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   〜 旧東海道徒歩の旅 第三章 〜

◆ 二度目の旅 (箱根関所―掛川)




  これは、一九九四年十二月二十八日から翌一九九五年の一月二日までの二回目の旅行の直後に書いたものだ。一回目の旅行の記録はレポートということで、時間の経過にそって史実を事細かに書いた。でも今回は、ただ思い付くままに自由に書いてみた。


 夏休みに歩いた日本橋―箱根関所間に引き続いて、冬休みにはその先から京都までを目指して歩くことにした。
 しかし、今回の行程では準備の段階から大きなミスをおかしていた。
 寒い冬の時期に野営をしなくてはいけないということで防寒着をはじめとし、暖房替わりのガスランタンとガスカートリッジを数個、大量の使い捨てカイロなどの各種防寒対策用品を持っていった。しかし、実際には予想に反して寒さを感じることはほとんどなかった。
 重い荷物を背負って歩いているときは汗が出るほどに暑く、Tシャツ一枚でも大丈夫だ。夜は狭いテントの中に入ってしまえば自分の体から放射される熱でけっこう暖まる。それでも寒いときは寝袋に入ってしまえば家の布団の中にいるくらいに快適だ。
 そういったわけで、防寒対策の品々は全くの無用の長物で、ただ肩にのしかかる負担を増やすだけのものだった。そしてそれは一日の行動距離を短くさせ、最終的には膝を痛める原因ともなった。
 先回の旅では三日半で百キロほどを歩いたが、今回は六日かかって百三十キロしか歩けなかった。学校のマラソン大会で無理をして若干膝を痛めていたのに加えて、二十数キロの荷物による負担と、そして決定的だったのは、金谷宿から日坂宿に向かう途中の峠で道路脇のドブにはまって左膝を強打したことにあった。
 日坂へ下る夜泣石跡付近のお茶畑の広がるのどかな小道でのこと。たまに農作業のトラックが通るので、道路脇の蓋が被せてある排水溝の上を歩いていた。
 その排水溝の蓋。それがいきなり外れたのだ。そして片足が見事にドブにはまってしまった。幸いそのときハイカットの防水の靴を履いていたので、びしょ濡れになるというのは防げたが、いきなりのことで、そのままの勢いで膝がガクンと曲り、体重とザックの重さ、さらに重力加速度をプラスしただけの重みで膝を側溝の縁にぶつけてしまった。
 腫れこそはしなかったが、足を蹴り出すたびに劇痛が走るようになり、このまま歩き続けたら取り返しのつかないことになるかもしれないように思えた。
 そこで仕方なく、数キロ先にあった掛川駅でリタイアした。出発後わずか六日目であった。当初はたとえ京都に着けなくても、冬休み一杯(一月九日)まで二週間程度は歩くつもりだったのに残念だった。
 でもこの六日間の間に、楽しいこと、嬉しいこと、辛いことなど様々な体験が出来たので、とりあえずは満足している。
 今回の旅で一番大きかったことは人との出会いである。というとキザっぽい表現かもしれないが、先回の旅ではあまりなかった、人との触れ合いという機会を多く持てた。
 まずは出発後三日目に興津(おきつ)駅近くの宗像(むなかた)神社で、テントを張らしてもらいたいと頼んだ時。大晦日が近いことから、冷たくあしらわれるかと思いきや、宮司さんは、
「別に構わないけどテントだけじゃ寒いだろう。拝殿のなかで寝なさい」
 と絨毯が敷き詰めてある神社の中へ泊まることを許してくれた。(でもご神体のまえで寝るのは気が引けて境内でテントを張って寝た)
 そして、その翌朝には犬の散歩に来た地元の人が声をかけてくれた。旧東海道を歩いていると話すと、わざわざ家に戻って旧道の資料を持ってきてくれた。
 それは地元で行われたイベント『93東海道ウォーク IN SHIZUOKA』の「WALKIG MAP 東海道」という冊子で、東海道の説明や各宿場の説明、東海道の静岡県内を通る部分を縮尺二万分の一で載せている。
 その地図というのが本当に歩くためだけに作られているので実に判りやすい。余計なものは一切書かれていないし、国道一号線から旧道に分かれる部分などには、その目標となる店の名前や、またその写真が載っていたりと、私が持っていった五万分の一の地形図を太線でトレースしただけの地図が載っている本とは比べ物にならないくらい実際的なものだった。
 それを貰った時には、ごくありきたりの礼しか出来なかったが、その資料の有用性を身に染みて感じている今は、その人に手紙を書いてでもきちんとお礼を言いたい気分だ。
 四日目。この日は少し風邪気味であまり先へ進めず、餅で有名な安倍川のあたりまでしか進めなかった。さてテントを張れる場所を探そうと、とりあえず公園のベンチで休憩していた。するとすぐ裏にある交番からお巡りさんが出てきて話し掛けて来た。そこで事情を説明し、「どこかテント張れそうな所はありませんか?」と聴いたところ、
「だったらこの公園にしたらいい。トイレも水道もあるし、それに交番には私がずっといるから」
 との返事。素直にそれに従い、その夜は警察官のガード付きで安心して眠ることができた。そのお巡りさんは山登りをするとのことで、すっかり打ちとけて、ミカンとリンゴの差し入れをしてくれたり、銭湯へ行く間に荷物を預かってくれたりもした。
 彼曰く「今日一晩だけだけど近所付き合いしようや」ということで、実によくしてもらった。
 そしてこの旅最大の出来事があったのが五日目だ。この日、安倍川を渡り、宇津ノ谷の屋号が掛かった静かな家々の間を抜けて、昼ごろにお茶で有名な岡部宿に入った。
 町の中心に付近の医院の前にベンチがあったので、そこであらかじめ買っておいたおにぎりを食べていると、その向かいにある寿司屋のおばさんが出てきた。
「遠くに行くのかい? だったらうちによっていきなさい。熱いお茶でもあげるから」
と親切にも声をかけてくれた。
 普段の私なら遠慮してしまうところだが、その言葉に甘えてお邪魔することにした。
 そこは寿司屋だったが、さすがに一月一日は休みらしく、一家四人がお昼ご飯を食べている真っ最中だった。奥の方の居間にあがるように勧めてくれたが、何時間も歩いてすっかり汗で蒸れていた足をいきなり人前に晒すわけにはいかず、店のカウンターに座らせて貰った。
 こっちはコンビニで買ったおにぎりがあったのでお茶だけでも十分だったのに、「残りもんで悪いねえ」と言いながら大きな餅の入ったお雑煮を出してくれた。さらに伊達巻きにコブ・サザエなどの御節料理も持ってきてくれた。それらは形だけとかいうものではなく、質、量とも十分過ぎるくらいで一人では食べ切れない程だった。
 そこでは、この付近で取れるお茶の話(私は日本茶が大好き)や、私が歩いてきた旧道沿いにはサッカーの中山なんとか選手の家があるといった話で盛り上がった。そして最後は何度もお礼を言って、そこを立ち去った。
 初対面のはずなのに、変に緊張したり遠慮したりということがなく、ごく自然に御馳走になれたというのは、人見知りの多かった自分からしたらとても不思議なことだった。
 また、これは先回の旅では全くなかったことだが、同じように東海道を歩いている人、走っている(自転車で)人に多く会うことができた。
 これもまた岡部付近でのことなのだが、このあたりで東へ向かうジャージ姿にデイパックを背負った人をたくさん見掛けた。
 何かと思っていたら、そのデイパックの後ろに「東海道五十三次……」と書かれたゼッケンのようなものを付けているに気付いた。まさかあんな軽装で京都から歩いてきたんじゃないだろうなと思っていたら、その内の一人が話し掛けてきた。
「あなたも東海道ですか?」
 どこから来たのかと尋ねると、やはり京都からだという。
 驚いた。こっちはこんな重装備で東海道に挑んでいるのに、どうして彼らはあんな身軽な格好なのだろう。あれで本当に旅が成り立つのか?
 聞いてみると、夜はホテルに泊まっているのだそうだ。衣食住のうち住さえ確保してあれば荷物は着替え程度ですむわけだ。でも、こんな年末年始の時期に飛び込みでよく泊まれるもんだ。
 一日に歩く距離を計画して、全行程分の宿を予約をしていたのだろうか。
 ここでは僅かな言葉しか交わさなかったが、それでもこれから自分が行く道を既に歩いている人がいる、自分と同じ東海道を歩いている人がいるということを知っただけでも大きな励みとなった。
 それにしても彼らの身軽な格好はとても羨ましかった。次回歩くときはきっと夏だろうから、テントなどは持っていかず極薄のシュラフだけを持って、彼らのようにデイパックひとつで出掛けようと思った。(彼らのように毎回ホテルに泊まるなんて贅沢なマネはとてもできないけど)
 他に旧道の細い道を荷物を一杯積んだMTBで走る欧米人に会った。彼に挨拶をされたときは、なぜか自分は一人で歩いているんじゃないんだ強く感じられ、この先、歩くこと自体がとても楽しく感じられるようになってきた。
 今回出会った人のなかでいちばん変わっていたのは、一見浮浪者っぽい貧乏旅行者のおじさんだった。
 大井川の少し手前で、シャッターの閉まった商店の軒下に座っていたおじさんに声を掛けられた。最初は地元の酔っ払らいかなと思っていたが、話を聞くとどうやらそうではないらしい。
 脇にはごく普通の実用車といったタイプの自転車があり、後ろの荷台には黒いごみ袋に包まれた毛布が積まれていて、前のカゴには洗面器、シャンプー、鍋などが無造作にいれてある。
 おじさんの姿はというと、横浜駅などでよく見掛けるホームレスのような格好をしていた。しかしよくよく話を聞いてみると、自転車一つで東京目指して旅をしている自称『旅人』なのだそうだ。
 出発したのは一ヶ月間ほどまえ。鹿児島から身一つで電車に乗り、まずは大分まで行った。そしてそこからはしばらく歩いた。しかしそれにも疲れたので交番にいって自転車をもらって、静岡のここまで来たのだそうだ。
 毛布などの荷物はどうしたのかと聞いたら、拾ったり貰ったりしたとのこと。この寒い時期に毛布一枚で寝られるのだろうか。尋ねてみた。
「神社の中に入り込んでよー 酒飲んで寝れば大丈夫だー。それによー神社には賽銭もあるからよーまぁ一石二鳥ってわけだな。ガハハハハッ」
 だそうだ。旅にもいろいろあるものだ。
 それ以外にもいろいろとおもしろいことを聴いた。
 まず食事について。田舎を通っている間には、畑が多い。それを野菜を少し頂いて鍋で煮て、塩で軽く味付けしたものが主食となる。その他は墓地などのお供え物を失敬して、この一ヶ月を食いつないできたんだそうだ。本人によると「結構豪勢なものが食えるもんだよ」ということだ。
 そして最後におじさんに聞いた、もっとも実用的と思える情報。
 さっき、そのおじさん、鹿児島から大分までは電車で行ったとは書いた。実はその間には、ほとんど電車賃を払っていないというのだ。ではどうやってタダ乗りをしたのか。別に不正行為をしたわけではない。
 その場合、まず役所に行くのだそうだ。そこで「金をなくして帰れない」といえば〈困った人救済基金〉のようなものから、とりあえずはその行政区の範囲内で移動するだけのお金は貰えるという。それを各行政区で繰り返すことによって鹿児島から大分までただで行くことができたんだそうだ。
 そんなことまでして安く旅行をしようとは思わないが、とりあえずは知識として知っているだけでも、何かの時に役にたつのではないかと思える情報だった。ただし真偽のほどは確認していない。
 よくJTBで出している〈旅〉という雑誌などで「究極の貧乏旅行」などといって紀行文が載っていることがある。しかしこのおじさんに比べたらそれはまだまだ贅沢旅行だ。
 このおじさんと自分を比べてみた。
 今回、私は石鹸からラジオまで少しでも必要だと思うものをすべて持ってきた。当然荷物は膨れ上がり、それは大きな負担となってしまった。
 だが、このおじさんは身一つで家を(家があるのかはわからないが)出てきたのだ。それでも何とかなっているし、今持っている道具にしたって、本当に必要最低限、むしろ不十分とも思えるくらいだ。それでも元気にやっている。
 荷の負担が少ないだけ、私より自由であることは間違いない。
 おじさんの姿を通して、「これがなくちゃいけない、あれがなくちゃいけない」という日常の常識に縛られていた自分の姿を見せつけられた。
 自由、自由といって、行き当たりばったりの旅をしていても、自分の既成概念という不自由に縛られていたのではどうしようもない。
 これからは、その点でさらに検討してみる必要があるなと思った。つまり旅に本当に必要なものは何だろうかという点だ。
 今回のテント設営地について。
 先回の場合はきちんと計画を立て、比較的目立たないような河原で泊るようにした。今回は距離が距離なだけに、一日にどの程度歩くかなんていちいち計算するわけには行かなかったので、すべて行き当たりばったりで行くことにした。
 その結果は公園で泊まるということが多かった。場所探しの過程や実際に泊まった経験から町中でのキャンプサイト選びのコツがわかった気がする。
 まず安全なのは周りが完全に住宅に囲まれている児童公園。これはあまり規模が大きくなく、公園の真ん中で大声出せば近所中に聞こえるくらいがいい。これだと夜中になにかあってもすぐに助けを呼べるし、第一静かな住宅街の真ん中で騒ぎを起こそうとする人もあまりいない。まず安心して眠れる。それに水道完備で、場所によってはトイレや屋根付きの休憩所などもある。場所さえ選べば公園はかなり好条件のキャンプサイトだ。
 次に神社。宮司さんがいるなら、その許可をもれえばまず間違いない。無人の神社でも、そこで悪さをしようという人はあまりいないようだ。ただ、なんとなく怪しげな雰囲気があって、気にする人は安眠できないということがあるかもしれない。場所によってはいまだに神社の裏の雑木林で丑の刻参りを行なう人もいるようだし…。まあ、気にしなければいいのだが。
 またテントを張って危険なのは広くて大きな公園。まわりがビルばかりだとか工場に面しているなどというとかなり危ない。そういう所では夜に質の悪いタイプの人が集まりやすく、カップルなども多い。
 実際、私は富士市役所の近くの、前記のような雰囲気の公園に泊まったのだが、そこでの夜は最悪のものだった。
 夜十一時頃いきなり自転車にのった高校生らしき三人組がテントの周りを走り回り、しばらくは様子をみるような感じで、
「誰だ? こんなとこにテント張ってる奴は。中に人がいるのか」
「でもテントって普通フライをかけるもんだろ? これ、かかってないから人はいないんじゃないか」
「さすがボーイスカウト出身。詳しいな」
「いや、実はおれ現役シニアスカウトなんだよ」
 などと勝手なことを話していた。話の内容から、同じような趣味を持つみたいだから大丈夫だろうと思い、テントを出ようとした。事情を説明して、ここが安全な場所か聞いてみようと思ったからだ。
 が、しかしその三人はワァーと散るように逃げて行き、今度はなぜか態度を一変させて攻撃に身を転じた。
 なんなのだろうか。こっちはまだ姿も見せていないのに。
 はじめは暴言を吐きながらテントの周りを走り回っていただけだった。
 しかし、しまいにはテントに向かって石を投げはじめた。この時、私はテントの中で、意味がないとは分かりながらも警笛とナイフを握り締めて震えるしかできなかった。
 広い公園の中だから、幾ら叫んでも笛を吹いてもだれも来やしないだろう。ただ彼らが諦めるのを待つしかなかった。
 結局、その攻撃は拳大の大きな石を上から投げ落とすということで決着した。公園内の少し高台になっているところから投げてきたようで石はほぼ真上から来た。しかし幸いテントは屋根のある所に張っていたので、その攻撃は直接当たらず東屋の屋根にぶつかって大きな音をたてただけですんだ。その大音響で連中は満足して帰っていったようだ。
 しかし、その後も数組のカップルにちょっかいを出されたり、一晩中寝ることができなかった。
 これはキャンプサイト選びに失敗した例だが、身体、テントなどを含め、特に損傷を受けたわけではないので、これもまあ一つの経験だと思って、なるべくプラスの方に考えるようにしている。
 でも総合的に見るなら、こういったあまり喜ばしくないことに比べて、かえって嬉しかったこと、また親切にして貰えたことのほうが圧倒的に多かった。それにそれらから得るものも多かった。だから目標の京都に着けなかったという点では失敗だったが、旅自体は大成功だったと評価したい。

1994.1.9

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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
By あきば・けん
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