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裃騒動・農民騒動

【序】  【小川村概観】  【元文寛保年間の裃騒動】

【安永年間の農民騒動】  【結言・附記・後記】




【元文寛保年間の裃騒動】


現在原家に保存されている古文書(騒動の控書)により、原文を以ってこの騒動の経過を見ることにしたい。


元文四年未之三月真浄寺御閑居御遷化之時、里方不残真浄寺江御見舞申候節、氏乗り伊左衛門、里方にて平九郎、権左衛門、源次郎、平左衛門、茂平次、儀左衛門、右七人の者は片衣を着用出候に付、村方名主長百姓として御吟味之故右之人数江着不申様に申付候所無心得故無是悲御代官様江申上候事

     願人数之事

  三左衛門  勘右衛門  武右衛門  杢右衛門
  茂兵衛   源右衛門  重  内  六右衛門
  重左衛門  太左衛門  半  蔵  八郎兵衛
  広  蔵  文右衛門  与兵衛   助左衛門
  左市兵衛

右十七人以願書御役所江相願候得ば御聞届ヶ有之御吟味被為仰付候

 本家 宮下文右衛門〇   家続 宮下八郎兵衛〇         (〇印は願人)
 家続 宮下広蔵〇     家続 宮下茂平太(茂兵衛)〇
 家続 宮下伊兵衛     家続 宮下五左衛門
 本家 羽生与兵衛〇    家続 羽生介左衛門〇
 家続 松島左市兵衛〇   家続 松島市右衛門
 本家 原勘右衛門〇    家続 原三左衛門〇
 家続 原太兵衛
 本家 原源右衛門〇    家続 原与左衛門
 家続 原杢右衛門〇
 本家 湯沢重左衛門〇   家続 湯沢武右衛門〇
 家続 湯沢六右衛門〇   家続 湯沢太左衛門〇
 家続 松沢半蔵〇
 本家 市瀬重内〇     家続 市瀬勝右衛門
 家続 市瀬文五右衛門
 本家 大島仁兵衛     家続 大島儀兵衛
 家続 大島源次郎

右之通飯田御役所江書付差上候所、段々御吟味にて右之人数斗(バカリ)片衣着用申候筈に被仰付末々迄堅相定可申候。

     右七人御吟味之事

一 伊左衛門儀段々御吟味処誤書付取永々子孫共片衣着用不相成候定
一 茂平次儀御吟味之上誤証文差上子孫迄片衣着用不相成候
一 源次郎儀御吟味之上誤証文差上子孫迄片衣着用不相成候
一 儀左衛門ハ市瀬重内家続ト申立候得共重内方ヨリ無之証文出シ家来同前之御吟味ニ而永々子孫迄片衣着用不相成候事
一 平左衛門儀ハ名主長百姓江誤証文差出内所ニ而被留永子孫迄片衣不相成候定
一 平九郎、権左衛門、右両人の者共とうとりにも被思召御吟味続其上村方古法ヲ相背候上名主長百姓江誤リ為手立トくわたい(過怠)願年々?宿預ニ而知久町与左衛門江御預ケ五人組ヘ久不ぅ人被仰付日数十三宿ニ罷有候此之仕合故両人共ニ片衣着用子孫迄モ永不相成候
  真浄寺てっかん和尚様モ、平九郎、権左衛門、右両人ニ組合村中トして御願申御役所ヘ御訴訟申上候而御くわたい(過怠)御免御座候
一 八左衛門儀右七人之内ヨリ訴人有之候ニ付御吟味被遊候ヘ共与五兵衛頭目ヘ遣申候節親伊右衛門村方長百姓江断相立片衣ハ着用仕候筈ニ而八左衛門遣申候筋ニ而相成リ訳相立八左衛門ヘ一代ハ片衣着用申筈ニ被仰付候

右之通御吟味之上相分リ被仰付以来相守可申候                 以上

元文五年申三月日
                           名主 与兵衛
                           同断 源右衛門
  桑原角右衛門様
  今泉?右衛門様
   御手代 市岡源六殿
       市岡源九郎殿
       産沢源蔵殿


元文四年の騒動は右の如き結果を見たのであるが、更に翌々年三月、再びこの問題が発生している。即ち、次の「乍恐御願奉申上候御事」である。


   乍恐御願奉申上候御事

(前略)此度三人肩衣ヲ着シ出申候間又々吟味仕古例之通重而ハ頭分之者付合之場所江肩衣ヲ着シ申儀決而無用ニ可致旨申渡候得共三人之内壱人ハ心得仕重而肩衣ヲ着シ申間敷旨相請村方古例相守候得共権左衛門平九郎倅甚之丞此両人之儀ハ村方古例法ニ構無御座向後勝手次第ニ上下着シ可申ト御座候間左様相心得候様ニト申?心不仕村方古例法相背キ不届キ成者共ニ御座候(後略)


かかる事件は一方的な採決によりて了解すべき性質のものでなく、この裃一件は寛保元年に至りて解決することになった。

即ち、


(前略)中通リ以下之百姓羽織袴御免肩衣ハ停止ニ被仰付、双方奉畏一旦相済罷在候所、寛保元午春里方山方迄平百姓七十七人一統シ、御蔵敷地米名主可出処ニ村中ヘ割懸、其外理不尽之事共数ケ条書立御役所江願出ル。依之久々里表ヨリ深尾勘兵衛様御越、村中一々被召出数日御吟味雖有之、不相分久々里ヘ御帰被成。同年九月久々里表江被召出、御吟味相済。此時於対決之席ニ上下之事モ申上ル御意、其段ハ飯田御役所ニ而一旦御吟味相済候事ニ候得共、又々御役所江御願申上御吟味之趣於不得心ニ者(ハ)無上、此方可申上段被仰渡、双方済口御書付差上罷帰リ、右上下着用之事飯田御役所江願出候所、真浄寺此一件一体寺ヨリ差起リ候事ニ候得バ、先達ハ御吟味之上双方差上候書付等愚僧ニ可被下置候。内分之儀ハ何分愚僧取?相済可申段、達テ御願被為書付等不残申下ゲ双方江御渡シ、右一件ハ反古ト成上下之事ハ村中無差別相成候(後略)


以上古記録の原文を参考としてみるに、何れかの古法が受継がれており、それに従って村方統治がなされている。裃一件についてみると「上下着申者ト、袴斗(バカリ)着申者ト、袴モ着申サヌ者」の三つの区別があり、それぞれの身代階層に応じて「祝儀愁嘆会合之場所」へ参集している。こうした時下男は裃も袴もつけないので、小百姓の小前層の人々は、一般に袴だけ着けていたと推察できる。

此の裃騒動において先ず気をつけてみる点は、袴のみ着用できない小前層が、裃も着用しておる大前層に対して、その差別撤廃を根強く主張している点である。完成期の封建社会である当時は、神事仏事或いはその他の公式の席上では階級の区別は相当はっきりしており、それを守らねばならなかった。

小前百姓にしても、勿論事の是非はよく弁えていたに相違ないが、名主長百姓合議の交渉にも抵抗し、名主長百姓をして代官へ願い出させている。

元文四年の結果は前述したとおりであり、厳罰はなかったにせよ、続いて翌々年三月に三名のものが裃を着用し、又もや名主長百姓の申し渡しにも耳をかせず、遂に再度代官へ願立てる始末となっている。しかも権左衛門と平九郎は元文四年に裃を着用して否決されているのである。

この事実は大前層の権力的な威圧がなかったことも原因になろうが、やはり氷山が海上に姿を表わすような事実と同様、小前層の大前層への根強い抵抗、いいかえれば大前小前の身分差別の撤廃要求ということが大きい原因であろう。そして裃一件は小前層の心境の発露であり、この騒動の事実を裏付けるものであろう。

更に真浄寺和尚の処方には注意したい。なぜ代官の裁定が下された後において、その裁定とはまるで反対の処置を講じたのであろうか。真浄寺和尚の性行について知る資料はないけれども、理に通じた和尚であり、単に裃一件で村の統合が破れることを考慮し、或いは小前百姓の無理からぬ主張を是認しての処置ではなかったであろうか。

真浄寺和尚の心底がここになければ「此度右名主両人差而(サシテ)非道之儀ハ無之候得共、村方騒動致サセ候ニ付、当年御取?相済次第退役可仕旨被仰出」という名主の立場を理解することができないのである。

切迫づまった生活上の問題でないだけに、小前百姓の主張が結局通ったのであるが、封建社会の陋習に固執し、伝統を尊ぶ性格の農民が巻き起こした小川村の裃騒動の成果は賞賛してもよいものである。又神仏に関した階級制度の撤廃に、平等化の運動が見られるのは、農民運動を理解していく手がかりとして見落としてはならない点である。

又小川村の場合は、安永の場合でも見られるが、名主と小前百姓の間にあまり深い溝のないことも、農民騒動としては割りに早い裃騒動を成功させている一因であるといえよう。

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