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裃騒動・農民騒動

【序】  【小川村概観】  【元文・寛保年間の裃騒動】

【安永年間の農民騒動】  【結言・附記・後記】




【小川村概観】


 江戸時代中期の小川村はいかなる様子であっただろうか。農民騒動の発生した環境を把握しておくことは、一つの事件を理解するためにぜひ必要なことである。分ったところを挙げてみると次のようである。

 小川村の宝暦三年石高の記録には、「石高七百六十三石四斗四升とあり、是は往古の事成るべし。」と書かれ、安政年間の記録によると、資料が相当まとめられており、「慶長の頃は七百六十三石四斗四升」と出ており、更に同記録にて、「元和の頃より寛永の頃は千十三石四斗四升」であることを知る。

又、小川村実記によれば、「去る方に寛永二十未年の宗門見出し御所高千十三石四斗四升」とし、「右の訳」として、近藤、千村、宮崎(当時の領主)の預所を区別している。こうしたことを見ていると、二百四十石の増加はほぼ五十年を置いて見なければならない。

次いで寛文十一亥年御検地帳をみると「高千五十石壱斗三升四合、此反別百弐拾町五反九畝壱歩」とし、さらに田の石高六二九石余、畑四一二石余、新田八石余とし、資料が細かくなって経営の大略を知ることができる。

この検地のときには、上田、中田、下田、下々田、下々々田、及び畑も同じく、上畑より下々々畑に等級を区別し、年貢としても一反につき、上田一石五斗、下々々田では七斗、同様に上畑一石二斗、下々々畑三斗となっている。

山林面積については「百姓持林四ヶ所反別の儀相知不申候(後略)」とあり不明であるが、この頃の人口が「百姓家数弐百軒、人数九百五拾三人、内男五百三拾弐人、女四百弐拾壱人」とあり、一人当たりの田畑面積は約一反三畝近くになっている。

しかし貧富の差があり階級制度は厳しく、庄屋庄兵衛の如きは八間に八間、二階に四間の堂々たる屋敷を構え、家内五人のほかに「被官六人、下男六人、下女九人と相見え」「百拾五石八斗七升六合」の石高を持っていた(小川村の十一%に相当した)。

こうした実情であったから村全体としては割合裕福であったと考えられるが、個々の生活には階級の差があったことといえよう。

更に田では三分の一を下田が占め、畑においては下畑、下々畑、下々々畑あわせて畑の三分の二を占めている姿を見ると、「村居之儀は山合洞々之内に住居仕申候。田畑土地之儀は田畑共に赤土勝砂」という丘陵地の痩せた土地で汗水流して働く農民を想像することができる。

田では「坂東伊勢丸早稲」を作り、畑では「上中下に麦蒔、秋作には大豆、小豆、粟蒔」「下々畑、下々々畑には稈?(不明文字)麦、大根等」を作り、農閑期には「男は山稼、女は古布を織」って生計を立てていたことを知る。村から売り出すものは、大豆小豆等のみで他に特別の産物はない。

今は養蚕の盛んなこの部落も「蚕飼の儀は寒気強く」いうことで「不罷成売出申儀無御座」案外振るっていない。もっとも養蚕は明治二、三十年後急激に発達したのだから、当時の養蚕技術や蚕種改良のない当時は、まだこのようなことであることを知る。

又丘陵勝ちなこの地は水田の水掛に相当苦労したらしく「大沢溜池壱ヶ所、長弐拾七間、幅弐拾七間、深さ一丈一尺。堤溜池、長弐拾間、幅弐拾間、深さ九尺。右二ヶ所溜池之儀、寛文十二子年」によって判るように大きいものを造っている。更に「銘々持分之内」として水溜を共同で造ったものが八ヶ所に及んでいる。大きさは長五間より二十間、幅五間より拾六間迄、深さ四尺より一丈迄の池である。

村の人口は前期のごとく家数二百軒人口九百五十三人を数え、大工二、医者一、坊主七、鍛冶一、神主三を含んでいる。人口の内訳は男子五三二名、女子四二一名で男子のほうが一一一名多いのはいかなる理由によるものであろうか。或いは今は亡き祖母に聞かされたように生後内密に殺されたものであろうか。この点不可解である。おそらくは間引きなる言葉を裏付けるものであろう。

 右により寛文年間の農民生活の一端を知ることができるが、後の安永八亥年秋に行われた検地では「本新田畑合千弐百五拾壱石一升六合、反別百五拾八町三反七畝弐拾歩」となっており、寛文以後一○七年の間に約三十三町の耕地と約二○○石の石高の増加を見せている。即ち耕地石高共約二割の増加となっている。

以後八○余年で明治となるのであるが、急激な耕地の増加がないと言えよう。

 この村は千村家の所領となっており、文化年間の記録によれば、千村兵右衛門源良重(ヨシアツ)公以下、重長(シゲナガ)公、基寛(モトヒロ)公、仲奥(ナカオキ)公、仲成(ナカナリ)公、重朝(シゲトモ)公となって一貫し、御代官役所は飯田に置かれ、箕瀬、荒町と変わっており、桑名、大竹、今泉、桑原、湯沢、三枝、宇部、市岡の諸氏が是に当たっていた。

代官所には御手代、御目付が置かれ、その下に小川村名主があり、農民が支配されていた。

 小川村は慶長より寛文年間まで千村家と宮崎家が支配していたので、それまでは二人の名主が在職していた。寛文年間に宮崎三左衛門方名主湯沢重左衛門は「此節千村兵右衛門様方百姓名主可相勤者無之哉、宮崎三左衛門様方名主湯沢重左衛門え無據相願重左衛門請取双方支配す。此節宮崎様御改易之後、一村不残千村兵右衛門様御領所と成、弥(イヨイヨ)重左衛門惣村支配。元より高禄成。殊に三左衛門様え内縁も有之、旁(カタガタ)当代御代官格之様にて村方治りも能、罷在候処、生死は不定、重左衛門相果」かような結果となったが、ここに小川村が千村家の所領となり、名主も一人になることになった。

 次いで原源右衛門及び重左衛門弟湯沢武左衛門の二人が名主となったが、享保年中湯沢武左衛門は「諸事支配余り厳敷」きため、惣百姓の声にしたがって羽生与兵衛が之に代わる。

ところが、元文四年裃騒動が起こり、寛保二年に両名主(この頃より庄屋を名主と称す。古くは田家守と見える)責任退職となる。後役に宮下八郎兵衛、湯沢重左衛門(重左衛門の子供か)両名名主となり、寛延宝暦年間に名主交替制が問題となり、宝暦四年之が解決して交替制となる。かような次第で以降の名主は年番交替となって継続することとなった。

右の大略を略記すると次のようなものである。

小川村名主代々
.千村千村兵右衛門名主     宮崎三左衛門
     名主
慶長原安右衛門.
元和..
寛永宮下惣七.
正保..
慶安..
明暦市瀬右左衛門.
万治.     湯沢重左衛門
..      宮崎様と内縁在り高禄
..      死亡…弟武左衛門、兄の子を後見
寛文湯沢重左衛門・小川村惣村支配の始まり
享保原源右衛門.
.湯沢武左衛門
 (羽生与兵衛)
.
元文.・元文四年三月真浄寺智禅和尚の弔時、上下着用出入について問題起こる。中通以下(即小前)百姓の裃のこと。
..・翌々年(二年目)寛保元年春、年割懸不平を役所へ願い出る。(該当七十七人)この時久ゝ里より役人来る。その際上下のことも話しに出す。九月に至り久ゝ里表へ出る。割懸、裃共に解決す。
・責任退役す。
寛保宮下八郎兵衛
湯沢重左衛門
 (重左衛門の子?)
・名主交替制 大前層の意見では頭分による年番交替制を主張し、小前層は札入れによって決めるべしと主張し、意見対立して未決。
.原長左衛門
羽生九右衛門
・名主交替制解決。大前の意見通り、頭分銘々、五人組にて一人連印にて引受けることとなる。
宝暦04治郎左衛門
源右衛門
・榑木四百八十挺替
宝暦05長左衛門
勘右衛門
.
宝暦06藤左衛門
伊兵衛
.
宝暦07武右衛門
九右衛門
・此年より山租上納始り
宝暦08左市兵衛
伊左衛門
.
宝暦09源左衛門
次郎左衛門
.
宝暦10武左衛門
九右衛門
・九月飯田御役所より新田御検地有り。
宝暦11伊兵衛
藤左衛門
・御巡見御通行有り
宝暦12定右衛門
小源治
・此年沢山御林と成
宝暦13源右衛門
次郎左衛門
・堤旧堤に当請村人足、御役所より奉行井上様来る。
明和01九右衛門
武右衛門
・御林苗木植付。是より安永二年迄榑木五百挺替
明和02伊兵衛
藤左衛門
・大沢堤に当請村人足
明和03太左衛門
定右衛門
.
明和04伊左衛門
八五郎
.
明和05次郎左衛門
兵左衛門
・荒町より新田御検地有り。
明和06武右衛門
九右衛門
.
明和07藤左衛門
伊兵衛
.
明和08定右衛門
太左衛門
.
安永01次郎左衛門
兵左衛門
・名主交替の際連印が面倒にて、連印廃止となる。御目鏡にて仰付る。
安永02武右衛門
九右衛門
.
安永03藤左衛門
彦左衛門
.
安永04勘右衛門
伊兵衛
・此年より榑木四百六十挺替
安永05定右衛門
太左衛門
・此年米百二十俵上納について村内八十余人騒動を始め、安永七年頃までこの問題が続く。
・村方二つに分かれて支配さる。
・仮役出来る。
安永06金左衛門
九右衛門
・正月、定右衛門、源右衛門(共に大前、名主をせし者なり)江戸へ出府、越訴に上る。
・久ゝ里表にて、定右衛門、弥兵衛、要蔵、源次郎、召し出されて吟味を受ける。思いの外早く相済む。
・治兵衛、芝吉、勘右衛門、久ゝ里へ罷出、宿預けとなり、前途見通し悪しき気味有りて勘右衛門切腹す。八十余人一切上納無し。
安永07左市兵衛
庄兵衛
・騒動は落着す。
安永08伊兵衛
藤左衛門
・検地が行われる。
・十月一日砂降る。
安永09九右衛門
和田八
・丈兵衛、御検地大やかまし。
天明01五郎助
正兵衛
.
天明02左市兵衛
金左衛門
・此年より七年 榑木四百六十挺替
天明03八郎兵衛
和田八
・此年浅間山大焼け土砂降る。
・此年大飢饉、一両に米九升より一斗、従公儀御給米出る。当村へも御役所より足軽来り銘々の家穀改、扶食無之者え御給米代銭貸付、一人前二十一文宛被下候。
天明04九右衛門
伊兵衛
・辰より午まで、関東筋は大飢饉。洪水にて人多く死す。
天明05定右衛門
瀬兵衛
.
天明06金左衛門
正兵衛
・当辰年も飢饉。卯年より少しく能方。飯田裏屋之者共大勢出歩き押しがり致候。諸国洪水、七月より従公御無心金として、御領、私領、寺社領共銀二十五?宛、五ヵ年の間に一割二分五厘、利足を加へ御戻し。
・此年、老中にて、騒ぎ有り。
天明07九兵衛
和田八
.
天明08八郎兵衛
九右衛門
・御巡見御通行
寛政01次郎左衛門
利左衛門
・榑木三百五十挺替 大満水有り。
寛政02武右衛門
九右衛門
.
寛政03弥兵衛
八郎兵衛
・伊久間と氏乗山論済口
寛政04九右衛門
九兵衛
・榑木三百五十挺替
寛政05次郎左衛門
和田八
.
寛政06正兵衛
八郎兵衛
.
寛政07弥兵衛
九兵衛
.
寛政08九右衛門
次郎左衛門
.
寛政09正兵衛
八郎兵衛
.
寛政10和田八
弥兵衛
.
寛政11次郎左衛門
九兵衛
.
寛政12九右衛門
正兵衛
.
享和01和田八
次郎左衛門
・此年に名寄帳改直し
享和02正兵衛
弥兵衛
・小前の取立て百姓を宗門肩書致度申出、御上沙汰に成、終に肩書は新法取止めに成る。大混雑す。
享和03九右衛門
次郎左衛門
.
文化01正兵衛
九兵衛
・出羽国庄内大地震山くづれ人馬多く死す。
文化02次郎左衛門
九兵衛
・此年新林伐潰す。
文化03次郎左衛門
正兵衛
・右新林一件につき出府
文化04和田八
正兵衛
・江戸表へ召し出される。下平之者乱暴狼藉を働く。いろいろと難儀に及ぶ。
文化05源右衛門
正兵衛
.
文化06十左衛門
和田八
.
文化07九右衛門
九兵衛
.
文化08名主不明.
文化09名主不明.
文化10名主不明.
文化11九右衛門
十左衛門
.
文化12勘右衛門
新左衛門
.
文化13勘右衛門
次郎左衛門
.
文化14九右衛門
十左衛門
.
文政01九兵衛
勘右衛門
.
文政02九右衛門
新左衛門
.
文政03九兵衛
正兵衛
.
文政04新左衛門
武右衛門
・十八世禹?真浄寺庫裏再建
文政05新左衛門
次郎左衛門
.
文政06勘右衛門
九右衛門
.
文政07九兵衛
新左衛門
.
文政08新左衛門
次郎左衛門
.
文政09九右衛門
九兵衛
.
文政10新左衛門
正兵衛
.
文政11九兵衛
次郎左衛門
・大満水有り。
文政12九右衛門
正兵衛
.
天保01新左衛門
武左衛門
.
天保02九右衛門
九兵衛
・中尾社頭再建
天保03新左衛門
武左衛門
.
天保04九右衛門
源太夫
・違作秋、百文にて米一升、村々大にさわぎ
天保05九兵衛
源太夫
.
天保06勘右衛門
源太夫
.
天保07源太夫
喜兵衛
・大凶作
…三月まで勘右衛門
天保08正兵衛
次郎左衛門
・四月 十両に米五俵
・千村様、所領十一ヶ村へ拝借用六百五十両程渡し候。小川村へ八十九両。
天保09源太夫
十左衛門
・御料御巡見有り。
天保10十左衛門
源右衛門
…五月一日死亡 後役 九右衛門
…五月二十五日死亡 後役 瀬兵衛
天保11正兵衛
九右衛門
.
天保12喜兵衛
次郎左衛門
.
天保13九兵衛
太左衛門
・千村様御巡見十一ヶ村
天保14正兵衛
一郎治
.
弘化01正兵衛
九右衛門
・五月十日、御江戸本丸御焼失。
弘化02九兵衛
九右衛門
.
弘化03九右衛門
次郎左衛門
.
弘化04喜兵衛
太左衛門
・三月二十四日頃、座光寺大地震人多く死す。辺郡村々家多く潰る。
嘉永01太左衛門
兵左衛門
.
嘉永02兵左衛門
和田八
.
嘉永03兵左衛門
和田八
.
嘉永04源右衛門
五郎助
.
嘉永05次郎左衛門
五郎助
・五月三十一日、江戸西丸御焼失。
嘉永06太左衛門
和田八
…三月死亡 後役 兵左衛門
・六月北アメリカ船数隻浦賀へ渡来。
安政01兵左衛門
次郎左衛門
.

小川村はかような様子であるが、なお農民の階層を分析してみることが必要である。しかし、いろいろと多忙に追われているのでいずれかの機会に譲りたい。これは農民の民主化運動を調べる上にはぜひ必要なことであるが、宗門長の範囲が多年にわたり、又拝借の品物であるので如何ながら省略する。

農民階級には威圧的な厳しい階層は存在しなかったのではないかと思う。これは農民騒動の項にもその傾向を看取することができるのである。

以上、簡単ながら小川村当時の様子と歴史のあらましの記述を終えることとする。

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