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◆ 言葉っておもしろい




 いまこうして文字で書いていること。またふだん話すこと。そのどっちも言葉。集団で生活する以上、これがないと、とっても不便だ。
 言葉=意思を伝える手段のひとつ。そう言い切ってしまうと、どうも味気ない。
 言葉というのはもっと応用性が広いものだ。
 言葉には、その額面以上にいっぱいの情報を含めることができる。言葉にどれだけのものを盛り込めるか、それを考えるだけでも楽しい。

 文章でなにか伝えるとしても、いろいろなやり方がある。
 まずは、言いたいことをストレートに書くやり方。つまり論文みたいなやつ。
 あと、文学作品なんかにみられるやり方で、ひとつの架空の物語を通して、暗になにかを訴える方法。とても印象深かったものに、ミヒャエル・エンデの「モモ」がある。映画にもなった小説だ。
 のんびりとした平和な世界に、時間銀行というおかしな銀行の勧誘員が現れた。彼らは、実は『時間泥棒』で、言葉巧みに、人々から時間を奪っていった。時間を奪われた人達は、一切の無駄を許さない、忙しない人になっていった。そうするうちに平和だった町に嫌な空気が流れ始めた。でも主人公の少女モモだけは純粋な心を奪われなかった。彼女は闇の中の一点の光だった。人々は彼女を通して、少しずつ光を取り戻していった。
 と、まあ、こんなような話だ。だいぶ昔に読んだ本なのでうろ覚えなのだが。
 でも、この本は私にとってかなり衝撃的なものだった。
 これは童話に近い空想小説なのだが、そこに描き出されている世界は今の世の中そのもの。余裕やゆとりをなくした現代人。無駄をよからぬものと徹底排除する社会。そう、私たちの心の中には『時間泥棒』が潜んでいるのだ。
 そうした現代への警告。それを、あんな形で表現するなんて。
 ストレートに表現したら、きっとこむずかしい文明批判になっただろう。そんなものが、万人に読まれることは期待できないし、「なに、偉そうなこと言ってるんだ、こいつ」と一瞥に付されたかも知れない。
 そんな内容を物語に織り込むことで、絶大な効果をあげている。そうすることにより強烈なアピールになっている。暗に訴えるというと、遠回しに遠回しにいうとか、ぼやかすという感じがするが、そんなことは決してない。そうすることによって、作者のメッセージはより鮮明に強烈に浮かび上がっていた。
 表現にはこんなやり方もあるのか、まさに衝撃だった。
 あと文章表現には、もっと抽象的なものもある。
 抽象的な表現といえば、まず音楽とか絵画を挙げることができる。先ほどの文章表現よりも、はっきりしない分だけ理解しにくい部分も多いが、受けとる方の感性次第では、とても大きなインパクトを与える。理性を飛び越して人間の感情面にストレートに働きかけてくるからだ。
 すこし大袈裟な例かもしれないけど、音楽を聞いたり、絵画や映像を見たりして、わけもわからず感動することがある。なんでそんななんでもないことで涙が出てくるんだろう? 頭じゃちっとも分かってないんだけど、感動している。そんなことがある。
 それらには、かなわないけど、文章でもそうしたタイプの表現が可能だ。物語なら物語にそれを盛り込むのだが、さっきの「モモ」な形でメッセージを盛り込むのではなく、全体が作る雰囲気をひとつのメッセージとしてしまうのだ。
 文章の個々の内容は関係ない。全体が織り成す雰囲気が実にいいものに仕上がっている、そんな文章に出会うことがある。たぶん、技術的には、かなり高度のものになるんだと思う。
 そんな本は、読んでるときは、現世界から完全に離脱する。本を読むのではなく本の中に入り込んでしまうのだ。そして、それを読み終え、本を閉じた時に元の世界に戻ってくる。でもしばらくは、自分の所在がわからず、なんとも不思議な気分を味わうものだ。
 いくつか例を挙げたが、文章にはこんなように「遊べる」要素がたくさん詰まっている。それを難しく言うとブンガクなんて呼ばれるんだろうけど、遊び感覚でも構わないと思う。
 ひとつのことを言うのでも、いろんな形で表現できれば、すごく豊かな感じがするし、楽しい。
 そんなゲーム感覚で、いろんな手法を身に付けられたらいいなと思ってる。文章を自由自在に扱えたらどんなに楽しいことだろう。自分で世界をつくりあげることもできるんだ。
 エッセイストは自分の世界を外部に拡張している。でも小説家はそれに加えて、自分で新たな世界を作り出している。
 とにかく、文字を武器に、なんでも表現できる人間になりたい。






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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
by あきば・けん
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