第六章 試薬品X
「はぁ……」 ベッドに転がるやいなや、俺は深く溜め息を突いた。 ほっとしたっていうのもそうだが……俺は、自分の浅はかさにとことん嫌気が差していた。 「鈴本の言う通り、最低野郎だな俺は」 自分に言い聞かせるように、俺はポツリと呟いた。 この数日で、俺は多くの人にいっぱい迷惑をかけてしまった。 そしてその間、俺は身勝手で欲望丸出しな夢を見て……。 全ての元凶は俺だってのに、俺は一人だけ楽しんでたってことか。 「……寝るか」 激しく自責の念にかられながら、俺は横になることにした。
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次の日。 俺は診察を何回か受けてから、診断を聞かされた。 医者が言うには、気を失ってからの処置が適切だったので、あまり外傷は酷くなかったらしい。 (ありがとう、美影。……いや、今回はみんなか) 後は、精神的な問題だけということだったので、一日様子を見たとのことだった。 ということで俺は、手続きが終わり次第、めでたく退院ということになった。 昼。 俺は昼食を食べて、余暇を優雅に過ごしていた。 「……あぁ暇だ。 何か面白いこと起きねぇかなぁ」 ま、そんなこと起こるはずもないんだが。 病院に突っ伏してる奴に、そうそう事件が舞い込むはずもない。 ていうか、病院だけは安息の地であってほしい。 (することもないし、昼寝でもするか?) この数日、俺はずっと眠りこけていたらしいが、 俺自身としては全然寝ていた感覚など無かった。 大きくあくびをしながら、ひと目もはばからずに体全体で伸びをする。
ガタッ!
「おっと、やべぇやべぇ」 手を思い切り伸ばしたら、机の上に置かれていた何かを落としてしまった。 しかも面倒くさいことに、その物はベッドの下に転がっていってしまった。 誰だよ、こんな所に物を置いた奴。 軽く心の中で不満を垂れながら、俺はベッドの下に手を突っ込んで、その物を取った。 「…………。よしっ! 取れた」 取れた物は、手のひらに収まる程の小さい物だった。 一体何だったのか、俺は取れた物を見てみると……。 見た瞬間、まるで引き潮のように一気に血の気が引いていくような、 そんな気持ちの悪い感覚が、俺の全身を覆った。 「な、なんで……。なんでこれがここにあるんだよ……!」 茶色い容器に白い蓋。 そしてその白い下地のラベルにでかでかと書かれた字は……忘れるはずもない。 あの忌まわしき栄養ドリンクもどきの、それだった。 「試薬品、X……!」 なんでここに? あれは俺の夢の中の物で……。ここにあるはずが……っ! (まさか……夢じゃなかった?) いやいや、そんなことはない! だって夢じゃなかったとしたら、綾と美影が生きているはずは……。 レイは言っていた。 俺は綾に首を絞められた後、目を覚まさなかったって。 篠原だって、俺のことはどうとも思ってなさそうだったし。 鈴本に関して言えば、俺を散々罵倒していた。 試薬品Xが、ここにあるわけがないんだっ! でもそれじゃ、俺が握っているこれは……。 なんだ? どういうことだ? なんで? なんで、なんで、なんでなんでなんでなんで――
コンコン。
「ぎゃあ! ……ら、来客か?」 検診はさっき終わったばかりだから、誰かが見舞いに来たのだろうか? 怪訝に思っていると、扉の向こうから爽やかな青年の声が聞こえた。 「増田君? 入っても良いかな?」 あ、店長か……。はぁ、びっくりした〜。心臓が止まるかと思ったぜ……。 ようやく落ち着く事が出来たので、俺は店長に返事を返した。 「はーい、どうぞ」 返事を返している時に気づいた。 (っ! やべぇ、試薬品X持ったままだっ。と、とりあえず枕の下に……!) 「失礼するよ。どうしたの、枕と遊んでいたのかい?」 入ってきたのは、しばらくご無沙汰していた店長だった。 爽やかな笑顔を振りまいて、40を越えているとは思えない程の若い容姿を、俺に見せつけた。 「じ、実はそうなんですよ。あは、あははは」 って、んなわけねぇだろうが。枕と遊ぶって、俺どんだけ危ない奴なんだよ。 「そう、楽しそうだね」 なんでそこであなたも信じるんですかっ? もう遅いかも知れないが、 俺は平静を装うために、軽く身なりを整えて話を通常方向に転換させた。 「それはそうと、店長。お久しぶりです」 「うん、久しぶり。元気そうで何よりだよ」 店長が楽観的な人で助かった……。話の転換にも何とか成功した。 俺が内心安堵していると、店長はお得意の爽やかスマイルを振りまいて、話を続けた。 「今日には退院出来るんだってね」 「はい、夕方辺りに、という予定です」 流石と言うべきか何なのか、店長情報早すぎやしませんか? うーん、コツでもあるのだろうか。一度ご享受頂きたいね。 「そうかそうか。それはおめでとう」 満面の笑みでそう言った後、店長の表情が商売人のそれに代わった。 「じゃあ明日から、シフトに入れるね」 「そ、そんなぁ〜」 「ハハハ。冗談だよ。そんなに本気にしないで」 だからこの人の場合は、冗談が冗談に聞こえないんだって! 一瞬、鬼かと思っちゃったじゃないか……。 俺が肩を撫で下ろしていたら、店長はまた笑顔に戻って俺にこう告げた。 「明日は買い出しだけやってもらうから」 あ、やっぱり働かせるつもりなんだ……。 俺はがっかりしながらも、自身への罰として、甘んじて受け入れた。 「分かりましたよ。買い出しくらいなら、手伝わせて頂きます」 「えっ本当!? うわぁ嬉しいなぁ」 ……白々しい。一度、この人をギャフンと言わせてやりたい……! 「あ、そうだ」 「? 今度は何ですか?」 まだ仕事を増やすつもりだろうか。 この人の行動には、いつも裏があるんじゃないか、と疑ってかかってしまう。 店長はポケットに手を入れて、何かを取り出した。 「買い出しには、綾と美影も行くからね。はい、これ買い物リスト」 「はぁ……。綾と美影もですか」 そんなに大勢で行く意味がどこにあるんだろうか。 俺が不審に思っていると、店長から小さな紙を手渡された。 手に取ってから、軽く目を通す。 「えーっと、何々……。 服、髪留め、包帯、マッチ、シャンプー、洗剤、アイスクリーム×3…… って何ですかこれっ?」 統一性も無ければ、訳の分からないものまで入ってる。 何だよ、アイス×3って……。 「あ、駄目だよ。最後まで読まなきゃ」 「え? まだ続きが……って……」 店長が促すままに再度リストに目を通すと、下の方に注意書きらしいものが書かれていた。
※ 注意! これは絶対に守ること! ・ 集合は朝八時。場所は、駅前で良いね? ・ 買い物はその時々でね。あと、5時までには帰ること。 ・ 買い出し中は、綾と美影の指示に従うこと。 ・ 買い出し中に不祥事が起きた場合、全部増田君が責任を負うこと。 ・ 経費は全部増田君持ちね♪ ・ 楽しんできてねっ!
「…………」 「そういうことだから。それじゃ、僕は店に戻るね」 そう言い残して、店長は部屋を出ていった。 嵐のように去っていった店長に、何も言うことが出来ないまま、 俺は店長が出て行った扉の方向を、見つめることしか出来なかった。 この場に残ったのは、俺と、注意書きがびっしり書かれた買い物リストと…… 枕の下に押しこくられた試薬品Xだけだった。
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真夜中。地面に血を滴り落ちさせながら、田中は塀に寄りかかった。 「く、そがぁ……」 背中と顔面からの鋭くも鈍い痛みを抑えながら、 病院のある一室の方を見据え、絞り出すように言葉を発する。 「増田、優作……。覚えてやがれ。この借りは、必ず……」 立っていられなくなった田中はその場に倒れこむ。 しかし倒れこむより少し前に、田中の姿はそこから消えた。 ……その場に残ったのは、滴り落ちた血液のみ。
続
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