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◆ 愛について




 週に一回、一般教養で「文学」の講義を取っている。
 この文学の先生というのがかわった人で、初回の講義で、テープデッキを持って教室に入ってくるなり、なんの前置きもなしにいきなりテープを再生した。松田聖子の曲だった。もちろん学生はみんな唖然とした。なんだろうこのおっさん、講師? 現業員? というかんじだった。
 その曲のタイトルは覚えていないが、聞いてる方も恥ずかしくなるような古い曲で、「あなたが、『す、す、すきだ』なんて舌をもつれさせながら言うもんだから、わたし笑っちゃったわ。でもそんなあなたが、わたしも、ス・キ」なんて感じの歌だった。
 この曲の歌詞を使って授業を進めようと思ったのだという。先生はさんざんいいわけしていたが、結局はお気に入りの曲なんだそうだ。
 はじまりからしてかわってるなと思ったが、それは最初だけではなく、その後も一貫してイカれた講義だった。
 文学といっても、ちっとも文学らしくない。
 文学の究極のテーマは愛である。そこまではいい。でもその先はブンガクのブの字も出てこない。ただひたすら愛を語るのみ。終始「愛」を主体に話が進むのだ。
 宗教的に見た愛の形、民族的な視点からの愛、映画に見る愛の形。それらに文学の影は見られない。
 そして、あげくのはてが、「愛」をテーマにレポートを書けときたもんだ。
 ここでもまた、文学にはいっさい言及しなかった。文学のレポートであるからには、なんらかの文学作品の中で愛がどう展開しているかを論ぜよ、なんていう課題が出てもおかしくない。
 それなのに「愛について」であればなんでもよいという。できれば「愛とはなにか」を書いてほしいといっていた。自分の体験を書いてもいいし、ふだん考えていることでもいい。枚数も形式もいっさい問わない。
 文学の講義というよりは、愛学とか恋愛論講座とでも呼びたくなるような講義なのだ。

 それはさておき、突然、愛について論ぜよなんていわれても、はたと困るものがある。
 愛という言葉はよく耳にするものの、真面目にそれを考えようとするのは、なんとなく気恥ずかしいものがある。
 余談だが、一緒に講義を受けている友人が、レポートの内容に困って、女友達に電話をしたという。
 「ねえ、愛ってなんだろうね」
 突然、そう切り出されたその女友達はしばし絶句したという。慌てて事情を説明して、なんとか納得してもらったんだそうだ。
 とまあ、愛について語るというのは、つまるところそういうことなのである。

(以下、提出したレポートの内容です)




1・ 愛の種類

 愛とは実に広い意味を持っている言葉だ。愛着というと物などに対する愛といえるし、国家に忠誠を尽くすいわば国家を愛するという愛国心という言葉もある。
 愛という言葉だけに限定しても、親子間の愛、男女間の愛、人間同士の愛、動物に対する愛、等々。実に様々な対象に対する愛が存在する。
 それじゃあ、それらに共通する愛の本質とはなにか?
 考えれば考えるほど難しい。人間を主体とするという前提はいいとしても、その対象の範囲をどこで区切るか、まずそこでひっかかる。
 自分から見て、人間関係の範囲に限定するか、それとも動物、物、組織にまでひろげるか。また神や仏と言った超人間的なものをも含めるか。
 宗教的に考えるなら、絶対的な愛ともいえる超人間的な対象に対するものからはじめるべきだし、あくまで人間を中心にとらえるなら人間関係における愛からはじめるべきだ。
 この出発点からして、重要なものだし、とても難しい。宗教的に捉えるとしたら、愛は絶対という形でみえてくると思う。でも人間中心なら、愛は相対的なものでしかないから、時代に応じて、また価値基準の変化によって無限の愛の形が存在する。そうなると愛の本質はこうだと断言するのは非常にしづらい。
 宗教から考えていくにしても、どの宗派の視点で捉えるかによって結果はまた違うものになってしまう。だから、今回宗教はパス。本当はそう安直に判断してはいけないと思うのだが、やはり内容として重すぎるので、それはこれからの課題としたいと思う。


2・ 愛の本質

 人間中心の視点で考えた愛。つまり、すべての人の日常に深く関わる形での愛。さらに人間関係における愛の形に限定して考える。
 最初に結論っぽいことをいってしまうと、人間関係がプラス方向にもっとも高まった状態、それを愛と呼ぶのではないかと考えた。
 あとは、その個々のつながりの形態、言い換えれば親と子、男と女、友達同士などの関係の違いによって、その愛の表現に差異があるというだけである。
 だから、母性愛や異性に対する愛情が『愛』なのではなく、『愛』が母性愛や異性に対する愛情に現れるのである。これをはっきり区別したい。
 二十歳前後の年齢でいうなら、愛というとすぐ恋愛という形をイメージするかもしれない。でも恋愛にしろ友情にしろ大差はない。根底にあるのは同じ「愛」の気持ちなのである。例えば、男同士の愛というと、その言葉からは、なにかいかがわしいものを感じるが、友情と表現するならガラリとイメージが変わる。そんな世の中の風潮からくる潜在的なイメージに惑わされることなく、ここでは純粋な言葉として愛を捉えるていきたい。
 愛というものがあって、その様々な表現がある、と書いた。いま、その愛の部分の中身を知りたいわけだが、我々は日常的に『愛』と『愛の表現』が交じり合ったものを、非常に曖昧な形で愛と認識している。それは逆にいうなら、我々が愛と思っているものから、それぞれ独自の『表現』を取り去るなら、最後にはすべてに共通する愛の本質が残るのではないだろうか。
 そう考えてみると、最後に残るのはなんだろうか。
 そう考えると、それは恐らく利他の気持ちであろうと思われる。
 人間というのは本質的に利己的なものだ。自分のことが一番かわいくて、自分を第一に守ろうとする。それが原則のようなものだとすると、時として人間は例外的な行動をとる。自分を犠牲にしてでも人の益を図ろうとするのだ。
 そういった例外的なことは、先ほど挙げたような愛の形にみられる。ありふれた例で恐縮だが、火事で取り残された子供を助けに火の中へ飛び込む母親、友のために命を掛けた友情の話「走れメロス」、ちょっと古くさいが恋愛の常套文句である「君のためならたとえ火の中、水の中」。
 だから、この自分の益より他人の益を優先するという気持ち=利他の気持ちが愛の根底というか本質ではないかと考えた。
 これがほとんど最終的な結論なのだが、もう少し話を発展させていきたいと思う。


3・ 愛の程度

 愛の度合いといっては、やや語弊があるが、どの程度自分を犠牲にできるかというのは大きなポイントになるだろう。
 本当の愛、嘘の愛なんて表現はしたくないが、愛という言葉が比較的軽々しく使われている以上は、愛の程度についても考えなくてみなくてはいけない。
 その愛の程度が問題となるのは、先ほど挙げた三つの例だと恋愛と友情だろう。親子関係はほとんどが絶対的なものであるし、だいたいの時代において不変のものであった。
 愛に程度というものがあるのか。この人のことはこれだけしか愛してないけど、あの人のことはこんなに愛してる。そんなことがあり得るのかということ。
 まったく根拠のないことではあるが、愛というのは人間関係の最終的な状態を表すという気がする。愛は過渡的なものではなく、結果である。
 結果にもある程度の幅はあるかもしれないが、それほど広いものではない。
 だから、愛していると言ったら愛してるのであって、どれだけ愛してるという量的なものではないと思う。その愛しているという状態は、先ほどの自分をどれだけ犠牲にできるかということで考えるなら、命を張れるかということになるだろう。
 その人のために命をなげうつ覚悟があるか否か。自信を持ってイエスと答えられるのならきっとその気持ちは愛と呼べるものだと思う。
 では、そこへ行き着くまでの段階的なものはなんなのか。それは愛に行き着くまでの過程だ。愛が始まってそれが完成されるまでの過程ではない。
 理想論としての結論になってしまうかもしれないが、愛というのは、そう軽々しく口にできるほど軽いものではなく、ものすごい重みを持っている事だと思いたい。


 ……… とまあ、少しイカれた講義ではあったが、こんなふうにいろいろと考えさせられたわけで、結果的にはおもしろい講義だったと思う。あんな講義をもって文学の単位が優と認定されてしまったのはいささか不本意ではあったが。






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焚き火のまえで 〜山旅と温泉記
by あきば・けん
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