東京大学は博物館としてもおもしろい。
帝国大学時代から、日本の最高学府として日本の歴史が蓄積されている。
いつだったか雑誌「芸術新潮」の特集で、「東京大学のお宝」みたいな特集が組まれたことがあった。
東大にはとにかく膨大な資料・標本が眠っている。中には変わったものも少なくない。夏目漱石の脳味噌や、全身イレズミのなめし革だとか...
東大所蔵の資料のほとんどは東京大学総合研究博物館が管理している。しかし唯一の例外が医学部標本。そう、先の傑出人の脳やイレズミ、人体標本などだ。さすがにこれらの資料は一般展示に供するものではないということで、医学部が標本室を設けて独自に管理している。
そんな東大医学部の標本室に入ったことがある。本来は東大医学部関係者以外は立ち入り禁止の場所。幸運にもちょっとした個人的なツテを通してその見学が実現した。
重厚な木製キャビネットが並んだ部屋は歴史の重みを感じさせる空間だった。キャビネットには整然と資料が並んでいる。そのほとんどはホンモノの人体の一部だ。手術によって摘出した臓器もあれば、まるまる一体の人間が薬液に浸かっているものもある。つまり、ここに展示されている大部分は"遺体"もしくはその一部なのだ。
子宮に児を宿したままのホルマリンに浸かっている母親の体。不慮の事故で亡くなったあと、なにかわけがあって、いまここにいるのだろう。腹壁が取り除かれ、腹腔内の臓器と、子宮内の胎児が見えるようになっている。
なんて残酷な! と思う人もいるかもしれない。しかし視点を変えると、ふだんはどうやったって見ることができない子宮内の胎児の様子がわかる貴重な資料とも言える。
医学的にはたいへん貴重で興味深い資料であっても、もとが生きていた人間だけあって、医学の視点がないと、非人間的行為の極みとも思われかねない。だからこそ、人体標本室見学は学内者に限定されている。
それに、献体してくれた人のプライバシーの問題もある。以前、別の某歯科大学の標本室に行ったときのこと。歯学部だから頭部の標本が多い。つまり亡くなった人の生首が並んでいる状態だ。ひとりひとりの表情までしっかりわかる。篤志で体を捧げてくれた人のことを思うと、好奇の目に曝すことなどできないことがよく分かった。
東大標本室に話を戻そう。高い天井の壁には、ずらっと額縁がかけてある。10以上はあっただろうか。額の中身はというとイレズミ。つまり人の皮を剥いだものだ。首から上腕、腿あたりまでがしっかり体の形になっている。
標本室を管理する技官によると、イレズミ(文身=全身刺青)というのは医学的にみて不思議な状態なのだそうだ。皮膚構造のなかで染料を入れる層が少しでも深ければ吸収されてしまうし、浅ければ消えてしまう。生体に複雑な文様を入れて数十年生活しても色あせないというのは神業に近いとか。そうした傑出したイレズミは皮膚構造を考える上でも貴重な資料と思われるため、こうして保存しているのだという。
奥へ進むとひときわ背の高いキャビネットがあった。中には骨格標本が吊してある。小学校の理科室にあるようなアレである。しかし理科室のと違うのは、これはホンモノの人骨であるということ。キャビネットの上には○○教授骨格と書かれている。かつての東大医学部教授だった人だ。遺言でこうして死後もずっと医学部に居続けることになった。脇には奥さんの骨格も一緒に並んでいる。墓に入る以外にもこんな死後の過ごし方もあったのかと思ってしまった。そういえばとある解剖学の教授がいっていた「死んだらここで標本になるのが楽しみなんです」という言葉の意味が少しわかった気がする。
管理室の脇の長テーブルには、むきだしの『脳』と『心臓』が無造作に置かれていた。プラスティネーションと呼ばれる「乾いた標本」だ。ふつう人体標本はホルマリンやアルコールに漬けて保存する。どちらも刺激性の液体なので、瓶詰めにして外から眺めるしかできない。ところが近年開発されたプラスティネーションという技術では、人体の液体をすべて樹脂に置き換えることで、常温+空気中で保存できるようになった。
「自由に触っていいですよ」と言われたので、おずおずと手に取ると、ホルマリン固定よりは固めだけど、きちんと弾力が残っている不思議な触感だった。臭いも特になく樹脂製の模型に見えなくもない。しかし目を凝らしてみると、細かに見える組織の文様。本物だった。
脳は輪切りにされた頭蓋に収まっていた。大脳の左右、小脳など、いくつかのパーツに分かれるようになっていて、まるでパズルのようだ。下手すると手でもてあそんでしまいがちだが、紛れもなくこれは誰かの"遺体"なのである。
その他、エジプトや日本のミイラ、銃創・水死体などの法医学標本、原爆症の標本、世界初という人口癌の標本、奇形児など、貴重な標本が並んでいた。治療薬の発達でいまではめったに見られない重度の結核患者の臓器や梅毒の末期状態などが展示されているのは、おそらくここだけだと思う。なかには話題のクロイツフェルトヤコブ病におかされた人の驚くほど萎縮した脳などもあった。
これまでいくつかの大学の標本室に行っているが、これほどの量の質の高い標本が並んでいるのは初めて見た。どこの医学部でも、標本室は予算が削られて縮小/閉鎖傾向にあるなか、きちんと管理者がいて、定期的に薬液の交換を行なっているのはとても珍しく、お陰でどの標本もとてもきれいな状態が保たれていた。あれだけの数の保存瓶を管理するのは並大抵のことではないと思う。
実際、某医科大の標本室は、もう何十年薬液を替えていないのか、臓器が溶けてほとんど原型をとどめていない標本ばかりだった。「御遺体の尊厳を守る」ために見学制限をするくらいであれば、それ以前に管理不行き届きで体をとろけさせてしまう方が死者に対する冒涜ではないのか、と思ってしまうのだが。
東大では、何十年も前から使われているのであろう特注の立派な木製キャビネットに標本を収めている。それはそれで歴史の重みを感じさせるすばらしいものなのだが、博物館資料保存の観点でいくと、大地震が来たらいっぺんでぜんぶやられてしまいそうだった。その点はスタッフも問題に思いつつも、予算が取れず、対処できていないのが現状だという。
標本室は解剖学教室に所属しており、解剖の技官が管理にあたっている。しかし東大医学部標本室はその内容からいって、単なる標本室ではなく、日本の医学の歴史を詰め込んだ日本随一の医学博物館といっていいと確信した。
しかしながら、内容が内容だけに、一般公開の目途は立たず、博物館として整備するだけの予算も付かない。このまま埋もれていってしまう貴重な財産たち。解剖学資料の倉庫ではなく、きちんとしたミュージアムとしての視点での整備の必要を感じつつも、残念な思いが残った。
[余談]東大所蔵の医学部以外の標本は東京大学総合研究博物館が管理していて、入場無料で誰でも見ることができる。いまやっている企画展は、
「MlCROCOSMOGRAPHlA−マーク・ダイオンの『驚異の部屋』」
開催期間:2002年12月7日(土)〜3月2日(日)
休館日 :月曜日(ただし1月13日をのぞく)および12月25日〜1月5日、1月14日
開館時間:10:00〜16:30(入場は16:00まで)
入場料 :無料
会場 :東京大学総合研究博物館[小石川分館]
個人的にかなり興味のある企画なので、新年早々にでも行ってみようと思ってます。
[東大医学部標本室に興味がある人は...]ウェブで所蔵品の一部が紹介されています⇒
こちら漱石の脳(叢書・死の文化 20)
齋藤 磐根=著
本体価格:1456円(税 73円)
1995年 3月刊
ISBN4-335-75010-2 C1347
弘文堂