【5-2】私も喘息だった2


■ 執着

さて、私は大学生のころにはそういう自分の不安定で弱い体や落ち着かない感情を何とかしたくて座禅を組んだり、ヨガに興味を持ったり、玄米菜食に凝ったりしました。簡単に言うと「 強くなりたい 」という焦りにせっつかれていたのです。だから何をやってもやり過ぎのことが多かったです。

ヨガといってももう30年も前の話です。情報は限られており勉強できるところなど近くにはありませんでした。幸いあの当時自然食品店は広島県の田舎にも二つほどありました。

私はヨがの本を読んで断食療法に興味を持ち実行もしてみました。思い立つと日常生活の中でもやってしまうのです。無茶と言いますか、水だけで3日間、いや一週間過ごそうなどと決めたら夏の暑い日でもやってしまう。

ヨがの本には断食中はじっとしているのが一番良くないと説いてありました。朝起きてマラソンもやりました。少々記憶がかすれていますが、辛くも有り何かしら実感するものがあったのは確かです。

私は身長183センチと背が高いですから他人から見たらもう半病人がふらふら表を歩いているように見えたでしょう。

父も、痩せ細った私のことを「 何か重い病気でも抱えているのではないか 」と、回りや友人からいろいろ言われたらしく慌てたのでしょう。子供には殆ど怒りをあらわにする人ではありませんでしたが、このときは私を叱り飛ばしたりしました。 

ちょっとがっかりしましたが気合が入っていたのでさして障害にならず、むしろ反発力になった覚えがあります。

しかし妹から後年になって「あのころのお兄ちゃんには本当に傍に寄り難いものがあった」と言われましたから、当時は思い詰めた気迫が漂っていたことも確かだったようです。 

話が戻りますが、私が座禅をしていたのは自宅から10分あまりの所にある曹洞宗のお寺でした。曹洞宗の開祖、道元禅師はおっしゃっているのです。

「 仏道を習うは自己を習うなり 自己を習うは自己を忘るるなり 」と。

しかし私はこの頃いろいろ健康にこだわりました。自己を忘るるどころか自分の健康の事、内面の問題でえらく執着していたのです。

玄米菜食、自然食に凝って試してみました。そのころは既に喘息はありませんでした。でもとにかく焦りがありました。症状は無くなったとしても体が過去を抱えているのをハッキリ感じていました。 

玄米菜食や断食はそれなりに効果はありました。体は軽くなり便通もその質もとても良い感じでした。断食をして後などは百メートル先に肉屋があっても分かるのです。嗅覚が鋭敏になってくるからです。不便な面もありますが感覚が研ぎ澄まされるのです。 

しかし、しかし、結局は限定された食べ物を逆に食べ過ぎてしまうのです。これなら、つまり自然食なら体に悪くないからと理由をつけて。

ところが勢いがつくとそれでは済みません。一旦誘惑に負けてお菓子の袋を開けようものならただただ顎を動かす機械と化してしまい、過剰食欲に押さえつけられてロープに手が届かない悔しさと自責の念で一杯でした。

結論を言いますと私はヨガの経験もありますが、後になってから食べ物で健康を云々したり健康法の中心へ置くことはしないことにしました。このことはこれで良かったと思います。

但し、修行者は別です。また大きい病気をしたあとの回復期には食事には注意を要します。それから乳児はお乳しか飲まないように動物性のものが基本です。植物性のみの生活をさせてはいけないと思います。

また本物の過食症、拒食症こういった方の中には返って食べ方や量を規定する事で自信をつけていくプロセスを必要とする場合もあると思います。本質的にはそういう問題ではないと思いますが。

誤解のないようにお願いしたいのは、自然食は悪いとか玄米に価値がないとかそういうことを言うつもりはありません。私も新鮮な素材を食べたい気持ちは充分あります。


■ 食事とリラックス

食事は子どもは栄養中心で、また大人も子どももこれには心身リラックスとしての要素が必ず伴うのが自然の成り行きです。

それなのに食事の良し悪しをうんぬんすることで更に頭に力が入ると、場合によっては漠とした煩わしい感情が動いてくるのです。

保育園時に、食べたくないものを無理してでも食べ終わるまで恐い顔をしてにじり寄られる体験のある人がいらしていたことがあります。人生で一度も食べ物を食べて美味しいと感じたことはないと断言していました。

これだと栄養の吸収率は格段に落ちます。体も変だったし、心の状態がフツウの生活をするにギリギリの線で生きてる感じでした。

だからどんな食事法にしろ感情に対しての付き合い能力があるか、そういう指導者の下でのそれであればまだいいかもしれません。

意志の訓練として断食や食事制限をするのは価値が大きいです。難しいことだからです。しかし、症状と対立感を強めるようなあり方は私はあまり好きではありません。

私が食事にこだわるのを止めたのは自分の中の誰が自然食を食べているかに気づいたからです。

健康になりたいの気持ちもあるのですが、食事法にこだわる手前に、他愛ない主観的な自分がいることに気づいたのです。

「 これが正しい食事法 」と正しさに力が入る背後には、間違いと私が思い込んでいる世界があったのです。要は親や既成の環境で当たり前となっていることに対して反発できればなんでも良かったのです。

これは偶然でした。ぼんやりしているときにポカッと浮かび上がってきたのです。頭を使ってあれが良いこれが悪いと格闘している狭間で、別のモードが勝手に働いたという感じでした。健康のためより、反発のための方が強かったのをはっきり自覚しました。

反発力を否定する気持ちにもなれないし、かといってその力を食事云々に向けることはつまんないと思いました。食事は適当でいいやと思いました。それで腑に落ちてしまいました。自然食を完全に止めるということもしなかった。

それよりも、自分の感覚で今何をどれだけ食べたらよいか分かるなら、それは食べることがそのまま健康法になりほっとくつろげます。

たとえ間違って食べ過ぎたりしても一食抜くなりそこから体の感覚に従うことができれば、その自信が自己信頼となり外の情報に振り回されない分感情は安定してきます。

弛むことができればまた緊張できるわけで、そのリアルな体の感覚を整える方が怖れのボリュームを下げるには自然だという気がします。

だから私は健康法としての食事法は順位を下げることにしたのです。中国から三蔵法師がインドへ仏教の教えを求めて辿り付くと、まず最初にやらされたのがヨガのアサナ(ポーズ)だったそうです。

3ヶ月だったか6ヶ月だったかは忘れましたが、その後に食養生法に入るのがヨガです。栄養を栄養として効率よく吸収分散できる体を作る方が順番として先なわけでごく自然な考え方だと思います。

道場の指導者はあまり物事にとらわれない人で、体験体得、気づきを大切にしていました。「今日は外出して寿司を食いましたら、急に元気が出ました」といえば「そうか、どうしてそうなったか自分で考えてみなさい」こんな調子です。

極端なことをいうと、そこでは「良い・悪い」これがないのです。これには困りました。自分がやっていること、起きていること、これが一体正しいかどうか尺度があった方が分かりやすいし楽なのだけど、それがあるようでいてないのですから迷うわけです。

平均的なある程度の「こうしたほうが良い・これは良くない」とか原理原則は確かにあるのです。何せヨガですから。

しかし、固定した正しさを説いてしまうと、それと「感じる・感じている」というその個人においての事実との間にギャップが起きる可能性があることも、時代や環境によっては一つのことが正しいと言えなくなるのも、その道場主はよく承知していたのだと思います。


■ 感覚が回復すること

ヨガの道場へ行きました時、二、三日してから食欲がガクッと落ちてしまいました。毎日の猛訓練は体を合理的に使い、そのためその環境に適応しようとして体が反応してきたのです。

とうとう一週間目には自然と断食状態になりました。それでも激しく動かしていると気持ち悪くなってきました。そこでは休みたいなど言えないのです。これは来ると思って途中でトイレに駆け込みました。

トイレの戸を開けたとたん、どーっと緑色の抹茶みたいなのを目一杯吐きました。体が正当防衛として、体内に持っていると力を出すことの邪魔になるものを自らの力で排泄したのです。

まだのこっていると感じて水を飲みましたらもう一回出ました。その瞬間全身がサーッと変わりました。筋肉痛は軽くなるし、体の重さ気持ち悪さ全て無くなりました。

行法に参加しましたら、なんと!飛んでも跳ねても何をしてもその身軽さといったらありませんでした。毎日朝のマラソンでドベだったのに次の朝から一番でした。

集まっている人は病弱者、断食者、ノイローゼ、難病奇病者が多いですが、その時は200人ほどいましたし、自衛隊員、プロ野球の選手など体のブラッシュアップで来ている人もいましたから、この私の体の変化を通して自覚したことは大きかったです。

体を変えたのはヨガそのものではありません。体自身の力です。体の中に不要なものが入っていることを感じてそれを排泄したのです。排泄があれば吸収力も高くなります。もう何十年も前の話です。懐かしい。

修行をするしないではなく、症状そのものではなく、とにかくまず感覚が高まればいいのではないでしょうか。紹介する体操もそのためにやることを是非お奨めします。


■ 喘息に有効な運動法 

        ★ 腕・肩・胸にかけて同時に弛める体操1

1.うつ伏せに寝て両手は体の横に添え、額を床につけます。
2.手の指先を伸ばしゆっくりと手先で腕を引く感じで腕を体から離します。
  手のひらを床に這わせ指先で半円を描いて頭の先の方にもっていきます。

  注意!この段階までで生じた体の緊張を抜かないで下さい。
  矢印は手の動きを示しています。コツは指先で腕の動きをリードすること
  です。腕の幅は上腕が耳に触れる程度。

3.コブシを握り更にどちらかの腕を伸ばします。
4.両コブシ、額で床を押して両足をそろえてゆっくり持ち上げます。
  必ずゆっくりのこと。膝を曲げないこと。
  >> ここで2、3呼吸堪えてください。<<

5.ゆっくり元の姿勢に戻りリラックスします。
6.逆側の腕を1から順に行ないます。

◎ 呼吸は自然とついてきますから、動作に適うようにすれば良いです。

○ 回数:左右とも1又は2回 

★ 効用:腕、肩、後ろ首筋、肋間の緊張を除きます。

  腕の内側の緊張を除くので呼吸器の弱い人にはよいです。猫背の矯正にも
  なります。パソコン使用で眼の疲れから呼吸器、腰へと負担がきている場
  合にも効果があります。必ず次の体操も合わせ行って下さい。


        ★ 腕・肩・胸にかけて同時に弛める体操2

  体操1の2までは同じ動作。

3.コブシを握り脚を揃えます。

4.コブシを床につけ、ゆっくりと上体を反らします。自然と動きが止まった
  ところで、しばらく耐えます。

5.ゆっくり元に戻しリラックスします。回数、効用は1と同様

注意1 生理中の人は行なわないように。
注意2 体操後、咳がでるようなことがあれば次の事をチェックしてください。

   全体的に肋間が弛んできている。腰が伸びている。こういうことが検出
   されるなら、咳は残った緊張を弛めるために起きています。この場合、
   意識的に咳をして取れることもあります。

   何故なら、咳は胸部の緊張を取り除く自発的な運動法だからです。ただ、
   咳が水分を含まない空咳だと、かなり呼吸器が乾いて潤いがないことを
   示しています。まず、この体操でいきなりそこまでの反応はないと思い
   ます。

   そういった反応がある敏感な体の人は胸の上部に蒸しタオルを施してお
   いてください。


■ 呼吸器が伸び拡がる季節《 初夏 》

葉っぱが生い茂り酸素を沢山放出する初夏は、呼吸が伸びやかに拡がってくる
季節です。丁度この時期手前くらいにこのメルマガの内容も体操に当たるよう
に予定を組みました。なんとかうまくいったみたいです。

秋や冬入りにこの体操をしてはいけないということはありませんが、この時期
に呼吸器を広げる体操を行なうのは身体感覚的にもまったく違います。

初夏の次には梅雨が待っています。湿気のために皮膚呼吸が抑制され息苦しく
なり、その負担は当然呼吸器そして腎臓へとかかります。発汗がスムースでな
い分腎臓が過労になります。呼吸器と腎系統の弱い人(食べ過ぎのために腎臓
を弱くしてしまった現代人)には苦痛な季節です。

えっ、クーラーがあるじゃないかって?はいそうです。クーラーはありがたい
ですが、かいた汗を引き込みやすいという点では、冬より強烈に冷え込みやす
く、皮膚や筋肉も縮みやすいのです。脳溢血の傾向のある家庭では汗を冷やさ
ないよう注意して下さい。

初夏のうちに呼吸器を広げられるだけ広げておくにこしたことはありません。


次回・‥…→☆【 私も喘息だった3 】

■ 体の欲求を尊重する‥‥
■ 喘息や呼吸器の弱い人に有効な運動法
                  大腿部を伸ばすと呼吸器が広がる


.
Top             ←戻る          上↑             次→ 
< 私も喘息だった2 >
■ 執着
■ 食事とリラックス
■ 感覚が回復すること
■ 喘息に有効な運動法
■ 呼吸器が伸び拡がる季節《 初夏 》
\喘息 のち 晴れ!/