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   〜 旧東海道徒歩の旅 第四章 〜

◆ 旧東海道徒歩の旅 完結編




1 旅は道連れとはいうけれど

 一九九五年二月、このときはちょうど高校三年のおわりで自由登校期間となっていた。事実上学校へ行かなくていい期間だ。
 高校を卒業するまでには東海道完踏を遂げたいと思っていたが、骨折したり、祖父が亡くなったりで、なかなか実行にはうつせなかった。そこで今、高校卒業の間際になってやっとそのチャンスが巡ってきた。
 一回目の旅では始点日本橋から箱根までを、そして二回目はその続きから静岡の掛川までを歩いた。だからその流れからいくと、今回は掛川から京都三条大橋までを歩くはずだった。しかしいずれにしても今回が最後である。どうせなら東海道全部、端から端まですべて歩いてやろうと思い立った。
 今回の旅がひとりではなかった。幼稚園からのおさな友達が同行した。彼とは中学までが一緒で、高校に入ってからはしばらく疎遠になっていたが、しかしどういうわけだか高校二年の終わりくらいから、一緒にジョギングをするようになった。その延長みたいなのかんじで冗談半分に「東海道を一緒にあるかないか」と声をかけたところ、奇特な彼は「ハイ」と答えた。
 そうして一緒に歩くことになったわけである。彼の名はダイスケといい、空手をやっている。さらに定期的にスポーツジムに通って体を鍛えている。しかしパッと見の彼の印象は、私と同じで少なくともスポーツをやっているふうには見えない。どちらかというと非力系ともいえる。ジョギングはするが長距離歩行の経験はなし。普通のキャンプはやったことがあってもいわゆる野宿は初めて。
 果たしてどうなるのだろうか。そんな思いも頭をよぎったが、彼は積極性におされて二人の旅が始まった。


 今回は逆走コースをとる。まず京都へ向かい、そこから東京を目指して歩く。京都へは夜行バスを利用した。車内で夜を明かし、京都へついたその日からすぐ厳しい真冬の歩きが始まる。
 荷物の軽減ということでテントは持っていかなかった。二月で一番寒い時期ではあるが寝袋だけでの野宿が十日以上続く。この夜行バスのリクライニングが最後の暖かな寝床となる。これからつらい毎日が始まるのだ。そう思うとこれからさき待ち受けていることがあれこれ頭を巡り、背筋がぞくぞくしてくる。
 この一番寒い時期に寝袋だけで大丈夫なのだろうか。そういえば数日前のニュースで東名高速の滋賀県付近で大雪で通行止めになったとかいってた。雪は大丈夫だろうか。前みたいに夜誰かに襲われることはないだろうか。
 先の見えない旅に出るときのこの種の不安感がたまらなく好きだ。自分が生きているということを実感できる瞬間でもある。不安は山とあるが、もうここから先は開き直りしかない。
 さて明日に備えて寝ておこう。そう思い隣のダイスケを見ると、彼はもうすっかり寝入っていた。
「明日からいきなりハードな生活がはじまるから、今のうちにしっかり寝とけよ」
 そうは言ったが、普通はなかなか寝付けないものである。案外どっしり構えた神経の持ち主なのかも知れない。
 実は二人で行動することを不安に感じる部分もあった。はっきりいってこの歩きの旅はきつい。一日中歩くということだけでも大変なのに、それに加えて寒空の下、野宿生活が強いられる。疲れて一日の行動を終えた後も心が休まる場所がないというのはかなりつらいものがある。それが十日以上続き、今回は特に寒さが二十四時間単位でつきまとうのだ。私はかつてこの悪条件にみごと敗れた。
 では今までごく普通の生活をしてきたダイスケにはどうだろうか。精神的に参ってしまうのではないかという心配があった。
 でもいまこうしてダイスケの寝顔を見ていると、(まあ、なんとかなるさ)、という気になってきた。そう、実際気にしてもなにも始まらないのだ。

2 長い旅のはじまり 迷いまくった一日目

 夜行バスは夜の明ける前に京都駅につき、旅の始点三条大橋には朝七時くらいに着いた。今まではこの橋を目指してあるいていたが、これからは逆に東京の日本橋を目指す。三条大橋は車通りの激しい大通りに架かっている。それでも木づくりの立派な橋で太い欄干には見事な擬宝珠(ぎぼし)がついていた。都会の中にも東海道は生きていた。都会に押し潰されてしまった日本橋とは大違いである。
 三条大橋に立ち、真っ正面を見据える。この先はるか五百キロ先に目指す日本橋があるのだ。この道を、この目の前の道をどこまでもいけばやがて東京へつながる。頭ではそうわかっていても感覚的には理解しがたい。ここは京都であって、東京は東京なのだ。数百キロという日常感覚にはない距離を身をもって確かめる、そんな気持ちで足を踏み出した。
 最初は足取りも軽く、すぐに京都府を抜け出してしまった。風は冷たく寒いが、テンポよく歩いているかぎりポカポカして暖かい。やがて琵琶湖のほとりの大津市に入る。ここはもう滋賀県となる。しかし大津に入ってからが大変だった。
 歩くコースは原則として旧東海道を歩いた。昔の人が歩いた道で現在なお残っている部分を歩こうというわけである。それはいまでも東海道として幹線道路で残っている部分もあれば、今はさびれた山道ということもある。したがって縦横無尽に走る道のうちどれが旧道かを見極めなくてはいけない。今までは一度旧道に入ってしまえば後は道なりにいけばよく、脇に入るとしても道なりのフラットな切り込みですぐにそれとわかった。
 しかしこの大津市内ではそうはいかないのである。道なりにいくととんでもない所へ出てしまう。地図上で旧道のトレースをみても九十度の角度で曲がる箇所がいくつもあり、さながらあみだくじのよう。その曲がり角に地図上の目標物 ―例えば郵便局や役所、学校など― があればどうってことはない。しかしそんなよい条件ばかりではない。大抵の場合は、曲がるポイントを遠く離れた別の目標からの距離や横切る通りの数から捜した。しかしそれも市街地図ではない地形図での作業である。誤差が多い。曲がり角を見極めるのが難しく何度も道に迷った。最初は小気味よくスタートしたが、このころになるとさすがに足取りは重く背の荷物はずっしりと堪えた。
 そしてこの複雑難解な大津を抜け出す頃には心身ともにズタボロになっていた。
 大津の次の宿場は草津である。実は出発前からダイスケと話していた。「途中温泉があれば多少寄り道になっても寄っていこう」と。そしていま大津市内で疲れた体を引きずって草津へはいる。草津といえば歌にもなっているほどの有名な温泉地。安い公衆浴場のようなものがひとつやふたつあるだろう。そうした期待を胸に草津へと入った。しかし歩けど歩けど温泉の湯煙も温泉旅館の看板も見当たらない。そしていつしかただの住宅街を歩いていた。
(おかしい、こんな有名な温泉街、しかも街道ぞいを歩いているのになんにもないなんて……)
 ふたりしておかしいおかしいと言いながら、ここでやっと気付いた。温泉の草津は長野県(群馬?)の草津であった。そうだ、よく考えれば、いやよく考えなくたって草津は信州である。そんな単純なことにふたりして気付かなかったなんて……。ふたりの甘い期待は裏切られ、再び脱力感を感じながら先を急ぐのであった。
 ちなみにこの草津というのはかつての中山道(なかせんどう)と東海道の分岐点があったところとして知られている。江戸時代の日本の中心は江戸であったが、朝廷は京に御所を構えていた。また天下の台所としての大阪も京都方面である。それらの東西を結ぶ幹線としてあったがの中山道と東海道である。京と江戸を結ぶのは同じなのだが、中山道はその名の通り日本の内陸部を通り、東海道は太平洋の海沿いを通るものだった。東京から出て、それらはここで合流し、京へと至る。その分岐点には現在も立派な常夜燈が残されている。まったくの余談になるが、かつて旧中山道(きゅうなかせんどう)と読むところを、どこかのテレビ局のアナウンサーが「いちにちじゅうやまみち」と誤読して話題になったことがあった。
 さて、草津を抜けると、あたりは完全に田舎となり、さびしい道が続いた。国道からは離れ、細い道の右手には山裾がせまり、かたや広大な田が広がっている。道路わきには民家もなく、とうぜん道行く人も車もない。
 そしてもう日が暮れていた。歩き始めて最初の日没である。もともとのうらさびしさに加えて闇がそれをいっそう引き立たてた。
 日が落ちるだけで随分と気の持ち様も変わるものだ。昼間はあまり感じなかった「淋しさ」が強く全面に出てくる。今回は二人連れなので淋しさとは無縁かと思っていたが、けっしてそんなことはなかった。独りのときのようにそれが致命的な障害になることはないかもしれない。それでもそれが全身に与える影響は大きなものだった。
 日が暮れたころには一日の最低歩行距離として定めた四十キロを過ぎていたので、もうどこに泊まってもよかった。しかしこんな寂しいところで夜を明かす気にはなれない。ふたりともなにものかに追い立てられるかのように足速にそこから立ち去ろうとしていた。ダイスケなんかは、さっきから終始足の裏が痛いと訴えていたのだが、それでも今は信じられないような早さであるいている。小走りに近い。やはり彼も闇への不安を感じているのだろう。
 道はどんどんさびれた場所へ向かっているような気がする。周りは依然としてさびしい道。足のほうは昼間からすれば信じられないようなはやさで動いているはずなのにちっとも距離を稼げない。どこまでいっても変わらぬ風景に心はたえず苛ついていた。まわりに腰を下ろせそうなところはないし、あったとしても体を休めようものなら、すぐに強烈な寒さ・冷えに襲われる。
 やっとの思いでJR駅のある三雲に着いた。このさき五キロほどの所に水口という城下町があるのだが、とてもそこまでいく元気はない。ここが限界だった。この三雲は思ったより開けていて、無人駅ではなかった。駅に泊ろうという当てが外れて、苦労したあげく見つけた今夜の寝床は、銀行の軒先。
 このころのダイスケはいうと、もう完全にキていた。手はだらんと前に垂れ下がり、今にも倒れそうな姿でヨタヨタと歩いていた。もともとおしゃべりなダイスケであったが、このときばかりはもうしゃべる気力さえも尽きたようだ。
(………こんなところへ泊まるの?)
 彼は内心、ギョッとしたに違いない。初めて経験する野宿がふきっさらしの銀行の軒先なのだから。まともな神経が残っている初日にしては刺激が強すぎたかもしれない。
 でもさすがに嫌だとは言わなかった。いや、言えなかったのだろう。なかばどうにでもしてくれといった様子で力無気に荷物を下ろしていた。
 食事は途中のドライブインで済ませていたので、すぐに寝る支度を整えた。銀行の正面玄関の前を堂々と陣取って断熱マットを敷く。そして寝袋を広げて潜り込んだ。私は疲れもあってすぐに寝入ってしまった。時刻は夜十時すぎであった。

3 吹雪きに見舞われた鈴鹿峠

 翌朝、ダイスケに揺り起こされた。時刻は六時頃だった。あたりはうっすらと明るくなりはじめていた。私は朝が弱い方なので、早起きの人がいるととても助かる。…と思ったら、どうやらそうではないらしい。ダイスケは早く起きたのではなく、寝られなかったのだそうだ。
 やはり初めての野宿にしてこの環境は彼には酷だったようだ。一晩中あたりが気になり、疲れた体とは裏腹に神経は張りつめ寝つかれなかったと言っていた。このときは本気で帰りたい、もうやめたい、と思ったという。しかしそれは後日聞いたはなしだ。その場では決して弱音は吐かなかった。彼の態度を見ていればどれだけつらいかはよくわかる。ずいぶん辛抱しているなとは思ったが、やはり大きな葛藤があったようだ。
 私は睡眠のお陰ですべて快調だが、寝られなかったという相棒のことが気になる。彼のペースに合わせて歩き始めた。
 すぐ近くの三雲駅の構内のベンチで朝食のパンを食べる。寒い時期はこうした駅などが格好の休憩所になる。風が防げるだけでも随分ありがたい。
 歩き始めてすぐ、水口宿へ入る。かつての城下町で落ち着いたたたずまいの町並みが広がる。同じ城下町でも小田原のように大きいとい完全な都会の雰囲気になってしまい、どうも味気ない。しかしこの規模(二万五千石だったそうだ)だと今日においても昔の名残がふんだんに残り、歴史的な重みと近代的な活気がほどよくミックスされている気がする。全体的な暖かみから好感が持てるなかなかよいところだった。
 水口をすぎると、国道をなんども交差しながらひとけのない道が続く。時折車だけが脇を走り抜けていく。
 国道に沿う道を少しはずれると土山宿へと入った。旧家の立ち並ぶ閑静な町並みが続く。昔の宿場町だったこの町は現在においても街道に沿って細長く町並みが広がっていることが多い。ここ土山もそうだった。
 このような通りに入ると気持ちはほっとする。生活感溢れる様子に暖かさが感じられる。東海道を歩いていると、その大半は車だけが走り抜けていく寂しい国道か、車さえも通らない裏道だ。それらは自動車専用道路のようで両脇には民家などは見られるない。あるのはひたすら前に延びる道路と山だけ。車は見かけても人の姿をみることはまずない。そんなところを歩き続けると気持ちはどんどん沈んでいく。車と道路という近代文明の姿を見ることはできるのだが、そこには人間味がまったく感じられず、冷たいコンクリートジャングルにひとり取り残されたような淋しさを感じる。
 道脇の家の掃除機をかける音などを聞きながら、和やかな気分で土山宿を歩く。
 土山もはずれにきた頃だろうか。地元の人に声を掛けられた。街道に面した家のガレージで車の掃除をしていたおじさんが顔を上げた。
「あんたたち、そんな大きい荷物を持ってどこへ行くんだ? 山を越えるんかい?」
 一語一句は覚えていないが関西訛りでそうはなしかけてきた。この先には難所として名高い鈴鹿峠がある。そのことをいっているのだろう。訛りのせいもあって理解するまで少し時間がかかった。そして答えようとして口を開く前に、続けておじさんはこういった。
「山まではかなり距離があるぞ。山の下まで送ってってやるから車に乗りな」
 歩きはじめて二日だが、このような親切な言葉をかけられたのは初めてだった。しかしそう言われたときはどう返答していいものか迷った。車に乗せてもらえば確かにうれしい。それに地元の人と接するいい機会にもなり、それは旅を豊かなものにし、いい想い出にもなるだろう。しかしその反面、五百キロ全部あるくと誓ったのはどうなるんだと考えた。
「別に歩いていかなくちゃいけないわけはないんだろ?」
 おじさんのその言葉で決意は固まった。そうだ、自分には歩いていかなくてはいけないわけがあったのだ。理由なんて言えるものではないかもしれないが、一度は誓ったのだ。なにがなんでも歩き通すと。
 相棒の顔を伺うと彼もそういっているように見えた。
 おじさんにはこっちの決意を話、気持ちだけでもうれしいと何度もお礼を先へ足を進めた。この先の道は足取りが軽かった。中途半端に休憩するよりは、このように人の暖かさに触れるほうが数倍気分がリフレッシュする。
 お天気雪―お天気雨ならぬ、お天気雪が存在するのだ。鈴鹿峠に入る手前でそいつに遭遇した。最初はなにかと思った。空は見事に晴れわたり、太陽はまぶしいくらいだった。それななのに小雪がパラつき、しまいには無視できないほどの本降りとなった。体には太陽があたってポカポカしているのに目の前には紛れもない雪が降っている。ミスマッチも甚だしい。不思議な体験だった。
 そして雪は鈴鹿峠で急に勢いを増した。鈴鹿峠越え(自然歩道となっている)の真っ最中で、空は真っ白に染まってゆき、完全な吹雪となった。そして周囲の山々も見る見る雪景色に染まっていった。あまりの変化の速さにしばしみとれてしまうほどであった。
 雪で覆われた山道を慌てて先へ急いだ。
 峠を下り、再び人の気配が感じられたのは関宿だった。突然に立派な町があらわれた。この関宿はたいへん印象深い町だった。東海道五十三次の中で一番といってもいいほど宿場が感じられる。旧道ぞいのメインストリートには木製の日本建築が軒を連ねる。さながら宿場の町並みである。それらの多くは実際に江戸時代からのものであるし、最近造られたとおぼしき郵便局の建物さえも、昔ながらの造りになっている。今まで街道ぞいに江戸より伝わる旧家というのがあることはあったが、ここでは表通りはすべてそうなのである。まさに圧巻だった。しかし残念なことにここを通ったのは夕方六時頃、もうすっかり日が暮れたあとで、町並みを観賞するというには及ばないほどの駆け足だった。こんどこの町を見るためだけに訪れたいと思える場所だった。
 またこの関宿には〈伊勢道分岐点〉がある。時代劇などでもよく耳にする伊勢参りは、江戸から東海道をえっちらおっちらと来てここから伊勢へと分かれる。伊勢への分岐点には大きな鳥居が掛かっていて、常夜燈や道標など昔の面影が残っているという。しかしあたりは暗くそれらを確認することはできなかった。
 二日目もフラフラになりながら、寝床を求めていつまでもあるき続けた。その日見つけた寝床は、これまた銀行の軒先だった。亀山という今迄からするとかなり都会の商店街の中にある銀行。そこは明日にでも開店なのか駐車場に紅白の垂れ幕によるテントがあった。ちょうど道路からは中が見えないようになっている。そこにもぐりこんで夜を明かした。こんな布切れ一枚であっても周りから遮断されているというのは心強いものである。

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 急に内輪話っぽくなりますが、実はここまでの分を書いたのは旅行が終わってすぐの頃なんです。その当時は記憶も鮮明で詳細な点まで延々書いています。しかしそれが完成する前に大学が始まってしまって、事実上執筆がストップしていました。そして落ち着きを取り戻し、再び筆を取ったのは初夏も近くの頃でした。そのときはもうすでに書き始めた当時ほどの記憶は残っておらず、最初のペースで書き続けるのは困難に思えました。
 記憶は忘却の彼方へという感じで、印象深かった点しか残っていません。もうさすがに最初のペースを維持するのは諦めました。
 あまりに中途半端で、読んで下さる方には申し訳ないのですが、ここから先特に記憶に鮮明な部分だけをかいつまんで書かせてもらいます。

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 四日市―あの喘息で有名な都市も、実はかつての宿場町だった。京都、そして大津を過ぎるとずっとさびれた田舎ばかりで、本格的な都会の様子が不思議と懐かしかった。
 しかしやっぱりそこは四日市。市街に入る直前の道が比較的高地になっていて、市の様子が一望できた。煙突が並び、こころなしか空気全体に黒いスモークがかかっているように見えた。気のせいかも知れないが、やはり四日市だなと思った。
 四日市の次は桑名。ここは焼き蛤で有名である。

「その手は桑名の焼き蛤」

 どうやら今でも名物として有名らしいので、今日の夕食はそこで食べたいと相棒にいった。しかし相棒の返事は
「オレ、はまぐりって好きじゃないんだよ」
 お互いに蛤を食べようって気があれば、二人して一生懸命安い食堂をさがすだろう。でも乗り気じゃないものを引っ張り回してそうするわけにはいかない。諦める。でも悔しいからローソンで焼き蛤の缶詰(どこでも売ってる普通のヤツ)を食べた。
 この日は歩き始めて三日目。歩きながらずっとあたりに銭湯はないかと注意していたのだが、三日目にしてやっと銭湯を見付けた。四日市と桑名の中間くらいだった。そのとき時刻はまだ四時くらいだったが、疲れも手伝って寄っていくことにした。最高だった。風呂に入るというのがこんなによいものだとは思わなかった。別に風呂に入らなくて不快だったと言っているのではない。体が休まるということだ。二十四時間ずっと寒さに苦しめられていて、それからやっと解放されたというのが大きい。歩いている途中いくら休憩する時間があっても、それとて寒さに震えながらで本当の意味で休まることなんか一度だってなかった。そんな意味で幸せをかみしめながら結局二時間くらいはそこにねばっていた。その間脱衣所においてあるザックが目立ったようで、地元の人との会話が弾んだ。さすがにここらへんまでくると「京都から歩いてきた」といってもなかなか信じてもらえず、相手の驚いた顔を見るのはなかなか快感だった。
 風呂を出たらもう歩く気はしなかった。その前に靴を履くのが嫌だった。そのときは靴ずれこそはないものの、連日の発汗で靴の中はびちょびちょ。蒸れるもいいところで強烈な匂いを放っていた。せっかく足を洗って真新しい靴下に換えたのにまた汚い靴に足を入れなくてはいけないなんて。
 でも寝床まではあるかなくてはいけない。桑名市まで入り、そこで見付けた二十四時間のコインランドリーで洗濯をした。風はこないし、ベンチまであるからそこで泊まってしまおうとか思ったが十一時にも関わらず人は結構くるし、監視カメラまでついている。やむなく近くにあった桑名市役所の屋根つきの駐輪場で泊まった。
 かつて桑名から次の宿場〈宮〉までは、陸路ではなく舟で渡っていた。〈七里の渡し〉というやつである。その距離七里つまり二十八キロもある。昔の人だって交通機関に頼った部分なんだからうちらだって電車に乗ってもインチキではない、とか思ったのだが、頑張って歩くことにした。かつての船のルートに一番一番近いであろうと思われるコースを取った。そのほとんどの部分が河口にかかる橋で、脇にはトラックがひっきりなしにはしりグラグラ揺れる。殺風景だし、風は強くて寒いし、散々のコースだった。
 しかし唯一うれしかったのは、JOMOのガソリンスタンド。なんとここには無料の休憩室が解放されていた。もともとは長距離のドライバー向けなのだろうが、ベッドが二つ、立派なふかふかのソファとテーブル、そしてシャワーまで無料で使える。もちろん中は暖房がきいていて最高だった。ここにたどり着いたのが昼少しまえだったのが悔やまれた。もしここに来たのが夕方であれば、間違いなく泊まっていっただろう。なにせベッドまであるのだ。ふかふかのベッドに暖かい暖房。悔しかったが、昼食を食べるだけにとどめて先を急いだ。
 橋を渡りきると名古屋市内に入る。この日の宿は名古屋市にあたる鳴海宿のふたつ先の宿場、知立にとった。昨夜とおなじ市役所。それも今度は軒先に堂々と寝袋を広げた。市役所は昨日の経験からして安全という勝手な確信を得ていたので堂々としていた。
 しかしそれがいけなかったか、夜半過ぎ、とつぜん赤色灯をともしたパトカーが現れたのだ。単なるパトロールかと思いきや、まっすぐこちらへ向かってくる。敷地内に乗り入れ、うちらのすぐ前まできて、とまるや否や警官がとびだしてた。
「なにしてる?」
「野宿です」
「そうか…、寒いから気をつけろよ」
 警官はそういうと来たときとおなじく慌ただしく去っていった。
 残されたうちらはポカンとしていた。あまりにあっけなさすぎて……。
 だってそうでしょう。野宿してるのは見たまんまなんだから。普通はどこから来たとか、身元証明とかきかれるもんでしょ。それがなんにもないなんて。
 私だってとりあえず、野宿です、なんて答えてしまったけどそれで納得してもらえるとは思っていなかった。「高校の自由登校期間を使って東海道を旅してる。京都から歩いてきた。勝手に市役所の敷地に入り込んで申し訳ない。でも決して迷惑はかけないから一晩だけ泊まらせてほしい」、そこまで説明してやっと納得してもらえるだろうと思っていた。場合によっては家に電話されるだろうな、とも覚悟していた。
 まあ、こっちにとってはよかったわけだが、すこし物足りなさも感じた。パトカーに乗せられて補導でもされれば、それまた旅の土産話にでもなるのではないかと思ったのだが。
 後にも先にも、旅の最中、職務質問にあったというのはこれきりである。(実際かなりアヤしいことをやってる気がするんだけどなぁ)
 この職質にあったのが二月八日、四日目の夜のこと。この日あたりから先はほとんど記憶にない。残念なことに地図をみてもなにも思い出せない。きっとそれほどに疲れていたのだろう。おぼろげながらの記憶では、ただ歩かなくてはいけないという惰性だけで、無意識のうちに足を動かしていた気がする。
 そんなわけで話はとんで六日目。前日泊まったのは豊橋の市街地のもろどまんなかにある吉田城という城跡の公園。そこの中の美術館の軒先。豊橋駅のすぐ近くということもあって人的被害危険度百パーセントに近い場所だった。そんな場所でびくびくしながら泊まったせいか、相棒のダイスケは朝から不調を訴えていた。とてもつらそう。精神的に休めない、といっていた。昨日あたりから風邪気味だといって薬を飲んでいたが、それもあまりきかなかったようだ。
 無情なようだがそれでも歩く。もっともこんな旅で不調を訴えたところで、本当に体が休まるところなんかあるわけないのだ。どうしても歩けなくなる手前で、自分からリタイアして帰らなくてはいけない。それは旅を始まる前にまえもって話し合っていたことだ。
 本当にふだんはおしゃべりのダイスケだが、終始無口。きっと心の中でものすごい葛藤が起きてるんだろうなと分かる。もうその葛藤もすぎて思考が残っていないのではないかとすら思える。
 浜名湖の手前の汐見坂のドライブインで、奮発して九五〇円のカツ丼を食べる。この汐見坂は京から東海道をのぼる場合、初めて富士山が見える場所として有名。それに坂の上から見る遠州灘の眺めが素晴らしい。ずっとせせこましい道を歩いていると、この海の雄大さがすがすがしく感じられる。その眺めを満喫できるドライブインでゆっくりとした昼食。食後もお茶が何杯もお替わりできるのをいいことに、会計はまだかとちょろちょろ見にくる従業員を尻目に、新聞をゆっくりと読んで寛いだ。しばらく(といっても一週間弱だが)マスメディアに触れていないので、首相暗殺とか、宇宙人来訪なんて記事がないかとわくわくして新聞を手にとったが、特に目立った記事はなくて残念。
 さてついに浜名湖。江戸時代、浜名湖の交通は渡しに頼っていた。江戸方面から舟に乗ってつく先が、なんと関所の構内であった。つまり今の横浜などの国際港のように船を降りるとまず入国審査(?)があり、それをパスしない限り港すら出られなかったのだ。その関所〈新居の関〉が復元ではなくそのまま残されているという。立ち寄りたいと思ったが、疲れもピークに達し、一歩たりとも余分に歩く気にはならなかった。素通り。
 長い浜名湖にかかる橋を渡り、舞阪宿の静かな通りを歩いているときのこと。小さな商店の前で窓拭きをしていたおばさんに声をかけられた。京都から歩いてきたというと、
「あんたたち、ちょっと待ってなさい」
そういうと店の奥に引っ込み、酒のつまみのような割きイカとかきピーを持ってきてくれた。そして、
「あんたー、東京まで歩くんだってよー」
と店の中に叫ぶと、「おお、そうか」、と御主人らしき人もでてきた。
 そして二人して見送ってくれた。なんだか知らないけどすごくうれしかった。
 この日、精根尽き果てたといった感じで浜松市に辿り着いた。もうかなり夜遅かった。今までの勘を頼りに市役所を訪ねてみるが、さすがは大都市。夜間受付けなんていう窓口もあり警備員もうろちょろしてる。とても軒下で泊まるなんてふんいきじゃない。
 やむなくその裏に回ると、そこは公園になっていて、軒の広くせり出した美術館があった。そう言えば昨日も美術館泊まりだったなと思いながらも、そこを寝床に決めた。
 私はさっさと寝てしまったが、そこが少し人通りがある所だったせいもあってダイスケは寝られなかったようだ。夜中に何人か人が近付いてきたという。ついでにこんなことも言っていた。「夜中にお経みたいのが聞こえて来て気持ち悪くて寝られなかった」、と。
 朝方、公園内をみてみると、美術館の少し裏手の方に、「太平洋戦争の戦没者がどうのこうの」という碑があって、なんとか部隊の何十人かがここに眠ると書いてあった。
 私の耳にはなんにも聞こえなかったし、場所的に夜中にお経が聞こえてくる真っ当な理由はどこにもない。でも彼には聞こえたそうだ。
 不調を訴えながらも無理して歩いて、しかもろくすっぽ寝られなかったダイスケ。ちょうど歩き始めて一週間目の朝である。浜松市といえば距離的にいっておおよそ全行程の半分となる。二百五十キロ。
 朝、人がくる前には撤収しなければならないので、朝七時頃には出発した。そして最寄りのコンビニで食事をとることにして、ひとまず歩いた。浜松市内だというのに不思議とコンビニに巡り合わない。八時すぎ、やっとサークルKを見付ける。そこで弁当を暖めてもらい、店前の駐車場に腰を下ろして、ようやく落ち着いた。
 そこで、朝からずっと無口だったダイスケが口を開いた。
「もう、だめだ。二日前から続いてる風邪がちっともよくならない。よけいひどくなってる。やっぱり夜ちゃんと寝られないのがいけない。もう限界みたいだ」
 ギブアップだった。確かにここ数日、見ていて本当につらそうだった。浜名湖の橋を渡っているとき、そのままふらっと橋から落っこちてしまうのではないかと心配したほどだった。でも彼なりに、五百キロのうちの半分という区切りまで耐えた。日数も一週間。決して半端ではない。
 八時四十七分。彼は浜松駅行きのバスに乗り込んだ。帰る間際、なんどもゴメン、ゴメンと繰り返した。
 後日、聞いたところ、彼は家につくなり高熱を出し(もしかしたら旅行中からかもしれないが)、結局一週間くらい寝込んだそうだ。
 よく耐えたと思う。それにその帰ると決定した勇気もすばらしいと思う。二、三日で、すぐに帰るというならまだしも、一週間歩いてきて、それで帰るというのはなかなか言えるものではない。でも結果的にその時期にリアタイアしたのは正解だった。あのまま無理してたら間違いなく行き倒れ(?)になったことだろう。それこそおおごとになってしまう。最後に彼は、「いつか絶対日本橋まで歩いてやる」と言っていた。
 こうして、私は一人になった。
 二人でいると、話したくもない時に話さなくちゃいけなかったり、食べるもので意見がわかれたりと面倒くさいこともあった。でもやっぱり居てくれるおかげで、夜、寝るときはすごく安心できたし、道を大幅に間違えて気落ちした時も比較的すぐ立ち直れた。彼にナビゲートしてもらい、私はなにも考えずについていくという、独り旅では考えられないような楽もさせてもらった。
 彼が去った後、私にとってはごく当たり前の状態に戻ったにすぎないのに、彼がいないことの意味を切々と感じた。
 別れ際の彼には、「まあ、もともとは一人でもやるつもりだったことだから、私のことは気にしないで安心して体を休めて」なんてことを言ったが、本当は私も帰りたかった。
 なんだかポンと突き放されたような感覚で一人歩く。浜松の次の宿場は見附である。誰も声をかけられる人がおらず、不安になって道行く人に尋ねてみる。
「見附へ行くにはこの道でいいんですよね」
「ああ、まっすぐ行けばすぐ磐田(いわた)だよ」
「……?」
 そう、見附というのは昔の呼び名で、今では磐田市なのだ。そして磐田といえば、あのサッカーのジュビロ磐田。別にサッカーに興味があったわけではないが、バンダとでも読んでしまいそうな磐田がこんなところに位置したとは知らなかった。実はこの磐田とはちょっとした因縁がある。おととしの一月。私は京都を目指して東海道を歩いていた。ちょうど一月一日だったか、静岡県の岡部宿というお茶畑の広がる山村にさしかかったとき、寿司屋を営む親切な家族のもてなしを受けた。そのとき御節料理を御馳走になりながら話してくれたのが、ジュビロ磐田の中山選手のことだった。なんでもその岡部の出身だという。そして私が歩いてきた街道ぞいにその実家があったという。私はサッカーなんか興味がなかったからちっとも話がわからず、なんとなく相槌だけ打っていたのを記憶している。
 磐田駅前のアーチのかかった近代的な商店街は、ジュビロ磐田の旗で一色に染まっていた。
 掛川についたときはもう日が暮れた後だった。掛川―そう、先回の旅で挫折した場所である。これでついに東海道のすべてをこの足で踏んだことになる。
 見慣れた駅前に立つと、おととしの記憶がよみがえってくる。あのときは帰りたいという一心だった。そして今は……、やっぱり帰りたい。
 今朝、相棒と別れたばかりだ。しかも今までの歩き方を考えると、つまり日本橋を出発して細切れで歩いていたことを考えると、現時点でも一応東海道を全踏破したと言えてしまう。ここで電車に乗って帰ったところで、東海道全踏破したことに偽りはない。そんなどっちでも取れてしまう自由さが大きな葛藤となった。
 どっちみち、今日はこの掛川で泊まることはもう間違いない。ここで一晩ゆっくり考えて明日決めよう。そう思い、とりあえず銭湯さがしをはじめた。先回、風呂に入ったのが四日前の桑名だった。あのときの極楽気分が忘れられずその後もずっと銭湯を探しながら歩いていた。でもちっとも見つからず、あったとしても営業時間に合わず入ることができなった。そこでこの掛川であれば大きな町だし、雰囲気からしてかならず銭湯があるものだと勝手に確信していた。
 道行くおじさんに聞いてみた。
「たしか○○町に一軒あったはずだな」
すこし遠いががんばって行ってみる。なにせ今日は小野町でゆっくりすると決めたのだ。途中にあった交番で詳しい場所を尋ねた。
「ちかくに銭湯があると聞いたんですが?」
「ああ、もうとっくに潰れたよ。ずいぶん前のことだよ。あんた誰にそんなこと聞いたんだい? もう十年ちかく前だよ。この町に銭湯っていうのはもう残ってないぁ」
 期待が音をたてて崩れるというのを経験した。それでも食い下がってきいてみる。
「それじゃあ、ちょっとくらい遠くていいですから、どこか教えてください」
警察官は電話帳を調べてくれた。そして……
「いちぱん近いのはとなり町の島田だな。そこには何軒かある。でもかなり遠いぞ」
 言われずともわかる。島田といえばここから三つ先の宿場だ。距離にしたら一五キロ以上あるだろうか。なんでこんな大きな町に銭湯の一軒すらないのか。無性に苛立ちを覚えた。
 それでもあのお湯のぬくもりが忘れられない。十五キロといえば、うまくいけば三時間かからない。今が六時をすこし過ぎたところだからなんとか間に合う。
 そう思ったら最後、疲れなんて何のその、勢いだけで歩き出してしまった。しかしすぐにそれは後悔に変わった。掛川から島田まではほとんど民家もない寂しい峠道なのである。すぐにあの明るい掛川市街が懐かしくなってしまった。これからどんどん明かりから遠ざかって行く。
 しかもこれから歩くルートは東海道で一、二を争う哀愁のある道なのである。のどかなお茶畑の一本道といえば聞こえがいいが、夜歩くにはちょっとハードだ。しかもここには夜鳴き石伝説というのが残されている。妊婦が山賊に殺されて、女の霊が石にこもって毎晩泣き、その子供は水飴で育てられて大きくなって親の仇を討ったという伝説である。街道のいちばん寂しい場所に今も夜鳴き石が残っていて、しかも近くには子育て飴という名物すらあり、その場に立たされているぼくにはあまりにリアルな話だった。
 つまりは怖かったのだ。いいわけがましいが、ふだんはそんなものは屁ともおもわない。でもそのときは怖かった。そこは以前反対方向から歩いたときの雰囲気でもあまり好ましく感じなかったくらいだから夜ひとりでなんか絶対歩けない。恥ずかしい話だが、そこを迂回して国道一号沿いを歩くことにした。しかしそれとて寂しい車さえほとんど通らない暗い道。あたりは一面の山。ちょうどこの山のうえに夜泣き石があるんだろうなと思うと、それだけで怖かった。
 いつしか道路脇の歩道がなくなって、路肩をとぼとぼ歩いていた。街灯すらほとんどない。震える手で冷たく冷えきったミニマグライトを握り締めていた。もともと昼間でさえ人なんか滅多に通らない道。時折車がすごい勢いで走り抜ける。このライトがなければ命の一つや二つ落としていたかもしれない。
 いつのまにか国道一号線は自動車専用道路になっていた。雰囲気的に完全にバイパス道路のようで人の歩く余地は完全になくなっていた。歩道もなにもない長いトンネルをいくつも抜けて峠を越えると島田の街の明かりが遠望できた。しかしどうみても今日中にそこにつくのは不可能に思えた。しかしこの国道を歩いているかぎり島田付近まで行かないと一般道路に下りられそうもない。これは埒があかない、とガードレールを乗り越えて急な草地の斜面を下り、下に広がる農道へおりた。もう銭湯なんかあたまになかった。いまはどこでもいいから寝られる場所がほしかった。やがて畑の一角にゲートボール場を見つけ、そこの小屋に潜りこんですぐに眠りについた。
 朝起きると地元のお年寄りがゲートボール場の掃除をはじめていた。無断で小屋に入り込んだ手前、人に見つかるまえに出発しようと思っていたのに迂闊だった。おそるおそる近づいて、おはようございます、と声をかけた。そしたら意外、「おはようさん、昨日はよく寝られたかぇ、寒くなかったかい」と優しく声をかけてくれた。
 無断で小屋に入ったことを詫び、ここから島田へ行く道を聞いた。そしてゲートボールに集まってきたみんなに見送られながら気持ちよく出発した。
 あのジュビロ磐田の中山某の実家があるという岡部へ差しかかった。あのとき親切にしてくれたお寿司屋さんはあのときと変わらずそこにあった。
 かつての礼を、と思ったが、なにも手土産になるものがないこともあって気後れしてやめた。なんだかお礼に行くというよりは、またなにかご馳走してもらいにいくような気がしたから。一年以上も前のことだし、むこうも覚えていないだろう。以前のように店先にあのおばさんが顔を出していたら一声かけようと思いながら通りすぎたが、そんな偶然は起きなかった。
 安部川を渡って静岡市内に入った。かつてここで親切な警察官に出会っていろいろと良くしてもらった思い出の地である。そのとき警察官に教えてもらった銭湯をまだ覚えていた。時間は早い気もしたが、桜湯へ足を運んだ。ここでやっと念願の風呂に入ることができた。至福のひととき。
 最近の銭湯というのは随分と変わった。昔は湯船が三つくらいあって、ひとつがふつうの湯、そして熱めの湯、さらに茶色や緑色をした入浴剤入りの薬湯というのが基本だった。(少なくともぼくの経験上では)
 それがいまではバブルジェットとか電気風呂なんていうのがあたりまえになっている。いずれにしてもつかれた体を癒すにはたいへん好都合だった。
 ついでだから電気風呂について書かせてもらおう。知らない人のために書いておくと、これはつまり入ると痺れるのである。人ひとりくらいしか入れない小さな湯船で、その両脇に電極がある。湯に手をつけるとビリビリとかなりの刺激がある。
 ぼくはしばらくの間、この電気風呂に全身を漬けることができなかった。これをはじめて経験したのは学校がえりに友人といった銭湯だった。なにも知らずに飛び込んだら、あまりの刺激に全身の筋肉がつり、動けなくなってしまった。そのときは友人に助け出されたが、そのこともあってしばらく恐怖症に陥っていた。他の人が平気な顔ではいっているのを不思議に思ったものである。
 しかしこの静岡で入った電気風呂でついにその攻略法を見出した。風呂の真中で縮こまって入ればよかったのだ。両脇の電極に近づけば近づくほど刺激が強くなる。だからいちばん弱い真中付近で小さくなっていれば兆度よい刺激になるのだった。
 この電気風呂というのは画期的なものだと思った。バブルジェットの外部からの刺激と違って、体の芯までマッサージされている感じがする。どれだけ効果があるのかはしらないが、冷えて凝り固まった筋肉がすべてもみほぐされるみたいで気持ちよかった。
 風呂でゆっくりして、頬を上気させながら銭湯を出ると、外は雨が降っていた。歩き始めて吹雪には見舞われたが雨は初めてのことだった。これからこの雨の中、しかも静岡市街という悪条件の中、寝床を見つけなくてはいけない。ひとまず郊外に出なくてはと思い歩き始めた。しかし郊外に出るまえにベストポイントを見つけた。それは廃業したロイヤルホスト。一階が駐車場で二階が店舗という典型的なファミリーレストランだ。店舗へあがる階段の裏側がちょうど陰になっていて人目も雨も防げる。国道沿いでうるさかったが、逆になにかあったらいつでも助けを呼べる。
 雨が吹き込むこともなく結果的になかなかの場所だったのだが、唯一気になったのは朝起きたらナメクジに囲まれていたこと。マットに数匹のナメクジが這っていて、なんと寝袋の中にも一匹入り込んでいた。

 話は飛んで十日目、箱根峠。この日は箱根の手前の三島で泊まるつもりだった。しかし三島についたのはまだ夕方の四時。この先は歩きなれている道ということもあって果敢にも峠道へ足を向けてしまった。いつでも峠道が寂しいのは世の常。そんなことわかりきっているのになぜか夕刻に峠へ向かってしまう。そしていつも後悔するのだ。やっぱり止めておけばよかったと。このときもそうだった。
 箱根峠のピークの四キロ手前、国道一号線沿いを歩いていたが、当然あたりを歩く人はおらず、登りはきついし、泣きたい心境だった。
 時折脇を車が走り抜ける。ちきしょー、あいつら車なんかで楽しやがって、八つ当たりみたいなことを口走ってしまう。するとそれが聞こえたわけでもあるまいが、一台のセダンがすこし前方で停まった。ひとりの男がありてきてあたりで不自然にタバコをふかしているのが見える。あたりは真っ暗、景色が良いわけでもない。人が降りてくる理由なんてどこにもない。
 ちょっと怖かった。どうしよう、そう思いながら車の脇をおそるおそる通りぬけようとした。
「ちょっと!」
声をかけられた。
ぼくは身を引き締めた。暗がりで相手の顔は見えない。
「どこいくの?」
「東京まで」
「そうか、ちょうどよかった。私もこれから東京へ行くんだ。乗りなさい」
「へっ!?」
まじまじと相手をみると、五〇代くらいの品のいいおじさん。いままで怖いおにーちゃんをイメージしていたがそんな姿はどこにもなかった。
「いやー、こんな寒い中たいへんだなと思って待ってたんだよ」
 なんと世の中にはいい人がいるものだろう。感激した。
 しかしあとわずか一〇〇キロ、それで東海道完全踏破がなるのだ。本当にありがとうと礼を言いつつ、事情を説明して申し出を辞退した。
「そうか、それならがんばりなさい。でも体には気をつけて」
 このことで勇気づけられて峠までの残り四キロの足取りは軽かった。
 箱根峠についた。とりあえずドライブインに入り、カレーを食べながら今日の寝床を考えた。ドライブインの向かいに、かつてはレストランだったと思われる廃墟があった。そこに潜りこんで世を明かそうとひそかに思っていたのだが、隣の席のトラックの運ちゃんの会話が耳にはいってきた。
「……ああ、あれが有名な幽霊屋敷か」
「なんでも壊そうとするたびに事故が起きるんで、ずっとほったらかしらしいぜ」
 幽霊屋敷! 詳しい話はよくわからないが、それを聞いてすぐにやめた。あの夜泣き石のことが思い出される。
 あきらめてもう少し歩くことにした。たしか芦ノ湖の脇のバス停に待合室があったはずだ。そこを目指すことにした。
 ドライブインを出るとあたりに霧がたちこめていた。五メートル先も見えない。寂しい峠に幽霊屋敷、しかも深い霧。あまりにある種のシチュエーションが整いすぎていた。もうイヤだ。叫びたい心境だった。でも叫んだところでよけいに恐怖心をあおるだけだろう。
 なにも見えない広い道路に自分の足音だけが響く。やっと芦ノ湖畔の人の気配のある場所に出た。ほっとした。そして目をつけていたバス待合室。これでやっと寝られる! そう思ったのも束の間、中には毛布にくるまった先客が横たわっていた。なんでこんなときにかぎって。
 悪態をつきながら、半ばどうにでもしてくれといわんばかりにふてくされて歩きつづけた。この先泊まれそうな場所といえば、一時間ほど下ったところにある畑宿(はたじゅく)しかない。以前そこの休憩所で夜を明かした記憶がある。さすがに山の中をとおる石畳の歩道を歩く気にはならない。かといって自動車道のほうにもお玉が池が控えている。お玉が池というのは、昔理由あってお玉という女の人が身投げした池と聞いている。どちらにしてもあまり気味のいいものではない。どうしてこうもよからぬ状況が揃いすぎているんだろう。
 あまり周りの様子を見ないようにしながらお玉が池を通りすぎた。そしてひとまずほっとしたところで、こんどははるか先からイヌの遠吠えが聞こえてきた。なんかイヤなかんじだなぁ、そう思っていると霧の向こうから一匹のイヌがとぼとぼと歩いてきた。あたりには民家もなく、こんなところでイヌに襲われたらひとたまりもない。しかし向こうも疲れているのかうつむきかげんででこっちには気づいていない。どうかこのまま通りすぎてくれ、そう祈りながら道路脇でじっとしていた。そしてイヌはぼくの脇を通りすぎた。その直後、イヌがこっちを振り返った。襲うという雰囲気はないもののこっちに近寄りはじめた。慌てていつも首から下げていた笛を吹き鳴らした。するとイヌは驚いてすごい勢いで逃げていった。こうして無事イヌをやり過ごすことができた。
 と思ったのも束の間。道の先のほうからはまだ別のイヌの遠吠えが聞こえる。それも一匹や二匹ではない。こんな山の中に民家があるわけはない。どう考えても野犬。どうか出くわさないでくれ。しかし願いとは裏腹のことが起きるから話のネタになるのだ。ついに野犬登場。道路脇の茂みから顔を出して四、五匹のこっちに向かって吠えていた。今にもこっちに向かって飛び出してきそうになったとき、運よくうえから一台の車が走ってきた。運よく、などと表現したがべつにその車がぼくを助けてくれたわけではない。その車が走り抜けるのに合わせて、ぼくも猛ダッシュで逃げたのだ。不思議とイヌは追ってこなかった。どさくさに紛れて助かってしまったようなかんじだった。
 それにしてもこの日は怖いことの連続だった。深夜零時をまわったころやっと畑宿に到着した。ついに長い一日を終えることができた。
 翌日、十一日目。この日は朝から余裕だった。本当は今日箱根越えをするはずだったのに、昨日の散々のアクシデントの副産物としてかなりの距離を稼げてしまったからだ。
 以前に長距離歩行の実験で、横浜の自宅から箱根の関所まで十七時間で歩けることを確認している。だからここまで来てしまえばその気になれば今日中にでも家に着くことができるのだ。そんな安心感から久しぶりに朝寝坊をした。人目が多少気になったが八時頃まで寝ていた。そしてゆっくり山を下り始めた。朝の十時には箱根湯本の温泉に浸かってしまう余裕ぶり。朝から温泉だなんて今までにない贅沢だった。弥坂湯という町営の公衆浴場で朝八時半から夜八時半まで開いている。料金も三五〇円と銭湯とかわらない。さすがに平日の朝から風呂に入る客はおらず、ぼく一人だけだった。まさに極楽。
 この日はのんびりと平塚あたりまで歩いて、翌日は横浜の自宅まで、そして出発から十三日目に余裕を持ってゴールの日本橋に着けるはずだった。
 ところがまたもやアクシデント。夜八時くらい、平塚市街に入って何気なく自宅へ電話をした。そうしたら学校から連絡があったというのだ。なんでも明日か明後日までに学校へ来いとのこと。自由登校期間だったが、ぼくの場合五月に学校で骨折していて、その給付金のことでサインがいるというのだ。
 まだ夜の八時。近くにはJRの平塚駅がある。電車に乗れば三〇分ほどで家に着き、翌日学校でサインをしてまたすぐにこの場所に戻ってくることもできる。たいした時間のロスにもならないだろう。
 しかし、これまで必死に文明の利器に頼ることを拒否してきたのだ。それをいまさら無にすることはできない。そこでとる道はひとつしかなかった。本来は明日一日かけて歩くはずだった行程を今日中に終わらせる。つまり今日中に自宅まで歩いて帰り、翌日学校に行くというものだ。距離にして三〇キロ。今日すでに四〇キロ歩いているからトータルで七〇キロ。まあ、不可能な距離ではない。
 こうして余裕だったたびの最終部分が急にハードな様相を呈してきた。この旅で苦しいことはいくらでもあったが、このときが最高の苦しさだっただろうか。休憩で公園のベンチで座っているとそのまま眠り込んでしまう始末だった。
 明け方、五時くらいに家に着き、風呂で体を温めると、眠るひまもなくこんどは学校へと出向いた。そしてこの日は一日休閑日とした。その気になれば学校から帰って歩き始めても十分日本橋には着ける。でも休むことにした。というのは続けてこのあとぼくには別の旅行が控えていたから。友人とスキーに行く約束が二件入っていた。そのひとつは明日の夕方、上野駅で待ち合わせというもの。つまり本来の予定では東海道踏破とスキーをはしごする計画だったのだ。日本橋についたらその足で上野駅に向かい、長野へスキーへ。そして二泊三日で帰ってきたら、一日おいて今度は別件のスキー。
 というようにぎゅうぎゅう詰めの無茶な計画を立てていた。今日、無理して日本橋まで行ってしまうと、電車でうちに帰ってきて、また翌日上野まで五百三十円を払って行かなくては行けない。だったら明日まで待って、日本橋までの電車代を浮かせてやれ、と考えたわけである。なんだか貧乏性が板についてしまった。
 そんなわけで、その夜は久しぶりに温かい布団でゆっくり睡眠をとった。なんだかそうしている自分が現実とは思えなかった。夢でも見ているのではないかと疑った。それくらいにこの旅はきつかった。
 翌日、つまり京都三条大橋を出発して十三日目の夕方四時十分、ついにゴールの日本橋に到着した。これで一年半にわたる東海道を巡る旅が完結した。日本橋はもうすでに二回訪れているのでそれほど深い感慨はなかった。
 ひとどおりが激しく、橋という面影もあまり感じられないその様子にすこしがっかりした。でもそんなことはわかりきっていたことであるし、それに日本橋といったら今も昔も日本の中心なのである。日本が大きく変わったというのであれば、この日本の中心こそがいちばん変わっていてしかるべきなのだ。
 いくら時代が移り変わっても、その場所だけは変わっていない。京三条大橋と江戸日本橋を結んで、六十センチの歩幅を一歩一歩刻んできたのだ。その事実は変わらない。ぼくは東海道を全部歩いた。そう、自己満足。それでいいのだ。これで東海道の旅はTHE END。これから気持ちを切り替えてスキーを楽しんでくる。高校生活最後の一連の旅はまだまだ続くのだった。

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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
By あきば・けん
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