私たちの祖先 1


「私たちの祖先」というのは、昭和31年の私が27歳のとき、
豊丘南中学校には職員研修発表会というものがあって、そこ
で発表したブリントである。私たちの祖先には南方系の血が
多く流れていると主張する安田徳太郎さんの説を簡単にもり
あげたものである。私は安田さんの主張を全面的に支持した
いと考えていた。安田さんを、学問をしらない、学問のテニ
ヲハをしらない者だと、ずいぶんののしった歴史学者がいた
が、私はおかしなものだと考える。……………………………

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〔 私たちの祖先 1 〕の内容

〔 「日本人の体質」に現れる日本人の祖先 〕 〔 混じりあった三つの南方系の祖先 〕 〔 竹べら 〕 〔 お歯黒 〕 〔 イレズミ 〕 〔 フンドシと腰巻 〕 〔 水田とともにきた高床住宅 〕 〔 南方系シャマニズム:卑弥呼 〕 〔 マガタマの正体 〕

〔 「日本人の体質」に現れる日本人の祖先 〕

 「日本人の体質」 明治十六年エルヴィン=ヴェルツの著した本
  Die Korperlichen Eigenschaften Der Japaner.Yokohama,1883

 実に面白い論文であるというが、発行以来一度も日本人に紹介されなかった本である。ベルツは日本へきて(明治九年)から数百名の日本人について実測したほか、東大で入院患者や外来患者を五年間に二万人以上観察していた。東大で内科、小児科、婦人科の教授を二五年も勤めたのち退官したが、ドイツ医学を日本へ移植した日本医学の恩人であり、同時に天皇の侍医として宮廷にはいり「ベルツの日記」にあるように、明治政府の高官の脈をのこらずとった名医でもあった。

ベルツの分類
 ア アイヌ族
 イ 蒙古族       支那、朝鮮の上流階級と似ている
 ウ マレーに似た蒙古族 南九州から本州に広がった人種で大部分これに属する
   α 薩摩型(南方系)  西郷隆盛(マレー人) 民衆型
               商人や坊さんの顔、福々しいゆったりした顔
   β 長州型(北方型)  吉田松陰(朝鮮人)  支配階級型
               明治維新の貧乏浪人の神経質な顔

日本語の起源について
 日本語はウラル=アルタイ語に属して膠着語である。二つの渡来民の言葉は黄色人種のウラル=アルタイ語であったから、言葉の統一はそう難しくなかった。ところが渡来民の一方は、蒙古族の純粋な南方系、つまり原マレイ族であた。この原マレイ族は確かに日本の国土を支配したが、言葉のほうはどうしても征服民の持ち込んだ言葉を取り入れねばならなかった。これはちょうど、ゲルマン系フランス人やノルマン人がフランス語を取り入れたのと同じである。日本の学者は、ベルツのこういう立派な研究を一頁も読まずに、この七〇年間、日本人の祖先はアイヌ人であるとか、朝鮮人であるとか、満州人であるとかいって喧嘩しているが、今日の日本社会を築いた圧倒的多数の南方勢力を無視したのは、彼等が時代の政治勢力の太鼓持ちになって、学問に対して忠実でなかった証拠である。

〔 混じりあった三つの南方系の祖先 〕

原マレイ系  宗像系海人族   潜水漁民であった。
モンクメル系 綿津見系海人族  突漁、陸にあがったのが隼人族である。
 ※12は魚労民族で「縄文式文化」の担い手である。
 ※縄文式文化を持つ彼等は家船生活であるため、高坏の土器は一つも出ていない。
ビルマ系            水田耕作民であった。
 ※ビルマ族は水田耕作民で「弥生式文化」の担い手であった。
 ※弥生式の古い文化   稲、高坏の土器、銅剣、銅鉾、銅鐸などの文化

〔 竹べら 〕

古事記や日本書紀によると、奈良時代までは竹べらでヘソの緒を切っていたが、 江戸時代の人々も竹べらを用いていた。
※日本書紀巻の二、鹿葦津姫一書の三
 時にその国に美人あり、名をば鹿葦津姫(またの名をコノハナサクヤヒメ)と曰う。皇孫この美人に問いてのり給はく「汝は誰が子ぞ」と。対へて曰さく「妾は天津神の大山祗の神の子なり」と曰す。皇孫因りて幸ししに一夜にして有娠みぬ。皇孫信け給わずしてのり給はく、「また天津神というとも、何ぞよく一夜の間に人を有娠ませめや。汝が懐めるはかならず吾が子にあらじ」とのり給う。故、鹿葦津姫忿り恨みて、無戸室を作りてそのうちにいり居りて誓ひて曰く「妾の娠めるが、もし天孫の胤にあらずば、必ずや滅びなむ。もし実に天孫の胤ならば火も損なうこと能わじ」といいて火をつけて室を焼く。時に竹刀(あおひえ)以てその児の臍をきる。その棄てし竹刀、終に竹林になりき。故、その地をなずけて竹室(鹿児島県日置郡の地名)と曰ふ。
※元祿一六年出版、香月啓益の「小児必要そだて草」
 臍帯を絶つ法、竹べらを用うべし。鉄の刃物をもちうべからず。やわらかなる絹にて臍帯をつつみ、或いは一重の絹にまきて歯にて噛みたつべし。長からしむることなかれ。短くすべからず。生まれ子の足裏の長さに比べて断つべし。長ければ外より風を引きやすし、短ければ内、臓府を破る。臍帯のうちに虫を生ずることままこれ在り。速やかに払い去るべし。しからざれば、まず湯あみせざるさきに、生まれ子の足裏の寸に比べ、または己が小指の長さに比べて、臍帯を断つなり。啓益案ずるに、臍帯を断つ法、右にいうところの如く寸法を定めて断つべきところを、紙よりにて厳しくゆいて、竹けべらにて切り断つべし。さて臍帯を断ちたる後を、やわらかなる絹にても又は杉原の紙をよくもみて、なるべく二重ほどつつみ、糸を心きびしくまきて、産湯をなすべし。かくの如くせざれば、水湿の気、臍帯の断ち目よりいりて、病を生ずること多し。
※出生は、人生最初の儀式であったから、とりあげ婆さんも伝統を重んじ法にしたがつて竹べらを用いたにちがいない。竹べらは西洋医学がはいる明治時代まで、ずっと日本では用いられていた。
竹べらの分布
 竹べらは南洋諸島、ビルマ、シャム、マレー、インドシナ、南シナ、ジャワ、スマトラ、などの南方諸民族と日本人の風習であった。
・南洋諸島、ビルマ、タイ、インドシナ、南シナでは一〇〇年程前まで日本と同じく竹べらを用いていた。(プロス及びベルテルス「博物学および民俗学における女」第二巻、第五章「母と赤ん坊の分離」にくわしい)
・竹べら圏では@植物繊維か絹糸か木綿糸でくくり、
       A竹べらで切った。
       B胎盤が出るまえに切っていた。
竹べら以外の圏
・アーリア系の支配階級では@銅や鉄の刃物で、
             A胎盤が出てから切った。
・アイヌ人は男をのぞく一番身内の者が@木刀で切った。
・支那では一般に@鉄のはさみを用い、
 北京ではA鉄の焼け火箸を用いた。
・日本人の祖先といわれるツングース族や蒙古民族は
 @種族の古い習慣として家畜の腸から作った腸線でしばった。
 A石刀を用いた。
 B東洋人らしく胎盤が出ないうちに切った。
・カムチャッカの土民は@イラクサのより糸を用い、
           A石刀を使った。
・トルコ族は@胎盤が出てから切った。
古代トルコ人はA石で切った。
・イスラエル族は@刃物をすでに使っていた。
・ギリシャ人(アーリア系のインド人と同様)は
 @木綿の糸で、
 A胎盤が出てから切っていた。
・ローマ人は
 @直ぐ亜麻で二か所くくり、
 A金属棒で焼き切った。
※ヨーロッパでは一六世紀頃まで、一般にギリシャ式が行われていたが、医学の進歩と共にギリシャ式かローマ式か外科医の間で非常な問題となり結局、赤ん坊が産声をあげるまでは切ってはならぬとなってしまった。
・ロシア人は大昔から、生まれるとすぐ
 @亜麻のより糸か母親の髪の毛で結んで、
 A刃物で、
 B胎盤が出てから切った。

〔 お歯黒 〕

中国の史書
※後漢書倭伝の一節
 女王国より南四千余里、朱儒国に至る。人長三、四尺。朱儒より東南船をやること一年、裸国、歯黒国に至る。使駅の伝うる所、此に極まる。
※魏志倭人伝の一節
 女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また朱儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国、黒歯国あり、またその東南にあり。
※この裸の国とお歯黒の国は、琉球列島という伝説もあるが、やはり南シナかインドシナか、あるいはその周辺であろう。
中国の三国時代の南シナの沿岸の呉の国でも、娘は年頃になると檳榔子の実で歯を染める風習になっていた。
日本書紀や風土記にも檳榔という言葉が出てくる。
日本の様子
・奈良、平安時代は、男女、階級をとわず年頃にはお歯黒にした。
・源平時代では公家の女のみ、未婚、既婚をとわずお歯黒をつけた。
・徳川時代では女は嫁入りすると歯を染めた。
ベルツの「日本人の体質」を一読すると参考になる。
東南アジアでは今日でも若い男女のみだしなみとして、この風俗は依然として衰えてはいない。
※鐘紡出張所の柏原さんや寺沢先生、山上先生などの話によると、檳榔の実を口で噛み道端へはき出して平気で歩いている。赤い色で血のようだという。

〔 イレズミ 〕

「魏志倭人伝」によれば次のように記されている。
 男子は大小となく皆黥面文身す。古より以来其使中国に詣るや、皆自ら大夫と稱す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身し又以て大魚、水禽を厭う。後稍以て飾りと為す。諸国の文身各々異なり、或いは左にし或いは右にし、或いは大に或は 小に、尊卑差あり。其道里を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。
南支那の東欧族やみん越族の漁夫たちは、水中にもぐるため、既に紀元前一三八年頃、体に龍のイレズミをしていたと言う。これは漁撈民の一種の保護色である。
北方ツングース族は、外に見える顔と腕にだけイレズミをした。
日本の歴史に現れるイレズミ
・神武天皇の結婚申し込み(古事記)
 故日向に坐しましし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶して生みませる子、多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐せり。然れども更に大后と為む美人を求ぎたまふ時に大久米命の曰さく「此間に三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売其容姿麗美かりければ、美和の大物主神見感でて、其美人の為大便れる時に、丹塗矢に化りて其為大便の溝流下より、其美人の富登を突きひき。爾其美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎(イススギキ狼狽して騒ぎ立てる意)。乃て其の矢を将ち来て床の辺に置かしかば、忽ち麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人に娶ひて生みませる子、名は富登多多良伊須須岐比売命、亦の名は比売多多良伊須気余理比売。(是は其の富登と云ふ事を悪みて後に改へつる名なり)故、是を以て神の御子とは謂すなり」とまをしき。於是七媛女高佐士野に遊行べるに、伊須気余理比売其の中に在りき。爾ち、大久米命其の伊須気余理比売を見て、歌以て天皇に曰けらく。
    倭の高佐士野を 七行く媛女ども誰をし纒かむ
 爾に伊須気余理比売は、其の媛女の前に立てりき。乃ち天皇其の媛女等みそなはして、御心に伊須気余理比売の最前に立てることを知りたまひて、歌以て答へたまわく、
    かつがつも いや前立てる 愛をし纒かむ
 爾に大久米命、天皇の命を其の伊須気余理比売に詔れる時に、其の大久米命の黥る利目を見て、奇しと思ひて、
    あめつつ ちどりましとと などさける利目
 と歌ひければ、大久米命、
    をとめに 直に逢はむと わがさける利目
 と歌ひてぞ答えける。故其の嬢女「仕え奉らむ」と曰しき。
・目割き   「播磨風土記」の飾磨郡
 品太天皇(応神天皇)がみゆきされた時、この二つの山をみて、人の目が割けているのによく似ていると言われた。そこで目割という名がつけられた。
・刑罰としてのイレズミの例
 @日本書紀(巻一四)の雄略天皇の段
  鳥のつかさの飼っている鳥が、莵田人の狗にかまれて死んでしまった。天皇はおこって莵田人の顔にイレズミをして鳥養部とした。
※これはむしろ古代支那の風俗で、はたして飛鳥朝廷がこの支那の風俗を日本の罪人にかたっぱしから強制したかどうかは疑わしい。
 A日本書紀(巻一二)の履中天皇の段
兄の妃と決まっていた美人の黒媛を、おさきに失敬して問題になった仲皇子の謀反に加勢した淡路の野島の海人族のかしら阿曇連浜子が、武運つきて天皇軍に捕えられた際、死刑を許されて額にイレズミをする刑に処せられたので世人はイレズミを阿曇目と言うようになった。
マサキは南方語である。不思議なことに古代日本語のマサキは南方語で、マダガスカルを含む竹べら圏では、古代からずっとイレズミのことを、日本と全く同様マサキmasak とよんでいた。
※参考 シュミット著「モン=クメル族」によれば
 マケイ語 バタク語 masak  一人前になる、イレズミ
 ダヤク語      masak  sak一人前になる、イレズミ
 マダガスカル語   masaka  一人前になる、イレズミ
 クメル語      sak   皮膚が剥がされる、剥ぐ
 クメル語      sanak   ぼろぼろに落ちた皮膚
 バナル語      sak   小刀で皮膚を剥ぐ、イレズミをする
※古事記の作者はマサキの語源を知らなかったため、古代の隼人族、つまり、クメル族がイレズミをしていたという伝説を書く場合、マサキを日本流に目割と解釈して、大久米命が目じりにイレズミをしていたという間違った話を作ってしまった。この間違いは今日まで気づかれずにいたのである。
ベルツの観察
・明治一〇年頃の東京では三万人以上の人がイレズミをしていたと言ってもよい。
・日本人は頭、頸、手、足には決してイレズミをしない。
・ドイツ人の船乗りは指先とか手のひらぐらいの、小さいイレズミをする。
・最古の記録 三〇〇〇年前のシナの天子で、無理に天子にかつがれたので、イレズミをしてもらい天子を御免こうむったという記事がある。
・ビルマでは、まだかなり広く行われている。
・アイヌは外から見える所(手、腕、上唇)にし、主に女が行っている。これはエ スキモー人や東ヤクート人の風俗と非常に似ている。
・日本のイレズミは着物がわりのものとなった。(職人の着物と同じ大きさ、裸職 人であって百姓は決してしない、着物と同じ濃い藍色である)
・イレズミの模様は、龍、うわばみ、虎、合戦、美人、歴史上の事件、花、滑稽画 などである。(猥褻なものはない)
・女がイレズミをする場合があるが、極めて珍しい。
・日本政府は文明開化の国策にそわぬという理由で、イレズミを禁止したところが、英国のウエルズ公の息子たちがきてだだをこねてイレズミをして貰った。

〔 フンドシと腰巻 〕

  中国の史書による日本風俗
・魏志倭人伝によれば(古代日本人)男は皆髪の毛を耳の上にたばねて木綿の布で頭をまいている。着物は横幅である。ただし横幅は両端をひもで結んで、決して縫い合わすことはない。女は皆髪の毛をうしろに束ねている。着物は一枚の布で、そのまん中に穴をあけて、そこから首をだしている。
※支那の史書では、マレイ人やビルマ人との男のこういう着物を横幅という言葉であらわしている。
・隋書倭国伝によれば(奈良時代)男は小さい袖のついた上衣つきの袴をつけている。履はキグツで、その上に漆を塗って足にしばりつけるようになっている。しかし庶民は一般にはだしで、金銀の飾りをもちいることを許るされてはいない。庶民の着物は横幅で、両端をひもで結んでけっして縫い合わすことはない。
※小袖のついた上衣つき袴というのは胡服という朝鮮服である。即ち、上層階級の者の服装は朝鮮式になってきている。
・後漢書倭伝によれば 丹朱(赤土のこと)もて身を扮するは、中国の粉を用ふるが如きなり。
※松川二郎 今日なお、カロリン群島あたりの土人風俗としておこなわれている。
マレー人は腰巻をサルン或いは英語化してサロンと呼んでいる。
※ジャワのマンゴ売り、の歌詞
   さらさのサロンをなびかせて
   笑顔も優しく呼びかける乙女よ
   ああ ジャワのマンゴ売り
日本では明治時代になって、フンドシにかわるサルマタが発明された。西洋人はサルマタなどなく、ワイシャツを長くして、みなフリマラである。女もズロースなどはいていなかった。一八世紀の末まではズロースは老婆だけがはくもので、若い娘や妻などは、そんなものをはくのを女の恥としていた。

〔 水田とともにきた高床住宅 〕

チベット=ビルマ族は、狩猟民、火田民として南下の途上では専ら穴居生活を営んでいたが、インドシナに入ると低地に移って先住民と混血し、水田耕作を行うようになった。彼等ははじめ堀立小屋に住んでいたが、この地方の長い雨季に閉口し、高床住宅をつくりだした。そしてこれが水田耕作民としてのビルマ族のタイプとなった。
高床の七つの利点 
@長い雨季の水よけ。 
A毒虫、毒蛇、猛獣を防ぐのによい。 
B杭上生活からヒントをえた。 
C縁下をくすべると蚊の大群を防ぐことができる。 
D鉄器のない時代、家作りとしては非常に楽な家である。 
E縁下は日中日陰で風とうしよく、手仕事ができる。 
F泥棒を防ぎやすい。
パーカーの「日本語、チベット=ビルマ語同系論」によると、伊勢神宮や、即位式のとき用いる悠紀殿及び主基殿の建物は、シャム、インドシナ、マレー、フィリピンの家そのままである、と述べている。
古代日本人は、縄文式時代には穴居住宅や掘立小屋に住み、弥生式時代には高床住宅に住むようになった。
今日の八丈島には高床式の穀物倉が残っている。
今日の日本の農家は、ずっとのちに入った朝鮮式家屋である。
ビルマ人は今日でもなお、ココヤシで編んだニッパつまりムシロを屋根にして棟木の両端に二本の木をツルで結んでいる。(これがいわゆる千木である)
若し千木が北方起源であったなら、ツルでちょっと結んだような千木は、満州や蒙古の強い風には、必ず吹きとばされてしまう。南インドシナでは強風でも秒速二メートルである。