私たちの祖先 4

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〔 私たちの祖先 4 〕の内容

  〔 古事記の解釈 〕〔 天孫族の謎 〕〔 登呂遺跡について 〕〔 感想 〕〔 ワープロ序文 〕

〔 古事記の解釈 〕

天地のはじめの時、高天原になりませる神の名は、アメノミナカヌシノカミ、つぎにタカミムスビノカミ、つぎにカミムスビノカミ。この三柱の神は、みなひとり神なりまして、身をかくしたまひき。
[訳]天と地のできはじめの時に、大きな太陽の国に現れた酋長の名前は、第一が「太陽の太陽・酋長の酋長」、第二が「酋長・大きな太陽の酋長」、第三が「酋長・大きな太陽の酋長」でありました。この三人の酋長はみなひとりものでありましたから、姿をかくしてしまいました。

つぎに国わかく、うきあぶらの如くして、くらげなすただよへる時に、あしかびの如もえあがるものによりて、なりませる神の名は、ウマシアシカビヒコジノカミ、つぎにアメノトコタチノカミ、この二柱の神もひとり神なりまして、身をかくしたまひき。
上のくだりの五柱の神はコトアマツカミ。
[訳]つぎに陸がまだかたまらず、ちょうど水に浮いている脂(あぶら)のごとく、まるでくらげのように海にふわふわただよっています時に、ちょうど大きな太陽のように、ぎらぎらと輝く光から生まれました酋長の名前は「最高の酋長・大きな太陽・酋長・酋長の酋長」、そのつぎが「太陽のように高い酋長の酋長」でありました。この二人の酋長はひとりものでありましたから姿をかくしていました。
 右に述べました五人の酋長は、すじのちがった酋長でありました。

つぎになりませる神の名は、クニノトコタチノカミ、つぎにトヨクモヌノカミ。コノ二柱の神もひとり神なりまして、身をかくしたまひき。つぎになりませる神の名はウヒヂニノカミ、つぎにイモスヒチニノカミ、つぎにツヌグヒノカミ、つぎにオホトノジノカミ、次にイモオホトノベノカミ、次にオモダルノカミ、次にイモアヤカシコネノカミ、つぎにイザナギノカミ、つぎにイモイザナミノカミ。
 上のくだりクニノトコタチノカミより以下、イザナミノカミまで、あわせて神世七代とまをす。
[訳]つぎに生まれました酋長の名前は「陸の高い酋長の酋長」、そのつぎが「高い高い酋長・酋長の酋長」でありました。この二人の酋長もやはりひとりものでありましたから、姿をかくしていました。つぎに生まれた酋長の名前は「最高の酋長の酋長」で、妹も「最高の酋長の酋長」、そのつぎも「最高の酋長の酋長」、妹も「最高の酋長の酋長」、そのつぎは「酋長・最高の男の酋長」、妹は「酋長・最高の女の酋長」、そのつぎは「輝き・酋長の酋長」、妹は「美しい女・酋長の酋長」、そのつぎは「最高の男の酋長」、妹は「最高の女の酋長」といいました。
 右に述べました「陸の高い酋長の酋長」から以下「最高の女の酋長」までをひっくるめて酋長の時代七代ともうします。

ここに天神(あまつかみ)もろもろの命(みこと)もちて、イザナギノミコト、イザナミノミコト二柱の神に「このただよへる国をつくりかためなせ」とのりごちて、天沼矛をたまひて、ことよさしたまひき。かれ二柱の神、天の浮橋にたたして、その沼矛をさしおろしてかきたまへば、しほこをろこをろにかきなして、ひきあげたまふときに、その矛のさきよりしたたるしほ、つもりてしまとなる、これオノゴロジマなり。
[訳]さて太陽の酋長は沢山の酋長を通してイザナギとイザナミの二人の酋長に「海にただよっているこの陸を固くせよ」とおっしゃって、「太陽の大きな棒」を与えてその陸を治めさせました。そこで二人の酋長は<太陽号>の浄船の上にたって、その大きな棒を下におろしてかきまわし、また塩をぐるぐるかきまわして、ひきあげました時に、その棒の先から、ポトポト落ちた塩がつもって島になりました。これがつまり胎盤の島であります。

その島に天降りまして、天の御柱を御立て、八尋殿を見立てたまひき。ここにその妹イザナミノミコトに「汝が身は如何に成れる」と問いたまへば「吾が身は成り成りて、成り合はざる処一処在り」とまをしたまひき。イザナギノミコトのりたまひつらく「我が身は成り成りて、成り余れる処一処在り。故この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国生みなさんとおもうはいかに」とのりたまへば、イザナミノミコト「然善けむ」とまをしたまひき。ここにイザナギノミコト「然らば吾と汝とこの天の御柱をゆきまわり逢ひて、ミトノマグワヒせむ」とのりたまひき。かくいいちぎりて、すなはち「汝は右より回り逢へ、我は左より回り逢はむ」とのりたまひ、ちぎりおへてまわりますときに、イザナミノミコトまず「あなにやし、えおとこを」とのりたまひ、のちにイザナギノミコト「あなにやし、えおとめを」とのりたまひき。おのおののりたまひをへてのちに、その妹に「女人を言先だちて不良」とのりたまひき。しかれども久美度におこして、子水蛭子を生みたまひき。このみこは葦船にいれて流しすてつ。
 つぎに淡島を生みたまひき。これも子のかずには入らず。
[訳]船からその島におりて、太陽の柱を建て、いく尋もある家をつくられました。それから女の酋長に「あなたの体はどういうように出来ていますか」と問いましたので「私の体は、どんどん大きくなりましたが、大きくなりきらないところが、一か所あります」と答えました。男の酋長は「私の体も、どんどん大きくなりましたが、大きくなりすぎたところが、一か所あります。ですから、私の体の大きくなりすぎたところを、あなたの体の大きくなりきらないところに入れて、国を生みたいとおもいますが、どうですか」といわれました。女の酋長は「イエス、イエス」と答えました。そこで「それでは、私とあなたは、この太陽の柱を回っていって、夫婦関係を始めようではありませんか」といいました。そこでさっそく「あなたは右よりお回りなさい。私は左より回りましょう」といって、まわりましたときに女の酋長は「うれしいわ。かわいい、きれいな男ね」といい、その後で男の酋長が「うれしいよ。かわいい、きれいな女だなあ」と申しました。お互いにいい終わってから、男の酋長が「女がさきに言うのはよくないな」とおっしゃいました。それでも性交して、赤ん坊を生みました。この赤ん坊は船に入れてすててしまいました。
 つぎに赤ん坊の島を生みました。これも子どもの中にはいりませんでした。

〔 天孫族の謎 〕

とうとうたらりの謎
 謡曲の翁に残っている「神楽」の解決

 とう、とう、たらり、たらりら。   たらり、あがり、ららりとう。
 ちりや、たらり、たらりら。     たらり、あがり、ららり、とう。
 ところ千代までおわしませ。

   上に、上に、上に、まっすぐに。 上に、あがる、まっすぐに、上に。
   上に、上に、上に、まっすぐに。 上に、あがる、まっすぐに、上に。
   そこで千年もいらっしゃい。

 この「神楽」はこれまでのところ、国語学からは説明できないとなっている。ところがレプチャ語によって、きれいさっぱりと解決できてしまう。この歌の意味は、翁が大往生して天にのぼるのを歌ったもので、こう説明してはじめて、しめくくりの「ところ千代までおわしませ」という意味もいきてくる。

催馬楽の「飲酒」の解決

 たり、やり、たん、な。 たん、な、たり、や。 たん、な、ちりら。
   ついで、たくさん飲むぞ。飲むぞ、ついでくれ。飲むぞ、つづけさまに。

 右の解釈ならば子供でもわかる。宴会でそろそろ酔いがまわってくると、みんなで手をたたいて節おもしろく「たりやりたんな。たんなたりや。たんなちりら」と合唱したにちがいない。

ハツタビとは何ぞや
 マレイのジャクン族やマントラ族は、女をビニといい、サンクル族は女の子をボエという。長野県の木曾谷の開田村や、伊那地方でも、女の子をビーと言っている。
 マレイのスマン族は女をバドンと言っている。その証拠に女は、宮古島ではミドン、熊本ではメタ、石川ではベタ、新潟ではバテ、東北にはいると、福島や宮城ではビタイやビテー、秋田ではビタになって、おまけに今日ではすべて卑しい言葉になっている。これは確かにスマン族のバドンであって、彼等がまず第一の波(民族移動)として、女に対するバドンという言葉をもって、日本列島を西から東へ渡った足跡である。一方マレイのサカイ族は女をクナ、若い娘をケナというが、奄美大島でも娘をカナと言っている。おもしろいことにサンスクリットでも娘はカナーやカニャーになっている。私たちは女房をカナ(妻)ビ(妻)、つまり家内というが、東南アジアではどこでも妻をカンと言っている。トンキンでは女をメと言うが、サンスクリットではラーマ、ビルマではアマになっている。私たちも女を女郎と言うし、農村では女のこと、殊に女の子をアマとか、アマ・チョとよんでいる。
 第二の波(民族移動)がヒマラヤのレプチャ族の日本列島へのひろがりで、これが日本語の主流である。例えば日本語のメス、古事記のアヤ、ベ、テなども立派なレプチャ語である。月経はタ・アュ・チョルと言っている。この場合タ・アュつまりタヤも、チョルも女であるが、今日でも島根、三重の志摩、岐阜、愛知、長野では、月経をタヤと言っているし、八丈島では月経小屋をタヤと言っている。もう一つレプチャ語で月経をタ・ヴィと言っている。この場合、タは女でヴィは血の意味である。ところが青ケ島でも月経初潮をはっきりハツタビといい、子供は学校の作文で「かあちゃんはタビなので、ぼくがめしのしたくをする・・・」と書いている。
 もう一つびっくりすることがある。福島県の会津では売春婦のことをクサモチと言っている。ところがレプチャ語で放蕩な、多情な、好色なはホロとかホロツと言っている。これが日本で放蕩や放埒、また和名抄の売春婦ヤホチになったが、ホロ、フラはまたクサともいわれた。このクサが会津のクサモチである。レプチャ語でモツ、モチはちゃんと雌になっている。二つをあわせた「クサ(好色な)モチ(女)」は、はっきり好色女、つまり売春婦である。方言の多い東北地方にはなまのレプチャ語がいっぱいころがっている。

ミマカルと頓死の語源
 ヒマラヤ方面では「死ぬ」はシとかシニになっていて、どこでも共通である。これは中国語の「死」とも共通である。ところがレプチャ語ではシの他に「死ぬ」に対して三つの言葉が使われている。
 第一がマクである。これが日本ではマカやガクに変わったのが、ミマカル、クモガクル、イハガクルである。このマクは古代日本では敬語になっている。
 第二がコロンである。これはレプチャ語では敬語になっている。明治十年に日本にコレラがはやった時、日本人はコレラにかかるとコロリと死ぬので「トンコロ」と言った。コロはレプチャ語のコロンに結び付いており日本の古い庶民語であった。トンもレプチャ語で「突然に」となっているから、「トンコロ」は「突然に死ぬ」である。頓死のトンも漢語ではなくレプチャ語そのままの意味である。
 古事記のクモガクル、イハガクル、カムサルのクモ、イハ、カム(カミ)も漢語の雲、岩、神ではなくてチベット語のグム、ジク、チャヅに結びついて「死ぬ」である。

足という言葉
 古事記ではアトになっている。レプチャ語では足はトンやアトンになっている。もう一つアジャンというが、幼児語のアンヨである。サンスクリットのパジは足になっているから、確かに日本のアシやカチの祖形である。
 キーツの語源辞典では、英語の足footの祖形はサンスクリットのパジであるとしている。

 foot.(E)M.E.fot,foot,pl.fet,feet;A.S.fot,pl.fe;Du.voet;Icel.fotr;
   Dan.fot;Swed.fot;Goth.fotus;G.fuss;GK.foot;Skt.pad

 理屈を言えば、言語学が早くから発達した西洋では、比較言語学によって音韻法則を樹立し、ついに印欧語族の祖形としてサンスクリットに到達したのである。ところが日本では明治の政治勢力に屈した学者は、ウラル・アルタイ語族に文脈が通ずるゆえをもって、他の面に大いなる手抜かりを犯していた。単に足のみでなく多くの単語がサンスクリットから来ているゆえ、やがてこの面の様子が明らかにされる時があろう。

ウン、ヘー、エエ、ハイ、シカリ、はそっくりそのまま
 私たちの返事にはいく通りもある。この返事は大部分漢字にすることはできないが、マレイ、ヒマラヤで同じ言葉を使っていることが発見できる。

       祖形語  日本語          祖形語  日本語
サカイ    エ・エ  エー    スティエン  オウ   オー
スマン    ヘ・エ  ヘー    ジァライ   ウ    オー
スマン    ヘ・イ  ヘイ    マライ    ヤ    ヨ 
スマン    ハ    ハ     タブレン   エ・エ  エエ
スマン    オーウ  オー    メチ     ウム   ウン
ディマール  ヘー   ヘー    デウリチュチャ    ハイ   ハイ
レプチャ   ハ    ハ     カブイ    アーイ  アーイ
レプチャ   (感動詞)ハ・ハー  チベット   オ    オ
レプチャ   (笑い) ハ・ハ・ハ チベット(そのとうり)  デカ  シカリ
レプチャ   (思い出す)  ハ・ハー  チベット(そのとうり)  
       デカヨヅ シカヨシ            

〔 登呂遺跡について 〕

登呂は南方風俗に共通する
 登呂遺跡やその遺物は、およそ今から二千年も前のものであるが、当時の漢代の遺跡から出土したものとはおよそ異なっている。ところが登呂遺跡に復元されている高床の建物は、今も台湾の見張り小屋とか倉庫・住宅に使われており、フィリピンでも似たものが使われている。それのみでなく、小笠原島や対馬の日本人の間でさえ見ることができる。
※弥生式土器における南方説(登呂発掘以前)
 八木弉太郎は中沢澄男とともに、九州から東北にいたる三五か国から弥生式土器が出土することを確かめ、雑誌「日本考古学」紙上に、弥生式土器とマレイの土器と比較し、その類似点の多いことを主張した。そしてこれを残した民族は、古代史にいう土蜘蛛であろうと推論している。また、土蜘蛛説に似たものとして喜田貞吉の隼人説があり、彼は弥生式土器を隼人族の遺品とみなしている。

鼠返しについて
 かつて、昭和二十二年の調査の際、鼠返しが出土した時、これが何であるかいろいろと議論があった。そのおり、南洋の土俗にくわしい八幡一郎氏が穀倉の鼠返し説を主張された。のちに調査されたおなじ静岡県の伊豆韮山の山本遺跡でそのことが証明され、今や定説となった。

※書き落としたので、現存の千木式屋根をみたものをあげておく。
@神社の本殿・伊勢神宮、明治神宮など、千木式で高床
A奈良県、薬師寺や唐招提寺付近の農家・旅行で見たもの
B上伊那郡藤沢村の農家・昭和三一年、諏訪より杖突峠を越えて多くみたもの
C名古屋市郊外の農家・名飯バス車中より(うだつ)みたもの

〔 感想 〕

 いくつかの本によると、日本人の祖先に南方的要素がおおくあることがうかがえる。この種の問題はまだ定説がないだけに今後の成果が期待される。人骨による原日本人説、言語構造によるウラルアルタイ説、その他日本人の系統に関する多くの考証がなされているが、遺跡、遺物、言語、習慣など広く資料をもとめ、安田徳太郎のいうごとく西洋の文献をさぐり、南方語やチベットヒマラヤ語、或いはサンスクリットなど比較言語学によって新しく古代日本人の祖先が究明されなければならない。一方、南方民族の渡来民が数において非常に多かったと思われるにもかかわらず、言語の語序はウラルアルタイをとっている点、どこかで北方民族と混血したとみなければならない。しかるにこの点を実証する論拠はほとんど見当たらない現状である。南方渡来民に対する限りない興味とともに、ひとつの疑問が頭をもたげている。
 以上、安田徳太郎の説をもって日本人の祖先なりと鵜呑みするのは軽率であるが、彼の驚くべき探求心には無条件に頭を下げる。 
                         昭和三一年一一月二八日

〔 ワープロ序文 〕

 平成2年になって、若かった頃の書き残したものをワープロでまとめてみた。その活字でまとめた序文に、次のようなことを載せてあった。
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    は じ め に

 昭和三一年ころ、当時の豊丘南中学校では職員研修の一つとして、研修内容を秋から発表することになっていた。このまとめは、ガリバン刷り四〇ページで発表したもので、二七歳の青年教師の足跡の一つである。若いときであったから、およそ内容は記憶に残っている。六一歳のいま当時を考えてみると、二〇代は自分の世界をどんどんと造り上げている時代のように思う。二〇代の教育者というものは、生徒にとっても一番いいものと思う。
 日本はもちろんのこと戦後の世界は大きく変わり、ことに米・ソの戦略的対立というものが、人個人の心の中でその価値が拒否され、現実の中では協力共存の価値が大事にされつつある。こうした流れにそって、いろいろの意味を含めて地球規模でのものの考え方が一人一人に求められるようになってきた。まだまだ集団としての考え方を大事にしているきらいがあるが、もともとは、一人一人の心の世界の中に己のグローバルな考え方を築くことが基本的に肝要なことであると思われる。社会機構の維持を重く考える傾向は、まだまだ実生活の中にはつよい。「個の心の世界を築く」そのことが、今後の私たちが一番大事に推進していくべき方向であると思う。既成の価値観をはなれ、「個の心の世界を築く」価値観を最大に尊重していくことが肝要なのである。そこには倫理的な世界が築かれなければならない。一個の生命体としての自覚の上に、「心の世界」が築かれなければならない。「心の世界」は「自分の世界」といってもいい。世界にはあらゆる物が含まれる。それらには個人が処理できないような、厳然とした秩序がある。
 「私たちの祖先」こうした事実が正しいかどうかは別として、私たちにとっては幅広いインプットが必要であることに間違いはない。どんな人とも手をとりあって「自分の世界」が有意義なものであるよう、努力していくことが望ましい。
 そんなことを思いながらまとめを終える。

   平成二年七月一日                  下 平 好 上

      (実父桐生長一・九一歳の誕生日)
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