第四章 あなたはどうする?
「…………」 美影はキャンバスの前で筆を持ちながら、何をするでもなく座っていた。 少し前まで、自分がしていたことさえも気にすることなく。 頭の中はある一つの懸案事項で満ちていた。 「ひーちゃん♪」 突然後ろの方から声が聞こえた。 一瞬間反応が遅れてから声のする方へ振り向く。 「すーちゃん?」 そこには表情を綻ばせた琴音がいた。 近くにあった椅子を引き、美影の隣に座る。 「どうしたの? さっきからずっとぼーっとしてたよ」 「あ……」 指摘されて初めて、気恥ずかしくなって言葉を詰まらせる。 その後、なるべく平常を取り繕うようにして、美影はこう言った。 「なんでもないわ。ただ、ちょっと眠たかっただけだから」 「そうだったの。でも分かるな〜その気持ち。このぐらいの時間になると眠くなっちゃうよね〜」 おっとりとした口調で会話をする琴音。 眠たそうではなかったが、周りに眠気を伝播させるような雰囲気を纏っていた。 「ねぇひーちゃん。一緒に絵描こ。あそこに見える桜の木なんてどうかな?」 「良いわね」 窓の外を指差す琴音と、そう簡単に交わしてから、2人は筆を動かし始める。 しかし美影は、数分も経たない内に筆を止めた。 少し悩んでから琴音に話しかける。 「ねぇ、すーちゃん」 「んー? な〜に?」 動かす手は止めずに返事をする琴音。 言葉を返されてから美影は話を続けた。 「もし、もしもの話だけど……。 ある日突然自分に、誰なのかよく知らない異性に告白されたら……。 すーちゃんなら、どうする?」 「告白?」 動かすその手を止めて、美影の方を向き聞き返す。 美影はそんな彼女の言葉に対して頷きで答えた。 するとその時、突然琴音の目が輝き始めた。 先程よりかなり過剰に反応しながら再度美影に聞く。 「えっ? ひーちゃん告白されたの!? 誰? 誰なの、ひーちゃん」 迫る琴音を手で制しながら、美影は少し慌て気味にこう返した。 「だ、だからもしもの話だって」 そう返すと、琴音は美影から体を離した。 ややがっかりとした表情を浮かべて。 「なーんだ。もしもか〜。ひーちゃん可愛いから本当かと思っちゃったよ」 「…………」 少し罪悪感を感じながら美影は笑みを浮かべた。 実際、まだ告白はされていないから、琴音の問いかけにはきっぱりと違うと言えるのだが……。 なんだか自分が嘘をついているように思えてきたのだった。 「琴音せんぱいっ。美影せんぱいっ。私も輪の中に入れてもらっても良いですか?」 そう言って聞いてきたのは、無邪気な笑みを浮かべた小明だった。 声が通りにくい琴音を気遣って、美影が言葉を返す。 「ええ、別に構わないけど……どうしたの?」 さっきまで順斗と絵を描いている所を見た気がするのだけれど……。 そう思いながら聞くと、小明はこう返してきた。 「いえ、なんだか楽しそうな話をしている気を感じたので。しかも、私の大好きな部類の」 「そ、そう」 小明の目が一瞬だけ光ったのを美影は見逃さなかった。 常人とは思えない勘の良さに少しだけ恐怖しながら、返事をする美影。 その後、ちらと順斗の方を見たら、彼は今レイと一緒に絵を描いていた。 「入れてくださいよ〜。邪魔はしませんから〜」 駄々をこねるようにしながら懇願する小明。 あまり事を大きくしたくなかった美影だったが、頼み込む小明を突っぱねることは出来ず、 1つ溜め息を吐いてから美影は肯定の意を示した。 隣に居る琴音からも、特に不満気な様子は見受けられなかった。 「じゃああなたからも聞かせてもらうわ」 美影は、琴音に言ったもしもの話を小明にも聞かせた。
「えっ!? 先輩、告白され――ムグッ!」 「声が大きいっ。……お願いだからボリュームを抑えて。 それと告白はされてないから。もしもって言ったでしょ」 琴音と同じ反応を、 今度は教室中に響き渡るような声量で言おうとした小明の口を、美影は慌てて抑え込んだ。 頼み込むと、小明は二度頷いてくれた。 小明の口から手を離す。 「す、すいませんつい……」 「分かってくれたなら良い」 そう言ってから、美影は彼の方へ視線を移した。――つもりだったのだが、 何故か軽く見渡しても彼はどこにもいなかった。 ほっとして視線を戻したその時―― 「おっ。なんか見慣れないメンツだな。珍しい」 「っ!?」 彼もまた、後ろから唐突に話しかけてきた。 驚いてビクッと体を跳ねさせる。 暴れまわる心臓を感じながら後ろを振り向くと、彼はニカッと笑顔を浮かべてこう続けた。 「何話してたんだ? 面白そうだから俺も話に――」 「あなたは来ないでっ!!」 「え? あ、すまん……」 柄にもなく声を張り上げる美影。 その大声にこの部屋にいる誰もが驚いたが、 中でも一番驚いた増田は、状況も理解しきれていないまま、とりあえず美影に謝罪した。 「悪い、俺が聞いちゃ駄目な話だったっぽいな。俺あっち行ってるわ」 申し訳なさそうにそう言って、増田は順斗達の方へ歩いていった。 ある程度離れた所で、ようやく美影は心を落ち着かせた。 ほっと胸を撫で下ろす。 ……彼には知られたくない。そう強く美影は思っていた。 だから―― 「美影先輩。何もあそこまで言わなくても……。増田先輩傷ついちゃいますよ」 小明のこの言葉にも、はっきりとした言葉は返さなかった。
しばし沈黙が流れた後、改めてポスターを口に当てた琴音がゆっくりと話し始めた。 「私は……多分断ると思うな」 そう言った言葉は、少し前まで話の本筋であった、美影のもしもの話だった。 不安げに力無く微笑みながら話を続ける。 「知らない人は、やっぱり怖いし、どんな人かも分からないから……。 突然っていうことなら、私は断ると思う」 その言葉を聞いて、しっかりと自分の中に留めてから、美影は礼を言った。 琴音に続くように、小明も答えを返してくれる。 「私は、逆ですね。 その人のことが分からないから、とりあえず付き合ってみます。 何事も経験って言いますし」 「あ、でも誰にでもOKは出しませんよ? 明らかなチンピラとか、清潔感ゼロのだらしない人とか。 そういう人達は付き合うこと自体がありえないので」 臆することなくきっぱりと言い放つ小明。先程の琴音とは、色々な所で正反対だった。 「そう……ありがとう」 小明にもお礼を言った美影であったが、 頭の中は2人の意見が変に混ざり合って、何が何だか分からなくなっていた。 困惑している最中、相反する2人が意見をぶつからせる。 「え〜でもそれじゃ、もしその人が悪い人だったらどうするの?」 「その時はその時です。振るだけですよ。元々本気でも無いんですし」 「それもどうかと思うけど……」 「悪い人だったらっていう話だったらですよ。 逆にその人が良い人だったら、付き合っている内に本当に好きになるじゃないですか。 この場合は万事解決です」 「そうかもしれないけど……。私は小明ちゃんみたいには考えられないなぁ。やっぱり怖いよ」 ここで2人の会話が途切れた。 険悪なムードにはなっていない。 あくまで仮定での話だから、あまり本気で言い合うことは共にしなかった。 そして、一旦話が落ち着いた2人とは対照的に、 美影の頭の中は、先程よりも更にごちゃごちゃとした状態となっていった。 (なに……? 私は、どうすれば良いの? もし順斗の言う通り告白されるのだとするならば、私はどうすれば……)
「大丈夫だよ。柊さんの正直な返事を返してくれば良いんだ」 「正直な、返事?」 「そう、正直な返事。何を心配することもないよ。柊さんの思った通りに返せばいい」
(私の、思った通り……? それはどうすればいいの? 分からない……どう返すのが、一番自然なの……?) (私は、自然でありたい……) 「あ、そうですよ。先輩」 思考の渦に飲み込まれかけていた時、小明が何かを思い出したかのように美影に話しかけた。 小明の言葉に耳を傾ける。 「そもそも好きな人が居るなら、何も考えることないじゃないですか」 「え……?」 好きな、人……? 心の中でそう反復し、少し呆気に取られる。 言葉を失っていたら、琴音も小明の言葉に同調して言葉を繋げた。 「あ、そうだね。それなら考える必要ないかも」 意見をぶつかり合わせていた2人はどこへやら。 最初から合致していたの如く、彼女達はこう続けた。 「その人が好きな人じゃなかったら断りますし」 「その人が好きな人だったら、もちろんOKするものね」 「どうですか、美影先輩っ」「どう、ひーちゃん」 「…………」 2人の言葉を聞いても、美影はすぐには言葉を返せなかった。 黙り込んでいる美影に小明が問いかける。 「そういえば、美影先輩って好きな人居るんですか? それを言ったら琴音先輩にも聞きたいですが」 琴音にも視線を流しながらついでに問いかける小明。 対して、いきなりとばっちりを受けた琴音は、機転を利かせて小明にこう返した。 「それを言ったらで言ったら、私は小明ちゃんにも聞きたいな」 「え〜恥ずかしいんでいいですよ〜」 「あっ、はぐらかすってことは居るな、好きな人」 「えっ!? い、いやぁ〜どうでしょうね、あはは」 「顔赤いよ、小明ちゃん。ほれ、吐け〜」 「ちょっ、琴音先輩っ! ふふっ……くすぐったいですって! あはははは! やめっ、やめてくださいよっ」 琴音が小明の体をくすぐっている。 2人とも笑顔で、とても楽しそうにじゃれ合っていた。 その姿を見守りながら、美影は先程の2人の言葉を思い返していた。 (好きな人じゃなかったら断ればいい、か……。私の、好きな人……。それは、多分……) 好きな人。 その言葉を頭の中に思い浮かべるだけで、真っ先に思い浮かぶ人がいる。 その人の方を見る。 とても楽しそうに、笑顔を浮かべていた。 その時の美影の表情は、穏やかに笑みを浮かべていた。 そして、その白く綺麗な頬は、少しばかり紅潮していた。
続
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