ja1cvfとその出会い。その3
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多感な中学生です。 この3年間は工作のおもしろさを一番多く体験したときでしょう。 |
中学生になりました。 工作技術を磨く多くのきっかけをつかんだのは中学生の時です。 学校にはオートバイ、オート3輪などがありこれからは車の時代が来るといい、放課後にケイ先生指導のもと校庭で運転の練習もしていました。 特に就職する人たちには優先的に指導していました。当時は14歳で免許が取れたように記憶しています。 当時、私たちのクラスでは木を削って飛行機のソリッドモデルを作るのがはやっていました。3面図から立体を作り出すことを覚えたのはこのころです。 断面図から型紙を作りそれに合わせて立体に仕上げるのです。プラモデルの無い時代でしたから”子供の科学”などにも作り方が掲載されていたのかもしれません。 ソリッドモデルブームを押しのけるように鉱石ラジオがはやりました。ゲルマニウムダイオードが中学生でも買えるようになったのです。 買えるとは云うもののゲルマニウムダイオードはとても高価だったと記憶しています。 しかし蚊の泣くようにしか聞こえなかったラジオが、”ささやくように”、いや、”うるさいくらいに聞こえた”と云った方がよいかもしれません。 授業中に先生の目を盗んで窓からエナメル線のアンテナをのばし聞き入ったものです。恐れを知らない私は松下電器のゲルマニウムラジオ制作コンテストに参加したこともあります。 (もしかしたらこれは高校時代かもしれません) 中学生は多感な時代です。 ラジオ以外の工作技術を習得したのは中学生時代です。前にもお話ししましたが図工の授業はとても充実していました。 今ではどうと云うことでも無いかもしれませんが図工の教室には、KI先生が描いた裸婦画が飾ってありました。当時の中学生には刺激的でした。 こんな学校でしたから一般の授業に比べ工作の授業は開放的で自分のプランに基づいて設計し、制作するかなり本格的なことをやっていたように思います。 今でも学校で作った作品が手元にあります。私の宝物です。工作室には木工用の自動カンナ、昇降盤(丸鋸)、バンドソー、 ボール盤、旋盤、グラインダなどの機械工具があり使い方の指導も受けました。 もちろん作業工具もいろいろあり、工作に目覚めた私は放課後は多くの時間をこの工作室で過ごすことになりました。 学校で覚えた、基礎技術、特に金属加工技術は、後に、自作しなければどうにもならない当時のアマチュア無線局開局に大きな力となりました。 0003-3 |
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