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ここでは、猛禽類の保護について私の私見を述べさせてもらいます。猛禽類の生態的な地位における重要性は、ほとんどの人において異論はないだろうと思います。ここでは、どこにでも書いてあるようなことはほおっておいて、冷静に考えて『猛禽類の保護』がどのような形で実現されるべきか? 現実を踏まえてそのあるべき姿を見出していこうと考えています |
猛禽を知る上での、時間軸の大切さは折に触れ書いてきたつもりであるが、保護についても、時間軸を考慮していかなければならないことは、いうまでもありません。 この「時間軸を考慮する」とは、どういうことかというと、猛禽は、種毎に人間の生産活動に応じて増減を繰り返したり、種の適応性(多様性)に伴い、時代の変遷を乗り越えてきたことについては、いうまでもありません。これらの歴史をわかる範囲で知っておいたり、知り得ないことについては推測でもかまいませんが、『変遷がある』ということを理解しておくことが、まず重要となるでしょう。 それとともに、『森林棲の猛禽』と『草原棲の猛禽』と生息環境が相反するような猛禽がいるということも、前提に考えねばなりません。 これは、どういうことを現しているのかというと、わかりやすく現在と40年ほど前を比べてみます。 現在(2001年) ・木材の蓄材量が、史上最高といわれるほど、樹木(森林)が豊富にある ↓↓↓↓↓ ・森林棲猛禽であるハイタカ属やクマタカなどの森林棲猛禽にとっては、最適な森林状態であると考えられます。ここで最適とはしているが、ここでは森林の林分区分(針葉樹・落葉広葉樹等)や、個々の生息地についてそのすべてに言及しているわけではなく、広い意味での日本の山林の森林化と言う意味で、捉えてあります。ですから、時にはブナ林の発達が、イヌワシの狩場の創出になるとか、人工針葉樹林化が及ぼす影響などということは、前提としていなくて、あくまでも『森林化=森林棲猛禽類の生息環境の増加』という意味で考えています。 ↓↓↓↓↓ ・当然のことながら、草原棲の猛禽であるイヌワシ・ノスリなどの減少が考えられます。 40年前(1961年) ・大量の木材需要があった時期で、戦災復興はほぼ片付いた時期であり、日本中で燃料が薪・炭から科学燃料に移管が終わったころの時期でありますが、大規模拡大造林政策により、現在の10倍以上(面積で)にも及ぶ森林が大規模に伐採をされだした中間時期といったところでしょうか。 昭和10年代から続く戦争・生活・震災復興への木材需要がひと段落し、家々での使用燃料も化石燃料化し、森林が経済的価値を一番有していた時期と考えても良いでしょう。当時の写真などを見てみると、現在の里山といわれているところでも、当時は樹木はほとんどなく、禿山とスギ・ヒノキ・カラマツなどの新植地が広がっていることがわかります。また、奥山においては、大規模拡大造林政策による広大な伐採が行われていた最盛期で、よくこんなところまで・・・・・というようなところまで伐採の斧が広がっていました。 また、この頃から、内陸部にある自然草地にも、経済的な理由で植林が始まり、内陸部での自然草地の減少が始まりだしました。 このような風景の写真や、地元の人の話を聞いていると、現在、オオタカが生息しているような場所でも、当時などは、いなかったであろうと考えられる場所も多く。また、今はクマタカの生息地なのだが、当時は、イヌワシがいたらしい・・・・などという場所も、いくつか知っております。 ↓↓↓↓↓ ・つまり、この前後の期間が、伐採地などの人工的な草地が一番増えた時期であり、ここ2000年くらいの間の日本で、一番草地(伐採地を含む)が広がっていた時期と考えられます。そのため、イヌワシやノスリなどの草原棲の野生動物が一番多く、逆に森林棲のオオタカなどの猛禽類が一番少なかった時期であることは、容易に想像がつくであろう。現在オオタカが営巣している里山と呼ばれているところなどは、この時期かこの少し前(20〜30年前)に植林をされたところがほとんどで、植林をされる以前は、薪炭林に利用されていたために、樹木はある程度の若さで更新され、現在オオタカの営巣地として主力となっている50〜70年生の針葉樹林などは、今ほどはないことが容易に想像することができます。 それに対して、草地や伐採地を狩場として利用するイヌワシやノスリなどは、森林伐採による圧力は考えられるものの、内陸部においては、狩場の増加という面ではプラスの作用を果たしていたことは間違いないであろう。 では、大正時代や明治時代はどうだったのか?・・・・・あるいは、江戸時代はどうなのか? もっと遡って、500年前は?・・・・・1000年前は?・・・・・ということも考えられますが、資料もなく、検証できそうもない時代と比較するのは、ナンセンスでしょう。幕府や藩が森林を管理していた江戸時代なんていうのと比較をする必要はなく、少なくとも中央集権の時代になった明治以降の変遷くらいは、比較対照と考えても良いかもしれません。 少なくとも、明治・大正時代は、維新による狩猟の解禁、貿易輸出による大型鳥類の乱獲、製紙業の興隆、殖産(主に畜産業)に伴う与害鳥獣の駆逐等のインパクト要因を頭に入れておくことも必要かもしれません。また、それぞれの時代においても森林の利活用方法も少しずつ変わってきているはずですし、地域によってもその利活用の差がでていることは、いうまでもありません。つまり、この時代を考える上では、『林業』の始まりが、キーワードになるのではないかと思っています。江戸時代までは、森林の大部分は、幕府や藩の直轄地であり、植林という行為は、ほとんどされていませんでした。森林の大部分は薪炭林としての利用がほとんどだったのでしょうし、今のように経済的な利用をしていた藩は、260余藩のうち数藩しかなかったはずです。明治の中央集権政府ができて、幕府や藩の所有する森林が中央集権化された政府の所有することになり、今のような『林業』による利活用がされるようになったのです。この利活用の方法や規模などは、地域によってだいぶ変わってきているため、そのすべてを調べたり、紹介することはできません。 このように、考えていくと、時代により森林の利用の仕方・管理の仕方が変わってくるのが、おぼろげながらにも見えてきます。また、それに伴う時代の変遷により、種毎に増減を繰り返してきていることは、容易に想像ができます。 このように、人間の生産活動が及ぼす影響により、その時代の環境に応じた猛禽をはじめとする野生生物が、種により増減を繰り返しながら全体として動いているのが『自然』である・・・・ということを、まず認識することが重要であると考えています。 |
2番目に大切なことは、目標の設定ということになるでしょう。猛禽を保護管理をしていく上で大切なこととしては、目標の設定になります。ある種の保護管理を図ろうとする場合には、のべつ幕なしにすべての個体を保護していくというような考え方では、真の意味の保護管理にはあたりません。種によっては、すべての個体を保護していかなければならない状況も出てはきますが、最初から、『保護=すべての個体の保護』ということでは、何にも考えなくて済んでしまいますし、適切な保護管理という考えとは、少し違うのではないのかと考えています。 さて、目標の設定ということに戻りますが、この設定をするにあたっても、大きくは2通りの方法が考えられます。 1つ目は、最大の数値の設定です。これはある種を保護管理するために、何羽まで増やしていこうという考え方です。 2つ目は、最小の数値の設定です。これはある種を保護管理するために、最低限のラインを決め、そこまで以上に増やすという考え方です。 1つ目の、最大の数値を設定するという方法の特徴は、個体数がかなり多い種に適用されることが良いかもしれません。当然のことながら、数字もかなりアバウトなものにならざるを得ません。 それに対して、2つ目の最小の数値を設定する場合には、個体数が少なく、ある程度の個体数が把握されているもに限ります。シマフクロウ・ワシミミズク・オジロワシ・イヌワシなどの個体数が少ないものが対象となるのではないかと、考えています。 少しわかりずらいものになってしまいましたが、いずれにせよ、個体数をどれくらいに保てば良いのか? どれくらいが適正数なのか? ということを掲げることで、保護の目標も明確になるし、誰でもが納得できることではないでしょうか。 世間では、『猛禽の保護』が、声高に叫ばれていますが、はたして、すべての猛禽に対し等しく同レベルの保護が必要なのか? 順序は関係ないのか? どこまで(いつまで)保護が必要なのか? これらを、キチンと示さなければ、いつまでたっても、行き当たりばったりの保護政策が続くことになるでしょう。 |
2001.11.04 OPEN | |
2002.2.1 RENEW |