■ 豆粒、粟粒


「気づき」この言葉を聞き始めたとき、それはとても嫌な感じでした。

「自分が自分のことについて気づいていないことがある」そう思うのは不快でした。

私はそんなバカではない! つい、そう反応してしまう。

しかし、自分のこと、無意識の内容について全て知っている人がいるかというと、
そんな人はいないはずで、それこそ気づくと実に公平なことでした。


いろいろ書きましたけど、私も心身が根本的に持っている力について本当のところはよくは分からないのです。

無責任な言い方ですみません。


私は自分のワーク、人様のワークを行ないながら、ワーク自体を道具として捉えてきました。

しかし、行なうにつれて段々と自分が,
とても小さな存在として感じられるようになり、捉え方が変わってきました。

「 この作業は宗教でもなければ、特定の教義思想でもない。
しかしもしかして‥‥、これは神聖な作業といえるのかもしれない 」と
少しだけ思えるようにもなりました。



ずうっと遠くの空を眺め、そのまた向こうに思いをはせた時、

自分は豆粒、粟粒になるみたいな‥‥。

そう思いながらとにかく私はこの作業が好きです。



次のようなことも時々起きました。

一人で自分の内面についてワークしていたら、望んでもいなかったのに、
それまで混乱対立していた家族の一人の態度が変わってきた。

こういったことにどのように説明をつけたらよいのでしょうか。

人が全ての現象を科学したい欲求の中には、

「コントロール欲求」これがあると思います。

コントロールの連続で果たして自分に自信がつくだろうか?


肩の力を抜こう


聞くところによると、量子物理学の世界で眺めると、壁、手、他人(もしかしたらその心も)、全ては隙間だらけのスカスカの世界なんだそうです。

量子視野メガネで見たら人の心や人間関係の心理的な力構造が見えるのでしょうか。

嫌ですね。そういうの作って欲しくない。エッチね、って感じ。(^^ゞ

もしかして、その極微の世界さえも心身と連動しているのでしょうか。


一体、その世界は暖簾(のれん)に腕押しのまとまりのない世界なのか、

全てに整合性のあるデジタルなのか、アナログで主観的なのでしょうか、

気になるところですが私には分からないし、説明することができません。

だれか、お詳しい人がいたら教えて下さい。メール→kaisei@bf.wakwak.com


原理を説明しようとして、最後は尻すぼみになってしまいました。^/^



体の現象も心の現象も一緒こたにして書いたので大変読みづらかったと思います。
長文をお読みいただきありがとうございました。
NRTワーク 原理の要点
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突然ですが‥‥
■ 排除ではなく、気づきと調和へ


体の一部分にある痛みや症状を取り去るどころか、

もっと痛みや症状を積極的に感じて、そこから表出する現象、イメージや感覚を吟味すると、

個人的に大切なことなのに排除してしまっていたエネルギーに出会い、それが痛みや症状を解消することにもなる。

短くいうと、症状の中に症状を解消する糸口を含む。

これと同様に、夢や悩みや人間関係も扱うことができる。


このことをあなたは受け入れられるでしょうか?


頭痛、神経痛、自律神経失調症、生活習慣病、糖尿病、肝臓の病、

パニック障害、おぞましい夢、内的な葛藤、心身症、人間関係のトラブル、

ふと散歩中に見かけた何か気になるもの、依存、堂々巡り

それら自体がその改善と個人的に有益な価値を生み出す何かを含んでいる。

ワークではそういうことが起きてきます。


快感原則というのがあって、快は心身を整える力をもっていることは近年認められてはきました。

しかし、不快の言葉は適切ではないのですが、場合によっては不快があなたを新しい世界に導いてしまうというのです。

あなたはどう思いますか?



私は実際に現実に遭遇しながら何度も「何故だ?」と問い直してきました。

「指を怪我しました。これが持つ意味を知りたいのです。」

そんなことを言ってきた人もいました。

それで、それなりにちゃんと答えが出たのです。


私はせめて身体症状についてだけでもある程度の説明が必要だと思いました。

それで前のページに書いた納得の仕方をしてきたのです。



この作業には一つだけ難しい問題があります。

それは、トラブルに見舞われているあなたの立場を離れて

トラブルの側に経ってあなたを眺めてみる必要があるということです。

ですから、ちょっとだけ勇気がいるのです。ちょっとです。

注射を打たれる側の勇気ではなく、打つ側に回る勇気とでも申しましょうか。



あなたがテレビのドラマや映画に感激したとして、その感激した部分について

本当の作者ではなくて、自分が作者だとしてその感激した部分の意図を探り、

そこからテレビを見ているあなたにメッセージすることになるということです。

他人があれこれ言うのではないのです。



心身どちらのことであれ、

「何か、あなたのゆらぎを回復しようとする力があるのです」

「人間は他の動物には無い脳をもっているのです」としか私には言えません。


「排除に躍起になるのではなく、調和しようとしている働きと調和しようとする」
それで良いと思います。


また、調和の程度を他人と比較したり評価する必要は何もありません。

これがワークの自然の原理であり要点です。



「あなたを振作しあなたの自然性を守ろうとする力」と「あなた」、

その仲介者媒介者として、私は可能な限り見守り、援助したいと思います。
■ 体・脊髄・脳そして意識


症状を含む心身の現象に意識的に関わる時、

一瞬にして、意識と身体症状の間に

[ 内臓・筋肉・皮膚・分泌 ]→[ 脊髄 ]→

[ 延髄(呼吸、嚥下等生命維持に重要な反応を司る中枢) ]→【 脳 】→

[ 内的感覚(イメージ、言葉、など)への投射 ]→[ 認識する意識 ]

この連鎖が起きているはずなのです。

対人関係においても同様です。体は相手の事を感じていますから。

これは意識しないでも常時接続みたいです。