私たちの祖先 2

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〔 私たちの祖先 2 〕の内容

〔 銅鐸のきめて 〕 〔 生身の証拠 日本人の陰茎 〕 〔 因幡の白うさぎのナゾ 〕 〔 畳語の由来 〕 〔 日本語の成り立ち 〕

〔 銅鐸のきめて 〕

銅の呼び名について
@土人は純銅が黄色く光っているので、黄色いもの、又は光るものと呼んでいる。
A西洋でも純銅は黄色く光っているので、ゲルマン族は、黄色いもの gulth,   gelto,zoloto と呼んでいた。
B日本では奈良時代のことばでは次のようにいっていたし、今もそういう。
 金   キガネ→クガネ→コガネ
 銅   アカガネ
 大陸からきた製品の銅が赤かったのでアカガネと呼んだのである。銅製品は水田耕作民であったビルマ族が持ってきたのであるから、それ以前に渡来した人達はアカガネと呼んだといえよう。それが一般に使われ今日にいたった。
ドイツの学者、ハイネ・ゲルデルンは次のように言っている。
 最近十年前に、銅鐸の起源や使用について、沢山の研究が発表されたが、今のところこの問題をはっきり解決するところまでにはいたっていない。今日でも見つからないが、とにかく一定の鋳型があって、それへ青銅を溶かし込んで作ったらしい。銅鐸の表面のちょうどバチにあたるところは、どれもこれも皆白く星型になっている。古代の一番古い銅鐸をみると、その表面に装飾画として、人の乗っている舟、高床住宅、動物、踊りや戦争の風景が浮きぼりにされている。年代の新しい銅鐸では、絵のかきぶりが一段とおちて、何がかいてあるのかさっぱりわからない。こういう銅鐸の発生地は恐らくトンキンや安南の沿岸地方であって、そこを中心として一方は南シナに向かい、他方はインドネシヤに向かって広まったのであろう。
日本の学者、鳥居龍蔵氏も次のような見解を述べている。
 前略−更に装飾画のほうは、すべて菅笠をかぶった人物、ビルマ、シャム、安南、フィリピン、台湾でみられる袖なしの着物、高床住宅、数人の人が乗っていて前後がすこしもちあがった舟、臼で穀物をついているのが主であり、従って私は日本の銅鐸や銅鼓は南方に由来する、と想像しなければならない。
原料から考えると
@日本では銅の生産はあまり考えられない。「鉱山の歴史」を調べてみると、文武天皇二年(六九八)因幡国と周防国から銅鉱を献じたのが記録での最古のもので、ついで和同元年(七〇八)武蔵国秩父郡から和銅を献じた。元明天皇詔に、自然作成和銅(オノズカラナレルニギアカガネ)と出ている。かくて和銅開珎が始めて鋳造されたが、朝廷の事業として採鉱をおこなう熱のいれかたに拘らず銅鉱は周防、長門に限られており、八二一年にいたって採掘の銅が乏しくなり皇朝十二銭にとどまり、以後江戸時代にいたるまで貨幣の鋳造は絶えている。この際、銅鐸の銅の採掘地が一行たりともないのは、故事来歴のタネがなかったとみるのが妥当である。
A青銅に用いる錫はそれこそ至難である。記録にはまったく出てこない。
Bインドシナの古代青銅器文化は、明らかにトンキン、安南、ラオスの銅鉱や錫鉱、更に有名な雲南の銅鉱を背景にして発達している。今日でも、トンキンのソンコイ河流域やラオスのメコン河流域、更にマレー半島が錫の世界的産地である。その証拠に、太平洋戦争が始まると日本の海軍はマレー半島を早速占領して、まずマレーの錫をおさえ、それを片っ端から半島の先のビンタン島に集めて、どんどん日本へ運んでしまった。
銅鐸は一四九個発掘されているが、日本製とは考えられない。鋳型も、描かれた風俗も、原料も、分布も全然すじがとおらない。銅製品がシナから輸入されたとしても、シナの史書によれば、五七年、一〇七年、二三八年の三回ほどしか現れてこない。
シナの史書によると、北シナでは前漢のはじめ、即ち紀元前四〇〇年頃に、すでに鉄器が大衆化していたが、文化的に遅れたトンキン、海南島及び南シナの住民は、紀元前一世紀頃でもまだ青銅器を用い、三世紀に入っても鉄器を余り使用しなかった。
参考までに、国産説を唱える学者の、銅鐸についての見解(新日本歴史、先史古代編)の曖昧さを見ておく。
 銅鐸の分布上、まず極めて明瞭な事実は、九州に一個の出土例をみないことである。青銅文化を受容するに好適な地方に皆無なことは、伝波の経路が九州でなかったことを物語っている。次に朝鮮にも支那にも同一品がないことは、わが国で発達したことが知り得られる。しかし日本で創造し得るはずはないから、その祖系は支那から受けたとしなければならないが、支那古代の銅器中にある扁鐘のごときがその母胎であったかもしれない。朝鮮に存するものは無文小型の馬鐸である。鳥居龍蔵博士の提唱せられる苗族銅皷の類似も、直接的ではない。聞くところによれば、インドシナ方面にこれに類する青銅器が発見されているというから、根源を支那に置き、それから流れでた青銅器文化の延長が、各地に各様の異形品を産出したと見ることができそうである。いずれにしても、銅鐸が我が国でとくに発達したものであることはほぼ疑いない。
・九州に出土していない理由については考察していない。
・同一品が朝鮮、支那にないから日本で発達したというのは、学問の裏付けもなく、あまりにも我田引水であり、大人げない。
・鳥居博士の説について、考察がたりない。
青銅器の多くは南方渡来民が携えてきたものであり、彼等、チベット=ビルマ系 民族は、先住者が住みついている西日本を通過して東日本に腰をおろしたから、 銅鐸の分布は上陸地点と一致している。
 表日本(83) 太平洋    遠江 15   紀伊  8
                三河 13   土佐 10
         瀬戸内海   讃岐  8   淡路  5
                阿波 13   摂津  5
                播磨  6
 裏日本(15) 日本海    石見  3   丹後  2
                伯耆  3   若狭  1
                但馬  4   越前  2
 内陸 (26)        大和  9   美濃  3
                近江  9   丹波  1
                伊賀  4

〔 生身の証拠 日本人の陰茎 〕

西洋人は一般に皮かむりであるが、日本人の大人では陰茎の包皮がまくれている。 
@西洋人の質問に窮した人類学者、足立文太郎博士の結論
 ジャワの調査をすませて日本にたちよったドイツ人の人類学者シュルチェが、不思議がってその原因を聞いた。彼は返答に窮し、いろいろ考えてこう答えた。「西洋人は一般に皮かむりである。解剖学的にいうと皮かむりが正常である。ところが日本人ではみな包皮がまくれているから、西洋人はこれを非常に不思議がる。しかしよく考えてみると、日本の先住民は元来南方族であったので、古代日本人は思春期にはいると、南方族の風俗にしたがって、成年式に割礼をほどこし包皮を全部切りとった。その後日本では、割礼の習慣がなくなってしまったが、これまでの長い習慣から、包皮のまくれているのが一人前の陰茎であるとつい思い込むようになった。そのために日本の青年は、皮がまくれていないのは片端のしるしであると勘ちがいし、皮かむりを非常に恥ずかしがって知らず知らずのうちに、まくりあげる習慣になった。そしてそれが何時のまにか日本人の一般の風俗にかわり、まくれている陰茎が日本人の正常な陰茎になった」これが足立博士の答だった。
Aフランスの人類学者、ラロアはその著書「日本人の性器の畸形」の中で論じている。「古代日本人が割礼をおこなっていたことは、今日の日本人が皮かむり、つまり亀頭が包皮でおおわれているのを、非常に恥ずかしがることからも想像できる。自尊心のある日本人はすべて、風呂屋へも、医者の診察室へも、亀頭を全部出したままで現れる」
B裸の写真によると、ヨーロッパ人、シナ人、蒙古人、ツングース人、アフリカ人は皆皮かむりである。
C足立博士によると、「明治時代までは、兵庫県の明石地方は子供の包皮をカヤで切りとる風俗がおこなわれていた。又相撲とりの仲間では昔から包皮をまくり上げると力がぬけるといって、まくりあげない習慣になっていたから、今日でも相撲とりは一般に皮かむりである」という。
※余談
 フランスのルイ一六世は、強度の先天性包茎のため夫婦関係が出来ず、女房のマリー=アントネットのふしだらにも目をつぶらねばならなかった。そこで名医の割礼で始めて一人前にしてもらった。しかしよろこんだのも束の間そこへフランス革命が勃発して、断頭台の露と消えたのは、世にも哀れな話ではある。(ヒルトルの「局部解剖学」)
割礼を行う民族
 古代エジプト人は、人種的には南方けいの原セム族に属していた。彼等セム族が古代世界における割礼人種であり、今日でもそうであるのは興味あることである。これに反して寒いところに住んで、裸ぐらしをしなかった北方系のアーリア族、ツングース族、蒙古族、漢族は、古代世界では一般に割礼をおこなってはいなかった。今日割礼をおこなっている民族では、セム族としてのユダヤ人、マホメット教徒、小アジアやイランに住む諸民族、インド人の一部、マレー半島から南洋諸島にかけてのすへての土人、西アフリカ及び東アフリカの黒人、オーストラリアの土人だけで、部分的にはメキシコやアメリカの黒人もおこなっている。オーストラリアの黒人は丸く切りとらずに、たてに切れめをいれるだけで、他民族と違う。古代日本人の割礼は、あくまでインドシナ系として包皮を全部切りとった。
イスラム教のもとでは子供のときに割礼をし、そうでないセム族では思春期におこなう。

〔 因幡の白うさぎのナゾ 〕もとはマレーの子じか物語

 日本で一番古い書物である古事記や因幡の風土記にある「因幡の白うさぎ」の話は、よく知られた物語だが、不思議なことは、この話の中に日本にはいないワニが出てくることである。日本の歴史の扉がようやく開かれたばかりの大昔の物語に、何故熱帯地方にしか住まないワニが出てくるのだろうか。このナゾは、マレー地方に昔から伝わる「ヒヤカット・サン・カンチル」(子じか物語)という物語が解いてくれる。
 二つの話のうちで違ったところは、子じかがうさぎに代わっただけで、あとは非常によく似ている。これはマレー地方のおとなしい動物の中で代表的なしかが、日本の物語ではやっぱりおとなしい小動物であるうさぎに代わっただけである。因幡の白うさぎが隠岐の島から因幡の国に渡ろうとして、ワニをだまして海の上に並ばせ、その背中を伝わって因幡の国につくことができたが、あまりうまくいったので、うっかりだましたことをいってしまったため、ワニの怒りをかって皮をはがれてしまうという筋である。ところで子じかもやっぱり次のように、ワニをだまして川を渡っている。
 あちこち歩きまわった子じかは、とうとう大きな川のふちにたどりついた。みると川のむこうぎしに、子じかの大好きなくだものが枝もたわわになっている。子じかは食べたくて食べたくてたまらなくなったが、こんなに広い川ではとても渡れない。ふと子じかの頭にうまい考えが浮かんだ。「おーい、この川のワニ君たち、ぼくは君たちがどれくらいいるか数えるよう、神さまにいいつかってきたんだ。みんな浮かんできてくれ」これを聞いたワニは、神さまの思し召しとあって、われもわれもと浮かび上がって子じかのいうとおり、川一面にならんだ。そこで子じかは、やしの実のからをもって、ワニの頭をポカリポカリとたたいて、一つ、二つ、三つ、と数えながら、とうとう向こう岸へ渡ってしまった。子じかは愉快でたまらなかった。「おーいワニ君たち、君たちはぼくにだまされたんだ。ぼくはあの実がたべたかったんだ」子じかは、自分の頭のよさを示したくてたまらず、ワニに向かってこう叫んだ。だまされたと知ったワニたちは、カンカンになって怒った。「よーし、子じかめ、お前が水を飲みにきたときこそ、かたきをとってやるぞ」しかし子じかはそんなことに一向かまわず、好物の実のあるほうへかけよって、一気に食べてしまった。ところがあまり食べたため、ノドが乾いてきた。しかし、川にはさっきのワニが見張っていて容易に近づけない。ノドの乾きはますますつのるばかりで、もう我慢などしていられなくなった。子じかは身の危険を考える余裕もなく、ずっと離れた川岸のたけやぶの所へやってきて、水を飲み始めた。一番近くにいたワニが、これを見てそっとはいより、子じかの足にかみついた。子じかはもう助からないと思った。しかし機転のきく子じかは、とっさにこう叫んだ。「おい、何をあわてるんだ。それはぼくの足じゃない。ぼくの足はこれだよ」と竹をゆすってみせた。ワニは子じかの足をはなして、竹にかみついたので、子じかはやっとの思いで逃げることができた。
 以上はあらすじである。おしまいの方がちょっと違うが、
@向こう岸へ渡ろうとして、ワニの背を利用したこと
Aワニの数をかぞえるようにみせかけて、だましたこと
Bワニをあざ笑ったこと
Cワニのために、酷い目に合わされたこと
など、話はまったく同じである。この二つを比べてみれば、因幡の白うさぎの話は、マレー地方の古い話がもとになったことがわかろう。第一、白うさぎの話が日本で考え出されたとすれば、見たこともないワニが出てくるとは、どうしても考えられない。想像の動物である龍などとは違い、ワニは実際にいる動物なのである。だからこれは、南方から日本へやってきた人達の物語が、古事記の一筋に取り入れられたのだと見るのが正しかろう。いうまでもなく、いくつかの種族の話がまじわりあって出来あがった古事記は、上古史、古代文学であると共に、神話伝説集であるから、南方渡来の物語が、その中に取り入れられても、何の不思議もないわけである。またワニが出てきても、それほど不思議に思われないのも、神話伝説というモヤにつつまれていたためであろう。もっとも、古事記は、いわゆる「天孫民族」を中心としたものであるから、南方から渡来した人達のことは問題にせず、まして伝説の出所などまるっきり明らかにしていないが、生物学や地理学の上からみて、因幡の白うさぎの話が「マレーの子じか物語」とつながりあることが、はっきりわかろう。

〔 畳語の由来 〕

畳語の由来
 日本語には畳語、つまり「グラグラ」するというように、同じことを二度くりかえす言葉が多いが、南方語、取り分けマレー半島やジャワ、スマトラ、セレベスなどで使われているマレー=インドネシア語にも、この畳語が非常にたくさんある。このことから、日本語とマレー=インドネシア語との間には、何かつながりがあるのではないかという疑問が生まれてくるが、マレー=インドネシア語をよく調べてみると、日本人がそれとは気づかずに、日常の会話で使っている畳語の多くが、マレー=インドネシア語からきているということがわかってきた。例えば、最初の「グラグラする」のグラは、これだけでは何のことかわからないが、マレー=インドネシア語の「動く」というgerak(グラック)の語尾子音kがきえたものである。
具体的な例
[畳  語][原語]  [原  語  の  意  味]  [変化 や 脱落]
 マゴマゴ  mangu  驚きの為呆然となる意         u→o  n落
 クヨクヨ  kuyu  思いに悩む、悲しげなの意       u→o
 スゴスゴ  sungot 不平をいう意 いやいやながらの意   n落 語尾t落
 ボヤボヤ  boyak  香りのぬけた、うまみのない意        語尾k落
 シクシク  sik   ささやくの意、(すすりなきの様な場合)
 メソメソ  mesoh  悪態をつく意、(だだをこねる様な場合)   語尾h落
 クスクス  kuskus ささやく意
 ゲラゲラ  gelak  高笑いの意              ■→e語尾k落
 ヒソヒソ  bisu  おしの、という意           b→h、u→o
 パキパキ  pakik  金切声や大声をだす、叫ぶ、の意       語尾k落
 ハキハキ  pekik  上に同じ               ■→a語尾k落
 ペラペラ  perat  意味のわからぬことをいう意         語尾t落
 ペコペコ  pekok  湾曲した意                 語尾k落
 ベロベロ  belok  進みつつあるものが方向をかえる意      語尾k落
 トロトロ  tolo  頭など、鈍いぼんゆりした愚かなの意
 ウトウト  antok  ねむたい意              n→u、ak落
 シラジラ  silap  人の目をごまかす、目をくらますの意     語尾p落
 カサカサ  kasar  地のあらい、粗野な、の意          語尾r落
 スガスガ  sekar  壮快な、気持ちよい、の意   e→u,k→g語尾r落
 クラクラ  kelam  暗い、朦朧としたの意、(目がくらむ) ■→u語尾m落
 ブヨブヨ  buyut  ふとった、でぶでぶの意        u→o語尾t落
 ムクムク  gemuk  ふとったの意               語頭g■落
 ボロボロ  borok  みにくい、ボロボロの、意            k落
       buruk  上に同じ               u→o語尾k落
 ボロボロ  borot  したたるの意                語尾t楽
 ボチョボチョbochor もる意                   語尾r落
 ガブガブ  gabur  ほとばしり出るの意             語尾r楽
 ガツガツ  gatus  かむ、かみつく、の意            語尾s楽
 ゴロゴロ  guroh  雷、雷鳴の意             u→o語尾h落
 ガリガリ  garis  かく、の意                 語尾s落
 グルグル  gulun  たたむ、まく、の意             語尾n落
 クルクル  kurung 包む、くるむ、とりまくの意         語尾ng落
 バラバラ  balan  切断する、裂く、意             語尾n落
       belah  上に同じ               e→a語尾h落
 メラメラ  merah  赤い、意                  語尾h落
 マチマチ  masing 思い思いに、めいめいに、の意     s→ch語尾ng落
 ボコボコ  buku  節、結節、の意            u→o
 ポツポツ  putus  中断する、とぎれる、の意       u→o語尾s落
 プスプス  pusut  突き刺す、キリ、の意            語尾t落
 キラキラ  kilap  きらめく、光る、の意            語尾p落
       kilat  上に同じ                  語尾t落
 ギラギラ  gilang 輝く、の意                 語尾ng落
 テラテラ  terang 明るい、の意                語尾ng落
 セカセカ  sekah  活発な、の意                語尾h落
 コセコセ  kosel  ぐずぐず働く、の意             語尾l落
 フラフラ  hura  動揺、不安定、の意
 ガタガタ  gatak  ゆれ動く、ゆれる、の意           語尾k落
       ganta  ふるえる、ぞっとする、の意           n落
 ゴソゴソ  gosok  こする、すれる、の意            語尾k落
 コソコソ  kosok  上に同じ                  語尾k落
 ムカムカ  murka  怒り、の意  (語源はサンスクリット)     r落
 ガラガラ  galak  からいばりする、の意            語尾k落
 オサオサ  usaha  勤勉な、努力する、の意        u→o語尾ha落
 ヘナヘナ  penat  疲れた、の意             p→h語尾t落
 チョロチョロcholak 目につきやすい、目立つ、の意     a→o語尾k落
 ブラブラ  berat  重い、なまけの、の意         e→u語尾t落
 グラグラ  gurah  うがいをする、の意             語尾h落
 クチャクチャkuchar くちゃくちゃになること、の意        語尾r落
 ピンピン  pimpin 手強い人、達者な人、の意
 ムザムザ  mudah  たやすく、容易に、の意        d→z語尾h落
※「因幡の白うさぎ」と「畳語の由来」の一部は、昭和二七年の毎日中学生新聞に掲載されたもので、毎日新聞東亜部、黒崎久の記事による。
彼は当時、朝鮮動乱が始まって韓国に渡り、私の問い合わせに対する返信を平城から郵送してきたこともたった。東京外語出身で南方語専攻、自分で調べたといっている。蘭英辞典により一つ一つ丹念に調べる以外に方法がないと教えてくれた。

〔 日本語の成り立ち 〕

    日本語の源流については、学者によって諸説に分かれ、定説とて
    ない。従って、一般に考えられている概要と限界を心得ておくこ
    とは、大事なことである。文法、単語、音韻の上から、歴史以前
    の日本語、即ち原始日本語の構成はいかなるものであって、いず
    れに発したものであろうか。

原日本語の文法
 記紀、万葉の日本の文法は、その後の漢語の強い影響下においても、その骨組は依然として不変に留まった事実から推して、記紀、万葉の文法の骨組というものは、そのまま記紀、万葉のもっと以前からであったであろうことが推定できる。その文法の骨組というものは、おおよそ次のようである。
@主語+術語
A修飾語+被修飾語
B名詞+助詞
C動詞+助動詞
D動詞(語幹)+活用語尾
E形容詞(語幹)+活用語尾
F活用語尾は、未然、連用、終止、の所謂、承接の関係であり、時制、時、人称とかの関係によらない。
G助動詞も、受身、使役、完了、未来、推量、断定などを表すが、数の区別なく承接の関係による。
検討
・〔主語+術語〕この語順→印欧語族、支那語、朝鮮語、蒙古語、日本語
        異る語順→マレー語、南洋諸言語
・〔修飾語+被修飾語〕この語順→印欧、支、鮮、満、蒙、日
           異る語順→マレー語、南洋諸言語
・〔主語+術語+目的語+補語〕
         この語順→印欧、支、マレー
         異る語順→鮮、満、蒙、日、トルコ語、ツングース語

例文
英 They  made  him a king. 
  彼等は した  彼を  国王に
支 吾 観 花 於 嵐 山
マレーOrng yang tiada menjalankan kewajiban-nya itu sa-olah-
   人は(ところの)ぬ 行なわ   義務を その 恰も 様である
 olah memikulkan beban-nya kapada orang lain.
      担わす   重荷を   に   者  他の
トルコBorayla gunes birbirinden daha kuvvetli olduklarini 
   北風と 太陽が どちらが いっそう 強く   あるかを
   ileris urerek iddialasiyorlardi. Bu aralik uzaktan kalin
   争って  数え 立てていた     この 時   遠くに  厚い
   bir pal toya  sarinmis bir yolcu gorundu. 
   一つの 外套に 身を包んだ 一人の旅人が 見えた。
   以下略 言語概論より

 アルタイ語派の諸言語は日本語と文法構造がよく似ている。語順をはじめ、文法構造のこまかい点についても一致が著しい。右は現代トルコ語である。
・〔主要語+助辞〕の語順によるもの 鮮、満、蒙、日、トルコ、ツングース
 〔前置詞+主要語〕の語順によるもの 英、支、マレー、南洋諸島語
・用語の活用がある点で、支那語とは全然相違する。
・活用
 人称、数、時、法、態による活用→印欧語族全般にそうである。
 日本式活用→動詞、形容詞、形容動詞と共に助動詞もまた、受身、使役完了、
       未来、推量、断定などを表すが、数の区別なく活用が承接の関係
       によるものである。満、蒙、鮮、日が属する。
  ※以上により、金田一京助は次のように言っている。
 日本式の活用をもつ諸言語は、満、蒙、鮮、の諸国語である。しかも助詞が続き、必要に応じては二重三重に続くという点でも一致し、そのうえ、受身、使役、完了、意志、推量、断定を表していくことまで、更には敬語法の形を持つ点に至るまで一致する国語は、満、蒙、鮮、であるということは、けっして偶然の一致とは見られず、国土の位置からいっても、東アジアの大陸から朝鮮半島を経て、一衣帯水の地勢を考えるとき、日本語はこの方面に有縁の言語であろう。若し、他の点、即ち音韻組織の特徴と根本的単語の一致、が見出だされることが出来さえすれば、尚更のことである。
原日本語についての音韻
 音韻についていえることは次の通りである。
@単母音のみで、長母音や重母音がなかった。
A音節構造は開音式で、ことに音節の頭にたつ子音も一子音のみという最も簡単な音節構造を特質としている。
Bラ行で始まる語をもたないこと。
C濁音で始まる音節をもたなかったこと。
D音韻同化、殊に母音の順行同化が盛んであったこと。(母音調和)
 母音調和とは、接辞又は語尾の母音が、語幹の母音に同化されて、それと同じ類の母音に変化すること。
検討
・重母音や長母音をもつ言語→印欧語族、支那語
 同  上 をもたない言語→日、満、蒙、鮮、などウラル=アルタイ諸語
・音節の頭は一子音のみ↓ウラル=アルタイ諸語
 但し、ウラル=アルタイ諸語には音節の終りに一子音がついている。(殊に、朝鮮語には二子音を持つことがあるが)日本語は全く開音節である。
・ラ行音で始まる語をもたない↓ウラル=アルタイ諸語
・濁音ではじまる語をもたない↓朝鮮語も同様、しかし原始アルタイ語及びその分かれには存在する。
・母音調和↓印欧語族、支那語、南方諸語にはなく、ウラル=アルタイ諸国語の最も著名な特質である。奈良時代にほのかながら、その痕跡を認めることができる。
※かように見てくると、音韻上からも日本語と最もにているのが、ウラル=アルタイ語殊にアルタイ語であったことが、殆ど疑いなくなってくる。
原日本語の単語  見るべき説明がない

[結論]
 要するに日本語は、おそらくは原始アルタイ語を母胎として東方に分岐した国語である。今日、満、蒙、鮮、の諸国語とへだたりのあるのは長い月日を送ったことと、もう一つは、南方から長い間にこの島へやってきた、多くの人々の言語の影響があったことと思う。
 いかなる点に南方語の影響をうけたかというと、一つは開音節で、これは南方語の顕著な特色であるから、日本語の開音節というものは、南方から来た人々の癖と見なければならない。もう一つは反復形で、われわれ、いろいろ、ゆくゆく、かえすがえす等の反復形は南方語の一大特色である。発音上にかほどに色づけをし、表現上には言語癖を植えつけて、文法形態をなす程にいたらしめたその事実を考えると、南からこの日本へ渡ってきて日本文化に影響させられ、彼等自身の言語をさらりと忘れさせていった民族がよほどおおきな数であった筈である。言語以外の資料、たとえば民間風俗の上に、又日本人の顔や気質の中に、南方民族の類似点が指摘されることを考え合わせると、なお、その感を深くする。以上、金田一京助

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