〜キミ ガ スキ・2〜




 7月も半ばに入り、研究室は地獄の季節を迎えた。
 クーラーは一応あるものの、試験に火を使うことが多いのでほとんど効かない。しかも、試験には劇薬を扱うこともあるため、耐酸・耐熱を兼ねた白衣を脱ぐわけにはいかない。白衣は当然長袖だ。みんな汗を拭いながら仕事をこなす。
「そういえば、今日、例の大学生がくるらしいわよ」
 試験が一段落し、みんなで休憩室で休んでいたとき、エミリアがハンカチで汗を拭きながら言った。カミューはコーヒーを一口飲んで首を傾げる。そういえば少し前に課長がそんなことを言っていたような気がするが、今日だったとは。すっかり忘れていた。

 この会社は、その年卒業予定の大学生が研修と称して、夏休みを利用して一週間くらい実験をしにくることがあった。業種が特殊なため、大学からの申請が多く、会社としても体裁上、断れず引き受けているらしい。しかし、そうやって研修にきた学生は一人もこの会社に入社していない。単に勉強しにくる、という感じらしかった。

 去年は歳が近いということでカミューが学生の担当をさせられたが、高校生でももう少し知ってるんじゃないか? というレベルの低さだった。単に、企業で研修しました、という肩書きがほしいだけだという態度がありありでうんざりした。しかも最終日に行われた恒例の懇親会と称した飲み会では、周りは年配者もいるのに、学生のノリまるだしで一人飛ばしたまま酔いつぶれるまで飲み続け、騒ぎ続け、礼儀もなにもあったものではなかった。

「去年みたいなのはごめんだけどね……」
 カミューが苦笑いして言うと、エミリアも思い出したのか、
「あれはちょっとひどかったわねぇ」
 と、肩をすくめる。そして、ふふ、と、笑うと、
「きっと、今年もカミューくんが担当ね」
 と、言った。今度はカミューが肩をすくめる番だった。
「勘弁してほしいなぁ。今年はニナちゃんがいいんじゃない?」
 冗談っぽく隣で試験中のニナに話を振ると、ニナは慌てて首を振る。
「嫌ですよぉ! あ、でも、いい男だったら考えるかも」
 彼女らしい物言いにみんな笑う。カミューも合わせながら、

 やっぱり俺にまわってくるんだろうなぁ……

 と、少し憂うつに思っていた。
「なんだ? ずいぶん賑やかだな」
 そこに課長が入ってきた。カミューは振り返って……硬直した。
 課長の後ろに、『彼』が立っていた……。


 カミューはまだ信じられない思いで、呆然と目の前の人物を凝視していた。
 ……あんなに焦がれて……でも、もう会うことはないとあきらめた人……。
「こちらはマイクロトフ君だ。一週間、よろしく頼むぞ」

 課長がみんなに紹介するとマイクロトフは長身を折り曲げて深々と頭を下げる。
「マイクロトフです。短い期間ですが、いろいろ勉強したいと思いますのでよろしくお願いします」
 その場にいた全員が拍手をする。カミューはその音に我に返って、慌てて自分も手を叩く。拍手が鳴り止むと課長はみんなを見渡し、カミューのところで目線を止めた。
「じゃあ、彼の面倒は、カミュー、頼んだぞ」
「あ……はい」
 カミューは半ば上の空で生返事をした。
 嬉しい、とか、ラッキー、という感情よりもどうしよう……という混乱でいっぱいだった。けっこう図太い神経をしていると自分では思っていたが、そうでもなかったらしい。
 紹介が終わり、みんながぞろぞろと解散しはじめるとマイクロトフがカミューに近寄ってきた。カミューの目の前に立つともう一度頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「え? あ、ああ、うん……。こちらこそ……」
 まだ混乱状態から立ち直れなかったカミューは思わず右手を差し出した。マイクロトフがきょとん、とした顔をしたのを見て、しまった! と思う。外人じゃあるまいし、挨拶に握手をするなんて習慣、自分にだってない……。

 な、なにやってんだ……、俺……。

 カミューが慌てて手を引っ込めようとすると、マイクロトフの方が一瞬早くためらいがちに手を握ってきた。これでいいのかな、と伺うように少し上目遣いでカミューを見る。

 か、かわいい……

 その表情に、大きいけどなめらかな感触の手に、カミューの心拍数が一気に上がる。
「じゃ、じゃあ、とりあえず、白衣を……。俺のがもう一着あるからそれならたぶん、入ると思う……」
「あ、はい。すみません」
 カミューとマイクロトフの身長差は数センチといったところか。カミューが182cmだから、190近いのかもしれない。


 今年4年生ってことはうまくいけば同い年、浪人とか留年していれば自分より年上になる。去年は相手が年上なのがわかっていたし、別段興味もなかったから適当に『さん』付けして、ですます調で話しかけていた(敬語、というほど気は使ってなかったが)。
 しかし、マイクロトフとは仲良くなりたい。
 彼は礼儀正しく自分に話しかけてくる。このままいったら自分だけが親しく話しかけるわけにもいかない。だが、歳が近いのは確かだし、なんとか……。

 あれこれ考えながら、マイクロトフを着替えさせるためにロッカーのほうに案内していると、マイクロトフがためらいがちに声をかけてきた。
「あの……、この間はありがとうございました」
「え?」
 突然の言葉にカミューが驚いて隣を見ると、マイクロトフはちょっと赤面していた。
「覚えてないと思いますが、春に見学に来て、そのとき俺が質問したんです。それに答えていただきました」
「覚えていたんだ……」
 呆然とカミューが口を開くと、今度はマイクロトフがカミューが自分を覚えていたことに驚く。こういう会社なら見学なんていくつもあるだろうし、ましてや学生ともなれば学校名すら覚えてないと思っていた。
「え、ええ。わかりやすくおしえてくださって、ありがとうございました」
「あ……、いや。
 あ、あのさ、いくつ?」
「え?」
 唐突な質問にマイクロトフは意図がわからず首を傾げる。カミューは、あああ、しまった、主語がなかった、と慌てて言い足す。普段からどんな相手とも流暢に会話できるという自信があったのに、なんというざまだろう。
「あ、ええと、歳」
「あ、21です」
 どうやらストレートらしい。となれば晴れて同い年だ。
 カミューは心の中で万歳しながら会話を続ける。
「じゃあ同い年だね」
「えっ?!」
 カミューの言葉にマイクロトフが驚いたような声を上げた。
「俺、もうすぐ22なんだ」
 とびきり、と自分で思える笑みを作って言うと、マイクロトフは面食らった顔をしてこっちを見ている。なにかまずかったろうか……、とカミューが不安になって見つめ返すと、マイクロトフはハッと我に返ったように目をしばたいて、赤面した。
「す、すみません、てっきり年上だと思っていたので……」
 マイクロトフの言葉に、カミューは、ああ、と納得する。昔から周りに、大人びてる、と言われていたが、特に就職してからは歳を聞かれるとよく驚かれた。
 マイクロトフが目を白黒させてる姿がおかしくて、カミューはちょっとからかうような笑みを浮かべる。
「ひどいな。俺ってそんなに老けてる?」
「す、す、すみませんっ! そ、そういうわけじゃ……」
 とたん、あたふたとするマイクロトフにくすくす笑う。だいぶ余裕を取り戻せてきた。
「あのさ、せっかく同い年なんだし、仲良くやろうよ。敬語抜きでさ」
 カミューの申し出にマイクロトフはとまどったような表情になる。
「え? で、でも……」
「研究室に同い年がいなくてつまらなかったんだ。だから気楽につきあってもらえると嬉しいんだけど……」
 カミューは言いながら、ちらり、と、マイクロトフの反応をみやるとマイクロトフはかなり悩んでいるようだった。普通、気を使うな、と言われれば楽なはずなのに、律義な性格の(と、見た)彼はいろいろ考えているのだろう。
「ね? 俺もマイクロトフって呼ばせてもらうからさ。俺のことも呼び捨てでいいよ」
 さりげなく名前を呼んでみて、その響きに胸が熱くなるのを感じた。初めて会ったとき以上に彼に魅かれてる。
「あの……でも……」
「ん?」
「俺……まだ名前を聞いてないんですが……」
「!!!」
 ……一生の不覚。


 マイクロトフがクリーニングしたての白衣に袖を通すのを、カミューは半ばうっとりと見ていた。

 彼はなんと白が似合うのだろう……。

 清廉なイメージにぴったりだ、と、カミューは思う。ボタンをかけおわるのを見届けて声をかける。
「どう? 小さくない?」
「ええ。……っと、だ、大丈夫、だ」
 マイクロトフはまた敬語になりそうになって、言葉が多少つっかかった。何度めだろう……とカミューはくすっと笑う。
「よかった。研究室ではいちお俺がいちばん大きいからね。それが小さいと困ったよ」
 でも、ちょっと小さいかもね、と袖を少し引っ張る。マイクロトフは恐縮したように少し頬を赤らめた。

 かわいい……。ほんとにかわいい……。

 カミューはくらくらしながら腕を引く。
「とりあえず、みんなに簡単に挨拶しよう」
「あ、ああ」
 これ以上二人きりでいたら人生踏み外しそうだった(すでに踏み外しているとは気づいていないあたりが重症)。


「エミリアさん、ニナちゃん、ちょっといい?」
 仕事を再開していた二人にカミューが声をかける。二人は振り返って、カミューの隣にマイクロトフの姿を見つけると慌てて手を止めて向き直った。
「マイクロトフ、こちらがエミリアさん。専門学校の出で俺の同期なんだ。で、こっちがニナちゃん。去年入ったばかりだよ」
「よろしくね、マイクロトフくん」
「よろしくですー」
 二人がにっこり笑って挨拶すると、マイクロトフはちょっと赤くなって頭を下げた。その様子にカミューはムッとする。
 美人タイプにエミリアさんに反応したのか、かわいいタイプのニナちゃんに反応したのか……。
「マイクロトフさんはー、彼女いるんですかー?」
 ニナが無邪気に問うと、
「えっ?!」
 と、マイクロトフはますます真っ赤になる。カミューは質問の内容には拍手をしたかったが、自分にその答えを受け止める準備ができてない、と、慌てて会話の遮りにはいった。
「ニナちゃん、そういう質問は懇親会のときにでもね。
 マイクロトフ、今度はあっちのほうに行こう」
 半ば強引に他の人たちの方へと腕を引いていく。マイクロトフも特に抵抗しないでついていった。エミリアとニナは二人の後ろ姿を見送る。
「……なんか、二人並ぶとすごいわね」
「ですよねー。すごい目の保養ですっ」
 180cm以上ある二人、しかもタイプはまったく違う美形同士。その二人が白衣を着て歩く姿はなかなかすごいものがある。
 事務所の女の子たちが見たら大騒ぎね……と、エミリアは心の中でため息をついた。


 腕を引いて歩いていると後ろのほうから、ふう、とため息が聞こえた。それは女の子との会話を中断させられて残念がっている、というより安堵に近いものだったような気がして、カミューは振り返った。マイクロトフは目が合うとまだちょっと頬を赤らめたまま、
「その……、助かった。どうも……、女の子と話するのは苦手で……」
 と、ばつが悪そうに言う。
「そうなの?」
 カミューは声が上ずりそうになるのを必死に抑えた。女が苦手、だなんて、なんて都合のいい話なんだろう、と胸が小躍りする。と、マイクロトフはちょっとむっとしたように眉をひそめた。
「変わってる、とか思っているのだろう……?」
「え?」
 思ってもみない言葉にカミューがきょとん、とすると、マイクロトフは拗ねたように上目遣いでカミューを見る。
「顔が……にやけてる」
「!!」
 どうやら喜びを抑えきれなかったらしい。声は押し隠したのに、顔に出ていたとは。しかも誤解されている。
 カミューがなんて言い繕うかと慌てていると、マイクロトフはちょっとため息をついた。
「周りからいつも言われる。この歳になって興味がないのはおかしいって。だが、俺は恋愛感情とか、そういうものがよくわからないんだ……」
「え?」
「例えば、いま、カミューにいろいろ親切にしてもらって好意を持っている。それが特別の『好き』とどう違うのか、わからない」
 ため息まじりに言われたセリフに、カミューの胸がどくん、と跳ねる。初めて名前を呼ばれただけなのに。好意を持っている、と言われただけなのに。それだけで……。

 こんなにも嬉しい……。

「あ、あの、カミュー?」
 マイクロトフのためらいがちの呼びかけにカミューは我に返った。向こうは答えを待っていたらしいことに気づくと、慌てて笑顔を作る。
「うん、そういうのってなんとなくわかるよ。俺もいままで恋とかしたことなかったから……」
「カミューが?」
 信じられない、といったふうのマイクロトフの表情に、カミューはちょっと苦笑いする。
「いままで女の子と付き合っていたときは漠然とだけど、恋愛してるだなって思っていた。でも、違った。いまならわかる」
「……どうして?」
 マイクロトフが不思議そうに見つめてくるのをカミューは真っ直ぐ捉える。

「いまは、恋をしているから……」


 それからカミューは、いままでしたことがないというくらい、まめに彼の面倒をみた。
 マイクロトフが一人暮しだということを聞くと、お昼は外に食べに行こうと誘った。もちろん、自分のおごりで。ワリカンにしたい、と言う彼を「学生でしょ」となかば強引に丸め込んだ。
 そして、駅から会社まで歩いてきた、と聞くと、車で送ることにした。途中で夕食を共にしようと誘って。次の日から迎えに行くとも申し出た。
 いくらなんでも……と恐縮する彼に「俺がしたいんだよ」と聞く耳を持たなかった。
 彼女にだってしたことがなかったぐらい積極的に彼の傍にいようとしている自分は滑稽だったけど、それ以上に浮かれていた。申し訳なさそうな顔をする彼が、最後には「ありがとう」とはにかむように笑うとまた胸が高鳴った。
 彼は勉強熱心だった。実験を一緒にやっているといろいろ質問してきた。カミューはそれに答えるため、いままでなんとなくやってきた仕事をもう一度見直さねばならなかった。彼には格好良い自分だけを見せたかったから。「カミューはすごいな。なんでも知っている」と感嘆まじりに言われたとき、カミューは有頂天になった。



 続く






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