却って厳顔に接せん、とて慨き給ひしに、天照大神又問ひ給はく。然らば何を以て爾が赤心を明かさんか、命対へ白さく、請ふ、姉と誓約せん。其誓中に必ず子を産むべし。吾生まらん子、是れ女なれば濁心あり。若し是れ男なれば清き心なり、と。即ち、天照大神は命の十握の剣を請ひ取りて生める所の神、三女まします。命は大神の八坂瓊の玉を乞ひ取りて生みませる神、正哉吾勝勝速日天の忍穂耳の命(天祖)、天の穂日の命(出雲の臣、土師連の祖等を初め、五男ましましき。茲に於いて命、「吾勝ちにき」と大に喜び給へり。
 是より後、命は行ひ甚だ無状にして、天照大神が天の狭田長田を以て御田となし給ふとき、春は即ち種子を重播し又畔を毀ち溝を埋め、秋は即ち串を刺し馬を伏さしめ、又大神の神嘗の時は新宮を汚し、神衣を織り給ふ斉織殿に居ます時は天の斑駒を剥ぎて投げ納るなど為し給ひき。此時、大神驚き給ひ梭を以て身を傷け給ふ。此によりて慍りまして天石窟に入りましき。茲に八十萬神等天の安の河辺に会して謝し奉るべき方 を議し給ひき。思兼神深く謀り遠く慮りて、種々の道を竭して大神の御心を和し奉り、手力雄命をして岩戸を開き新殿に還り奉らしめ給ひき。
 是に於いて諸神罪を命に帰し科するに、千座置戸を以てして、意に遂ひ降しき。茲に命は、出雲の国、簸の川上に到ります。

  一伝に、其時命は其子五十猛命を師いて新羅国に降り到りて、曽尸茂梨の處に居ま
  しき。然して、命此地に居るを欲し給はずとて、舟にて出雲国簸の川に到りましきと。

 此時、老翁老媼あり。一少女を中におきて哭せしかば、命其故を問ひ給ひしに、吾は国神脚摩乳手摩乳と云ひ、此女は奇稲田姫なり。吾は八女ありしが、毎年八岐の大蛇に呑まれて、今此女又呑まれんとして免がるるに由なく、哀傷めりと。命即ち其大蛇を討たんとて、計を設けて酒を八槽に入れ待ち給ひしに、期に至りて果たして大蛇頭尾各八岐なるもの入り来たりて酒を飲み、酔ひて睡れり。依りて命は佩する十握の剣を抜きて寸斬せしに、其尾に一剣ありき。之れ草薙剣なり(本の名は天の叢雲の剱、蓋し大蛇居る上は常に雲の気あり、故に名づく。後に、日本武命、草薙剣と改め、三種神器の一なり)。
 是れ神剱なりとて天照大神に献り給ひき。後に稲田姫と婚せんとして清の地に到りて、曰く、吾心清々しとて、彼の地に宮を建つ。其時、瑞雲立ち謄りたれば御歌を詠み給ふ。

   八雲たつ 出雲八重垣 つまこみて
        八重つくる その八重垣を(これ吾国三十一字の和歌の初めなり)

 茲に、妻籠して其御子大己貴命を生み給ふ。
 時に、素戔嗚命曰く「韓郷の島は、金 銀あり。もし吾が児の御らす国に浮寳あらずば佳からじ」(舟が無くては良くない)とて、乃 鬚髯を抜き散らす時杉となり、胸毛を抜き散らす時檜となりき。尚種々の木成りたり。依りて其用を定め「杉と槇樟とは浮宝を作るべく、檜は宮殿の材となすべし」云々と。時に、其御子五十猛命、其妹大屋津姫、次に柧津姫、凡て三神亦能く木種を分布し給ひき。然して後、命は熊成の峰に居給ひ、遂に根の国に入り給ひき。

  京都祇園 八坂神社 祭神     素戔嗚命
  尾張国  津島神社 祭神     素戔嗚命
  祇園日牛頭天王と称する祭の祭神  素戔嗚命
  新羅明神      祭神     素戔嗚命

八幡宮誉田別命之御伝

  又の御名品田別命、又大鞆別命と白す。諡して応神天皇と白す。

 誉田天皇は仲哀天皇の第四子なり。母は気長足姫命(神功皇后)なり。仲哀天皇の九年(200) 十二月十四日、筑紫の蚊田に生まれ給ひき。幼にして聡達監 深遠、動容進止あり。聖の表異しきことあり。初め、天皇孕にあり、皇后神教を奉じて三韓を征す。天皇生まるるに及んで腕上の肉起きて鞆の如し。皇后雄装して負う所の者の如し。因って誉田と名づく(蓋し古、鞆を保武多と云う)。又、胎中天皇と稱す。
 天皇年七拾壱にして天皇の位に即き給ひ、軽島に都し明宮と云ふ。〔神功皇后摂政し給ひし故なり。儲位(太子の位)にあること六十七年〕
 皇后摂政の四十七年、百済の使、新羅の使と共に入貢す。皇太子(応神天皇)大に喜んで曰く「先帝の欲する所の国人来服す。痛哉、見る及ばず」と、群臣、皆ために涙を掩ふ。
 七年、三韓及任那来朝す。武内宿祢をして、韓人を領して韓人の池を作らしむ。
 拾四年(283) 、百済、縫衣女を貢す。
 拾六年(285) 、春二月、百済王、王仁をして、治工、呉服、醸酒の諸人を率いて来朝し、論語十巻千字文一巻を献ず。本朝、経営初なり。太子稚郎子以下、皆学す。
 四拾壱年(310) 春二月拾五日、戊申明宮に崩じ給ふ。御寿一百十一歳、河内国恵我藻伏山岡陵に葬る。元明天皇、和銅五年(712) 、天皇を豊前国宇佐郡に祀る。號して八幡大神宮と云ふ(或は欽明天皇三十一年、神託ありて広幡八幡と称したりと)。清和天皇のとき山城国男山(男山の山下に流れあり石清水と号す)石清水の社を創立して歳時奉幣す。奉幣使、多く源氏の人を用ふ。
 元正天皇、養老四年(720) 九月、異国襲来す。日向、大隅、大いに乱る。朝廷、宇佐神宮に祈りて冦賊を平ぐ。死傷者多かりしを以て放生会を諸国に置く。八幡の放生会これより始まる。孝謙天皇、神護景雲三年(769) 九月、太宰の主神八幡の神教を矯めて、道鏡をして帝位に即かしめば天下泰平ならん、と奏す。天皇、和気清麿に命じて神教を伺はしむ。清麿神宮に詣る。大神託して曰く「我国家、開闢以来君臣の分定まる。臣を以て君とすることは未だこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は、早く掃き除くべし」と。即ち、清麿神教を奏す。
 八幡宮は至る所、奉斎し崇敬す。

若宮大鷦鷯命御伝
   諡して仁徳天皇と白す。
 仁徳天皇は応神天皇の第四子なり。母仲姫皇后なり。応神天皇始め宇治稚郎子を以て皇太子となす。応神天皇崩じて、皇太子稚郎子、位を天皇に譲りて莵道に避く。天皇、名分素より定まるを以て聴かず。時に大山守皇子謀反す。天皇その計を知り、密かに皇太子に告げ、兵を設けて之を殺す。而して皇太子は固より天皇をして位を践ましめんと欲し、相譲ること三年。民帰する所を知らず。天皇、志を執ること益々確し。皇太子、其の奪うべからざるを知り遂に自殺す。天皇、大いに驚き、莵道に至りて素服し、哀を発して之を哭す。
 天皇尚位に即き給はず、王仁、梅花の歌を作りて以て登祚(即位)を諷す。

   なにわずに さくやこの花 冬こもり
      いまをはるべと さくやこのはな

 仁徳天皇、元年(313) 春正月三日、天皇位に即く。難波に都す。高津宮という。宮室、煙せず梁、楹、飾らず、務めて節倹に従ひ、民の時を奪わず。
 仁徳天皇、四年(316) の春二月、群臣に詔して曰く「朕、高台に登りて遠く望むに、烟気域の中に起たず。以為ふに、百姓既に貧しくて、家に炊 ぐもの無きが故なり。今朕、聞かむは、古の聖の王の世には、人々詠徳の音を誦げて、家々に康哉 といふ歌ありきといへり。今朕、億兆 に望みて、ここに三年になりぬ。頌音玲えず、炊烟転疎なり。すなわち、五穀登らず、百姓 窮り乏しきを知りぬ。封畿の内にして、なほ給がざる者あり。況はめや、畿外諸国をや」と詔り給ひき。其三月、詔して、「今ゆ後、三載に至るまでに、悉 に課役を除めて、百姓 の苦しみを息めむ」と詔り給ひき。是の後、宮垣崩れても造らず、茅茨壊れても葺かず。而して風雨時に順ひ、五穀豊穣す。三年にして百姓、殷富聲路に盈つ。
 仁徳天皇、七年(319) 夏四月朔日、天皇高台に上り、烟気多く立てるを見て、皇后に謂ひて曰く「朕既に富めり。あに愁ふることあらめや」と大いに喜び給ひ、詠歌して日く。

   たかきやに のぼりてみれば けぶりたつ
            民のかまどは にぎはいにけり

 皇后日く「今宮室朽壊す。何を以てか富と云うや」天皇日く「天の君を立つるは、本百姓のためなり。故に君は、百姓を以て本となす。百姓貧しければ、朕、貧しきなり。百姓の富は、朕の富なればなり」と。
 秋九月、諸国請ひて日く「課役免せらるる三年、今百姓富饒して路遺ちたるを拾はず家に餘儲あり。而して宮殿は朽壊して府庫は充たず。諸税調を貢して宮室を修めん」と。聴かれず。
 仁徳天皇、十年(322) 十月、始めて課役を科して宮室を造る。百姓、老を扶け幼を携さえ、先を争ひ材を運び簀を負ひ、日夜営造して幾ならずして宮室悉く成る。仁徳天皇八十七年(399) 春正月十六日、天皇崩ず。百舌鳥野陵に葬る。御年百十歳。
 天皇幼にして聡明、容貌美麗なり。壮なるに及んで寛仁慈恵夙に起き、夜に寝ね、心を政理に専にし溝渠を通して堤防を作り、効原を墾闢す。是を以て百姓業を楽しみ、海内富庶なり。諡して仁徳天皇と云ふ。
  山城国葛野郡平野神社
    第一 今木神     日本武尊
    第二 久度神     仲哀天皇
    第三 古開神     仁徳天皇
    第四 相殿比売    天照大神
  藤原家隆の歌
    なにはずに 冬こもりせし 花なれや
             平野の松に 降れる白雪

                         大正四年十一月     非売品
                          (以印刷換謄写) 小川青年団
                               下伊那郡飯田伝馬町
                            印刷所    吉沢活版所



 宗教法人「 韓郷社規則 」

  規承第00533号
     この規則を承認します。
         昭和二十七年七月二十日  神社本庁統理 鷹 司 信 輔


 宗教法人「 韓郷社規則 」

第 一 章  総  則
第 一 条 この神社は、宗教法人法による宗教法人であって「韓郷社」といふ。
第 二 条 韓郷社(以下「本神社」といふ)の事務所は、長野県下伊那郡喬木村字唐土社六
      千五番地に置く。
第 三 条 本神社は、須佐之男命を奉斎し、公衆礼拝の施設を備へ、神社神道に従って、祭
      祀を行ひ、祭神の神徳をひろめ、本神社を崇敬する者及び神社神道を信奉する者
      を教化育成し、社会の福祉に寄与し、その他本神社の目的を達成するための財産
      管理その他の業務を行ふことを目的とする。
第 四 条 本神社を包括する宗教団体は、宗教法人「神社本庁」とする。
第 五 条 本神社の公告は、神社の掲示場に十日間掲示して行ふ。

第 二 章  機  関
第 六 条 本章に定める機関の職は、すべて名誉職とする。
第 七 条 本神社に責任役員三人を置き、そのうち一人を代表役員とする。
第 八 条 代表役員は、本神社を代表し、その事務を総理する。
      責任役員は、役員会を組織し、宗教上の機能に関する事項を除く外、本神社の維
      持運営に関する事務を決定する。
      役員会は、代表役員が招集する。
第 九 条 代表役員は、本神社の宮司をもって充てる。
第 十 条 代表役員以外の責任役員は、氏子崇敬者の総代(以下「総代」といふ)その他の
      氏子又は崇敬者で神社の運営に適当と認められる者のうちから総代会で選考し、
      代表役員が委嘱する。
      前項に定める役員の任期は、三年とする。
      但し、補欠役員の任期は、前任者の残任期間とする。
      責任役員は、後任者が就任する時まで、なほ在任する。
第十一条  代表役員又は責任役員が、宗教法人法第二十条第一項各号の一に該当するときは、
      代表役員の代務者を置く。
      代表役員の代務者は、宮司代務者をもって充て、代表役員以外の責任役員の代務
      者は、前条第一項に準じて委嘱する。
      代表役員の代務者は、代表役員に代り、その他の役員の代務者は、当該役員に代
      り、それぞれの職務を行ふ。
      代務者は、代務者を置くべき事由が止んだときは、当然退任する。
第十二条  代表役員又は責任役員が宗教法人法第二十一条第一項又は第二項に該当するとき
      は、仮代表役員又は仮責任役員を置く。  
      仮代表役員及び仮責任役員は、前項に該当する者以外の役員が選任する。
第十三条  責任役員又はその代務者の進退は、神社本庁統理(以下「統理」といふ)に報告
      しなければならない。
第十四条  本神社に総代四人を置く。
第十五条  総代は、総代会を組織し、本神社の運営について、役員を助け、宮司に協力する。
第十六条  総代は、氏子又は崇敬者で徳望が篤いもののうちから選任する。その選任の方法
      は、役員会で定める。
      総代の任期は、三年とする。但し、補欠総代の任期は、前任者の残任期間とする。
      総代は、後任者が就任する時まで、なほ在任する。

第 三 章  職  員
第十七条  本神社に左の職員を置く。
      宮司    一人
      禰宜    一人
      権禰宜  若干人
      権禰宜の定数は、宮司が定める。 
第十八条  前条の職員は、神明に奉仕する外、宮司は社務をつかさどり、禰宜は宮司を助け
      て事務に従事し、権禰宜は上長の指揮を受けて事務に従事する。
第十九条  本神社は、宮司代務者を置き、宮司の職務を行はせる。
      宮司代務者を置く場合は、代表役員の代務者を置く場合に準ずる。
      宮司代務者は、宮司代務者を置くべき事由が止んだときは、当然退任する。
第二十条  宮司及び宮司代務者の進退は、代表役員以外の責任役員の具申により統理が行ふ。
      但し、統理が必要と認めたときは、代表役員以外の責任役員の同意を得て進退を
      行ふことができる。
      宗教法人法第二十条第一項第二号に準じ宮司代務者を置くときは、代表役員の同
      意を得て具申しなければならない。
      禰宜以下の進退は、宮司の具申により統理が行ふ。
第二十一条 宮司又は宮司代務者が欠けた場合には、責任役員は、三十日以内に後任者を統理
      に具申しなければならない。

第 四 章  財  務
第二十二条 本神社の財産は、神社の名義をもって管理しなければならない。
第二十三条 財産は、基本財産、特殊財産及び普通財産とする。
      基本財産とは不動産その他本神社永続の基根となる財産を、特殊財産とは宝物及
      び特殊の目的によって蓄積する財産を、普通財産とは基本財産及び特殊財産以外
      の財産、財産から生ずる果実並びに一般の財産をいふ。
第二十四条 本神社は左に掲げる行為をしようとするときは、役員会の議決を経て、役員が連
      署の上統理の承認を受け、更に法律で規定するものについては、法律で規定する
      手続きをしなければならない。その承認を受けた事項を変更しようとするときも
      また同様とする。但し、第三号及び第四号に掲げる行為が緊急の必要に基くもの
      であり、又はその模様替が軽微で原形に支障のないものである場合及び第五号に
      掲げる行為が六ヶ月以内の期間に係るものである場合は、この限りでない。
      一 基本財産及び財産目録に掲げる宝物を処分し、又は担保に供すること。
      二 当該会計年度内の収入で償還する一時の借入以外の借入又は保証をすること。
      三 本殿その他主要な境内建物の新築、改築、増築、移築、除却又は著しい模様
        替をすること。
      四 境内地の著しい模様替をすること。
      五 本殿その他主要な境内建物若しくは境内地の用途を変更し、又はこれらを本
        神社の宗教目的以外の目的に供すること。
第二十五条 経費は、氏子及び崇敬者の醵出金、賽物、財産から生ずる果実その他の収入をも
      って充てる。
第二十六条 会計年度は、毎年一月一日に始まり、同年十二月末日に終る。
第二十七条 一切の収入を歳入とし、一切の支出を歳出とし、歳入歳出は予算に編入する。
      予算は、毎会計年度開始の一月前迄に編成する。
第二十八条 必要があるときは、役員会の議決を経て特別会計を設けることができる。
第二十九条 予算には、予算外の支出又は予算超過の支出に充てるため予備費を設ける。但し、
      特別会計については、この限りでない。
第三十条  当該会計年度の出納は、その年度終了後一月で閉鎖し、出納に関する事務は、そ
      の閉鎖五一月以内に完備しなければならない。
第三十一条 歳計に剰余を生じたときは、役員会で特別の議決をした場合を除く外、翌年度の
      歳入に編入する。
第三十二条 財産目録は、毎会計年度終了後三月以内に、前年度末現在によって作成し、役員
      が連署する。
第三十三条 予算及び決算は、総代会に報告する。

第 五 章  補  則
第三十四条 代表役員及び責任役員は、常に法令、規則及び神社本庁の庁規に従ひ、更にこれ
      らに違反しない限り、宗教上の特性を尊重し、神社の慣習及び伝統を十分に考慮
      して、神社の業務及び事務の適切な運営をはかり、その保護管理する財産につい
      ては、いやしくもこれをたの目的に使用してはならない。
第三十五条 本神社が左に掲げる行為をしようとするときは、役員会の議決を経て、役員が連
      署の上統理の承認を受け、更に法律で規定するものについては、法律で規定する
      手続きをしなければならない。
      一 規則を変更すること。
      二 神社を移転、合併又は解散すること。
      三 境内神社を創立、移転、合併又は廃祀すること。
      四 前三号の外宮司が必要と認めたこと。
第三十六条 本神社は、神社本庁の神社明細帳に登録を受けなければならない。明細帳に登録
      を受けた事項に変更を生じたときも、また同様とする。
第三十七条 本神社を崇敬し、神社の維持について義務を負う者を本神社の氏子又は崇敬者と
      いひ、氏子又は崇敬者名簿に登録する。公告の対象とする信者は、氏子又は崇敬
      者の名簿に登録された者とする。
第三十八条 本神社は、神社本庁並びに神社庁及びその支部に対し協力しなければならない。
第三十九条 本神社に関する事項で、規則に定めがないものについては、神社庁の庁規で定め
      るところによる。
      規則の適用及び神社の運営について疑義を生じたときは、神社本庁の指示を経て
      処理する。
第四十条  本神社の境内神社は、左の通りとする。
      韓 郷 社 喬木村字唐土社六千五番地
      秋 葉 社        同
      金刀比羅社        同
      八 雲 社        同
      菅 原 社        同
      八王子社         同
      山 神 社        同
      若 宮 社        同
      稲 荷 社        同

 附  則
 この規則は、昭和二十七年 月  日から施行する。
 この規則施行の際現に在職する職員は、この規則の規定による職員となり同一性をもって存続するものとする。
 総代の選任は、現に在任する者の任期にかかわらず本神社が宗教法人として成立した後三月以内に行ふものとし、その選任が行われるまでは、従前の総代をもってこの規則の規定による総代とみなす。



 神社明細書(昭和二十七年七月四日神社庁へ提出)

一 鎮座地  長野県下伊那郡喬木村字唐土社六千五番地
       宗教法人令による届出    昭和二十二年三月二十日
二 神社名  韓郷社 宗教法人法による
  設立登記 昭和 年 月 日
三 祭  神 須左之男命
四 祭  儀 例祭 四月十五日   その他年中恒例祭儀  五 回 五 社  殿 本殿 神明造 間口一丈 奥行一丈
       拝殿     九坪
六 主要建物 本殿 拝殿 社務所(四拾坪) 鳥居
七 境内地  五百六拾四坪参合
          神社有地(被譲与国有地)
八 境内神社
  名  称    祭  神   鎮座地
  韓 郷 社   須佐之男命  喬木村字唐土社六千五番地
  秋 葉 社   迦具出命       同
  金刀比羅社   金山彦命       同
  八 雲 社   素盞鳴命       同
  菅 原 社   菅原道真       同
  八王子社    豊受大神       同
  山 神 社   大山祗命       同
  若 宮 社   菟道稚郎子命     同
  稲 荷 社   保 養 命      同
九 氏 子 数   百八拾五世帯 崇敬者数  人 
十 由緒 
  一 創立年月日  應仁二子年六月一日 神階
    旧社格村社  明治五年十一月 日 列格
  一 明治五年十一月  日 村社に列す
  一 昭和二十一年三月二十日
      宗教法人令により神社本庁に帰属
  一 昭和二十六年 七月十七日
      大蔵省より境内地譲与を受く

 韓 郷 社 配 置 略 図 (省略)

    境内地及び境内地内の建物の所在及び名称を示す。

 韓 郷 社 位 置 略 図 (省略)

    交通機関、市街、道路その他の目標と神社の所在とを示す。



 あ と が き

 韓郷社誌の執筆を氏子総代より依頼され、見識も力量もないことから辞退をしようと考えたが、是非との要請もあって引き受けることにした。
 さいわい、古くから神職を勤めてきた祢宜屋には、韓郷社についての古文書や史料が残されており、また大正十四年に祢宜屋の当主であった下平誠氏が「韓郷神社記」という小冊子を作っておられたので、これらの文献を基にして、村誌・下伊那史・伊那史料叢書などや祭礼の資料・古老の話などを参考にし、建造物や文化財については実地調査を重ねて韓郷社誌の編纂を進めてきた。
 ところが、神社の縁起にかかわる史料は全くなく、いつ・だれが・どこから・何のために勧請したかは依然として謎のままであり、その記述も推測の域を脱することができなかった。しかし近世以後の沿革についてはおおよそ解明ができたように思う。これについては祢宜屋文書が参考になり、当主の下平諒氏のご協力を得たことを深く感謝したい。
 なお予算の都合から、印刷と製本は全て編集委員の製作であり、写真も思うように入れることができなかった。従って見栄えはよくなく不備な点も目立つが、汗の結晶であると思って御高覧いただきたい。
 以上、韓郷社誌を一応まとめましたが、まだまだ研究不足であり今後の研究に期待し筆をおくこととする。
    平成十一年十月一日                      下平好上
                                   鈴川英人
    編纂委員 氏子総代    原 芳美  原 一也  下平 守  福田 豊
         部落長     原  久  松岡武夫
         執筆協力    鈴川英人  下平好上  
    協力者          資料館   下平 諒



【韓郷神社社誌へ】