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裃騒動・農民騒動

【序】  【小川村概観】  【元文寛保年間の裃騒動】

【安永年間の農民騒動】  【結言・附記・後記】




【安永年間の農民騒動】


裃騒動は1739年8代将軍吉宗の世であったが、その後33年の1772年安永五年に小川村の農民騒動は起こった。小川実記に記録されているところによれば次の如きものである。


安永五申年、(名主)定右衛門、太左衛門

此年御願不仕処、三分米納御免被下置、遍キ旨被仰渡、御願仕候而モ難叶処存知外難有被仰渡?而、如何敷思ヒ奈可ラ其趣惣村中江申渡ス。六ヵ年トハ被仰出候得共、難有旨御請書差上、是ヨリ皆金納ニ而上納之積リニ相成米納相止候得共、百弐拾俵之御拝借無之。名主組頭御拝借米茂無之。ヨッテ名主御役所江御伺申上候得バ御口米ト百弐拾俵ハ村方ヨリ米ヲ以テ可相納之由ニ而、割合触札ヲ出ス。是ハ御役所ヨリ三分米御免之時、御口米ト百弐拾俵ハ致米納ニ其外ハ金納ニ被仰付被下置候ハバ、是ニ而難有、違背之者ハ有間敷ト御役所ニテモ御了簡違之様成、名主?与村方ヘ米納可申付ニモ不被仰渡内ニ解札出ス。依之村内八十余人一同シ右百弐拾俵米納致間敷旨、申之騒動ス。

依之、名主定右衛門、太左衛門、組頭五郎右衛門、源右衛門、右四人、組預ケ被仰付。御役所御役御免之向ニ而、仮役トシテ名主代、重右衛門、伝右衛門、組頭代、半蔵、六左衛門ニ、被仰付、八十余人之諸差配致ス。伊兵衛、正兵衛ニ頭分其外此度論外之者佐配被仰付、村方二ツ之支配ト成。御年貢御取立之内ハ加藤富次様、井上甫助様、伝右衛門宅江御越有テ御取立。右之次第ニ而、極月末迄御詰有リ。先役四人ハ万事不手合年ヲ越、翌酉之正月定右衛門、源右衛門、江戸江出府ス。御役所ニ而及御聞有テ、追手之者御出シノ由、村方是ヲ伝聞定而両人可被呼返ト、勘右衛門、左市兵衛、道ヲ替、秋葉山東海道廻リ江戸江下ル。尤御役所ヨリ追手之人ハ不定リ成哉。終ニ四人共ニ江戸着致。御留主居、小嶋市右衛門様江罷出、此節市岡泰之進様御留主居助役御勤被成候。右御両人御聞済有テ、市岡泰之進様東海道廻リ久々里江御登リ、四人之者ハ帰村ス。扱テ双方久々里表ヘ被呼出、双方惣代、定右衛門、弥兵衛、八十余人惣代、要蔵、源次、罷出ル。思ヒノ外御吟味早ク相済要蔵ハ帰村ス。然共、此節殿様名古屋御勤番ニ付、御役人様方、定右衛門、弥兵衛、源次郎、藤内勘右衛門、尾州江被召連、名古屋殿様於御屋敷御裁件有之、御済口証文差上双方帰村ス。

安永六酉年、(名主)金左衛門、九右衛門

去申年御吟味相済帰村雖致ト、惣代之者致方有間敷哉。与(余)思ヒケン。治兵衛、芝吉、両人江戸御留守居江罷出、或御検地御奉行所江モ罷出、小嶋市右衛門様利害ニ而久々里表江、又治兵衛、芝吉、勘右衛門、罷出御吟味之上宿預ケ被仰付候処、届戻之気味モ有之、カクテ何之訳モ無之大島勘右衛門切腹致相果、及極晩ニ勘右衛門子、十蔵、杢八、敵打致度之旨申之事サワガシク、右之次第故八十余人方御年貢貫等ニ至迄一切上納ナク無年内取サワギ候得バ彼是ニ差支、宗門モ無御改、古今珍敷事共ナリ。

安永七戌年、(名主)左市兵衛、庄兵衛

去酉極月勘右衛門切腹ニ付、早春ヨリ取サワキ、此一件ニ付御物入有。 塩ヅケ穴ヲホリ其穴之中段ニ材木ヲ渡シ天地左右ニサワラヌ様ニスエ置、上ニ土ヲ掩イ、ヤライヲ繕所之百姓衆昼夜之番。 尾州ヨリ御検死有。旁以、久々里表百姓衆迄及難儀。然処子細ナケレバ敵モナシ。事相済弔イタシ、治兵衛、芝吉、願之一件モ宿取扱ニ付、藤左衛門、和田八、罷出、和談致、書付取替罷帰ル。(後略)


安永の農民騒動は以上の如き経過である。事は僅か百二十俵上納に始まるが、其の経過を見るとき看過してはならない点がある。この騒動は単なる農民の暴挙ではなく、支配者への正当な反抗である。そこには、お役所において解決せず江戸出府を二回にわたって行ない、正邪の判決を受けんとしている根強さがある。

更に小前百姓の騒動のみでなく、大前階層の人が加わっての運動であり、元文のときとは相当世情の変化があること及び事件の性質の相違などがわかる。しかしこの僅かの調査と資料に基づいて、この騒動を意義づけようとするのは無慮な方法と考えられるので、農民運動の一資料として取り扱いたい。

ここには元文とは違った農民層の力の集中をある程度見ることができる。個々の問題でないだけに、全般的に農民層を大きく包含した運動になったと思うが、相当程度の課税には絶対的に服従するのが通弊であった。

当時の農民の人口は不明であるが、全国的にはほとんど人口の増減がないゆえ、寛文年間の資料から考えて、小川村人口は約千名と見てよいだろう。又戸数を考えてみると二百戸内外であり、八十余名の農民といえば五分の二になる。即ち、半数に近い農民が力をあわせていることを知る。

江戸時代で農民騒動が全国的に多くなってくるのは、農村に貨幣が流通しはじめた元禄の頃からである。その多くは貢納賦役の過重が原因となっている。そしてこれらが、百姓全般を対象としている故に、百姓の団結は当然強まることとなった。

小川村も農民共通な利害関係によって、その力の集中は強められ、正当な根拠を持つところから農民の根強さが生れた。江戸出府二回に及ぶ越訴はこれを証明するものである。この根強さは封建社会の階層分化が進むと、地主豪商との対決を来たすものであるが、結局において正しい主張が多い。言い換えれば、民主化の叫びは常に下層階級の中から生れている。そしてこの叫びは殆ど成功していることがわかる。この根強さは裃騒動の場合と質において異なっている。即ち安永農民騒動においては名主定右衛門、組頭源右衛門、等の大前層の農民が陣頭に立ち小前層の農民と歩を一にしている。この騒動は秋の収穫後であろうが、その年の名主定右衛門と組頭源右衛門の両名が翌年正月江戸へ越訴に向かっており、又これを追ったのが大前層で名主となった勘右衛門と左市兵衛であった。実際の主導者は大前百姓であり、小前百姓と一体になっていたものと思われる。

更にこの根強さは良心的な又合理的な根強さであったことに注意したい。「三分米納御免被下置」という思いがけぬお達しにより金納のつもりでいたが、役所へ申しだした結果、百弐拾俵は口米と共に上納すべしと言い渡された、と言い、又第二回出府後、久々里へも再度吟味を願った際「宿預け被仰付候処届戻之気味も有之かくて何之訳も無之。勘右衛門切腹致し相果る」この様子といい、所謂おかみに対して礼を欠かず或いは農民に対して深い愛情を抱いている点を見ても、その様子を伺うことができる。<何の訳もなく切腹した>との記録であるが、勘右衛門の心境はこの一件が解決せず、届戻しになる様子を知って熱烈な義憤が胸をつき、かかる不満への最大の抵抗となって現れたと思われる。その子が敵討ちを致さんとした事、騒がしくなったのも当然のことである。小川村の騒動は一見して簡単なようであるが、その底を流れる精神には尽きせぬ無言の抵抗があった。騒動はここで一旦影をひそめて一揆とまで発展していないが、ここに良心的な或いは急激に事を荒立てない地味な性格を持つ根強さを見ることができる。

この騒動の結末がどのようになったのか、いま手元にある文書を調べてみても不明であるので残念である。しかし現在この村(明治初年喬木村として合併された)の史談会が着手している村史編纂の際に、或いはこうした史料が発見されるかもしれない。

以上簡単ながら、安永の農民騒動の大要を終える。

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