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   〜 旧東海道徒歩の旅 第二章 〜

◆ 最初の旅 日本橋〜箱根




 ここでは、学校に提出する課題として書いた文章を載せた。
 このレポート完成には二週間以上を費やしたように記憶している。また歴史という科目のレポートなので、それなりの観点で書いたつもりだ。他の章は体験記の色合いが濃いかもしれないが、これに限っては違った雰囲気に仕上がっていると思う。
 書いてから一年以上も経った今、読み返してみると、これがすべての始まりだったんだなあと様々な感覚が蘇ってくる。
 今となっては何でもないごく当たり前のこと、例えば市街地におけるキャンプなどが、この当時は何かものすごいことのように描かれてる。今からするととてもおかしい。たった一年半の月日ではあるが、その間に、随分と自分も変わったなつくづく思う。それと同時に密度の濃い充実した一年半だったことが改めて思い知らされた。


八月十六日 第一日目  天気:曇り時々雨

 「お江戸日本橋七つ立ち…」の歌でお馴染みの東海道を歩くにあたって、なるべく江戸時代の旅に近い形で歩きたいと思い、まず日本橋を出発するの時刻を〈七つ〉、つまり午前四時にしようと計画した。しかし始発電車の関係で、実際には約一時間遅れの四時五十五分となってしまった。
 日本橋に立った時には辺りはまだ真っ暗で、日本橋の様子はあまり良く分からなかった。ただ安藤広重の版画に比べるなら昔の姿は見る影もないということは確かだ。橋の上には高速道路の高架橋が架かり、周りもビルばかりで暗いイメージしかない。ただ橋のたもとにある大きな石碑だけが日本の中心を主張している感じだった。
 そんな日本橋を通りに従って新橋方向へ歩き始める。この辺は大企業の本社ビルが多くならんでいるオフィス街だ。しかし大型デパートや派手なショウウィンドウの店があるためオフィス街独特の人気のない冷たい感じはしない。賑やかな風情が感じられる。もっとも昼間にここにきたことがないので単なる推測ではあるが…。
 そんな真っ暗で車一台通らない広い道路を進んでいくと、やたらとホームレスの姿を見掛ける。毛布や段ボールにくるまって寝ているのはどこで見ても同じだが、ここでは道端のベンチや地下道の隅などではなく、立派なオフィスビルの正面玄関のど真ん中などで堂々と寝ている。このときはちょうど小雨がぱらついていたが、正面玄関には大きな日差しが張り出しているので十分に雨避けになっていて、彼らは雨に気付くこともなく、ぐっすりと眠入っていた。
 そんなことに感心しながらも、なお進むと今歩いている東海道に立体交差するような高速道路の陸橋が見えて来た。どうやらその下が京橋らしい。そこには京橋であることを示す碑はあるのだが、橋がなければ川もない。どうやら埋め立てか水路変更で川はなくなり、地名だけが残ったようだ。この橋の脇には警視庁の広報センターがあるが、その道路向かいの小さな広場に〈江戸歌舞伎発祥之地碑〉がある。歌舞伎は一六四〇年にここで興行されたのがはじまりなのだそうだ。
 ここから先、新橋、金杉橋を過ぎ、道なりに進んで行くが、これまでの賑やかな感じはなくなり、次第に無機質なビルと道路だけになっっていった。そんな光景がどこまでも続いている。
 しかしそんな中、田町駅の近くの道路脇に小さな碑が立っているのが目に付いた。〈西郷降盛・勝海舟会見碑〉とある。これはつい最近授業で習った江戸城無血開城の会談が行われたところらしい。(現在は三菱自動車のビル)
 石碑と共にある立て看板を見ると、ここは薩摩藩邸があった所で、昔はすぐ後ろが砂浜で、ここへ本国(薩摩)から米など多くの物資が運び込まれていたという。しかし今はずっと埋め立てられていて電車の線路と倉庫しか見ることができない。
 こんな様子を見ていると「はたして東京二十三区周辺には自然の砂浜は残っているのだろうか」と考えてしまう。手元の東京湾の地図を見ても幾何学的な海岸線しか見い出だすことはできない。つい十日ほど前まで行っていた沖縄の西表島なんかは島内に数箇所ある港以外はみな天然の海岸線だったのに。
 第一京浜の広い道路にそってなお進むと、やがて道路脇の歩道を塞ぐような石垣が見えてきた。そこまで行ってみると十メートル四方くらいのほぼ正方形で高さが二メートル弱ほどの石垣だった。城か何かの跡かなと思ったがそれにしては小さすぎる。近くに立っていた石碑を見ると〈高輪大木戸跡〉とある。そういえば以前に先生が品川の辺りに大きな門があって夜になると閉めて江戸の町に出入りできないようにしていたと言っていたのを思い出した。石碑には何の説明もないがどうやらその門の跡らしい。そしてここにはもう一つプラスチック製の標があり、ここには都指定の天然記念物であるなどど書かれている。人工のものがどうして天然記念物なのかよく分からないが、とにかく貴重なものらしい。
 六時五十分 泉岳寺、高輪プリンスホテル、品川駅などを経て八ッ山橋の交差点まで来た。さすがこの時間にもなると駅の近くにビジネスマンの姿が見えはじめ、交差点は多くの車で溢れるようになってきた。
 ここからは第一京浜からわかれ、いよいよ旧道へ入る。下にJRの線路が走る橋を渡り、京浜急行の踏切を渡ると商店街に入り、ここが旧東海道の品川宿となる。この踏切の少し手前には線路にそって〈八ッ山コミュニティー道路〉が整備されていて約二百メートルの間に旧東海道のミニチュアが作られていた。日本橋から始まって、箱根山があったり富士山が見えたりしながら最後には三条大橋に辿り着く。東海道を意識して歩いているこんなときだからこそ、おもしろいアイデアだと思った。
 ふたたび足を戻して旧街道の商店街に入る。まだ朝がはやいせいかどの店もシャッターがしまっている。人も車も通らない道がずっと続いている。今まで車通りの激しい道を歩いてきたので、この通りの静けさは新鮮に感じられた。
 通りには入ってすぐの所に寿司屋があり、その角に〈問答河岸跡〉の碑が立てられていた。そこには何の説明書きもなかったが手元の資料によると、この近くに東海寺を開いた沢庵(たくあん)禅師が将軍家光と海を眺めながら、

「海近くして東(遠)海寺とはいかに?」
「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」

と問答をした跡だという。なんでそれだけのことで碑を残すのかと疑問に思うが、昔の人のユーモアだと勝手に解釈してその場を立ち去った。
 この商店街(昔は宿場だった)は歩いていてとてもおもしろい。地元の人が昔宿場だったことを誇りにしているのか、通りのいたるところに昔を思わせるものがある。
 商店街の多くの店のシャッターには広重の東海道五十三次の品川の絵をはじめとし、品川が描かれている浮世絵などがプリントされている。また公園があると思えば日本庭園風なっていて、そこにある公衆便所は江戸風の建物で「トイレ」ではなく「厠」(かわや)になっていたりなど。
 ここで面白いポスターを見付けた。それは九月二十六日に行われる「江戸時代にタイムスリップ」がキャッチフレーズの〈宿場祭り〉のポスターで、江戸時代の仮装行列の参加者募集というものだった。そこには昨年のものと思われる写真が貼ってあった。まるで日光江戸村のような光景だった。
 途中、品海公園に〈江戸より二里〉という碑があった。いままで散々歩いて来たつもりだが、まだたったの二里かと思った。一里が三・九三キロだから約八キロ。今日はこの先、昔の旅人の多くが泊まったという保土ヶ谷宿まで歩くつもりだが、日本橋から保土ヶ谷まではおよそ三十三キロ。いままで歩いたのは、まだその四分の一でしかない。なのにもう足の裏が痛くなっている。昔の人はもっと悪い条件で歩いたのだからと気楽に考えていたが、こんな調子だと本当に三十二キロも歩けるのかどうか不安になってきた。しかしとりあえず行けるところまで行ってやろうと公園を後にした。
 商店街が山手通りとぶつかる所の手前に、聖蹟公園という変わった名前の公園がある。そこが大名たちの泊まった(休憩した)本陣の跡だという。公園の中にはそのことを示す碑や説明書きがあるだろうと思って探してみると、壁のように見える大きな石碑があった。
(本陣跡の石碑にしては立派すぎるなあ)
 そう思いながら、そこに刻まれている文字を読んで見ると、まず〈御聖蹟〉という大きな文字が目についた。(どうやら本陣跡の碑ではないようだ)と思い始めたが、果たしてその通りで消えかかった細かい文字を読んでゆくと「明治元年に王政復古によって明治天皇が江戸城に入る際にここに立ち寄った」と言うようなことが書いてあった。どおりで立派すぎるわけだ。公園内にはもう一か所同じようなことが書かれた碑があり、公園の隅に寂しそうに立っていた〈本陣跡〉の小さな碑とは随分扱いが違うものだった。
 八ッ山橋から続いている長い商店街がいつの間にか鮫洲商店街と名前が変わっていた。ここは八ッ山の方に比べると閑散としていて住宅街の所々に商店があるという感じで、シャッターの浮世絵もこの辺では見当たらない。
 そのまま進むといつの間にか立会川の駅のところまできていた。この辺には祖父の家があるので何度か来たことがある。ちょうそ祖父の家は旧東海道に面した所にあった。この道が横浜の自宅近くまでつながっていると思うと信じられないような不思議な感じがした。
 駅近くの神社の手前に川が流れていて、そこに浜川橋が架かっている。この橋は別名〈泪橋〉(なみだばし)といい、この先にある鈴ヶ森刑場に引かれて行く罪人が家族との別れを告げた場所のため、こう呼ばれるという。
 大井埠頭に向かう大通りを横切るあたりから商店は見当たらなくなり完全な住宅街になった。もう十キロ以上は歩いているのでかなり足が痛い。しかし雨が降っているため座って休めそうな所は見当たらない。そろそろ限界だと思っていたら〈鮫洲総合運動公園〉という大きい公園があり、藤棚が屋根のようになって濡れていないベンチが見えた。早速公園の入り口で缶ジュースを買いベンチに直行した。
 十分休憩し、軽くストレッチをしたあとに出発。しばらく行き、細い旧街道が国道一号線とぶつかる所に〈鈴ヶ森刑場跡〉あった。ここには、はりつけ用の木柱を立てるための四角い石の台や、火あぶり用の鉄柱を立てる丸い台、また首洗いの井戸、犬を傷付けたとして一人息子を処刑された母親が尼になって自費で建てたという髭題目などが現存している。これらの説明書きをメモしていると、受刑者たちを供養をしている大経寺の人がきて、寺にある資料を見せてくれるというので寺にお邪魔した。
 本尊がある部屋の壁に幾枚ものパネルが貼られていて、はりつけにされ槍で刺されている場面の絵や、さらし首の写真などがあったが、それに混じって白骨が土に埋まっている状態の写真もあった。つい最近寺を建て直した時に出てきたものだという。本来骨というのは土に埋めて五十年もすれば原形をとどめなくなるそうだが、ここに埋められていたのはあまりに数が多かったために土に帰らなかったのだろうということだった。続けて話しを聴くと、明治初期にここが廃止されるまでに処刑された人は、およそ十万人で、その多くは冤罪だったという。この刑場では主に刑事事件の処刑が行われ、火あぶりとはりつけ、またキリシタンには逆さはりつけが行われたという(逆十字の形になる)。そして政治犯は江戸のもう一カ所の刑場、小塚原(こづかっぱら)で首切りに処された。
 もともと江戸時代に刑場は江戸城に近い所にあったが、人口の増加に伴い、この鈴ヶ森と小塚原に移転してきた。なぜこの二か所が選ばれたかというと大きな道路に面していたからだという。というのは処刑には多くの人に見えるようにという、つまり見せしめとしての意味もあったからだ。そう考えると、さらし首や生きたままの火あぶりなど残酷な刑が行われていたのも理解できる。(是非は別にして)
 ここからまた車通りの激しい一号線ぞいに歩くことになる。大森海岸を過ぎたあたりから、ぞろぞろと歩いてくる人の集団に出会った。競艇に行く人たちらしい。
 平和島の少し手前から左にそれる道がある。これが旧東海道で、現在は〈美原通り〉となっている。もともとは北・中・南原の三つの原、つまり三原だったのが美原となったらしい。いまはレンガっぽいタイルが敷き詰められているきれいな商店街で所々に〈旧東海道〉の道標が立っている。
 大森町駅の手前で元の国道に戻る。だんだん多摩川に近づいているが、それにつれて周りの町並みも変わってきた。今までは住宅やマンションなどが密集して建っていたのに、次第に倉庫や空き地っぽい駐車場などが目立ちはじめた。そのため車以外は人の姿もあまり見掛けなくなった。
 十二時五十分 多摩川の六郷土手で昼食。食後に靴を脱いで休んでいると、今までやんでいた雨がまた降り始めた。今までのように小雨ですぐにやむだろうと思っていたら、今度のは大粒でなかなか上がりそうにない。しようがないので、橋の下で荷物を整えながら雨宿りをした。しかし予想に反してすぐに小雨になったしまった。一時五分には出発。
 六郷橋を渡るが、渡りきって川崎に入った所から旧東海道の道が分からなくなった。持っていた地図には車道は載っているが歩道はかかれていない。しかしこの六郷橋の付近は歩道が車道と立体交差していたり、歩道だけ車道とずれて別の道につながっていたりするので進むべき道がどれだか分からなくなってしまった。そこで付近の家の庭で植木の手入れをしていた人に旧東海道の場所を尋ねると親切に教えてくれた。
 旧道を歩き始めてすぐの所に看板がでていて、そこに六郷の渡しについての説明があった。最初、徳川家康が六郷川(多摩川)に橋を架けたのだが、すぐに洪水で流されてしまい以来二百年間〈渡し〉が活躍した。そしてその渡しの権利を川崎宿が持っていたのでここはその収入でたいそう栄えた、ということだった
 このあとすぐに〈田中本陣跡〉があるというので注意しながら歩いていたのだが、それらしきものは見当たらなかった。奥まった所にあったのだろうか。
 しばらく行くと賑やかな繁華街に入った。川崎駅の近くらしい。そこを抜け今度は静かな〈小川町通り〉に入ると病院の脇に看板が立っており、ここが宿場の入り口跡だと書かれていた。当時ここには切石を積んだ〈土居〉があったという。そして文久二年に外国人遊歩区域に指定された川崎ではここに関門をつくって外人警護にあたったとある。文久二年とは生麦事件の起きた年。やはりそのことが関係しているらしい。
 八丁畷の駅の近くの線路脇に松尾芭蕉の俳句の刻まれた碑があった。きちんと屋根のついた、よく整備された碑だった。

 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

とあり、芭蕉が五十一歳のときの旅で、門人とここで別れる際に詠んだ句だという。
 八丁畷(はっちょうなわて)の踏切を渡るとすぐ駅の裏に〈人骨供養碑〉というのがある。このあたりから出てきた何体もの人骨を供養したもので、それらの骨は江戸時代にこの付近の飢饉などで死んだ旅人をまとめて道の脇にでも葬った跡ではないかと書かれていた。
 この駅名にもなっている八丁畷(はっちょうなわて)というのはずいぶん変わった名前だなとは前から思っていたが、ここにきてはじめてその由来が分かった。〈八丁〉とは昔の距離の単位で、一丁がおよそ百九メートルなので八丁は約八七二メートル。それが隣の市場村までの距離を表している。〈畷〉(なわて)とは昔の言葉で田畑の中の一本道を意味しているということだった。鶴見に向かって今歩いている道が八丁畷なのかと思い、辺りを見回してみたが、それらしい痕跡は全く残っていなかった。
 二時二十分 鶴見川手前の〈市場村一里塚跡〉に着いた。一里塚とは東海道を整備する際に松並木と共に家康が作らせたもので、日本橋から三条大橋まで一里(三・九三メートル)ごとに塚を作らせて旅の目安とした。この一里塚は五里目(約二十キロ)のものだが昔は街道の両脇にあり、九メートル四方で高さは三メートルの塚で上には榎が植えられていた。その木陰で旅人たちが休んだという。
 ここは現在小さな祠(ほこら)の境内になっていて、塚のあとはまったく残っていない。昭和八年に作られた石碑と後に植えられたらしい細い榎が二、三本生えていた。また近くにあった解説板には江戸時代のこのあたりに絵地図がプリントされていて、この一里塚もしっかりと描かれていた。いつものことだがこういう昔の絵を見ると、現代とのあまりのギャップに、これが連続したときの流れでつながることとはとても思えない。
 やがて架け替え工事中の鶴見川橋を渡ると、車道に飛び出す形でたっている〈鶴見橋関門跡〉の碑がある。この碑は道路脇の歩道と車道との間に車道の方に向かってたっているのでわざわざ車通りの多い車道にでなければ内容を読むことができない。
 この関門は先に述べた川崎宿入り口の関門に続いて二つ目の関門で、この先、保土ヶ谷まで十九の関門があったという。しかし、たった今渡って来た橋が「鶴見川橋」だったのに、なぜこれが〈鶴見橋〉関門跡なのだろう。地図を見るともう少し下流の第一京浜の所に鶴見橋はある。歴史的に意味のある石碑が場所を移ることはあまりないと思うので恐らく橋の名前の方が変わったのだろう。昔はここにあった橋のほうが交通の要所だったので鶴見川を渡る橋の代表のような名前(鶴見橋)をつけられたが、今となっては国道の通る橋のほうが重要なので名前を持って行かれてしまったのではないか、という気がする。
 関門跡の碑から五十メートルもいった所の道端に〈寺尾稲荷道道標〉というきれいな白い道標がたっている。この道は菊名のほうに通じていたというが、昔の地図にも描かれておらずはっきりしたところは分からないという。
 この道標、字はかすれていないし、欠けた所もない。そのわりには江戸時代の古い年号が刻まれている。おかしいなと思いながら解説板を見ていると、「これは複製で実物は近くの鶴見神社に保存してある」と書かれていた。本物をを見てみたいと思ったが、疲れた足をひきずって神社を探すのはとてもしんどく思えたので、今回は諦めた。
 でも、ここで自分がそんな気持ちになったのは意外だった。修学旅行などで京都などの古寺などを見て、「これは千年近く前の仏像で云々」などという説明を読んでも取り立てて深い感銘を受けたりとか、千年前にこれを作った人はどんな人でどんな世界に生きていたのだろうなんて考えたことはなかった。しかしこの東海道を歩いていると、今現在自分の歩いているところをかつてどれくらいの人が歩いたのだろうとか、昔はここからどんな景色が見えたのだろうなどとよく考える。だから、今は江戸時代の人が見たのとまったく同じ物が現代に残っているというと「それは是非とも見てみたい」という気持ちになる。不思議なものだ。
 やがて道は鶴見村の中で最も栄えたという信楽茶屋(現在は〈活力ラーメン元気一杯〉という店)や、江戸時代から続く名主の旧家などを経て鶴見駅前にでる。そして京急鶴見駅の前の鶴見銀座という明らかに名前負けした閑散とした商店街を抜け、第一京浜を渡ると生麦魚河岸通りに入る。ここは鶴見川の河口が近いせいか、魚屋、寿司屋、釣り船などが多く目につく。この通りの名前もそこに由来しているのだろう。
 やがてキリンビールの工場入り口を過ぎると、この静かな通りも終り、再びうるさい第一京浜に合流する。そしてその合流地点ちかくに〈生麦事件之跡〉があり、ちょうどこの時は八月二十一日に行われる「生麦事件131年追悼際」のための飾り付けがなされていた。ここには今までと違い、英語による立派な案内板があった。やはりイギリス人が殺されたということで母国の人などが観光の途中で寄ることがあるのだろうか。
 旧東海道は生麦事件跡のあたりから第一京浜を渡り、JR東海道線の線路近くを通るはずなのだが、その道がどこにあるのかよく分からなかった。
 この旧東海道は現東海道とは所々道が異なっている。そのため図書館で資料を探し、それをもとに歩いているのだが、その地図を見ると昔の道の位置を正確に写し取ったと見えて、旧道をたどる線が学校の敷地を通過していたり、現在は道のないところだったりということがよくある。そのため今までは、なるべく旧道に沿って、そして旧道の無くなっている所は一番それに近いと思われる道を歩いてきた。しかしこのあたりは東海道線や京浜急行の線路のせいでほとんど旧道が潰されてしまったらしい。資料の地図だと線路の真上を通る所がたくさんあり、また周辺の道も目茶苦茶ですんなりとは線路の所に出てくれない。
 とりあえず勘をたよりに歩いてみたが、いつの間にか元の第一京浜に出てしまったので諦めて現東海道の第一京浜を歩くことにした。
 工場のたちならぶ通りには、歩く人はほとんどいなかった。隣には車がたくさん行き交い、中には当然人が乗っているのだろうが広い歩道を一人で歩いていると町の中には誰も人がいなくなってしまったのではないかという錯覚に陥る。
 そんな寂しい通りを、もう限界だと思えるほどに疲れた足をひきずりながら進む。途中に公園など座れそうな所があると、ほんの十分まえに休憩したばかりでも、すぐに腰を下ろしてしまう。この時の歩く平均時速は歩き始めの頃に比べてだいぶ落ちていたと思う。その証拠に、地図を見てあと五キロほどで自分の知っている所に出られると思って歩いても二時間近くかかってもまだそこに着かなかった。歩き始めの頃だったら五キロくらいなら一時間ちょっとあれば歩けたのに。またどこまでいってもあまり変化のない単調な道というのが精神的にも影響したのかもしれない。本当に歩いていてうんざりした。
 やっと見たことある景色の所に来た。神奈川公園である。ここから旧道は宮前商店街に入る。そこに入る前に、近くにある〈神奈川台場跡〉や〈青木本陣跡〉などを見て行きたかったが、寄り道をするほど足に余裕がなかった。もう目的の道を歩くことで精一杯だ。
 宮前商店街の中に〈洲崎神社〉があり、その前には神社の案内板と共に江戸時代のこの神社とその周辺の絵がプリントしてあった。神社の建物がその当時と同じかどうかはわからないが鳥居の位置や階段の様子からはっきりと絵と実物が同じ神社であることは見て取れた。そしてその神社の参道がまっすぐのび、そのまま海に面していたことが描かれている。そしてその海に接している所が、神社前からのびた道が国道とぶつかる所だという。絵に描かれている道も現在の道もその走り方は変わっていないので、昔の町並みの様子や近くに海があったことなどがここでは容易に想像できた。
 決して長くはない宮前商店街を過ぎ、京急神奈川駅の脇から青木橋を渡ると国道一号線にでる。ここの信号を渡り少し横浜よりの小道にはいると、急な坂が目の前に現れる。ここの登り口の所に金比羅宮があるが、その手前のビルの入り口の所に不自然な感じで〈三宝寺〉という石柱がたっている。そのマンションと思えるビルがお寺なのかと一瞬驚いたが、そうではなく山の上に見える立派な寺が三宝寺のようだ。しかし参道らしきものは見当たらずどうやってそこまで登るのかはわからなかった。
 急な坂を上り始めるが、坂の左側にある田中家という料亭のある所に昔栄えた茶店があり〈東海道中膝栗毛〉にもその描写があるという。またこの辺は広重の絵にも描かれていて、それによると茶店のすぐ裏はみな海だったことがうかがえる。いまとても栄えている横浜駅周辺はみな埋め立て地だったのだ。どおりで地盤沈下が問題になっているはずだ。
 坂を上り切った所に〈神奈川台関門跡〉の立派な石碑があり、当時の関門の白黒写真が案内板にあった。〈袖ヶ浦見晴所〉とも書かれているが、現在はマンションなどで展望は全くきかない。またこのあたりは〈神奈川宿歴史の道〉になっているらしく所々に江戸時代の様子を示す絵や地図と共に様々な解説があるので歩いていて楽しかった。
 坂を下り住宅街の中を道なりに進むと三ッ沢から横浜・桜木町方面に続く大通りに出る。(浅間下交差点近く)これを渡り青木浅間線の一本裏の道に入るとすぐに高台にある〈浅間神社〉の下に出る。ここには富士山まで続いているという〈富士の人穴〉が残っているが高い絶壁の真ん中にあるので入ることはできない。またこの神社の祭りはこの周辺では最も大きく神社の下あたりから旧東海道に沿って七百メートルにわたって夜店が並ぶ。そして昔この通りに住んでいたことがあったが、祭りの時は人通りが多すぎて家への出入りが難しいほどだった。
 今日は保土ヶ谷宿まで歩くつもりだったが旧東海道近くにある家のそばまで来ると自然に足がそっちの方に向いてしまった。今日の行程はここで打ち切ることにした。日本橋から、神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間あたりにある芝生村(現在の浅間町)までの約三十二キロが第一日目の歩行距離。朝四時五十分から夕方五時三十分までかかった。こんな長距離を歩いたのは生まれて初めてだ。足の裏は痛いし、腿やふくらはぎは筋肉が張ったようになっている。多分明日はひどい筋肉痛になっているだろう。
 明日からは重い荷物をもって泊まりがけで箱根関所まで歩く。果たしてこんな調子で大丈夫だろうか。水筒と雨具程度の荷物しか持たなかったのに、なおかつ舗装された歩きやすい道だったにもかかわらず保土ヶ谷宿までも行けなかった。昔の人は旅の道具一式をもって土の道を歩いて日本橋から戸塚宿まで歩いたという。しかも日の暮れる前に。やはり自分の足が主な交通手段だった昔の人にはかなわない。これからは昔の人に対する変な対抗意識は捨ててマイペースで箱根まで歩こうと思う。


八月一七日 第二日目  天気:雨のち晴れ

 今日は朝から雨が降っている。出発を明日に延ばそうかと考えたが、霧雨だったのと、また昨日のように天気予報に反してすぐにやむという希望があったので、朝七時半に傘をさして出発した。今日は平塚の相模川までの約三十キロを歩く予定だ。
 昨日とたいして変わらない距離だが、今日からはキャンプ道具一式のつまった十二キログラムのザックを背負っていく。日の落ちる前に到着できるかが心配だ。
 昨日途中で断念した地点まで戻り、そこから歩き始めた。歩き始めてすぐに大山道への分岐点があるが今は何の道標も残されていない。ただその近くに〈追分公園〉という名前が残っているだけだ。またこの分岐点は旧東海道の新道と旧道を分ける所でもあった。というのは時代によって、ここから権太坂までの道が異なっており、変更前の旧道が大山道方面で、新道はここを曲がらずに直進し保土ヶ谷宿を通るものだった。
 その新道に入るとすぐに松原商店街に入る。ここは商店街というより市場に近く、安いと評判の所で今まで旧東海道で通って来た数々の商店街のなかでも一番賑やかな場所だ。今はまだ朝早いので店も開いていないが昼間ここに来ると、歩行者天国の中は凄い人だかりで自転車などではとても通行できないくらいに賑わっている。
 商店街を抜け国道十六号を渡ると今度はすぐに天王町商店街が始まる。ここは店も少なく先ほどの松原商店街に比べるととても閑散としている。
 この中に橘樹神社があり、そこには本殿、小殿、不動尊、庚申塚三基などの他に、むかし力比べに使ったという一抱えほどの石なども見ることができる。
 神社の先百メートルほどの所に帷子川が流れていてそこに帷子橋が架かっている。ここが保土ヶ谷宿の入り口で、この付近は広重の保土ヶ谷の絵にも描かれている。現在ここには天王町商店街のアーチが架かっている。その下の川には大きな鯉が泳いでいるのがみえるが、魚が生息しているのが不思議なくらいに汚れていて、泡をたてながら流れていた。
 橋を渡るとすぐに相鉄天王町駅があり、その前の小さな広場には旧東海道と保土ヶ谷宿の説明があった。これを読んではじめてこの付近の東海道に旧道と新道の二つがあることを知った。
 天王町駅からは広い車通りに多い道をあるく。やがて広い道はJR保土ヶ谷駅の方へ曲がって行くが、旧道は直進する細い道のほうだ。ここは再び商店街になっている。
 今まで歩いてきて思ったのだが、かつての東海道は現在商店街になっているケースが非常に多い。かつての宿場町の場合は例外なくそうだった。やはり昔から人が集まる所だったからだろう。また旧東海道と現東海道の関係についても気付いたことがある。それは旧道の細い道をしばらく歩いていると、必ず車通りの多い現東海道に出て、そのまましばらく歩くとまた細い旧道に入るという繰り返しであるということだ。そして現東海道の所には昔を忍ばせるようなもの(史跡や神社など)はあまり見当たらず、歩いていてもちっともおもしろくない。それに対して旧道の細い道には旧東海道の案内板や由緒ある旧家や神社、また町並みに昔を忍ばせる所があったりして、江戸時代を旅しているような気分になれる。
 この商店街の先には東海道線の踏切があり、それを越えると国道一号線にでる。今度はその国道沿いに歩くが、ここには〈東海道〉という標識があり、ここが現在の東海道であることを示している。その道とも一キロほどでわかれ、再び細い旧道に入る。するとすぐに、いかにも由緒のありそうな〈樹源寺〉への石段があった。しかし背中の荷物がきつかったのでのぼるのをためらい、先に進んだ。
 八時半 まだ雨は降り続いている。まだ一時間しか歩いていないのに肩や首のあたりがとても痛い。たかが十二キロの荷物がこんなに負担になるとは思わなかった。それなのに雨のお陰で荷物を下ろして休めそうな所は見当たらない。そこで仕方がないので道路沿いの家のガレージで休ませてもらった。ザックを下ろし重さから解かれると、今までにないほどに体が軽く感じられた。
 この先には難所といわれた権太坂が待ち受けている。ここで十分に休憩して軽いストレッチのあと出発した。
 いままで、国道一号線の狩場町付近を権太坂というのだと思っていたが、本当の権太坂はその一本裏にあった。そこは細い静かな道で車もあまり通らない。坂を上り始めてすぐの道端に〈権太坂〉と刻まれた古い道標があった。江戸時代の道端に立っていそうな感じの標だが、実際はそんなに古いものではないだろう。
 やがて光陵高校が見えてくる。グラウンドでは朝早くからジャージ姿の学生がなにかの練習を始めており、山に登るようなスタイルで学校を眺めている私の方を物珍しそうにみていた。
 難所と呼ばれたほどの権太坂なのだから、もうすぐ絶壁のようなすごい坂が現れるのだろうと、びくびくしながらごく普通の坂を登っていると、いつの間にかその坂を登りきってしまった。どうやら今のどこにでもあるような普通の坂が権太坂だったようだ。たしかに今まで歩いてきたのは神奈川台町を除いてみな平坦な道ばかりだった。それに比べれば確かにきつい坂ではあるが、難所というのはすこし大袈裟ではないか。
 しかしすぐにその考えを撤回した。なぜなら今私が歩いたのは〈現代の道〉だったからだ。昨日一日歩いて古代の人の脚力のすごさはよく理解できた。そんな古代の人が難所だというのだから昔は本当にすごい道だったのだろうと理解できる。それにそんな歩きにくい道だったのなら現代に車が通れるよう舗装するさいには多少の手直しをするのではないだろうか。だからいくら江戸時代の旅を経験するなどといってもどだい無理な話なのだった。
 坂を登りきって突き当たる小学校を右に曲ると右手に境木(さかいぎ)地蔵尊が見えてくる。ここは昔の国境で、今まで歩いてきた武蔵の国がここで終り、この先からは相模の国となる。この境木という地名もそこに由来するという。この境木の地蔵、古そうだということ以外特筆すべき点はないのだが、ただ地蔵のまわりに人形や縫いぐるみが山積みになっていたのが気になった。ここの入り口に立て看板があり、境木地蔵の由来と昔のこのあたりの事が書かれていたが、それには人形がどうのという事は触れられていなかった。なんとなく意味ありげで不気味だった。
 また、ここは権太坂を登りきったところにあるので多くの旅人が名物〈牡丹餅〉(ぼたもち)を食べながら一息をついた所でとても栄えていたという。しかし歩いている限りでは名物牡丹餅なるものを売っている店は見当たらなかった。
 境木地蔵から南南西方向に下る細い道に入り両側から木が覆い被さるような暗い感じの急坂を下ると小さな盆地のような住宅街にでる。道なりに今度は緩い坂を登ると両側をこんもりとした築山のようなものに挟まれた今までになく道の細い箇所に出る。そこが〈信濃の一里塚〉で、日本橋から九個目のものだ。ここはめずらしく塚がきちんと残っていて、殊に右側のはほぼ完全に原形をとどめている。周りにある木々のせいでその全容を見ることは出来ないが歩道から見える範囲では、塚というより築山といった感じで結構大きい。そして塚の上には榎かどうかは分からないが多くの木が生い茂っていた。
 やがて車のよく通る道を越えると再び静かな住宅街に入る。ここは高台に位置しているようで右下に東戸塚駅周辺に広がるニュータウンが見える。
 さてここから下のニュータウンへ降りなくてはいけないのだがどの道を行けばよいのかさっぱり分からない。二万五千分の一の地図によると一か所だけ階段があり、そこを降りるのが旧東海道のはずなのだが、実際には階段が何箇所もある。そこでしようがないので勘をたよりに道を選び、下へ降りたが、結局道に迷い、自分が地図上のどこにいるのかすらわかなくなってしまった。
 仕方がないので遠くに見える東戸塚駅から現在地の見当をつけ、区画整理された住宅街を歩き始めた。しかし途中で行き止まりがあったり、坂を登ったり降りたりを繰り返し、文字通り住宅街をさまよい、何とか国道にぶつかる道の目印となる川に辿り着いた。あとは川沿いに歩くだけだ。
 上柏尾町のあたりで国道一号線とぶつかるが旧東海道はその一本裏の道を通る。大きな鯉が泳ぐのを見ながら歩くとすぐに元の国道に合流する。車道の脇の細い歩道を歩いているとたくさんの人と擦れ違うが、そのうちの多くは振り返って私の方を物珍しそうに見ていた。やはり町中で大きな荷物を背負っていると目立つらしい。
 この辺は住宅地のようだが、今歩いているのとは反対側には先ほどから大きな工場が見えている。そのためかここら辺には変わった名前のバス停がある。バス停には普通その場所の地名や、「何々病院前」といった公共性の高い施設名が使われることが多い。ここには〈ポーラ前〉という一見すると意味不明のバス停があった。私も一瞬何のことだか考えてしまったが、これは〈ポーラ化粧品〉の工場前ということらしい。このバス停を地元の人が何の違和感もなく利用していると思うとなにか不思議な感じがした。
 道路の左側の歩道を歩いているとやがて不動坂交差点付近でわらぶき屋根の旧家〈益田家〉を見ることができる。この庭には県の名木百選に選ばれている大きな〈モチの木〉があり道路の面した所にその案内板があった。
 ここから旧道は左の細い道にはいる。静かな住宅街を歩いていると〈護良親王(もりながしんのう)首洗井戸〉へはこっちだという案内板があったので、それに従い細い道を山の方に歩いていった。しかし途中何箇所か分岐点があったのに案内板は見当たらず当の井戸も見当たらなかったので、潔く引き返した。これが昨日ならもう少しは探したかもしれないが何しろ今日は重い荷物を背負っている。重い荷物があるのと無いのとではこれほど行動範囲が違ってくるとは思っていなかった。ザックを背負っていると、当然の事だが体が重くなる。そのため細い歩道を歩いていて自転車と擦れ違う時など、頭で避けなければと思っても動きはいつもよりワンテンポ遅れるので何度も接触しそうになった。これが車だったらと思うとひやりとさせられる。それにショルダーストラップが肩に食い込んで痛いので、今までと違って足以外にも気を使わなくてはならなくなった。そのため歩いているときはいつも、早く休憩したい、荷物を下ろしたい、と考えてばかりいた。また余分な所は歩かないようにも気をつけるようになった。道幅の広い国道沿いに歩いているとき道の向かい側に昔の道標を見付けたとしても、わざわざ横断歩道を探して国道を渡ると、それだけでも結構な距離を余分に歩くことになる。とりあえず今は旧東海道を歩くことが最大の目標なのだからとなるべく体力を温存することにした。
 しかし反対に重い荷物を持っていてよかった事もある。荷物なしの時に比べると歩く速さは遅くなっているが、その分しっかりと地面をグリップしながら、大地を踏み締めるように歩いているので、一歩一歩の重み、このわずかな一歩の集合で今まで四十キロも移動してきたのだという「歩くことの実感」が感じられるようになった。そしてそれは歩くときの励みともなった。
 再び国道に戻りてくてくと歩いていると、〈VOLKS〉というレストランの前に〈戸塚宿江戸方見附跡〉の石碑があった。ここから先〈上方見附〉までが戸塚宿となる。
 この先すぐにある〈吉田橋〉は広重の戸塚の絵(保永堂版)に描かれている橋だが、その絵をよく見ると橋と〈こめや〉の間に〈左りかまくら道〉と書いてある道標がみえる。この道標が近くの〈妙秀寺〉に保存されているというので行ってみた。
 国道沿いにあった案内板の所から路地に入るとすぐに住宅街の中の妙秀寺が見えてくる。入り口の階段を登ると立派な山門があるが、そこの扉が開いてるにもかかわらず木の柵で囲いがしてあり、中に入れないようになっていた。どうしたものかと思案していると中から大きな読経の声が聞こえてきたので「もうこれは無理だろう」と道標を見るのは諦めて先に進んだ。
 吉田橋は今は〈吉田大橋〉となっていて、そのわきにあった〈こめや〉は現在、牛乳屋になっている。
 この先の線路を渡ると戸塚駅前の商店街になっていて、結構な距離に渡って商店が軒を連ねている。人が多くて歩きにくい(物理的にも精神的にも)歩道を一キロほどいった戸塚消防署の少し手前に生け垣に囲われた小さな空間があり、そこに本陣跡の碑が立てられていた。しかしそれは〈明治天皇戸塚行在阯〉の立派な石碑を建てる敷地の隅にお情けで置かせてもらっているようでたいそう貧弱なものだった。
 品川の場合もそうだったが天皇がとまったという本陣跡は、天皇がきたというどうでもいいようなことを重視し、もともとそこにあり、多くの役目を果たして来た歴史的にも意味を持つ本陣は脇に追いやられている。本陣があったからこそ、そこに天皇がとまることができたのに。やはり尊王の考えは日本人の心に染み付いていまだ落ちないらしい。
 だいぶ店も少なくなり閑散としてきた道を藤沢めざして歩いて行く。富塚郵便局近くで道が大きく右にカーブしたあたりに〈上方見付跡〉があった。先ほどの〈江戸方見付〉から始まった戸塚宿はここで終わり、次の宿場〈藤沢〉まではのんびりとした小道が続いていたのだろう。
 川柳などにも読まれている〈大坂〉の登り口付近で見付けた小さな祠で昼食。この頃になると雨はすっかりあがり太陽が出てきてとても暑くなっていた。しかしさいわいなことに、この古びた祠には木が生い茂り、涼しい風が吹いていた。食事中たくさんの蟻が気になったが、ここで十分に休んで長大な坂として知られる〈大坂〉に臨んだ。
 大坂は別名〈戸塚の坂〉ともいわれ、「いざ鎌倉」と駆け付けた武将の馬がこの坂で息が切れて二度も転んだという話が残っている。そんなに大変な坂なのかと構えて登り始めたが、まさにその通りで権太坂の時に比べてかなりきつく感じられた。たらたらと続く長い坂で、それに加えて今までの疲れプラス炎天下の暑さ。それをやっと登り切ると今度は排気ガスのものすごい国道が待っていた。本当はどこかで座りたかったが、さっき三十分以上も休憩したばかりではないかと自分に言い聞かせて先を急いだ。
 国道一号線に入って二十分程度歩くと車道の脇に何かの石碑が見えた。それはありがちな地元の人にも忘れ去られたような荒れた石碑とは対称的に、きれいに除草された中に建っていた。それは〈お軽堪平戸塚山中道行の場〉と書かれていた。簡単な解説もあったが歴史にあまり馴染みのない私にはそれを読んでも何のことだかさっぱり分からなかった。
 その先、数百メートルの所の道路標識に〈一里山〉と書かれていた。このあたりに十一個目の一里塚があったようだ。しかし周りは全体的に山がちな地形でどこがその一里山かは分からなかった。
 例によって車通りが多くて、変化のないつまらない現東海道(国道一号)を延々と歩く。一時間以上の時間をかけて三キロほど歩くと藤沢バイパス出口の分岐点に着く。旧東海道はここを左に入り、国道からは離れる。しかし以前として車通りの激しさは変わらない。とぼとぼと暑い道を歩いて行くと〈遊行寺坂〉という標識が見えた。ここを下れば〈遊行寺〉だ。さっきからそこで休憩をしようと目標に歩いてきた。
 これだけ長い距離を歩いていると、いくら今日は相模川まで歩くのが目標だといっても、それでは遠すぎて「がんばろう」という意欲はなかなか起きない。そこで所々の有名な史跡や寺社を当座の目標として歩いてきた。また、そうでもしないとしょっちゅう休んでばかりいて能率が上がらないということもある。
 遊行寺、大きな寺だ。さすが一宗派の本山だけあって今まで見てきた寺の中では一番立派だ。しかし私はいままで〈時宗〉なる宗派があることは知らなかった。一遍上人が開いたのだという。
 入り口を入るとすぐに広い境内になっていてその中央には大きな銀杏がでんと構えている。その下には太い幹を囲うように丸いベンチが作られていて何人かのお年寄りが休んでいた。私もそれにまじり休憩をとった。
 境内では桜の木に消毒薬を散布している最中で、地元の人とおぼしき数人がそれを見守っていた。やがてその内の一人が私に話し掛けてきた。ザックを指差して「それで日本全国を旅してるのかい?」などとスケールの大きいことをいう。私が旧東海道にそって東京から歩いてきて、箱根まで行くつもりだと説明すると、この遊行寺や藤沢宿のことを話してくれた。もともと藤沢宿は遊行寺の門前町として栄えたところだという。他にもまだ色々話を聴けそうだったが休憩の予定時間の十五分が経ったので、その人達に見送られながら遊行寺を後にした。
 遊行寺を出てすぐに大きな交差点があるが旧道はここを右に曲がる。戸塚のような見附跡はなかったがここら辺はすでに宿場に入っているようだ。その証拠に藤沢本町駅の手前で〈蒔田本陣跡〉を見付けた。いままで五つの宿場を歩いてきたが、やはり最初の品川宿ほど昔の名残を残しているところはなかった。この藤沢宿も他の宿場と同様、現在は単なる『通り』で、本陣跡を除くと宿場町だった頃の名残はまったく感じられない。
 藤沢本町駅の線路を越え、国道一号線にぶつかるまでの四キロほどをたらたらと歩く。この頃の四キロというのはとても長い距離に思えた。とくにかんかんと照り輝く太陽の暑さのため、ただ歩くだけで精一杯という状態だ。周りの町並みを眺めながらという余裕はもう無い。昨日や今日の朝までは、晴れてほしいと願っていたが、実際そうなってみると雨で涼しかった昨日が良かったなどと思えてくる。
 やっとの思いで国道一号線に辿り着いた。この交差点には大山道の道標が残っているが、それは今までになく歴史を感じさせる代物だった。小さなお堂の中に怖い顔をした不動明王(?)を乗せた〈大山道〉の道標と、万治四年建立、天保六年再建とある〈是より右大山みち〉の道標(割れたのをつないだ跡がある)、それにもう一基の小さな道標。計三つもの道標が残っていた。どれも江戸時代からある物のようだが、これらを何百年間にも渡って幾千幾万という旅人が見てきたのだと思うと、かつてここを通った名も顔も知らない人たちに親しみが感じられる。
 その先、百メートルほどのガソリンスタンドの脇には一里塚跡があった。わずかに歩道から盛り上がった塚の名残り(?)に一里塚跡という標が立っていた。特に説明はなかったが十三里目の塚のようだ。13×4km で五十二キロ。よくぞここまで歩いてきたなと思うが、すぐ脇を走っている車を見ていると、彼らにとってはほんの数時間の旅(というより移動)なんだろうなと、数百年の時代の差を実感した。
 〈二ッ家稲荷神社〉という神社があった。境内の地蔵のようなものの前に何やら説明書きらしきものが見えたので近寄ってみると、「庚申信仰について」ということで、〈庚申の日〉に寝ないで願いを祈るというような事が書かれていた。そして地蔵のように見えたのは幾基もの〈庚申供養塔〉で寛文十年に作られたもので茅ヶ崎市指定の重要文化財だという。確かに長い間風雨に晒されたせいか像は全体的に丸みをおび、彫りも浅くなっている。それがいかにも「何百年もここにいるんだぞ」といっているようにも見える。説明によるとこの像は日光東照宮で有名な〈三猿〉が彫られているという。そう言われるまで気が付かなかったが確かに目、耳、口を押さえた三猿がかすかに見て取れた。
 三時四十分 道路脇に松並木が見えてきた。これらは〈東海道の松並木〉というがそれほど大きい物ではないので後代に植えられたものかもしれない。しかし、江戸時代に東海道が整備されたときには、一里塚を作ると共に街道にそって松並木を植えたというので、きっと昔はこんな感じで松が並んでいたのだろう。
 並木を眺めながら歩いて行くと〈茅ヶ崎市〉という標識があった。ここからは茅ヶ崎(ちがさき)市だ。今まで茅ヶ崎というと湘南の方にある街という程度の認識しかなかったが、こうして歩いてきてみて初めてその位置と距離をつかむことができた。
 この辺は工場のような広い敷地を持った建物が目立つ。そのため裏道へ入る路地といったものが少なく、今歩いている道路だけが、ただ一本走っているという寂しい所に思える。いつの間にか松並木も無くなってしまった。地図によるとあと三キロほど、茅ヶ崎駅付近まではこんな殺風景な景色が続くようだ。
 四時半すぎ、疲れと暑さを引きずりながら、茅ヶ崎駅近くにある十四里目の一里塚跡についた。信号の脇にあるこの塚は、昔の原形をとどめているのか、または後から復元したのかはわからないが、きちんと塚が残っている。下の方は石垣で土止めされていて、人の背より高い塚のてっぺんには数種類の植物が植えられていた。最初はここで休憩しようと思ったが歩道の狭い大きな交差点に面しているので座れそうな場所はない。諦めて先へ進むとすぐ近くの市役所前の小さな広場にベンチがあるのが見えた。これはついてるとばかりにさっそくそれに飛び付いた。そこで地図を確認すると今日のテント設営予定地の相模川まではあと四〜五キロほどある。疲れてはいるが頑張ればあと一時間と少しで着けるだろう。水筒の残りの水をいっきに飲み干し、最後のラストスパートをかけるつもりで歩き始めた。
 道はしばらく西南西に向けて直進するが二キロほどで大きく右へ曲がる。このあたりには〈南湖の左富士〉や〈旧相模川橋脚〉など興味深い名所があるのだが、小雨のぱらついてきた今はそれらを無視してただひたすら歩き続けた。やがて正面に広い空間が見えてきた。ここは若干傾斜の下にいるせいか河原などは見えないが橋の欄干らしき物が遠くに見える。もうすぐだ。前にも増して歩調を強め、ついに相模川に架かる馬入橋に辿り着いた。
 しかし今日の作業はこれで終りではない。雨が次第に強くなっているので早いうちに場所を探し、テントを張らなくてはいけない。川の茅ヶ崎寄りの河原は現在なにかの工事をしているらしく降りられそうにない。そこで平塚側の方へ行ってみた。土手沿いに畦道(あぜみち)が作られており、少し遠くの河原にはバイクのトライアルの練習コースが作られていた。そこを数台のバイクが走っている以外には人も見当たらなかったので、雨のことを考えて橋の下にテントを張った。時間は五時五十分だった。
 設営を終えると、必要な荷物以外はテントに残して平塚市街へ出掛けた。重いザックから解放されて足取りも軽く、まずはあらかじめ電話帳と住宅地図で調べておいた銭湯へ向かった。一日中ザックを背負っていたので、肩や背中、腰などザックがあたっていたところは汗が蒸発せず、びちょびちょに濡れている。それがとても不快だったし、ゆっくり落ち着くためにもまずは汗を流したかった。
 結局一時間半近くも銭湯にとどまってしまった。くる途中、目をつけておいたラーメン屋には八時頃ころに着いた。しかし、そこはもうすでに閉まっていた。ほかに近くに食堂はない。仕方なくその日の夕食は非常用に持ってきたレトルトの五目御飯を暖めて食べることで我慢した。
 そして、疲れのせいもあって、食べ終わってすぐの九時頃には眠りに就いた。


八月十八日 第三日目 天気:曇りのち晴れ

 まだ日も昇っていない朝五時十分に目が覚めた。市街地近くでキャンプをしたのは初めてなのだが、場所が悪かったのかかなり大変な夜だった。まず第一に風。夜のうちに海からの風がとても強くなってきて小型のドームテントは今にも壊れんばかりにひしゃげて、二〜三人用テントの内部はまるで一人用テントにようだった。それは何とか許せるとしても、もっとひどいことにテントの生地が風に煽られてバサッバサッとすごい音をたてている。うるさくて全然寝られない。これで中に人が入っていなければ間違いなく飛ばされていただろう。それに加えて電車の騒音もあった。設営地から下流へ百メートルほどの所をJRの橋が架かっているが、真夜中にも貨物列車などが頻繁に通るため朝まで何度となく起こされ浅い眠りしか出来なかった。
 近くの公園の水道へ洗面に行ってから、昨日と同じレトルトの五目御飯を食べ、荷物の整理をしていたら、いつのまにか七時近くになっている。急いでテントをたたみ、七時ジャストに出発した。
 馬入橋の先から右にそれる一号線から別れ、道なりに真っ直ぐ直進するとやがて平塚市街のアーチのついた小綺麗な商店街に入る。それも平塚警察署のあたりで終り、次第に下町的な住宅街へと入って行く。この辺には〈番町皿屋敷〉のお菊の墓〈お菊塚〉があるという。テレビや舞台でこれを演じる時は必ずお菊の墓の供養を行うというが、その墓がこんな近くにあるとは知らなかった。さっそくそちらへ足を向けたが細かく区分けされた住宅街の中、それを見付けることは出来なかった。朝早いので通りに人はおらず場所を尋ねることもできそうにないので諦めて先へ進む。
 平塚市と大磯町の境のところでさっき別れた一号線と再び合流するが、そのすこし手前のところに〈平塚宿問屋場跡〉という石碑があった。そこは現在は消防団の建物になっているが、江戸時代を表現しているのか一風変わった造りになっている。そして消防車が入っていると思われる車庫のシャッターには品川宿の商店街と同じように広重の絵がプリントしてあった。
 一号線にぶつかると前方にこんもりとした高麗山が見えてきた。先ほど見た広重の絵に描かれていた山と同じだが、緑に覆われたこの山は江戸時代から変わっていないのだろう。実際の景色を見てすぐに同一のものと理解できた。このあたりには〈高来(たかく)神社〉というのもあり、なんとなく気になったが、案の定、ここは古代の「高句麗」(こうくり)と関係しているらしい。新羅(しらぎ)などに滅ぼされた高句麗の王族や家来がこの地に逃げのびてきたのでそのような名前が残っているのだという。
 藁葺き屋根の家なども見掛ける静かな通りを歩いていると小さな商店街に出た。大磯駅前だった。駅の様子は見えなかったが、何かぱっとしない寂しい感じの所だった。
 今まで旧東海道沿いに歩いているはずなのだが、このあたりで大磯宿の見付跡や本陣跡などは見ることがなかった。しかし、ここで気がついた。自分は今まで〈化粧坂〉(けわいざか)を目指して歩いていたはずだ。それなのにそこを通る前に大磯まで来てしまった。地図を確認すると、どうやら高麗を過ぎたあたりで、裏の旧道に入るのを忘れてしまったらしい。お陰で有名な名所を一つ見落としてしまった。
 九時二十二分 〈鴫立沢〉を通過。ここは何やら偉い人が建てた鴫立庵というのがあるらしいが、なんとなく私有地っぽかったので眺めるだけで素通り。そこから四百メートルほどの所、大磯中学校前あたりには太くて大きい立派な松が立ち並ぶ松並木があった。立て看板もあり、どうやら江戸当時からある松らしい。またこのあたりには〈関東ふれあいの道〉というこの史跡などを巡るコースが整備されていて所々に立て看板と地図が設置してある。東海道を歩く上で大いに参考になった。
 またこのあたりでは家があまり密集しなくなり空き地の多い落ち着いた感じの住宅街になった。ここら辺では築後数十年かと思われる古い家がよく目につく。やがて〈八坂神社〉などを過ぎ、〈血洗川〉という何かいわくのありそうな小さな川を渡ると、山と山の間の谷間のような切り通しに出る。右側のみ岩盤が露出している。そこを過ぎるとすぐ右へ曲がる道があるが、そこを入る。すると『城山公園』というきれいな公園があるが、人はあまりいないようだった。
 そこを道なりに進むと大きく右へ曲がるが、そちらではなく直進する細い道を取る。両側に家の立ち並ぶ坂を登ると、先ほどの国道に平行するように道が限りなく近づき、やがて合流する。その合流地点近くには古そうなぼろぼろの道祖神が立っていた。
 その先五百メートルほどで二宮町に入るが、この付近にも松並木があった。そこには「東海道の松並木 みんな大切にしましょう」と書かれていたが、どう見てもそこら辺に普通に生えている松と大きさが変わらない。先ほど見てきた大磯中学校前の松が江戸時代の松並木だとしたら、これは明らかに近年植えられたものだ。やはり本物と比べたら全く貫禄がない。そういえば昨日藤沢市と茅ヶ崎市の境のあたりにもこのような松並木が作られていた。行政区の境にこれを作るのは何か意味があるのだろうか。
 二宮駅を過ぎ一時間ほど歩くと〈押切り坂上〉という道路標識が見えたので近付いてみると、その道路脇に一里塚跡を発見した。〈史跡 東海道一里塚の跡〉と墨入れした字が鮮明に彫られている新しい石碑で、その側面には『江戸より十八里』とあった。もう七十二キロも来たことになる。
 ここで荷物をおろし少しの休憩と合わせて地図の確認をした。それによると押切り坂というのは国道にある坂ではなく、現在いる所から左へそれる細い道にある坂をそう呼ぶらしい。先ほどの〈押切り坂上〉の標識を見ると国道一号のこれから下る坂が押切り坂というのだと錯覚するがそうではないようだ。危なく化粧坂のように道を間違えるところだった。
 細い住宅街を抜ける道を歩くと、一軒の住宅の敷地内に〈松屋本陣の跡〉という碑が見えた。しかし最初は自分の目が信じられなかった。ここは宿場ではないし、それにそれがある家というのが最近建てたばかりと思われるきれいな少女趣味的な造りの家だったからだ。それにその家の敷地面積があまりに狭すぎる。昔の本陣跡だったらもっと広いはずだ。しかしわざわざそう書いてあるのだから多分本当のことなのだろう。
 その怪しい本陣跡の先、数十メートルから急な下り坂となる。この下りの少し手前の駐車場の隅に道祖神が数基奉られていたが、そのわきに〈子供道祖神〉などと書かれていて、小学生のときに私も作った経験がある石の彫像(白い軽石のような削りやすい石を使う)が置いてあった。地元の小学生が作ったのだろう。おもしろい顔をした道祖神だった。
 押切り坂は急な坂というだけであっけなく終わった。自転車で下れば十数秒といった程度で、おりるとすぐに国道一号線に合流した。そして押切り川を渡るともう小田原市で、今日の設営予定地の酒匂川まではあと五、六キロほどしかない。ちなみに今の時刻は十一時三十五分だ。この調子だと午後二時くらいには着いてしまうだろう。今日は二十キロ程度しか歩かないと分かっていたので、なるべく疲れないようにとゆっくり歩いてきたはずなのに。あまり早く着きすぎても暇を持て余すだろうから、ここからはさらにゆっくりと、まさに牛歩で行くことにした。
 このあたりから時々、住宅の切れ目に海が見えるようになった。それがあまりに間近にあるので驚いた。いままで密集した住宅で隠れていて全然気が付かなかったが、思いもよらず海が見れたということで気分が新鮮にされた気がする。(今まで山ばかりだった)
 海の見え隠れする道をのそのそと歩いていると住宅がとぎれ、海が一望できる坂の上に出た。沖には同じ青い旗をたなびかせている大きな船の船団が見えた。坂の下には〈車坂〉という標と、

「鳴神の声もしきりに車坂
     とどろかしふるゆう立ちの空」               太田道灌

という歌が書かれた板があった。空が少しでも曇っていたらこの歌に共感を覚えたかもしれないが、あいにく今日は雲一つないかんかん照りの真夏日だ。
 さっき下りてきた車坂の分の標高を取り戻すかのようなきつい坂を登り切ると国府津駅前の商店街だ。もう十二時過ぎなので昼食の分のおにぎりをここのコンビニで買い込んだ。食べる場所は昨日と同じようにどこかの神社でと思っていたら、幸い目の前に「○○神社はこっち」というような看板があったのでそれに従い、少し奥まったところにある静かな神社の境内で昼食にした。樹木の多い境内はとても涼しい。暑い中、セミの大合唱などを聴くととても暑苦しく不快に思うことがあるが、こんな時に聴くと良い夏の風物詩に思えるから不思議だ。持ってきた資料の本などを眺めながらのんびりと一時間程度そこにとどまった。
 森戸川を渡ってしばらくの所に〈一里塚〉というバス停があった。そういうからには立派な一里塚が残っているのだろうと思い、あたりをきょろきょろ探しながらゆっくりと進んだが、それらしきものは見当たらなかった。
 その先は取り立ててなんの目立つ所もない道が続き、そこをバス停のベンチを見付けるごとに休憩を繰り返しながらゆっくり進んだが、結局午後二時には酒匂川(さかわがわ)に着いてしまった。昨日のぎりぎりの行程を考えると今日は実にあっけなかった。
 さて、設営地探しだが、やはり橋の下が落ち着くのではないかと思い、横浜よりの橋の下へおりてみたが、そこの特等席と思えるスペースには既に段ボールや毛布で何者かにより陣取られていた。しかたなく小田原市街寄りへ行くと橋の下あたりは広場のようになっていて、結構夜でも人が来そうな気がする。そこで川寄りの草むらのなかに小さなスペースを見付け、そこにテントを張ることにした。途中のコンビニで買って来た雑誌を眺めながら中でごろごろとしていたが、四時ごろ小田原市街の銭湯へ出掛けた。
 浜町四ー八ー五、確かにここは〈万年湯〉のはずなのだが、どう見ても普通の住宅にしか見えない。近くの八百屋の人に聴くと「昔はそうだったんだけどねえ」ということだった。せっかく一キロ以上もあるいてきたのに。仕方がないので別の銭湯の場所を聞き、すこし遠いらしいがそちらへ行ってみた。しかし何とこちらも既に無くなっていた。結局さらに遠くの銭湯に行き、やっとの思いで湯にありつけた。一時間近く探し回って来たのだから、とできるだけ長い間銭湯で粘り、結局テントに戻った時はは八時近くになっていた。
 この日は銭湯探しの途中で買った缶詰などをおかずにレトルトの白米の夕食を食べ、長い一日の活動を終えた。

  この日の歩行距離は十九・五キロ+α(銭湯探しの分)


八月十九日 第四日目 天気:朝のうち曇り 後に晴れ

 朝五時に起床。昨日は風も騒音もなく、快適に眠れた。しかし目を覚ましてびっくりした。狭いテントの壁に、蚊がなんと二十匹以上もとまっていたのだ。そういえば昨日の夜中、蚊がうるさくて寝袋の中に頭ごと潜り込んだ記憶がある。とりあえずそれらの蚊を一匹ずつ叩き潰していったのだが、全部殺し終わった頃にはてのひらが血で真っ赤に染まっていた。
 この前、西丹沢でキャンプした時も、また昨日の相模川でも蚊はいなかった。それがなぜここに限ってはこれほどに蚊がいたのだろうか。掌の自分の血を見ているうちに、こんなに大量に血を吸われていたのかと気持ち悪くなってしまった。
 今日はいよいよ箱根越えだ。実際には関所どまりで箱根を超えるわけではないが、そう自分に言い聞かせると、いかにも江戸時代を旅しているような気分になれる。
 昨日の朝起きた時は、ザックのせいで肩のあたりが筋肉痛のように痛くなっていたが、一日経った今日はそれもすっかり良くなっていた。睡眠も十分でベストコンディションで箱根路に臨めそうだ。
 六時五十分 出発。小田原は今回の行程では江戸以外の唯一の城下町だが、やはり他の宿場とは違う雰囲気があった。今までの宿場の多くは街道にそって細長い町という感じだったが、ここでは東西南北の奥行きが感じられる。
 また町の所々に、その場の昔の町名が刻まれた碑があり、そこの簡単な説明が付されていた。例えば昨日いった銭湯のあたりは〈大工町〉いい、かつて職人たちが多く住んでいた町だという。こういうのがあると町を歩いていて楽しいが、ただ欠点としてそれは現在の町名と異なっているため住所を元に家を探すときなど結構混乱してしまう。現にきのう風呂探しで迷った。
 途中変な石碑を見付けた。道路に面している何の変哲もないオフィスビルの敷地内に二メートルほどの石柱が立っていたのだ。それには「紀元2600年記念碑」とだけ書いてあった。それほど古い物ではないのだが一体どういう意味があるのだろう。いまは西暦紀元一九九三年だ。だとすると日本国の紀元から数えてということなのだろうか。確かいまは皇紀二千六百数十年だったような気がする。もしかしたらそこは右翼の本部か何かなのだろうか。
 浜町三丁目と四丁目の境の所で旧道は左へほぼ九十度曲がる。さらにその突き当たりで今度は右へ同じく九十度近く曲がる。これがもともとなのか、それとも後で道路の整備が行われた際こうなったのかは分からないが、今まで歩いてきたが、こんなにおおきく曲がる所は珍しい。
 いかにも城下町っぽい整然とした通りを一・五キロほど歩き、箱根板橋駅の手前の二本の線路高架橋の間にあるの公衆便所の所から細い旧道へ入る。
 旧道右手に公園のようなものが見えたので入ってみるとそこは〈延命子育地蔵尊〉だった。本殿の右に巨大な木彫りの大黒天があり、不気味な巨大な顔でにやにやと笑っていた。その姿は有り難い神様というより、酒を飲んで浮かれて千鳥足で歩いている中年のおじさんといった感じだった。そこの境内のベンチで休憩し、水を十分に補給してから出発した。
 そこを出るとすぐに元の道に合流し、早川に沿って歩いた。いままで主だった川として多摩川、相模川、酒匂川、そしてこの早川を見てきたが、東京から離れるのに比例して川がだんだんきれいなっていることに気付いた。相模川の水は油が浮いていて、それでレトルトを暖める気にはなれなかったが、酒匂川の澄んだ水では全く抵抗がなかった。釣りをしている人の数でもそれを知ることができた。
 やがて高架橋が架かっているのが見えるが、旧道はその下にある踏切を渡って裏の道へ入る。ここは細い道のわりには車がひっきりなしに通り、歩いているととても怖い。たぶん抜け道か何かなのだろう。このあたりは山に面した古そうな町並みで、家の間の至る所に「どぶ」を見掛ける。都会の方のどぶというと汚い水がどんよりと溜まっているということが多いが、ここのはみな湧き水のような澄んだ水が音を立てて凄い勢いで流れている。
 風祭の駅の裏を過ぎ入生田(いりゅうだ)に近付くと〈招太寺〉があり、この寺には数年前の大河ドラマの主人公、春日局が埋葬されているという。
 入生田駅の少し先の踏切を渡ると元の大通りにでる。その先には箱根新道との分岐点があるが、その手前から右の山側を通る細い旧道に入る。この道はすぐ右手が山の斜面で笹などが生い茂っている。その道もすぐに終わり箱根湯本駅に向かう道に出るが、このあたりに「箱根路」と書かれた道標があり、いよいよ山道に入るんだと実感が沸いてきた。遠くを見渡せば薄い霧に覆われた箱根の山々がそびえたっている。
 湯本駅の手前の三枚橋で早川を渡る。本道から分かれたせいか車通りは一気に減った。しかし、そこから急な上り坂が待ち構えていた。息が上がらないようゆっくり登って行くがやはりそれでもきつい。湯本小学校を経て〈早雲寺〉についた所で休憩。すこしでも疲れが軽減されればと思い、ビタミンの多くはいった缶ジュースをのむ。(効果があったかどうかは不明)
 早雲寺の少し先で公衆温泉浴場を見つけた。そこには「どなたでも入浴、休憩できます。ハイキングの途中などで是非お寄りください」と書かれている。地元で管理しているようなので、もしかしたら無料かもしれない。(蔵王でそういうのに入ったことがある)一瞬、寄って行こうかと考えたが、まだ歩き始めて数時間しかたっていないのでそんな甘えは許されない自分を叱り、先へ進んだ。
 旧道は途中一本下の道を通るところがあるので、長いじめじめとした階段を降りていったが、そこには〈玉簾の滝〉というのがあり、その周りは観光化され、大きなホテルが立ち並んでいて人通りも結構あった。そこを歩いていると〈箱根観音〉があり、そこに「石畳まで五分」とあったので楽しみに歩いていったのだが、結局元の道へ合流するまでに石畳などはなかった。そしてその合流地点のすぐ前がとんでもなく急な上り坂で、さっき長い階段を降りて、またその分を坂で上るという、はっきり言って無駄な寄り道ではないかと苛々した。しかし昔は皆そう歩いていたのだからしようがない。
 その坂を登り切ると〈奥湯本〉のバス停があり、その近くに「元箱根までは九・五キロ」と書いてあった。長かった旅もあと十キロほどでゴールだ。
 やがて道には民家などの建物は一切なくなり、ただときおり観光客の乗用車か工事のダンプカーが通る完全な車道になってしまった。歩く人など一人もいない。この辺も以前として坂は急で、十歩登って一回休むという牛歩を越えて、カタツムリのようなスピードで登っていった。
 やがて路肩に砂利敷の駐車場のようなスペースが見えたが、そこには〈初花ノ滝碑〉という半分草に埋もれた石碑があった。そんな滝がどこにあるのだと見回してみると向かいの山の中腹に白い筋のような滝が見えた。それがそうらしい。しかしあんな山の中の滝をよくぞ見付けたものだ。
 その先、少しの所に〈須雲川〉という小さな集落があった。その入り口にあった案内板によると、ここは東海道の整備と旅人の世話をするために人為的につくられた集落だという。確かにそうだ。こんなきつい山の中に自然発生的に集落などできるはずがない。今歩いてきてそう思った。
 この集落の終りの所から、下に流れる須雲川を渡るがその橋のたもとから〈自然探勝歩道〉というのが始まっていて、この先の所々に石畳がこの歩道として整備されているという。とりあえず今は橋を渡り、この先の〈女転し坂〉へ向かう。
 橋を渡ると道は右へ大きくカーブする。すると目の前には〈箱根大天狗山神社〉というやけに金と赤を使った派手な神社が現れる。こういうのは見た感じケバイだけで、まったく有り難そうではない。いかにも軽い感じがする。
 この先が女転し坂だ。乗馬の女性が転落したからこう言われるらしいが、舗装道路となった今はその様子はとても想像できない。
 女転し坂の上の東京電力の施設のまえから右手の山中へ入る歩道がある。これが最初の石畳で、いちぶに江戸時代のものが残っているという。この石畳、趣があって良いのだが舗装道路で歩きなれた足にはでこぼこして歩きにくいものだった。
 その石畳は百メートルほどで終わってしまい、もとの道路へ戻ったが、すぐに続きの石畳への入り口が現れた。急な下りの道を転ばぬよう注意して降り、小さな川の木橋を渡ると本格的な石畳がはじまる。ここには所々に解説板があり石畳の内部構造や排水機構について説明してあった。やがてこの道が舗装道路に出たと思ったらいつのまにか〈畑宿〉だった。
 ここは寄せ木細工の里として知られている。それほど広くない集落の中に寄せ木細工の店が幾つもあった。ここにある本陣跡にはかつての庭園が残されていて、無料で見ることができる。なかに小さな滝が作られているが、それほど広い庭園ではなった。しかし、開国当時の領事ハリスはこれを見て大いに喜んだと書かれていた。
 畑宿の終り辺りで道は右へ曲がるが旧道の歩道が、そこを直進するように残っている。ここに入ってすぐに二十三里目の一里塚跡が杉林の中にあり、そこからずっと石畳が続いている。このあたりの石畳は、文久二十三年、孝明天皇の妹の和宮が徳川家に降家する際に整備し直したものだという。しかし関東大震災によりほとんどが壊れてしまったのを最近自然歩道として復元し、所々に残った昔の石畳はそのまま残したのだという。
 道なりに歩いて行くと舗装道路を何度も横切りながら十二寺三十分に〈甘酒茶屋〉についた。これは江戸時代から続いているという茶店で、何年か前に火事で建物は失われてしまったが、現在それを復元して営業を続けている。
 店の前の路肩には何台もの車が止まっていてなかは人でいっぱいだった。昼食のつもりで四百五十円の餅を頼んだが、普通サイズの切り餅が二つ皿に乗っているだけだった。観光で来た人が試食のつもりで食べるのにはちょうど良いのかもしれないが、食事代わりには少し物足りなかった。
 隣にある〈箱根旧街道史料館〉へも行ったが、いろいろ興味深いものが展示してあった。キャンプ道具一式を背負って来た私としては古代の旅の持ち物に興味を持った。それらを見ると少なくとも私の荷物よりは少なく見えるが、何に使うかよく分からないようなものも結構あった。また古代の飛脚のことが書かれていたが、彼らは東海道五十三次(約五百キロ)を四十八時間で駆け抜けたという。ちなみに普通の人は歩くと十二、三日かかったという。
 史料館を後にし、前の舗装道路を登っていくとそれが右に曲がるところで再び旧東海道の歩道に入る所がある。ここから元箱根までは約四十五分とある。あともう一息だ。
 アップダウンの激しい石畳を延々と歩くと急に開けた場所に出た。どうやらこの辺りの最高地点のようで、数台のベンチと「箱根八里は馬でも越すがこすに越されぬ大井川」と刻んだ変わった形の石碑があった。また遠くに目をやると〈二子山〉という二つの椀を伏せたような面白い形の山が見えた。 そこからゆっくりと下って行くとやがて二つの舗装道路を横断し、さらに道なりに急な歩道をおりると、ついに芦ノ湖畔を通る車道に出た。そこには樹齢三百七十年という大杉が立っており、今まで見て来た松並木の代わりにここでは杉が植えられたという。
 車道を関所に向けて歩くと、土産物屋がならぶ元箱根のバスターミナルに出た。その少し先には、江戸から二十四里目の一里塚跡があり、ついにここまで歩いてきたんだ、としばらくその一里塚跡の前に立ち尽くした。しかし最終目標は関所だったはずだ。気を引き締めて最後のラストスパートのつもりで関所へ向かった。
 途中ほぼ完全な形で昔の杉並木が残っているところがあり、そこの杉は、さきほど見た樹齢三百七十年の杉と同じくらい太く高いものばかりだった。その並木も箱根公園の所で終り、あとは普通の道を歩いた。
 ついに二時三十分、箱根の関所に到着。最初は半信半疑で自分でも完歩できるか分からなかった約百キロをついに歩き通した。まだ信じられないくらいだ。とりあえず復元した関所や、関所史料館などにも入ってみたが、ここまで歩いてきたということで頭が一杯で展示物などは見ても頭には入らなかった。 しばらく関所の周辺をぶらぶらとしていたが、自分でも何のためにそうしていたのか分からない。目的を果たした今、あとはもう帰ることしか残っていないはずだ。しかしバス停のほうには足が向かわなかった。
 しかし、いつまでもそうしていても仕方がない。箱根湯本行きのバスが出る元箱根のバス停まで戻り、結局三時三十分にバスに乗り込んだ。バスが発車し、車窓から今まで四日間見てきたのとは違う景色の動きを見ていて、今まで一度も妥協することなく自分の足だけで歩き続け、積み重ねてきたものがその時崩れおちるような気がした。もしこれが終点の三条大橋まで歩いていたらもっと別の感じ、征服感、達成感のようなものを抱いて帰途につけたかもしれない。一見長いように思えた箱根までの道は結局中途半端だったのかもしれない。しかしこれで旅は終わった。

 四日かけて歩いた距離は、江戸時代の記録によると二十四里二十八丁(約九十七・四キロ)、地形図で計ったところ一〇〇・五キロだった。

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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
By あきば・けん
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