H13.5.30(水)
とちぎ読売(山想記)掲載
”梅雨入りは何時頃かな?”と話題にのぼるこの時期になると、急速に雪解けが進んだ山上の湿原にも花の季節がやってくる。
花といえば尾瀬、尾瀬といえば水芭蕉。 唄にもうたわれ、山を知らない人たちでも、この花の名だけは知らない人はいないくらいである。
毎年たくさんの人たちが列をなして訪れ、この花の前を通り過ぎてゆく。 かつて私もそうであったように、本当の価値もわからないまま、ただ有名だから、水芭蕉の群落があるから、果ては観光バスのコースに入っているからと、街の観光コースのような感覚で・・・。 立ち止まって花の図鑑をみることもはばかられ、ただただ並んで歩くだけ。
時を越えたかけがえのない自然資産を気軽に沢山の人達が目に出来ることは素晴らしい事には違いないが、これでは少し寂しすぎる。 ましてそれによって取り返しのつかないものが失われるとしたら、どこか間違っているのではないかと思ってしまう。
”遙か”になってしまった花の尾瀬は、想いを寄せるだけにして、もっぱらあまり名も知られていないような湿原やお花畑を楽しんでいる。 多少人出が多いところであっても、曜日や時間を選ぶ事によって、静かに花と向き合うことが出来る。
山を歩き始めた頃は、雨降りほど嫌な物はなかった。 雨具をつければ蒸れるし、濡れた物は乾かないし、風が吹けばポンチョはまくれるし、初心者の山屋にとっては何とも不快な事だらけだった。 でもいつ頃からか雨降りも気にならなくなり、朝から降っていれば出掛けないにしても、途中で降られても気分が暗くなることも無く、むしろ景色の変化さえ楽しめるようになって来た。
雨に寄って育まれ、種を残すために競って開花する湿原の植物は、雨に洗われた瑞々しい緑を背景に輝きを見せる。 こんな状況で可憐にそして力強く咲く花に出会えたとき、満足度は最高潮に達する。 一斉に咲き誇る群落も勿論素晴らしい。 でも記憶に残るイメージは、なぜかこんな状況で出会えた”一輪”が多い。
山歩きを始めた三十年前からすれば、山(登山道)の状況も様々に変化し、植物を踏み荒らす気遣いも少なくなり、それと共に足下もあまり汚れず、雨具などの装備の進歩により濡れや蒸れの不快感もかなり解消されて来た。 山慣れも手伝って、様々な不安感も解消され、心静かに雨の草花を楽しめる様に成った気がする。
雨と花、そして想いを寄せる尾瀬があって、今の山歩きがある。 花の善し悪しもさることながら、たった一輪の花であっても静かに向き合えることが近頃の楽しみとなっている。* *