■ ひとつのとっかかり


私が仕事上で、整体だけでなくメンタルなサポート作業も仕事の中に組み込みたい、
そう思うようになった大きなきっかけの出来事があります。

それは、私が既に自分の内面の整理、気づきを深めるための作業を進めながら、
これから仕事の形を模索していた頃のことでした。


その日は朝から一日ずっと連続で整体の仕事が続き、終ったのが夜9時過ぎでした。
最後の人が終り、やれやれ終ったと思った。

とても疲れを感じ、正座するのが辛く、後はその人が帰るのを待つのみ‥‥。

というよりは、「 早く帰ってくれないかなー 」と、その思いに対して「 不謹慎な!」の
二つの気持ちを感じた次の瞬間でした。

全身から、たった今感じていた全身の疲れ、心の中のゴチャゴチャ、
つまり体と心に感じていた全てがパッと無くなってしまったのです。


「 あ‥‥、あれっ!、何なんだ!これは? 」

正座したまま腰は急にスッと伸びました。まるで長時間坐禅したその暁のようなこの感覚は何なんだ?
と驚きを隠せませんでした。大体が私は坐禅したからといってそうなるものでもありません。

さっきまでの心身の疲れはどこへ行ったのだ。


無い、無い、何も無い! 空っぽだ。 そういえばこれはずっとずっと長い間探してきたものだった。
本当はこの感覚を仕事の最中に保ちたいと思っているはずなのだけど‥‥。


実はその時仕事は続いていました。その患者が整体の後、最近の自分の悩みについて勝手に話始めたその時に、私はその奇妙な空っぽ状態になったみたいでした。

多分その患者は、体が弛んでほっとしてカラダという殻(カラ)が融けて、
中身( 実 )まで融ける欲求がでてきたのだと思います。

相手のことより、私自身に起きたことはあまりにも衝撃的でリアルでした。

もちろんその人への対応は極めて自然でした。
虚心なものだから、スッ、スッと相手を受け入れ、必要なことだけちゃんと応対できていました。

意識でやっているのか無意識でやっているのか判然とはしませんが、心はかなりクリアーでした。
患者はスッカリ安心して帰っていかれました。


今思い出すと、それはキッチリと型にはまったワークとか、
相手のために答えを探している自分ではなく、本当に何も無かった。

無いからちゃんと必要な言葉なり、態度がでてくるといおうか。

「 そうか、ここを目指せばよいのか 」とそう思いました。

この状況を言葉を用いて説明するのはとても困難。

静けさ、冥想的、構えの元型、力、感謝、畏敬、気合、ポカーン。

そうだ、欲しかったのはこのポカーンだった。 「 考えないこと 」


ある人が、「 人に触れているとあるところで手が止まりポッカーンとする。

そのときエイッ!と気合をかける。それで体がガラッと良い方へ変化してしまう 」
そういうことを説いていた。

私も真似て長い付き合いの懇意な人に、試しに気合を掛けさせてもらったことがありました。
しかし、体としての結果は良かったのですが長い眼で観察すると、
その方の、私に対する依存は以前より強くなっていました。

また私を権威的な人として接する傾向も強くなってしまいました。

実につまらない。そう思いました。

私が探していたポッカーンはそんな質のものではなかったように思いました。
本人様の体調は良くなっても気合、指導については失敗だったのです。

気合をかけるというなら、黙ったままごくごく静かに、気づかれないようにくやればいいことだと思う。

それよりも、私にとってはメンタルな作業の中でのポッカーン、これの方が存在感が大きくなりました。


■ 悩み

その頃、病気の体の持ち主の要望と私の読みや感覚がずれてしまうことに、私は大変悩んでいました。

偶然かどうか分かりませんが、私があれこれ学んできたことで共通していたのは
心と体を分離させていない点では全て同じでした。

それぞれ、「どうやったら治るか」その発想もあるのですが、
「それそのもの、現在進行形の中に何らか価値、意味を含んでいる 」というのです。
つまり対立や否定から入らない。


整体をしながら、
「 この人の症状は治さない方がいいのではないだろうか 」そう思うことは度々ありました。

決してそれは、その人の行状や性格が悪いから治してやらないとか、そういこととは全く違うのです。
みなが公平に持っているその人なりの可能性を私は尊重信頼したいのです。

癌で苦しむ人とコミュニケーション不全の家族関係、
麻雀屋がイスではなく畳だったから膝を傷めたと何度も訴える人、
上司の虐めが元でトイレで卒倒した人、学校へいけなくなった若い中学校教師。

これらは明かにメンタルヘルスの問題であると誰でも察しが着きます。

これが、普通の身体症状が心とつながっているとなると、「?ウソ!」って言いたくなります。


しかし、よく観察すると体は精巧にできていて内臓、各器官、脚、腕、
これらは神経・背骨を介して脳とつながっています。

発達の順番からしたら背骨の中を通っている脊髄神経先で、その部分発達したのが脳なのだそうです。
私には、脳は脊髄神経の一部分だと解釈した方が納得できることが多くあります。

だから、カラダ、ココロというように分けられないし、
例え手先の痺れであろうと内臓の故障、膝の痛みであろうと全部関連があると思うのです。

しかもそれが内面・無意識とのつながりがあるのも確かで、

おまけに意識上にある善悪感、病気=悪とは別の、肯定的バランス感覚に支配されているのです。

だから、身体症状(痛み・痺れ・疼痛・重さ・ダルさ)これを上手に治したとしても、
内的なバランス感覚が求めている心身の安定状態は置き去りになってしまうのです。


例えばこれはつい最近の例ですが、" 腕が重い "たったこれだけのことの中から
「 自分の流儀の思い込みを横に置いて白紙の状態で人を受け入れる 」

そのようなメーッセージと共に本当に気持ちが新たになった人がいます。
腕の重さも取れました。役割が終ったのでしょう。

このことを思うと、どんな技術であろうと、それを気合、手技で治すことはある意味では損失です。
別のいいかたをするなら重要なチャンスを逃すことになります。

かといって、私には本人が至らないとか駄目とか言う発想はあまりもっていません。
選ぶか選ばないかの違いになるだけではないでしょうか。



それより、その時点では私自身のこととして、

「 自分は本当にまともなことをやっているのだろうか 」

この気持ちに何度も襲われました。

私は整体を行なうのが段々と嫌になり、一時期は気もちが入らないで惰性でやっていました。

それがまたおかしいもので、テキトーにやってもちゃんと痛みや症状がとれることもあって、

本人はもうニコニコして「大変ありがとうございました」とお礼を言われるのです。当たり前です。(^^ゞ

ところが私はスーッと気分が冷めて落ちていく、このようなことが起きるのです。
(いまでもそれを感じることがあります)


そんな中での、あのポッッカーンの存在は偉大なる力を持っていました。


ときどきワークの最中にそういうことが起きることがあります。
まるで時間が止まったみたいな感じになります。

残念ながら、正直に言うとまだいつもそうなるとは限りません。

その静かでクリアーで同時に何が満ちていると感じるその時、
自分をごくナチュラルな仲介者と認識することができるのです。

でも、そんな抜けた青空のような気持ちになりたいために仕事をしたいのではありません。

整体を止めたいと悩み、思いは廻りました。 しかし、
体が整うと感覚や気持ちも変わってくるのも事実ですので、それまで通りやっていくことにしました。

それに、体の自然と密着していると、そこから得られる感覚的判断というのがあり、
分析を越えた勘が働くことも自覚しなおしました。


整体の眼で心のサポートで起きた事を眺める。
整体ではなくセラピーだったらどういう展開になっていただろうか?
それらがヨガで学んだ自然原理とどこで符合するか、簡単な言葉に変えることができるか。

こんなことをしょっちゅうやっていました。
これはいろいろなセラピーや技法が自然現象に即しているかどうかを見定める良い訓練にもなりました。


そうやって、私なりにヨガの統合的な視点、生々しい体の変化を追いかける整体、
心・体・生活を分離させないで起きていること自体に個人的価値を見出す心理セラピー技術、
これらを自分の形にしたいと思いました。


そのために、私にも支えと気づきを与えてくれたのは昔の師匠の言葉、

「 イノチの働きは、病みもしなければ、悩みもしないんだ 」

「 病気を病気と思うなよ。悩みを悩みと思うなよ。 」でした。

何十年も前に聞いていながら、「やはり」、と何度も噛みしめ直しました。 ←遅い![ 師匠 ]

ワークでは、今現時点で起きていること(症状)そのものが深い気づきと改善のトッカカリになります。

私たちの心身はそのようにできているのだと思います。いや、できているのです。
心身セラピーへの動機
「 何なんだ! これは? 」
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