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永代通を西へ
〔深川不動尊・富岡八幡宮〕
No15

富岡八幡宮例祭(No14に記載)最後の神輿が通り過ぎた。それまでは神輿に夢中だったが最後の神輿が通過してホッとしたのか喉がすごく渇いていることに気付いた。早速、清澄通のセブンイレブンに行ったが、そこもお祭りに訪れた人々でごった返していた。やっとのことでジュースを買い裏路地で飲む。喉が渇いていたからすごくおいしかった。

喉が潤うと又、元気が出てきた^^そして折角、ここまで来たのだからと深川不動尊と富岡八幡宮にも行ってみることにした。

細い路地

細い路地だが先ほどまでお祭りを見ていた人達で路地は混雑していた。深川不動尊に来たのは1年半ぶり。以前来たときは取引先が木場にありその取引先に伺ったとき、昼休みを利用してここまで歩いてきたのだ。あの時は冬でスーツ姿。今回は真夏でラフなサンダル履き。全然、格好が違う。

深川不動尊へ

路地を曲がると露天が見えてきて更に人が増えてきた。正面には深川不動尊が見える。写真を撮ったりしながらのんびりと参道を進む。そして本堂の前へ。

深川不動堂 深川不動堂
深川不動堂 深川不動堂
深川不動堂
深川不動堂(深川不動尊)の歴史

江戸時代、中でも元禄年間は江戸市民を中心として不動尊信仰が急激に広まっていった。この背景には、経済・商業の中心地としての江戸、また、それを支える町人の経済力の飛躍的な増大が大きな原動力になっていた。このような元禄の町人文化が華々しく開花した時期に、成田山新勝寺は信徒数も増え、また寺格も格式の高い本山へと大きく発展していく。同じ時期江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したい、という気運が高まって、ついに1703年(元禄16年)4月にはじめて江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれた。当時は犬公方と知られる五代将軍綱吉の世で、その母桂昌院が成田山の不動明王を江戸で参拝したいと言い出して、それが実現したという説もある。 成田山出発の総勢は300人を超える行列が組まれ、江戸まで1週間余りかけてご本尊が運ばれたといわれる。2ヶ月にわたるご開帳は、江戸市民に大きな人気を博したが、この開帳の場所が深川永代寺境内で現在の深川不動堂付近であり、これが深川不動堂の起りである。   明治に入って神仏分離令によって、永代寺は廃寺になり境内は深川公園 になった。明治2年に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、14年には本堂が完成する。関東大震災・第二次世界大戦と2回にわたって本堂が焼失したが、ご本尊は奇しくも焼失を免れた。昭和26年に当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺(1862年・文久2年建立)を深川に移築して本堂が復興したが、この時の建物が現在の本堂になっている。
(深川不動堂ホームページより抜粋)

本堂へ

参道を抜け本堂へ。そしてお賽銭を入れ願い事をする。その奥には内沸殿があり自由に参拝できる。中に入ると、とても涼しかった。とてもきれいで、いろいろなものが展示してあった。そして富岡八幡宮へ向かった。

富岡八幡宮への参道
富岡八幡宮への参道
露店も賑わっていました。
富岡八幡宮へ

富岡八幡宮は深川不動堂の隣にある。その境の道端にはお祭りを楽しんだ人たちで埋まっていた。お好み焼きを食べている人、焼きそばを食べている人。小腹が空く時間だった。富岡八幡宮の境内に入ると更に人が多かった。

富岡八幡宮

富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。

江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。

また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。
(富岡八幡宮ホームページより抜粋)

富岡八幡宮 富岡八幡宮
富岡八幡宮
富岡八幡宮 富岡八幡宮
御本殿
御本殿の近くには特設の舞台があって夕方から始まる神楽、和太鼓、舞踏などのイベントを待っている人がたくさんいました。
富岡八幡宮
電話:03-3642-1315
住所:江東区富岡1-20-3
参道 境内
参道 境内
永代通から続く参道はこのようにたくさんの人で溢れていました。
横綱力士碑へ

ここ富岡八幡宮は、江戸勧進相撲発祥の地なのだそうです。その証拠に本堂の裏に横綱力士碑がありその横には歴代(最も最近の横綱、朝青龍まで)の名前が刻まれていました。

横綱力士碑 横綱力士碑横綱力士碑
横綱力士碑
当宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまりますが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。その後禁令が緩み、貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。その地こそが当宮の境内だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。そののち本場所は、本所回向院に移っていきますが、その基礎は当宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになります。
(富岡八幡宮のホームページより抜粋)

再び本堂の方へ戻ってくると更に人が増えていました。

本堂 参道
本堂 参道
境内 神輿
境内 神輿
参道にはたくさんの人が

参道にはたくさんの人が溢れていました。外人さんや浴衣姿の人もいました。お祭りらしくていいですね。

ハッピを着る外人さん 浴衣姿
ハッピを着る外人さん 浴衣姿
ハッピ姿、とても似合っていました。浴衣姿も風情があっていいですね。
スペーサーイメージ
神輿 神輿
神輿 神輿
神輿庫にあったお神輿。とても鮮やかできれいでした。
鳥居をくぐり永代通へ

ひと通り、富岡八幡宮を見た後、陽も高くまだ時間もあるいうことで東京駅まで歩くことにした。

正面参道 大鳥居
正面参道 大鳥居
永代通から撮った写真。後ろにある近代的なビルと富岡八幡宮。現在の東京を象徴する光景ですね。ここ下町も古きものと新しきものが混在してきているのですね。
永代通を西へ

永代通へ出るとまだお祭りの余韻で人がたくさんいた。しかし歩行者天国はもう解けて車が走っていた。そのまま電車で帰っても良かったのだが東京駅の丸善(本屋)を目指して歩くことにした。永代橋を渡るまでは下町の風情がたくさん残っていた。

福島橋からの景色

西支川にかかる福島橋から佃方面を見た景色。先ほどまでお祭りに参加していた神輿(みこし)が各町内に戻っているらしく何基かのおみこしの掛け声が聞こえてきました。

永代橋を渡り日本橋方面へ

そして、いよいよ永代橋を渡る。永代橋の東は門前仲町のように下町の風情が残っているが永代橋の西側は新川、茅場町、箱崎などオフィス街が広がっている。

隅田川に架かる永代橋から見る景色はとても開放的でした。

大川端リバーシティ21 大川端リバーシティ21
大川端リバーシティ21
隅田川にそびえ立つ高層マンション。あの向こうには月島、晴海などがあります。
永代橋

永代の名は深川に造られた永代寺の名に由来しているそうです。元禄11(1698)年日本橋と深川を結ぶ橋として上野寛永寺本堂の余材を使って永代橋が架けられた。その当時の場所は現在の橋より100mほど上流であったそうです。しかし文化4(1807)年8月の深川八幡の祭礼に欄干の一部が崩れて多数の死者を生じる事件が起こし、その後、数度の架け替えが行われ、明治30(1897)年になって鉄製のトラス橋が造られ、橋の位置も現在地に移された。しかし関東大震災(1923年)には橋床の木造部分が焼け、大きく被害を受けた。大震災復興事業の最初の工事として大正15(1926)年に重量感あふれるアーチ橋に架け替えられ、今日に至っている。

隅田川の第4番目の橋として架けられ、その姿は上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。ライトアップもきれいです。

永代橋
永代橋
ちょうど西日が差してきて太陽がまぶしかったです。永代橋から見る景色は壮大でした。
そして大手町へ

永代橋を渡るとだいぶ陽も傾いてきた。永代橋の西側の新川や箱崎、茅場町、兜町、日本橋、大手町は以前、仕事でよくきた。自分が行き来していた会社がたくさんあって懐かしくなった。平日はたくさんの人が行き来している茅場町の交差点もこの日はお盆休みということで人は、ほとんどいない。

更に永代通りを西へ西へと歩いていく。

そしてコレド日本橋へ少しより、陽が暮れた頃、大手町に着いた。
下町からいつものビジネス街へ戻った感じがした。

お盆休みも終わりなんだな...と感じた。

富岡八幡宮へのアクセス

◆電車
営団地下鉄東西線 「門前仲町」駅より徒歩3分
都営地下鉄大江戸線「門前仲町」駅より徒歩6分
JR京葉線「越中島駅」駅より徒歩15分
JR 「東京」駅より車で15分

◆バス
東京駅丸の内北口発 東22・東20系統 錦糸町駅前行
〜錦糸町駅前発 都07系統 門前仲町行「富岡一丁目」下車 徒歩2分

(2005年8月28日UP)