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   〜 旧東海道徒歩の旅 第1章 〜

◆ 東海道を巡る1年半




東海道との出会い

 東海道 ― 江戸時代の主要な道路。徳川家康が作ったらしい。
 以前に知っていた東海道のことといえばこんな程度だった。なのに、なぜ東海道を歩いてみようと思ったのか。
 それは、高校時代に出された社会の課題がきっかけだった。
 高校2年時の歴史の授業で夏休みの宿題が出された。課題は3つあり、どれを選んでもいいようになっていた。

  1. 明治初期の三大洋食(カレーライス、コロッケ、トンカツ)について調べ、実際につくって食べて、レポートせよ。
  2. 江戸時代には主要道路として様々な街道があった。それを実際に歩いて具体的にレポートせよ。
  3. 自分の家系やスポーツの起源、その他なんでもよいので、なにかの歴史を調べて、まとめよ。

 これらのうち、クラスのほとんどの人が飛びついたのは、1の〈カレー作り〉だった。いちばん簡単そうだと踏んだのだろう。
(実は明治時代のカレーにはカエルの肉が使われていた。しかし誰もそこまで再現した人はいなかったようだ。その気になればカエルなんて中華街で手に入るのに。まあ、当然といえば当然か)
 この3つの選択肢をみたときにぼくは考えた。
 (なるべく人と同じものはやりたくない。カレー以外のものとなるとなんだろう? 昔の街道と言えば、そういえば家の近くに東海道っていうのがあったはずだなぁ…)
 近所にある祖父の家の前が旧東海道だと聞いたことがあるのを思い出した。
 それは横浜市西区の青木浅間線と平行する裏道で、両脇を民家に囲まれた静かな道だ。主要道となっている青木浅間線に比べるとあまりに鄙びてる。これがかつての大動脈だったといわれても、どうもピンとこなかったのを覚えている。
 さいわい、この旧東海道周辺(神奈川宿から保土ヶ谷宿あたり)は、小さい頃からの行動圏内だった。そのあたりを適当に歩いて終わらせよう、そう安易に考えて、東海道を歩くことを決めた。つまり、発端は「簡単に終わらせよう」という気持ちだけだった。
 まずは図書館での予備調査から始めた。いくら「簡単に終わらす」と言っても、やるだけのことはきちんとやりたい。
 現存する東海道は国道1号線という形で知られているが、旧道となるとあまりピンとこない。旧道に関する資料なんかあるのだろうか。とにかく図書館へ向かった。
 意外にも東海道を扱った本は多かった。紀行・旅行ガイド・歴史などのコーナーに東海道と名のつく本がたくさん見つかった。
 それらの本から東海道についてある程度の知識は得ることができた。しかし、どれをとっても概要を取りあげたものばかりで、実際に歩くための資料、局地的な細かい情報となるとなかなか見つからない。そして苦労の末に見つけたのが、「東海道五十三次の事典」(森川昭・三省堂)という本だった。
 この本はすばらしい。旧道を全部歩いた人が書いているだけあって、東海道始点の江戸日本橋から終点の京三条大橋までのすべての地図が掲載されている。国土地理院の5万分の1の地形図に太線でトレースしてあるのだ。それでいて文庫本サイズ。実際にこの本を片手に歩くことができる。そして道々にある史跡などの位置と、その説明まで載っていて、本当に歩く人を意識した本だ。
 なにも、この本で初めて知ったわけではないのだが、東海道およそ500キロをすべて歩き通した人がかなりいるらしい。コマ切れで歩き続けて十年かかったおばちゃんとか、連続で20日余りかけて踏破した人。
 でも、よくよく考えれば、江戸時代の人は皆、この距離を歩いていたのだ。
 東京から京都までを歩く。それはいったい、どれほどのことなのだろうか。まったく見当がつかなかった。ひとえに(昔の人はすごいなあ)という以外はなにも言えなかった。
 しかし、現代において、それを歩いた人がいたという点は見過ごせない。昔の人だからできたという言い訳は通用しなくなる。
 よっぽど根性の入った人なんだろうなとは思いつつも、なんとなく自分もやってやりたいという意識がもたげてきた。もともと歩くのは嫌いじゃないし、あまり人がやらないようなこととか、「バカみたい」と言われるようなことが好きだった。
 最初は神奈川宿から保土ヶ谷宿あたりの数キロを歩くつもりだったのに、そんな些細な対抗意識から、もっと長距離を歩いてやろうという気になってきた。
 (さて、実際どれほどを歩こうか)
 この点で悩んだ。現代人で500キロを歩いた人がいたといっても、さすがにそれを真似するのはきつい。調べてみると江戸時代人の脚力でさえ12から13日ほどかかる道のりだ。現代人の記録では15から20日程かかっている。
 夏休みの40日間を使えば、不可能ではないかも知れない。でも、いかんせんこっちは日頃なんの運動もしていない文系を生きてきた人間だ。
 500キロすべてとまではいかなくても、ある程度人を驚かせる距離。そこで最低ラインで100キロという目標を定めた。
 調べてみると、東海道の始点・東京の日本橋から100キロというとちょうど箱根関所のあたりだ。江戸時代の記録で日本橋〜箱根間の距離は二十四里二十八丁とある。一里が3.93キロなので、メートル法では97.4キロとなる。区切りもいいので箱根までを歩いてみよう、そう決めた。
 そのようなわけで、ぼくの東海道との付き合いが始まった。これが1993年、高校2年の夏だった。この時の詳細については、第2章にページを譲る。

 4日間かけて無事に箱根へたどり着くことができたわけだが、この時はどうも不鮮明なものしか残らなかった。
 この時、(どうせ歩き通せやしないだろう)という冗談半分に近い気持ちのまま歩き続けた。そしてそんな気持ちのまま目標に到達してしまった。驚きと信じられないという気持ち。それとなにより「あっけない」という気持ちが大きかった。現実として「100キロを歩いた」という実感は沸かなかった。
 最初から気になっていた「東海道を全踏破した人」のことが引っ掛かっていたのかもしれない。
 自分で定めた100キロという目標は達成したものの、東海道全体からみれば5分の1でしかない。この後にはまだ5倍もの距離が残っているのだ。そんな全体の中の一部を歩いただけで〈達成感〉なんかを感じてしまっていいのだろうか・・。
 箱根までの4日間、文明の利器といえる電車・バスなどに頼ることなく、ひたすら自分の足だけで歩き続けた。60センチという歩幅だけで100キロという膨大な距離を積み重ねてきた。しかし、箱根から帰途、バスに乗ることによって、すべてがリセットされてしまったように感じられた。
 4日間、慣れ親しんだ時速4キロ。人間にとって最も自然な速さ。それに比べてバスはあまりに速すぎた。
 車窓からの不自然な光景を見るうちに、
 (いつか全部歩いてやる。今度こそ全部歩き切って本当の意味での達成感を味わってやる)
 という気になってきた。

決意を抱いての挑戦 しかし挫折

 その年、1993年の12月、京都三条大橋まで歩くために、再び箱根関所に立った。
 残りの400キロを歩いて、東海道を全踏破するつもりだった。
 この時は、冬だったので装備がかさんで大変だった。防寒の衣類と寝袋。その他で荷物は全体で23sにもなった。いま思うと明らかな過剰装備だった。冬場の野宿という経験がなかったので、あれもこれもと考えるうちに、ここまで膨れ上がってしまった。
 背中に伸しかかる重さは、そのまま足腰の負担となり1日の歩行距離に大きく影響した。実際、情けないことにこのときは6日かかって150キロほどしか歩けなかった。京都までは辿り着けず途中でリタイアした。その原因を作ったのがこの重い荷物だった。後に詳しく書くが、静岡の掛川あたりでドブにはまって転んだ。その際にくそ重い荷物のお陰で、膝を強打して痛めてしまったのだ。
 実に情けない話である。でも実際、体重の5分の2もの荷重がかかっていると、思うようには動けなくなる。歩くという動作にしても一歩一歩を意識しなければならないし、機敏な動作などしようにもできない。自分の意思とは、すべてがワンテンポ遅れる。
 一応、このときは「膝を痛めた」という理由で引き返した。関節部は下手すると一生残るといわれるからだ。途中で引き返すのは悔しい。でも先のことを考えて勇気を持ってリタイアした。
 ……ということにしておいた。しかし、それは実は無理やりの理由づけだった。
 この怪我をしなくても心の底ではずっと帰りたいと思っていた。独り、寒さ、寂しい田舎。朝から晩まで歩き続けるつらさ。それと(こんなものを歩いたところでどんな意味があるんだ)という気持ち。
 いま思うと旅の後半では、ずっと引き返すための理由を探していたようにも思える。そんな時にドブにはまったことは格好の言い訳となった。
 確かに、全体重+αの力で膝を打ったのは痛かった。しばらくビッコを引いていたのも事実だ。でも歩けなかったわけではない。事故現場から掛川の駅まで10キロ弱は歩いている。
 結局、このときは自分に負けたのだ。なんだかんだ理由をつけても、自分が弱かっただけだった。その時は正当なことをしたようでも、今となっては大きな後悔、また汚点のように思えて恥ずかしい。また自分にくやしい。後で考えると、つくづく自分の弱さを感じる。

最後の挑戦

 かかとの骨折などのため、ややブランクをあけて1995年2月、東海道への挑戦を再開した。
 前回の敗因である、『弱さ』を意識して、最初から「自分との戦い」を念頭に置いていた。甘える気持ちをなくして、苦しくて当然という覚悟を決めておいた。
 人間、気弱になると、驚くほどうまく『逃げ』の理由をこじつける。自分でもその欺きに気づかないほどに。そのことは前回で痛いほど知ったので、今度は「なにが何でも歩き通す」と心に誓った。
 たとえ、足などを痛めようとも、それで死ぬようなことはない。限界に達したとしても、意識のある限りは絶対に歩き続けてやる。それをいつも考えながら歩いた。
 このときは、ただ歩き通すということ以外に、都合があって12日間という時間制限があった。それゆえにこの旅は今までになく苦しいものだった。
 2月という寒い時期ではあったが、今までの経験を活かして荷物はできるかぎり削った。テントを省略し、寝袋だけで泊まることにした。また余計な快適さを追及した道具も徹底的に排除した。
 さらに今回は、今までに歩いた掛川から先を歩くのではなく、初心にかえって東海道を最初から最後まで、全部を連続して歩くことにした。それに始点を日本橋ではなく、本来終点の三条大橋にかえた。
 まず、交通機関を使って京都三条大橋まで行き、そこから東京を目指して歩く。
 京都方面から見るなら、ぼくは掛川から先はすでに歩いた道である。どうせ旅の後半になると疲れも最高潮に高まっているはずだ。そんなときある程度知っている道となれば、先が見える分、いくらかでも楽なのではないか、そんな計算を踏んでのことだった。
 それに東京から歩くなら、京都に着いても手放しでは喜べない。着いたら着いたで今度は横浜へ帰る手段を探さなければならないからだ。歩き通すなら歩き通したでなにも考えずに喜びに浸りたい。そんな気持ちもあって、京都出発の逆走コースにした。
 この選択は正しかった。掛川というのは東海道のだいたい真ん中あたりになる。最初は半分の250キロを歩くのもやっという感じだった。歩いていても先が見えない分だけいつも不安を感じていた。また道を間違えたことも幾度もあった。
 少し話は脱線するが、この道を間違えるというのは本当に頭にくるものだ。頭にくるだけなら良いが、意気消沈させられるのには困った。
 重い荷物と疲れから、道中では一歩でも少なく歩きたいと考える。先にカーブが見えればそのインコースを取るようにしたりといったことを大マジメにしてしまう。だから道を間違えて引き返すなんてことはもってのほか。絶対にそんなことはしたくなかった。道を間違えても、前に進む方向で本道に戻るコースを考えた。たとえ誤った道に数十メートル足を踏み込んでしまっただけでも、引き返すという無駄な労力は使いたくなかった。
 それでもどうしても引き返さなければならない場合もある。どうあがいても引き返さざるを得ない時。そういうときは泣く泣くもと来た道を戻った。
 この時、自分はなにをしていているんだろうと強く感じる。実にバカバカしいことをやっているなと自分を責める気持ちが強く働く。それが道を間違えたことについてだけであればよいのだが、この旅そのものについても疑問を投げ掛けてしまう。この時に味わう虚脱感には堪え難いものがある。
 帰ろうと思えば簡単にそうできるのだ。脇を頻繁に走っているバスに向かって手を挙げればよい。自宅の横浜までつながっているJRの線路もすぐ脇を走っている。それに自分には歩き続けなければならない理由なんかはない。そんな帰るには恵まれ過ぎている環境がつらかった。
 自分にとっては試練となる「道を間違える」ことは、当然ながら初めて歩く道、すなわち前半部分に多い。それゆえに京都から掛川までの道程は長く、つらく感じられた。前半は前半で「頑張るぞ」という意思が比較的残っているからまだ助けられた。これが心身ともに疲れきった後半だったらどうだっただろうか。それを考えてもやはり逆走コースは正しかった。
 すでに知った道である後ろ半分。そこでは気分はとても安定していた。以前に見た風景を懐かしんだりして、自分のテリトリーにいるかのような気分で安心感すらあった。
 1日の行程を終えるのを決めるのは、「いい寝床にありつけるか」という点だった。今日はここまで歩こうとか大まかな目安は決めておくのだが、1日を終えるためにはその日に泊まる場所が決まらなければいけない。しかし、それは地図上から探し得るものではなく、実際に自分の目で見てはじめて判断できるものだ。
 だから場合によっては、もう休みたくて休みたくてしようがないのに、寝床が定まらないために延々と彷徨い続けるということもある。これもまたつらいものである。このときばかりは本当に倒れる寸前までいったこともあった。だから泊まる場所の見当をつけるというのは非常に重要なものなのだ。その点すでにロケハン済みの後半コースでは、楽だった。これが先ほど書いた「先の見えることの安心感」の意味だ。
 そんなわけで、事前のある程度の計算などが効を奏して、東海道をすべて歩くことができた。
 最初は「絶対に無理だ」と、夢のまた夢という感じに捉えていた東海道連続踏破を、いつの間にか果たしてしまっていた。
 東海道を全部歩くなんて、普段から体を鍛えていて筋骨隆々の人が苦労してこそ、初めて成せる業かと思っていた。それが、ろくすっぽ体も動かしてない見るからに〈運動音痴タイプ〉の自分にできたなんて信じられない。
 少なくともぼくは、「何か運動をなされているんですか?」などと尋ねれるような風貌はしていないし、事実、足などは気持ち悪いくらいに細い。これが女性であれば、非常に望ましいことなのかもしれない。去年の5月に踵を砕く骨折をして入院したのだが、そのときに看護婦さんから「まあ、きれいな足ね」と褒められたほど。
 この一連の旅を通して、感じたこと、学んだことはたくさんあるが、その一つに「人の持つ無限の可能性」というのがある。また「精神力はなにものにも勝る」という点も合わせて述べておきたい。
 最初、ぼくは500キロを歩くことなんか不可能だと思った。さらにいえば100キロを歩くことすら無理じゃないかと考えていた。でも実際やってみたら簡単にとはいわないができてしまった。つまり、ぼくはできないと「思った」のであって、できなかったわけではないのだ。
 歩いているときは本当につらかった。いま思うと、なに甘っちょろいこと言ってるんだという感じだが、そのときは「これ以上のつらさがあるだろうか」と本気で思った。これ以上歩いたら人間の限界をこえて死んでしまうのではないかとすら思った。でもそれはすべて「思った」だけであって、実際は問題なかった。
 歩いているときは、ずっと自分の限界に挑戦していた。これでもかこれでもかと自分を痛めつけるようなことを続けてきた。それで本当の限界に達したかと言うと、決してそんなことはなく、限界に近付こうとすればするほど、遠退いていった。
 そこで感じたのは「人には無限の可能性がある」ということだった。つまり人に限界というものはないのではないかということだ。もちろん生身の人間に水中で生活しろといっても無理なものは無理だ。でも、そう飛躍的なことではなく、人が今持っている能力をどこまで伸ばせるかという点においては限界はないと思った。
 それでも限界を感じるのは、自分でそれがあると思い込んで、勝手に境界線を引いてしまっているだけ。
 20kg荷を背負って1日に歩ける距離は25キロ。どんなに頑張っても25キロが限界でそれ以上は無理。最初はそう思っていた。それはある程度の経験から得られた限界点だった。
 でも「死ぬ気」で思いきって限界に挑戦してみたら、あっけなくそれは破られた。これによって限界点は30キロに伸びた。
 これこそ本当の限界だろう、そう思ったが、この記録もまた破られた。こうして最終的には70キロまで歩くことができた。こうなると最初の25キロというのいったいなんだったのだろうか。それは自分に甘えていただけ。自分の弱さゆえに自分の持ち得る能力を発揮していなかっただけなのだ。この70キロというのだって今までに確認した範囲だけであるから、まだまだ伸びる可能性は十分にある。というより、まだまだ歩き続けることができるだろう。(その後24時間以内に無補給で120キロまでは確認しています)
 今は、たまたま『歩き』を例に挙げたが、これは実生活のどんな面にでも言えることでないだろうか。どうせできないといって諦めていたものでも人間の持つ能力からすれば十分に可能だった。そんなことがいくらでもあると思う。ただしそれにはいくらかの苦しみが伴うかも知れない。それでもそれから逃げなければ、人が不可能と言えることは極端に少ないのではないかと考えさせられた。
 このとき同時に感じたのは、先ほども述べた「精神力はなにものにも勝る」という点だった。疲れきって歩いている時というのは恐らく肉体的には限界に近いものがあるのだろう。もしかしたら限界を超えていたのかもしれない。体を思い通りコントロールするのができないようなこともあったからだ。そんな時でも不思議と体を動かすことだけはできた。よく人が口にする「もう一歩も動けない」という状態にはどうやっても、お目に掛かることはできなかった。
 それにいくら疲れていても、何か外的要因で励みが得られた時、―たとえば見ず知らずの人に親切にしてもらったとき― などは不思議と疲れやつらさをまったく感じなかった。
 その変化が自分でも気持ち悪いくらいで、「なんでも気の持ちよう」というのを痛感させられた。
 これほどに気持ち、つまり精神の作用を強く感じたのは初めてだった。だからその精神力を鍛えてやれば、どんなものごとにも対処できると感じた。
 精神的強さは肉体的弱さをカバーできる。そう考えるときに『火事場のくそ力』というのを思い出した。生理学的にどういう作用が働くかなんてことは知らないが、その場の緊迫した状況によって通常を超えた力が発揮されることは事実だ。
 もし、その緊迫した状態というのを仮想的に作り出してやることが自由にできれば、それはすごいことではないだろうか。実際にそんなことができるかはわからないが、この『歩く』ということを通して、その可能性を感じた。

全体を振り返って

 東海道を歩いたと言って人がどう評価するかはわからない。
  (そんな歩いてなにが楽しいんだよ、ヒマな奴だな)
 と思っている。まあ、そんなところだろう。
 確かにいくら歩いたって、日本の政治が変わるわけじゃないし、社会に貢献するわけでもない。
 まったく意味の無いこと、そうかもしれない。でも周りからどういわれようとも、それが自分にとって大いに価値があったのは間違いない。
 この一連の旅を通して学んだことはたくさんある。こうして文章で表現できるのも、そのうちのごく一部だけで、考え方やものごとの捉えかたなどの微妙な点で実に多くのものを得た。それらは本当にかけがえのないものだと思う。野宿を繰り返しながら歩き続ける。そんな特殊な状況に身を置いたからこそ気づいたことがあまりに多すぎる。
 最後の旅で12日間、トータルで22日におよぶ旅だったが、その間の日々は本当に密度の濃いものだった。普段の生活の何年分にも相当するような印象すら受ける。普通なら何年もかかって知ることを、ごく短い間に学ぶことができたように感じる。
 『知る』とか『学ぶ』ということの近道は、『きっかけ』にあると思う。本を読んだりとか様々な形で『学ぶ』ことはいくらでもできるが、それは今までにあった自分というものの上に積み重ねていくという部分が大きい。いうなれば自分という大きな枠の中の密度を高めるだけであって、その枠を抜け出すということはなかなか難しい。
 でも、何かの『きっかけ』があれば、驚くほど簡単に、その枠を飛び越えることができる。枠を飛び越えるというのは、今までになかった新しい観点・視点を身につけること。そうするとなにもかもが新鮮に見えて、今まで知っていたことに対しては、より多角的に、また深く掘り下げて考えられるようになる。そして何より、今までは見向きもしなかったことにも、目を向けられるようになる。
 本などの書物が、そのきっかけとなることもあるが、どうも本だと、その飛躍度は限られている。やはり実際に体験してみることに勝ることはない。その点で旅行が与える影響は大きい。
 そんな意味で、この旅はぼくにとって、とても大きなものだった。
 自分から『きっかけ』を求める行為、それが旅だとぼくは思っている。積極的に自分から働き掛けること、それはとても大切なことだ。その姿勢を忘れたくない。
 しかし、なにもそればかりではない。
 日常生活の何気ない出来事、例えばテレビの映像、映画、本、人と接すること。それこそ身の回りのすべてのものごとが、何かの『きっかけ』になり得る。要はそれに気づくかどうか。気づいても見過ごしていることはないだろうか。
 忙しくなく先へと進んでいる世の中で生活していても、立ち止まることを忘れたくない。心を動かされることに出会ったら、迷わず立ち止まってみる。
先を急ぐあまりに大切な物を失うことのないように────

 最初は小さな好奇心からはじまったものであったが、それは大きなものを残していった。

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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
By あきば・けん
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